広島県東広島市鏡山北の陣ヶ平城跡とは?
大永年間、出雲の尼子経久が、大内氏の東西条支配の拠点・鏡山城を攻略した際に造ったいわゆる付け城とか陣城とかいわれるものです(ここでは『対の城』という)。経久はここに本陣を置いていました。付近には、同じく毛利元就が陣を置いていた八幡山城などもあり、文字通り鏡山城内部が手に取るようにわかる配置です。尼子軍はここから総攻撃をかけて、城を落としたのです。
かくもいわれのある貴重な遺跡ながら、地元の方々や歴史研究者でもない限り、その存在すらほとんど知りません。鏡山城の間近に普通にある山ながら、ここがそうです、と教えていただかなければ普通はわからないと思われます。
鏡山城が難攻不落であったゆえ、落城させるまでそれなりの期間使われましたが、任務を果たせば不要なものとなるので、現在はごく普通の山に戻っています。
陣ヶ平・基本情報
名称 陣ヶ平城
形態 連郭式山城
標高(比高) 320メートル(110)
築城・着工開始 大永五年
築城者 尼子経久
遺構 郭、竪堀群ほか
文化財指定 なし
(参照:東広島市ボランティアガイドの会さま資料)
陣ヶ平城・概観
例によって、目茶苦茶簡略化して、各城の配置図を書きますと上のような感じです。むろん、こんなに整列してはいません。道路を挟んで鏡山城と面と向かっている山に、城攻め用の「対の城」・陣ヶ平城が造られ、隣の八幡山も同様だった、ということをお伝えするためだけの図です。
鏡山城を攻略する基地とするにあたり、これ以上ないほどの場所に陣取っていたことがわかります。尼子経久は陣ヶ平、毛利元就はとなりの八幡山に陣を置きました。元就の陣は八幡山にあった満願寺という寺院の中に置かれたといいます。兵員数は吉川勢と合わせて4000ほど。
鏡山と陣ヶ平の標高はほぼ同じ。互いに相手の様子が手に取るようにわかったと思われます。
なお、この付近にはほかにも多くの山が連なっており、元々はすべてを合せた大きな城だったのではないか、という説もあるそうです。
※この記事は、尼子経久・毛利元就らが、大内氏の拠点だった「鏡山城」を攻略するときに利用した「対の城」について記しています。鏡山城についてのご案内も併せてご覧ください。⇒ 関連記事:鏡山城
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鏡山城(広島県・東広島市)
広島県東広島市にある大内氏の安芸国東西条支配の拠点だった重要な城跡。現在は鏡山公園となっているが、城跡はきちんと保存されている。西条駅から歩いて45分(むろん、バスでも行けます)。道も険しくないので、入門者にも優しい山城跡といえる。
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陣ヶ平城・歴史
尼子氏による鏡山城占拠と大内氏の奪還
大内義興が足利義材を奉じて上洛し、国許を離れていた間に、尼子氏は着々と勢力を拡大していました。やがては、山陰地方に覇を唱える一大勢力となります。野心満々の経久が、安芸国にも攻め込み、配下に組み込みたいと望むのは自然の流れです。義興は留守ですし、やりたい放題。尼子経久はなんなく鏡山城を占拠してしまいました。永正十三年(1517)のことです。日和見主義の安芸国人たちの中には、大内氏から尼子氏へと主をかえる者も出ます。そんな風雲急を告げる事態に、義興はいつまでも慰留されまくって迷惑だった将軍に見切りをつけ、京都に放置したまま帰国しました(永正十五年十月、1519)。
大内氏が東西条を領有してからこの方、幕府が東西条を取り上げて安芸武田氏に与え、その後また返還するなどの謎の対応をしたために、安芸武田氏との間に城奪還のために戦闘が行なわれたことも、応仁の乱の際に東軍に寝返った仁保弘有が楯籠もった時(文明三年、1471)、奪還するために包囲戦が行なわれたことはありました(詳細は鏡山城の項目参照)。ですが、それらはほとんど終始大内氏優位のうちに終了し、それ以降は長らく平穏無事でした。大内氏歴代が心血を注いで保守点検を続けていたたいせつな拠点です。そう簡単に落とせるようなちゃちな城ではありません。
山口県内にも当然城跡はありますが、周防長門は長期に渡って誰にも攻め込まれることがない盤若な地盤でしたから、家臣が詰める城は存在するものの、敵に攻撃されたことがないので、何ら面白い逸話もありません。難攻不落の堅城など築いていなかったかもしれませんし。しかし、飛び地であり、安芸国でもとりわけ重要な場所である東西条は本国を離れぽつねんと存在することからも、敵の最前線となる運命であり、それゆえに城らしい城として堅固に造り込まれています。
乱世の足音が近付き、尼子氏のようなライバルとなり得る大勢力が登場したことで、その役割はますます重要となったといえます。それにしても、永正年間に経久が一旦占拠したという話、以前にも何かの本で見たのですが(今は『賀茂郡史』を参照して書いています)、いかに義興が留守だったといっても、かくもたやすく占拠されてしまうものでしょうか。城に詰めていた将兵との合戦のあらましについても、どこにも触れられておらず(要は未だ資料を見付けられていないということです、どこかにあったらすみません)、かなり疑問符です。『賀茂郡史』をまとめられた先生も同じお考えのような気もしました。
これが事実であれば、鏡山城は二回に渡り、尼子家の手に落ち、その都度奪還されたということになりますが、果たしてどうなのでしょうか。永正年間の占拠を事実と捉える説によれば、その後の流れはつぎのようになります。
義興は帰国後、留守中に荒らされたあちらこちらを平定して回ります。鏡山城も大永三年(1523)の春に奪還しました。占拠された時と同様、奪い返したについても詳細がわからないので、ますますもって疑問符です。ただし、これも様々な本に書いてあるのを見た気がします。無事に取り返したので安心したものか、義興は城番として、蔵田房信を鏡山城に詰めさせ、自らは九州へ向かいました。筑前の地でも凶徒が騒ぎを起こしたためです。
大永鏡山合戦
せっかく手に入れた(占拠した)鏡山城を奪い返されてしまったことを苦々しく思っていたに違いない尼子経久は、義興が去ったのち、再びこの城を手に入れようとします。経久は味方に引き入れていた安芸国人らを率いて城の攻略にとりかかりました。義興の本隊は九州にあり、すぐに駆けつけることはできないことは分っています。またしても、思う存分やりたい放題です。この時、毛利元就は尼子氏と親戚関係にあったことから、尼子方についていました。ほかにも、これまでは大内氏に従っていた安芸国人で、尼子方に付いている者は少なくありませんでした。
天野、阿曽沼、高橋、野間、平賀などが尼子氏方につきました。二つの大勢力に挟まれ、今後の身の振り方にも気を遣わねばならず、悩み抜いた末の結論か。はたまた元より、長らく大内氏の風下に立たされていたことを快く思っていなかったのか、事情は様々でしょうけれど。
尼子方に寝返った国人など
厳島神主家、吉川氏、天野氏、毛利氏、野間氏、阿曽沼氏、平賀氏、高橋氏
義興は九州に釘付け状態でしたが、鏡山が緊急事態になっていたことは当然把握していたでしょう。しかし、城が堅固なこと、城番として詰めている蔵田氏を信頼していることなどから、彼らにすべてを託したものかと思われます。この時の東西条の代官は陶興房でしたが、こちらも厳島神主家との戦闘で手一杯。また、厳島神主家は尼子方についたことから、意図的に興房が東西条に向かうことを阻止。とうてい救援に迎える状況にはありませんでした。
経久は、義興が在京して留守であった期間にも、一度鏡山城を占拠していたという経緯があり(永正十三年、1516)、義興は帰国後奪還し(大永三年、1523)、それまで以上に防備を固め、信頼の置ける人物に城を守らせるようにしていたと思われます。この時は、蔵田房信を城番にしています。
義興、興房らに鏡山の運命を託された蔵田氏は東西条の地元勢力です。これまでも、鏡山城には地元の人々を城番として在城させ、代官のかわりに城のことを任せる決まりでした。軍略上、非常に重要な地点ゆえ、代官に任じられるのはトップクラスの重臣でしたが、それらの人々は領国内でもやるべきことが山積しているのが普通だったからです。
しかし平時は何事もなく日々の任務をこなしていくだけで、今回のような緊急事態は、未だ経験していなかったことと言えます。そんな中、義興や興房の期待通り、房信の活躍ぶりは目覚ましく、城が堅固であることも相まって、尼子方はなかなか城を攻略できませんでした。城内には、房信のほか、叔父の真信などの身内、市地国松などが詰めていたようです。また、竹原小早川家、久芳氏などは味方勢力でした。
尼子方の攻撃は六月十三日に開始されましたが、約二週間後の六月二十七日になっても、城はびくともしませんでした。このままでは埒があかないと考えた尼子方は頭脳戦に切替えます。二十八日、毛利元就が、城に詰めていた房信の叔父・真信に密かに使いをやり、3000貫の地と蔵田氏の家督を条件に調略したのです。この時、房信は鏡山城の本丸(1郭)は狭いことから叔父の真信に任せ、自らは2郭に陣取っていました。
難攻不落の堅城でも、綻びは思いもかけないところにあるものです。真信は3000貫と家督相続に惹き付けられて、尼子方との打ち合わせ通りに、城の内部から自らが守っていた本丸に敵を招き入れてしまいます。さすがの房信もこの想定外の出来事の前にはなすすべがありませんでした。房信自身が考えたように、本丸は狭くて戦いづらく、大勢の敵に侵入された城内は混乱状態となりました。六月二十八日、城方は防ぎきれずに、ついに降伏。房信は妻子と城内の者の助命嘆願を条件に切腹し、城をあけ渡しました。
ちなみに、尼子方に内通した真信はどうなったかと言えば、経久に処断されてしまい、3000貫と家督相続の夢は幻に終わりました。いっぽう房信の願いは聞き入れられ、その子らは、一命を許されました。経久は、合戦に功績のあった、平賀氏、阿曽沼氏、毛利氏らに恩賞として西条の地を宛行った後、七月五日に帰国しました。
さて、問題は、世間に流布しているこれらの戦闘の流れについての物語は、その出所が『陰徳太平記』であることです。これを聞いても何も気にせず、物語として楽しむことも、え!? だったら信じるわけにはいかないじゃないか、と思うことも個人の自由です。しかし、東広島市発行の鏡山城のパンフレット(やたら詳しい)には、毛利元就の凋落によって勝利したという物語は、あくまで創作であり、史実ではない、と注意喚起をしております。
蔵田氏について
『萩藩諸系譜』によれば、蔵田氏は長谷部氏の末裔です。『平家物語』巻四「信連」で活躍する、高倉宮(以仁王)に仕えていた侍・長兵衛尉信連(長は長谷部の略)がその先祖とされています。宮さまを逃がした後、信連は平家に派遣された捕り手の役人たちと大立ち回りをやったのち、多勢に無勢で捕らわれてしまいます。平家方は信連から宮が落ち延びていった先を聞き出そうと詰問しますが、答えようとしなかったので、清盛は斬首を命じます。しかし、その人となりを知る者たちから、その死を悼む声が多く寄せられたため、島流しに留めました。のちに、平家が滅び、源氏の世の中となった後、頼朝に取り立てられ、能登国を与えられたとのことです。
しかしながら、信連以降の系図は焼失してしまい、欠落しているそうです。ならば、信連の末裔という話を証明することはできず、眉唾ではないのかという向きもあるかも知れませんが、一応、そのようなことになっております。なお、能登国を与えられた信連の子孫がなにゆえに安芸国にいるのかという点ですが、信連は安芸国検非違使に任じられていたそうなので、その時に結ばれた縁かも知れません。
真偽のほどはとにかくとして、蔵田氏の系図は途中大胆に焼失したためか、房信の父の代から始まっています。これによれば、房信の父は貞信といい、真信、盛信という二人の弟がいました。『萩藩諸系譜』は、あくまで、毛利家に仕えた人々の系譜をまとめた本なので、鏡山城の戦いで房信の犠牲によりその命を助けられた兄弟、房貞、親矩、子の元貞、就貞以外は系図が途切れています。うち、毛利家に仕えたのは房貞、元貞、就貞であり、以下その子孫が延々と続きます。
いっぽう『賀茂郡史』のほうは、房信の叔父たちについても記述があり、房信の兄弟については触れられておらず、子の名前も微妙に違うなど、若干の相違があります。毛利家臣となったのは後の話なので、ひとまず置いておいて、大内氏時代に関係ありそうな人物について見て行くと、二人の叔父のうち日向守真信は、毛利元就の調略に乗り、しかし、尼子経久に処断されてしまった人です。その弟、盛信も房信ともども城と運命を共にしました。
房信の子・菊法師(のちの房貞)と、盛信の子・弟法師とは、大内義隆からそれぞれの亡父の忠勤に対して感状を得ています。弟法師については、成長したのちの名前などが不明ですが、その子は房信といい、これは鏡山城で亡くなった房信とまったく同姓同名ですが、立派な最期を遂げた伯父を崇敬し、敢えて同じ名前を名乗ったものだと考えられています。
そして、この二人目の蔵田信房は、厳島合戦で戦死したということです。他に、大寧寺で大内義隆と運命をともにした人物に蔵田教信なる人物がいるそうです(参照:東広島市ボランティアガイドの会さま資料)。系図にはありませんが、義隆が感状を出しているくらいなので、名前が分らない盛信の息子・「弟法師」がそうかなと思わなくもないですが。その子・房信は天文十九年に家督を継いだものか、所領安堵状が残されています。父が亡くなったために家督を継いだのであれば無理ですが、隠居したから、ということもあり得ます。しかしながら、大寧寺で父親を亡くした息子が、厳島に赴くかなぁという疑問も残ります。
結局のところ、蔵田教信という人物がどこの誰にあたるのか、家系図からは探り当てることができませんでした。しかし、蔵田氏はかなりの大所帯で、こんなに簡略化された中にすべての一族が網羅されているとはとても思えません。系図には出て来ない一類のなかに、あるいは、系図中の漏れ・欠けの中にいることは十二分にあり得ることです。
蔵田真信の真実
蔵田房信の叔父・真信が毛利元就に調略されて云々について。甥のものである家督を自らのものにしてもらえる。さらに、新たに3000貫のオマケもつく。でもって、このままでは全員助からないという危機的状況の中、己の命は助けて貰える。そのような話をきいて、コロッと寝返っていまうお話、じつは非常に多いです。どこかで、聞いたことがある展開だな、と思われた方もおられたのでは?
誘われるのは身内だったり、重要な場所に配置されているような信頼篤い家臣だったりします。彼らの寝返りのお陰で勝利することができ、味方は大助かり。ところが、敵の大将は、「身内(主君)をも平然と裏切るお前のような人物は、味方につけてもいずれこの私をも裏切ることになるであろう(=信用できない)」というような事情で、成敗されてしまったりします。これは、こちらから調略したのではなく、相手側から売り込んできた場合などには、さらに高い確率で生命を全うできません(勝利のために、利用はされるのにね)。何とも理不尽な……とか、嘘つきじゃん? とか思いますが、平気で味方を裏切るような人物は、何時如何なる時も、同じ態度をとるのではないかと思われるというのも、誠に理にかなっています。
そんな風に読んでいくと、蔵田房信は悲劇の人であり、この真信という叔父は酷い人物であると思われてしまいます。これは『陰徳太平記』が創作した作り話で、事はそう簡単にはいかないだろう。なんだかんだいって、身内なんだから。そのように考えた心優しい方もおられたかと。しかし、実際には応仁の乱に際して、東軍が用いた遠隔地攪乱戦法を見れば分る通り、どこの国にも不満分子はおり、好条件を提示されて焚付けられたらコロッと寝返るのです。そもそも、南北、東西に分れて争っているとき、戈を交えているのは他ならぬ身内だったりします。その意味では、蔵田真信の裏切りも別段珍しい話でもなければ、この人が稀に見る悪人というわけでもなさそうです。当時の感覚ではいたって普通にあることでした。
けれども、『賀茂郡史』をお書きになった先生は、ちょっと違った視点を提起しておられました。真信の内通は、蔵田の家を絶やさぬため、皆で話し合って敵味方に分れたのではないかと。大内からの援軍はいずれは来てくれたかもしれないし、来ないかもしれません。じつは、すでに付近の味方勢力(竹原小早川家等)の後詰めはあったのです。しかし、尼子方の勢いが強すぎて彼らだけではどうにもならなかったそうです。陶興房なりの大物が、大軍を率いて駆けつけてくれなければ、もはや助かる見込みはない状態でした。城が堅固であることと、将兵の頑張りで持ち堪えてはいましたが、せいぜい落とされぬよう楯籠もって堪えている状態ですから、やがては力尽きます。
このように、すでに最悪の事態を予測していた状態で、城内の首脳陣が考えたのは、家門の存続についてでした。ここで、全員が討ち取られてしまえば、家そのものが滅びてしまうからです。直信の裏切り行為は、家中の総意の元で行なわれた、いわば蔵田家側からの家門を存続させるための苦肉の策だったというのです。大内方として皆が討ち取られても、尼子に与力したことから真信ひとりだけでも命が助かるからです。このような形で何としても家名を残そうとする話も実はよくあることです。南北朝期などまさにそうで、両方から声をかけられた弱小勢力の中には、将来どちらの天下になっても、いずれかは生き延びられるようにと、泣く泣く自ら二派に分れたケースがあったのです。
先生の考察によると、真信は大内氏からの信頼が非常に篤い人物で、容易く裏切ることはあり得ないそうです。それは『芸藩通史』に、真信の居所は「志和東村」とあることが根拠となっています。『通史』の記述が事実なら、彼がそこにいた理由は大内氏から天野氏の動静を探るための任務を与えられていたためで=大内氏から非常に信頼されていた、となるからだそうです。
そうであるならば、真信が命を奪われたのは気の毒としかいいようがありません。実際、創作(もちろんこれが史実だったこともないとは言い切れません)で、真信を味方に引き入れた毛利元就は、自らの密約を無視して、真信の命を奪った尼子経久のやり口を不快に感じ、いっぽう、経久のほうは元就の知略に恐れをなして、これを機に両者の関係はぎこちないものとなっていきます。個人的には、一度裏切った者は二度目三度目もあるという経久の考え方には一理あると思っていますが、元就と真信の密約については、密約なだけに詳細は不明です。もしかしたら、3000貫などはどうでもいいので、家を残してくれるのならば、味方につく、というようなことが話し合われていたかもしれないのです。
尼子経久も、房信の妻子や城内のものたちの命まで奪うほど冷酷非情ではありませんでした。真信が裏切り者の汚名を着せられるような芝居を打たずとも、結果的に家は守られたことになります。でも、敗北の結果どのような憂き目に遭うかは、その時になってみなければわかりません。真信に子孫がいたのかどうか、系図はそこで途絶えているためわかりません。まさか、裏切り者の一類だからと、彼の子息だけ成敗されたということもあるまいと思いますが、いかがなものでしょうか。
なお、先生は蔵田氏の子孫たちが、のちに陶方について厳島で命を落とした者と、毛利家家臣となってその後も続いていった者とに分れたのも、意図的なことだったかもしれないというご意見です。もしそうであるならば、これについては功を奏したと言えます。毛利家についた蔵田一族は、その後大いに発展したからです。
年月日の補足
最初に、尼子経久が永正十三年に鏡山城を占拠し、と書きました。しかし、たいていの本が『陰徳太平記』に拠っていたりするので、信用していいものか疑問符、と。『賀茂郡史』の先生もほかに史料がないため、仕方なく軍記物の記述を借りている感じで、ご本人もあまり信用なさっておられぬようでした。大永三年に尼子経久が鏡山城を落としたことは事実です。それを証拠に、ちゃんと「対の城」も残っておりますし、こちらは信頼できる史料もあるようでして、合戦の流れなどが面白おかしく脚色されているにせよ、年代くらいは間違っていないことが明らかなようです。
しかし、永正十三年については、言及しているものがぐっと少なくなるようでして、決め手になるものがなく、諸説あるようです。そのような異なる見解の中に、永正七年説があります。これはちょうど、義興が足利義材とともに上洛した年から五年後とのこと。やっと京都について間もない頃なので(五年って結構長くないですか? 間もないっていえるのだろうか)、すぐに帰国はあり得ず、留守宅を襲うにはより相応しい時期とのことです。しかしです、同じご本に、経久が永正八年船岡山合戦で義興と先陣を争って敗れた云々の逸話が紹介されており(これもどうせ軍記物なのかな……)留守宅襲って占拠しているのに京都でともに参戦しているってちょっと矛盾しますよね。
そもそも永正十三年から大永三年まで占拠されていた(六年間)というのも長すぎると思うのに、さらに前倒ししたら、もはや取り返しがつかないような気が。永正十五年に帰国して、真っ先に鏡山を取り返しに行かなかったのも疑問符なんだよね。そもそもこれらの年代の出典がなんなのかが分らなくて。
東広島市が配っている鏡山城のパンフレットが、現状、最も信頼できる史料(資料)で、そこにも大永三年に鏡山城が落とされたことは明記されているので、疑いようのない事実。しかし、毛利元就が調略した云々は軍記物などの脚色なので、根拠のない読み物とか書いてある……。自治体や研究者の先生的にはそうなるけど、信じるかどうかは別として、読み物として楽しければよいのかな、と思います。毛利元就関連施設看板で埋め尽くされている東広島市なので、鏡山公園入口の元就公看板がウインクしているように見えてしまいました。
なお、『賀茂郡史』には、鏡山城は尼子経久の手に落ちた後、再び大内氏に奪還されたのではないかと思う。そうでないと、その後の展開(大内氏が本拠地を鏡山から移しつつ、なおも東西条を根拠としていたらしきこと)が矛盾すると書いておられます。つまり、このご本が書かれた時期には、上のパンフレットにも出ている大永五年に尼子家勢力を駆逐したという事実がまだ証明されていなかったものかと。東西条についてのすべてが詰まった素晴らしいご本なのに、出版年が古いことで最新の研究成果と違う部分があり、極めて残念無念なのです。ぜひとも改訂版が欲しいところです。むろん、たとえ、多少古いところがあっても宝の山のようなご本であることに異論はありません。
陣ヶ平城・みどころ
鏡山城を攻略するためだけに築かれた城ながら、きちんと畝状竪堀群や切岸、土塁などの遺構も残り、完全に「山城」です。城跡遺構として訪れる人はさほど多くなく、むしろ地元の幼稚園のお子さん方が元気に上り下りしているとのことですが……。難攻不落はとにかくとして、登りにくさでは、鏡山城とは比較になりません。
起点・鏡山公園駐車場
鏡山公園駐車場で、去年曾場ヶ場にお連れくださった東広島市ボランティアガイドの会の皆さまと再会。今年は市制50年の節目にあたるそうでして、メモリアルな年の登山となります。
ブールバール
鏡山公園から西条駅まで続く真っ直ぐな道路。数年前は45分かけて、ここから駅まで歩いたことを思い出しました。公園から先はどこまで繋がっているのかは、そういえば分りません。ちなみに、固有名詞のようにして使われていますが、ブールバールって、広い道路という意味だそうです(ネット検索)。ということは、他の市区町村にもあるかもですね。
陣ヶ平・登り口
これはガイドさんにお連れいただかなければ、見付けられないでしょう。逆に言うと、ただ後ろから付いて行ったので、次回は自らが案内人となって……ということができません。道を忘れてます(というか最初から覚えていない)。
竹林
どういうわけか、入った先は竹林になっておりました。整備されていない山城が樹木で覆われるのは普通のことですが、ここまで竹林化しているところは初めて見ました。進んで行くとこの傾向は薄れますが、暫くの間、なおも竹が幅をきかせていました。
足元は枯葉が降り積もっていて、滑って危険なのですが、竹につかまって進めるので、そこはとても有難かったです。
山道
竹がなくなって、普通の山城跡の様相に。途中に竪堀などがあったのですが、どの道写真では表現できないので、思い切って省略してます。間違っていたらこまりますしね。
虎口
ご同行者を隠すため、妙なところに浮かんでますが、岩と岩の間は人一人やっと通れる狭さ。遺構でしかないので、元はもっときちんと入口のようになっていたと思われます。虎口があるということは、本陣跡は間近です。
経久本陣跡
何だ、この掘っ立て小屋は? などと無礼なことを言ってはなりません。この建物は、尼子経久がここにいたであろう場所に建てられている四阿です。高さや大きさなどはある程度正確に再現されたもので、けっして適当に置いてあるわけではないそうです。
本陣跡から、鏡山城を望む
これは、本陣跡付近から敵方・鏡山城を仰ぎ見た図です。矢印の向こうに見えている山が鏡山です。残念ながら、木が生い茂っており、その隙間から覗き見る感じになってしまいますが。ガイドさん方が下見に入ってくださった時には、まだここまで木が生い茂っていなかったので、鏡山城が手に取るように見えたそうです。残念。
しかし、このように敵方が丸見えという状況は、相手側からしても同じこと。こちらは単なる攻略戦用に建てた短期利用の施設。相手方はまさにどんと構えている城。付け城から敵方の動きがよく見えるというのは、攻める側にとっては非常に好都合ですが、攻め込まれる側からしたら、すぐ傍にこんなものを造られて不気味、という思いだったでしょう。
山頂看板
先に、こちらが幼稚園のお子さんたちが上り下りして遊んでいる山であることを書きました。それゆえに、頂上には、このような可愛らしい標識が。これ以外には、かつての様子を伝える案内看板のようなものは一切ありません。ガイドさんのご案内なしでは、来てもなんなのかわからない場所となってしまいます。
頂上付近郭
頂上は二段の郭になっていて、ほかにも小さな郭がたくさん連なっていた模様です。郭も削平地になっているだけなので、同じものを大量に見ても……という感じになりますね。なので頂上の一枚だけ。そもそも、現在もすべての郭が確認できるとも思えません。
切岸を下りる!?
何気に下が見えていますので、道が続いているように感じます。しかし、道はありません。陣ヶ平は横に細長い山です。ですので、元来た道を引返すとなるとかなりたいへんです。しかし、山頂から下まで、縦に下りればあっと言う間です。どことなく、降り口のように木が伐採されているのも、ここから上り下りする幼稚園のお子さんたちがおられるからなんです。が、城の構造上、この道を下りていくと言うことは=切岸を下って行くことになります。
まさか!? と思いますが、時間の関係と、元来た道もかなり上りにくかったことなどを考えるとショートカットして行くのも悪くありません。しかし、女性陣からは悲鳴が。すでに七尾城(益田)で切岸を下りた経験がありますが、あれは道に迷って仕方なくでした。最初からそうと分って下りていくのも恐ろしいですが、「幼稚園児でも下りられる」という言葉に励まされ(?)、皆覚悟してこの道を行きました。
山道(二)
こんな感じの道が続いておりました。皆真剣でしたので、写真もほとんどありません。
登山終了
無事に鏡山城を望む道路に下りてきました。なんともはや。しかし、とっても得難い体験でした。
陣ヶ平城跡(東広島市鏡山北)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 東広島市鏡山北
※Googlemap には情報が何もありません。誰も情報をアップする人がいないからでしょう。よって、所在地は推定です。鏡山城の向かいにあるので、同じ住所だろうとの浅はかな考えからですが、道路の向こう側は住所が違うんですよ、ということでしたらすみません。
アクセス
鏡山城の真向かいなので、鏡山公園から行きます。西条の駅から歩くと45分、タクシーなどならあっと言う間です。バスも出ておりますので、便利です。行きは待ち合わせ時間があったので、タクシーを利用しましたが、帰りはバスを使いました。一時間に一本とか、そんな本数ではないですので、普通にバスが使えます。
参考文献:東広島市ボランティアガイドの会さま資料、『賀茂郡史』、『萩藩諸家系譜』
陣ヶ平城跡(東広島市鏡山北)について:まとめ & 感想
陣ヶ平城跡(東広島市鏡山北)・まとめ
- 尼子経久が、鏡山城を攻略するための基地として本陣を置いた山城跡
- 城を落とすまでの短期間使用の「対の城」(付け城、陣城)ながら、ちゃんとした連郭式山城で、郭、堀などの遺構も残る
- 観光資源化が進んでいないため、分りやすい場所にあるのに、このように貴重な史跡であることを知る人は少ない。地元幼稚園児の遊び場となっている
- 整備されていないため、登山は足元に注意する必要がある
- 城の攻略は、城番・蔵田房信の踏ん張りや、鏡山城が難攻不落の堅城であったことなどから難航した。房信の叔父・真信の裏切りにより落城したといわれているが、これは軍記物などが語り伝えてきた物語なので、創作である可能性もある
- 城の役目は鏡山城を落とすための基地なので、目的を達成したら後は不要となる。落城後、鏡山城も使われなくなったので、その後この城跡を再利用した者はなかったと思われる
山城本体ではなく、それを落とすために短期集中利用で素早く建てられたという城に初めて登りました。全国見渡すと、このような城でも観光資源化されていたりしますが、ここは訪れる人も少ない穴場です。そのかわり、地元の幼稚園のお子さんたちの遊び場となっているようです。
しかし、幼稚園のお子さんたちと大人では、体力に差があります。当然、大人のほうが頑丈に思えますが、小回りのきくお子さんたちのほうが登りやすいという側面もあるようで。なんとなれば、切岸を滑り落ちるのも、尻餅ついたまま、滑り台状態ということも楽しんでしまえるのが子どもたちです。しかし、大人には恥ずかしくてできません。そんなようなことから、「幼稚園の子どもたちが出入りしている」というガイドさんのお言葉は励みにはなりませんでした。普通にキツくて、登りづらいです。これは、有名な山城で、自治体がきちんと道の整理などをしているところと比較しているからそう感じるのです。山自体の難易度は特に突出して高いというわけでもないと思われます(感じ方には個人差があります)。
訪れる人も少ないためか、案内看板の類はいっさいありません。同じく、マムシ、ハチ、クマに注意などといった類の看板もありません。しかし、これらの厄介な虫などは普通に出ますので、注意が必要です。
こんな方におすすめ
- 山城跡を巡るのが好きな人
- 『陰徳太平記』に書かれているようなエピソードに心惹かれる人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ぎゃー、どうしよう!?
この悲鳴は「ミルさん、後ろからムカデがそっちに向かっていますよ!」との女性ガイドさんのお言葉に反応して起ったもの。
ムカデくらいなんだよ。臆病だな。
やだやだ怖い!!
リーダーの男性ガイドさんがスタックでムカデを叩き潰してくださり、ほっと一安心。ところが、「あれ~、まだまだおる~」との背後からの悲鳴。怖いので振り返りませんでしたが、どれだけいたのか分りません。なんとか無事に出口まで到達したときはほっとしました。
すげー、切岸をおりちゃったよ! ムカデなんかにビビってて恥ずかしいなぁ。マムシじゃないんだし、そんなに恐れる必要あんの?
家に1センチくらいのが出た時も気絶しそうになった。ミイラ化したのが、古雑誌の山から発見された時も。噛まれると相当に痛いらしいし、そもそも、あのフォルムが気持ち悪い……。
家に出るって、どんだけ山の中に住んでんの?
ムカデなんて、普通にどこにでも出るよ。だけど、こんな山の中、考えてみたらうようよいておかしくないよね。今の今まで気にしなさすぎた。
普通に踏みつぶして歩いてたりしたかもね。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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