山口県山口市大内御堀の乗福寺とは?
大内文化が花盛りだった頃、山口が大内氏の政庁だとしたら、大内はその故郷。出身地であり、名字の地であり、とても大切な場所でした。京都に対する奈良のような扱いで、「古都」と称する郷土史もあるほどです。乗福寺はそんな大切な場所「大内」に存在した三大寺院の一つです。当然ながら、かつては非常に大規模で、多くの伽藍が立ち並ぶ壮観なお姿だったと思われます。しかし、現在はその塔頭の一つであった「正寿院」部分のみが伝えられて、「乗福寺」と名乗って存続するのみです。
大内氏の始祖とされる琳聖太子の供養塔、大内重弘、大内弘世の墓と伝えられる石塔があります。
乗福寺・基本情報
住所 〒753-0214 山口市大内御堀4丁目6−33
山号・寺号・本尊 南明山・乗福寺・聖観音
宗派 臨済宗南禅寺派
公式サイト http://j3.hp-w.net/
乗福寺・歴史
略年表
正和元年(1312)二十二代当主・大内重弘を開基として創建
※創建年代には諸説ある。重弘の子・弘幸が永興寺を建立した年代(延慶二年、1309)より早いとする説(参照:『大内村誌』、後述)が正しいと思われる
元応二年(1330)重弘死去、その菩提寺となる
建武元年(1334)後醍醐天皇の勅願寺となる
延元二年(1337)虎関師錬、洪鐘の銘を作る
※正中二年(1325)とする説もある
建武五年(1338)諸山に昇格、後に十刹に昇格(足利義持代)
康永四年(1345)周防国利生塔にあてられる
嘉暦四年(1339)弘幸、塔領・宝洞庵に寺領寄進
観応三年(1352)弘世、山口讃井原の地を寄進
永和四年(1378)弘世、仏殿に碑文を記す
※この年に仏殿が建立された可能性がある
至徳三年(1386)義弘、寺領寄進
明徳二年(1391)義弘、塔頭・長松院に寺領寄進
※発掘調査により大量の朝鮮式屋根瓦が出土。義弘代に堂宇を整備した可能性あり
永享十一年(1439)持世、寺領寄進
文明十一年(1479)政弘、宝洞庵領安堵
明応五年(1496)政弘、長松院領安堵
永正三年(1506)義興、阿武郡得佐郷の内、百五十石の地を修造料所として寄附
永正年間(1505~1520) 火災により伽藍の多くを失う
永享四年(1531)義隆により再建
天文十九年(1550)義隆、長松院領安堵
毛利隆元、塔頭・同照庵客殿を龍福寺建立のため寄附
毛利輝元、殿堂門廊を挙げて筑前・黒田家に寄贈。崇福寺に移築
(参照:『大内村誌』ほか)
大内文化の中心・三ヶ寺
大内文化の華やかなりし頃、その中心となっていた寺院は三ヶ寺あります。ひとつはいうまでもなく、氏寺の興隆寺。そして、乗福寺と仁平寺がそれです。ここでいう「大内文化」というのは当然、大内氏の文化ということになります。けれども、やがては政治の中心地としての本拠地が、大内から山口に移ります。それ以後は、多くの神社仏閣も、山口に建立されていきます。
それゆえ、ここで言うところの「大内の三大寺社」には、大内氏ゆかりの寺社であることにかわりはありませんが、「大内(地名)の三大寺社」という意味合いが強いです。大内は多々良氏の人々が、いわゆる守護大名大内氏として歴史に名を残すにあたり、その本貫地を以て名乗りとした、いわゆる名字の地。すべての歴史はここから始まったのですから、政庁からは離れても、終始重要な地であり続けたことにかわりはありません。
氏寺・興隆寺はもちろん、二十四代弘世の菩提寺(塔頭・正寿院)としての乗福寺も、その後も崇拝の対象となります。けれども、仁平寺のほうは一族がまだ大内の地にあった頃、仁平寺本堂供養の華々しいイベント以後、あまり大々的に表に出てくることはなかったような気がします(仁平寺執筆未完了、調査中)。けれども、大内の地という括りで見た時、三大寺院みたいに突出して著名なのはこの三ヶ寺で、『大内村誌』でも特別にこの三寺院について詳細に記述しています。とにもかくにも、乗福寺はそのくらい重要な寺院であったのです。
あのさ、乗福寺の秋景色が麗しく、とても由緒ある寺院だということは理解できるけども(山口十境詩)、「五山僧」の問題どうすりゃいいの? 漢字ばっかり……。何のために平仮名片仮名が存在するのか意味わかんない。
身の丈に合わないことまでやる必要ないっての。そんなん、受験参考書の知識でじゅうぶん。俺の先祖なんて『管領宛には平仮名で』って配慮してもらったことあるくらいよ。『教養のため』とかいうけど、古文、漢文とか実社会に出ても何一つ役に立たない試験用の存在。必要になるのは、定年退職して郷土史に命懸けるようになってからのことね。俺らまだだいぶ先やん。
(義豊一家は身内の恥さらしと思い軽蔑するが、今回だけは身に覚えがあるため何も言えない……)
大内氏と禅宗と乗福寺
イマドキの童たちには、五山僧の話題は難解すぎますが、無視するわけにもいきませんので、『大内村誌』を参照に、最低限の学習成果だけまとめておきたいと思います。
禅宗は鎌倉時代以降盛んとなり、鎌倉時代に鎌倉五山、室町時代には京都と鎌倉にそれぞれ五山が定められました。両幕府とも、禅宗を重んじ、ことに室町時代においては、中国の制度を取り入れ、五山・十刹・諸山という寺院のランク付けをしたのみならず、幕府による寺院の管理も行なわれました。「僧録」と呼ばれる機構が各寺の住職の任命、僧侶の昇進、寺領の管理などを行なっていたのです。「僧録」を務めたのは相国寺鹿苑院でした。
こうして、国を挙げて禅宗を重んじていた風潮の中、各国の領主たちも、禅宗寺院を建立し、五山僧と交流することを強く望み、結果そこここに著名な禅宗寺院が建てられることになったのです。
大内重弘も本拠地・大内の地に禅宗寺院を建立したいと思い、南禅寺の南院国師 (規菴祖円)を開山に招きましたが、国師は高弟の蘆峯を寄越しました。ゆえに、当寺院の開山は蘆峯、開基は重弘となります。しかし、二世・鏡空浄心は師である南院国師を創建開山とし、 ここに、南明山・乗福寺という臨済宗寺院が大内の地に誕生します。
先に、略年表のところで、創建年代に諸説あると書きました。その件について少々。多くは正和元年(1312)としているけれども、のちに重弘の子・弘幸が同じく臨済宗寺院を建立したのが延慶二年(1309)です。父より先に、寺院を建立したのか? というのが一つと、乗福寺に夢窓疎石による「国初禅林」の扁額が掲げられていたことから、当然、弘幸の永興寺より早い建立でないとならないわけです。そうなると、正和元年(1312)説の流布によって、本来の創建年代は不明となってしまったと言わざるを得ません。
二代目住持・鏡空浄心は、周防国に臨済宗を広めることに苦心したそうで、洪鐘の銘文を東福寺の前住・虎関師錬に頼んだりしております。虎関師錬。何をした人か分らずとも、参考書に載っているため名前だけは知っている著名人ですよね。
さて、重弘が亡くなり、乗福寺に葬られた時、時代はまだぎりぎり鎌倉時代でした。その後、南北朝のゴタゴタに巻き込まれていき、乗福寺が安国寺・利生塔に定められた頃は、足利尊氏・直義兄弟が二人仲良く幕府を動かしていた時期です。ここで時代は室町に移っていったのでした。そして、南北朝の動乱期を過ぎ、世の中が平穏になった頃、大内氏の幕府における地位も次第に高くなり、義持将軍の代に、乗福寺は十刹に昇格しました。
これより先、曹洞宗が優勢となるまでの間、大内氏当主と五山僧の交流はますます盛んとなり、ことに乗福寺には名だたる名僧が次々と訪れて住持を務めるなど、五山文化の中心となったのです。重弘の後、弘幸が同じく臨済宗の永興寺を建てたことは前述しましたが、こちらはその後廃れてしまい、弘世代に再建されましたが、乗福寺ほどの勢いはなかったようで。しかも、弘幸はまったく同名の永興寺を古熊にも建立しています。ここは、永遠の謎ですね。⇒ 関連記事:永興寺
『大内村誌』に「大内重弘が興隆寺にほど遠くない地に乗福寺を創建したのは何のためか」という一文があるのですが、両寺院は本当にお隣どうしのように近いんです(旧寺地)。立派な氏寺あるのに、一ヶ寺ていいじゃんか。と思いますが、それは無理でした。興隆寺は天台宗です。氏寺をむやみに改宗したりできないし、そもそもする必要もないです。「何のためか」の答えは、大内氏歴代、ことに、重弘、弘幸、弘世代のご当主たちが、五山僧と交流し、貪欲にその知識を吸収したいと強く望んでいたからにほかなりません。
さて、五山はともかく、十刹などはしばしば入れ替わることがあった模様です。流れ公方・義稙の代に、もう一度十刹に選ばれた(延徳四年、1493)とありますので、暫く外されていたのかも知れません。
いずれにせよ、乗福寺が大内氏歴代と五山僧との交流において、非常に重きをなした寺院であったことはかわりありません。本には、どのようにすごい名僧が来て住持を務めたかについての記述が延々と続いておりますが、名前を見てもさっぱりなので、省略します。
大寺院の概観
かくも重要な文化と学問の場でもあった、乗福寺ですが、往時の姿は偲ぶべくもありません。もちろん、現在のお姿も、とても奥ゆかしくて風情があるのですが、かつての塔頭一つを辛うじて寺院として維持している状態ですから、過去の栄華とは比較にならないのです。
現在、当時の姿を知るためには発掘調査の成果に頼るしかありませんが、当然のことながら文字史料も多く残されています。そこからもおおよその姿は想像できるというものです。
面白いことに、名僧の手になる扁額が大量にあったようでして、それらがどの建物に掲げられていたか、によってどんな建物があったのかが、想像できます。
鏡空浄心が周防国に於て臨済の法幢を立ててからは、宗派日々に弘まり、乗福寺を以て国初禅林と称せられ夢窓国師が揮毫した扁額として、国初禅林・中国法窟(楼門)・護法殿(太子霊殿)・瑠璃光殿(薬師堂)・陽明堂 (方丈)・最高亭(小方丈)・竜淵宿(禅室)・不老軒・護天地閣(鎮守社)・山神堂・微妙塔(太子陵)・同照閣(開山所)・香積国(庫司)・水因三昧(浴室)等が、それぞれの伽藍に掲げられた。当時の乗福寺の規模が想像されるであろう。
出典:『大内村誌』
これは、全部夢窓疎石による扁額という意味でしょうかね。ずいぶんと大盤振る舞いしておられます。
さらに、三十五の塔頭と八十八の末寺があったといいます。歴代当主たちが、寄進を繰り返していることからも(略年表参照ください)、乗福寺がいかに大切にされていたかが分りますね。
面白いことに、周防国分寺は乗福寺の権威があまりに高かったので、聖武天皇時代からの威厳を保つために対抗し、「南都興福寺南円堂出現仏舎利五粒を周防国分寺五重塔に奉納して奈良以来の国分寺の権威を保たんとした」そうです。
なお、これほどの威容を保っていた乗福寺でしたが、永正年間(1505~1520)に起こった火災により、多くの伽藍を失ってしまいました。「全焼した」と書いてあります。その時に、足利尊氏時代からの利生塔も焼けてしまいましたが、香木で建てられた塔であったために、麗しい香りが三日間にもわたって周囲に漂ったといいます。
この火災が、具体的に何年のことなのかは分りませんが、これほどの大伽藍を再建するには並ならぬものがあったらしく、義隆代に再建されたのは永享四年(1531)のことで、最も遅い1520年の焼失であったとしても、十年もかかっています。むろん、着手してから再建まで十年かかったのかどうかはわかりません。再建費用の捻出に時間がかかったとか、あれこれの理由があったでしょう。しかし、このことについては触れられていないので、詳細は不明です。
毛利時代の改変
毛利氏の時代になると、大内氏時代の寺社は没収や規模縮小を余儀なくされたり、もしくは、毛利家の菩提寺に造り替えられたりして、大きくその姿を変えます。乗福寺もその例外ではないのですが、没収、廃寺や毛利家の菩提寺にされることがなかったのは、「後醍醐天皇以来の勅願寺」であったからと、『大内村誌』にはありました。
ところが、やはり規模縮小や解体の憂き目には遭っており、悲惨というよりほかありません。
まずは、大内氏時代の繁栄が失われたのち、南禅寺の末寺となります。大内氏の祈願所という地位を失い、開山が南禅寺の南院国師であったゆかりを頼ってその庇護を求めたのでしょうか。ところが、毛利氏によって、東福寺の末寺になるよう命じられます。しかし、時期は不明ながら南禅寺末天樹院の末となっており、末の末も何だかなぁと思われたのか、南禅寺の直末になりたい旨を願い出ましたが、それは受け入れられませんでした。なぜなら、毛利家によって、東福寺派の僧侶が乗福寺の住持を務めるようになっており、乗福寺=東福寺派という認識になっていたからです。
寺社奉行からなんやらと交渉を重ね、漸く受け入れられたので、改めて願い入れ晴れて南禅寺直末となることが叶ったそうです。面倒なことですね。
建物関連では、毛利隆元が、大内義隆の菩提寺龍福寺を建立する際に、乗福寺の塔頭・同照庵の客殿を寄進。その後は龍福寺に移されました。これは明治時代の火災により焼失した模様です。
さらに、隆元の子・輝元の代には、本堂その他を九州の黒田家に寄贈。これらは、博多の崇福寺に移築されたといいますが、現物を見ていないので詳細は知りません。また、山門は泰雲寺に売却したそうです。だとすれば、泰雲寺の山門が、元乗福寺のものということになりますが、泰雲寺側の資料を確認していないため、やはり詳細は不明です。どうやら、この際に、元乗福寺のほとんどが解体されたようでして、弘世の菩提寺である正寿院が乗福寺の名前だけを受け継いでいる現在の形になったというのが、研究者の方々のご意見です。
しかし、『大内村誌』を読む限りでは、本堂と山門だけ手放したようにみえますが……(本堂って一番大切なものですから、その時点でもはや、寺院に対する崇敬の念は感じられませんがね)。
永正年間の火災後、義隆の再建がどのくらい進んでいたのかを記したものを見たことがないので、なんとも言えませんが、果たして重弘・弘幸・弘世時代の規模を再現できていたのか。まず、ここが不明です。再現できていたとしたならば、往時のままの大伽藍であったと言えますが、そのうち、隆元が塔頭の客殿を、輝元が本堂と山門を解体して、他所に移したことになります。
それでもなお、乗福寺そのものが、廃寺とされるようなことはありませんでしたが、寛文九年(1669)に火災により、すべてが焼失してしまいました。元禄二年(1689)に再建された建物が、ほぼ現在見ることのできる乗福寺のお姿です。
乗福寺・みどころ
山口十境詩・南明秋興
「山口十境」とは、大内弘世の時代、明国の使節・趙秩が山口に滞在したときに詠んだとされるもの。名前の通り、十ヶ所の風景を詠んでいます。いずれも劣らぬ山口市内の美しい風景。該当箇所には、歌碑と案内板が置いてあります。歌碑には原詩が、案内版には書き下し文とその場所の説明などが書かれています。場所にもよるのだけれど、ここの「南明秋興」には、訳文まで載っています。⇒ 関連記事:山口十境詩
山門
山門じたいは小さくて可愛らしい(失礼)のですが、そこに至る石段など、なんとも風情があります。この写真は旅行代金最安値期に訪問していますので、今ひとつですが、秋に訪れればその意味が伝わるかなと思います。
琳聖太子供養塔
琳聖太子の供養塔を中央に配し、その背後に二つ並んで、重弘、弘世の墓があります。歴代当主の墓所は、どこも伝承的要素があって、本当にそれがその人物の墓所なのか、単なる供養塔なのか、あるいはただの無関係な石なのか、正確なことはわかりません。
この始祖の墓といわれているものについてだけ取り上げると、どうやらかなり高い確率で単なる伝承であるようです。ガイドさん曰く、色々なところから持って来た石を積み上げた可能性があるとか。素人目にはまったく判別できないのだけれど、石塔には地域や時代によって、使われている石だとか、形だとかに違いがあるはず。それらの一様ではない石が、一つにまとめて積まれている雰囲気のようです。いずれの時代にか、そこら辺の別々の供養塔の石を持って来て、高く積み上げてこれを造った人がいたのかもしれません。
同じ観点から見ると、弘世・重弘の墓といわれるものは、それぞれまとまった一つの供養塔であることは間違いないです。ただし、本当にここに弘世公、重弘公が眠っておられるかは調べようがありませんね。少なくとも、大伽藍を一つの塔頭にまとめた時点で、墓所も一箇所に集められたわけですから、埋葬地点でないことは確かです。弘世さんの菩提寺にまとめた関係から、弘世公のみは元よりこちらにおられた可能性はゼロではないですが。
琳聖太子のものについても、供養塔である以上、墓碑ではないですから、いつの時代、どなたが設置しても問題ないわけです。江戸時代くらいの方が積み上げたとしたら、それなり年代モノとなりますので、一応価値はあるかもしれません。
上田鳳陽先生の墓所
地元の方々にとって、この寺院内でもっとも重要なのはコチラ、山口大学の祖とされる石田鳳陽先生のお墓です。ほかのガイドさんからも鳳陽先生のお話をうかがっています(半分以上忘れてしまったから、急いで書き上げないと……)。江戸時代のお生まれで、明治維新前から学問所を作られた方であり、つまり山口大学は、東大なんかより、ずっと古いということです(確か)。
写真はお隣にあった石碑です。現在も、山口大学に関係する方々が先生を偲んでお参りしたり、清掃作業をなさったりされているのだとか。訪問した日はゆかりある時ではなかったので、静かに時が流れていました。
乗福寺(山口市大内御堀)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0214 山口市大内御堀4丁目6−33
アクセス
公式アナウンスによれば、山口駅からバスで15分、「御堀橋」バス停から徒歩で15分ということです。ただし、最寄りのバス停「御堀橋」からも歩いて15分かかるので、バスの待ち時間などを考慮して車(タクシー、レンタカー)推奨です。大内にはほかにもみどころがあるので、まとめて回ってしまえばいいかと。
参照文献:『大内村誌』、
乗福寺(山口市大内御堀)について:まとめ & 感想
乗福寺(山口市大内御堀)・まとめ
- 鎌倉時代末期、武士階級の間で盛んであった禅宗寺院の建立を希望した当主・重弘が、南禅寺・南院国師の弟子を開山に創建
- 夢窓疎石が周防国初の臨済宗寺院と記した扁額があるため、弘幸創建の永興寺より先に建てられたと考えられるものの、通説となっている「正和元年(1312)」では、永興寺より新しくなってしまう。よって、創建年代は詳細不明(参照:『大内村誌』)
- 氏寺・興隆寺、仁平寺と並んで、大内地区の三ヶ寺として著名で、山口に移る前の大内文化の真髄がここに詰まっていた。政庁が山口に移転した後も、大内の地は「古都」として独特の繁栄を遂げる
- 乗福寺は数々の塔頭や末寺を持つ大伽藍で、代々住持を務めたのは名だたる名僧ばかり。大内氏における五山文化の中心地として栄えた
- 重弘・弘幸・弘世代が繁栄の中心だったが、その後も歴代当主たちによって重んじられた
- 永正年間の火災で多くの伽藍を失う。最後の当主義隆によって再建はされたものの、その後、義隆が政変に倒れ、大内氏も滅亡すると祈願所としての栄光は失われた
- かつて後醍醐天皇の勅願寺であった由来をもつことから、廃寺や毛利家の菩提寺として使われることはなかったものの、寺院は衰退し、建物の一部は解体されて、寄贈・売却されたらしい
- その後江戸時代にも火災に遭い、現在見ることができるのはその後の再建物。なお、かつての大伽藍は今はなく、唯一弘世の菩提寺だった塔頭・正寿院が残り、現在の乗福寺となった
- かつての大伽藍は発掘調査の対象となっており、朝鮮式屋根瓦が出土したりしている
- 始祖・琳聖の供養塔、重弘、弘世の墓と伝えられる石塔が残っている
- なお、山口大学の創設者・石田鳳陽先生の墓所もある
かつての大伽藍大伽藍と言うけれど。確かにそれが失われたのは惜しいことです。特に、研究者の先生方にとっては、悔やんでも悔やみきれないでしょう。しかし、一般の観光客的には、奥ゆかしく風情のある寺院さまに見えますので、十分に満足です。
思うに、現在我々の居所となっている場所は、かつては麗しい山河だったかも知れませんし、あまり有名ではない武家の館の上かも知れません。1000年後には、我々の居所も、かつて住宅地だったようです、とか言われていたりして。日本全国数え切れないほどの寺社が縮小の憂き目に遭っています。特に、それらを研究対象になさっていたり、崇敬していたりされている方にとっては悲劇でしかありません。でも、もしも、奈良時代辺りからずっと、そのままの景色が維持されてきたとしたら、そこら中寺社だらけになって、一般庶民は行き場がなくなっているかも。
大伽藍が失われたのは確かにとても悲しいですが、もはや復元不能である以上、それについては諦めざるを得ません。今も広大な敷地が寺地だったら、大内地区は寺社で埋もれていたかも知れません。……と、最近は発想の転換をするようにいたしました。
なお、建築資材を集めることも、たいへんにお金がかかることでして、どこかの寄進マニアの殿さまはお金も暇も(本当は暇はなかったはずですが……)あったゆえ、いくらでも寺社に寄進できました。それでも、永正年間の火災後は、元通りに復元できてはいないのではないか、と推測します。
吉川広家公が永興寺を壊して城下町を造った辺りから、寺院の解体についてはあまり腹が立たなくなってきました(かなり嘘ついてるけど)。後醍醐天皇の勅願寺だったゆえにそのままにしておいたというほうが、なんで? と思いましたが、しっかり解体して他家に配ってますから、どこが勅願寺云々なんだろう、って思いました。ちなみに、黒田家から欲しいといわれてあげちゃったってところが、なんで? だったんですけど、それも、最近になって謎が解けました。意味不明の方は『岩国の三英傑』をご覧に。
そう遠くない将来、かつての大伽藍を再現したバーチャルリアリティー体験などが可能となることでしょう。深く悩むより、乗福寺の秋景色の美しさを満喫してください。伽藍が小さくなろうとも、その奥ゆかしい風情は変りません。古都の香りは今もなお。山門は売却されてしまったとありますが、現在の山門も最高に麗しいではないですか。
こんな方におすすめ
- 寺社巡りが好きなすべての方に
- 秋景色が綺麗な寺院さまが好きな方に
オススメ度
紅葉の季節に訪れたならです。それでも満額にならないのは、当然ですが、往時の姿を留めてはいないからです。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
やっぱりここも、衰頽してしまったんだね……。
まあそれは、全国どこの寺院さまにもよくあることなんだよ。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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※この記事は20240826に改訂されました。