人物説明

多々良正恒 雅な和歌に清水が湧き出た・初賜多々良姓

法泉寺さまイメージ画像
和歌と言ったらこの方・二十九代当主さま

多々良正恒とは?

大内氏第八代当主。始祖・琳聖太子からのち、系図には六代の欠落があります。その後、八代目として名前が現われるのが正恒です。いわゆる「史料」と認められる古文書の類には名前が出て来ない方であり、研究者的にはその存在が確定できない人です。

けれども、降松神社に残された伝承には、しっかりその名が記されています。「あめつちの水はつきしと思きや渓の草木はうら枯んとは」と歌を詠んだところ、水が湧き出て和歌水となった、という麗しい物語です。

現存したか否かを裏付ける史料はなくとも、神社に伝わる伝承と、残された系図が当主としての存在を示しています。神社の言い伝えや、信憑性が疑問視されている系図からしか事蹟がわからないとはいえ、アカデミックな分野に属する身分でなければ、普通に存在を信じて問題ないでしょう。古代史浪漫をかきたてられる、神秘のベールに包まれた当主さまです。

多々良正恒の基本データ

生没年 不詳
大内氏第八代当主
初めて多々良の姓を賜った
(典拠:「新撰大内氏系図」)

降松神社の和歌水

興隆寺と下松の妙見社

下松市に鎮座する降松神社。山口市の興隆寺にある北辰妙見社は、もともと下松から勧請されたものだ。ということは、下松の妙見社こそが、大内氏の氏神としての妙見社の本家本元と言える。しかしながら、明治以降の神仏分離により、本家本元・下松の妙見社は天之御中主神を祀る現在の降松神社になってしまい、妙見や北辰は姿を消した。社殿には立派な大内菱が煌めいてはいるが、妙見さまはおいでにならないのである。

いっぽう、氏寺・興隆寺も、大内氏の滅亡で次第に衰退の道を辿り、広大な敷地や大伽藍は見る影もない。経営のためには、由緒ある建築物を他の寺院に譲り渡す必要にも迫られた。しかし、寺院であるから妙見「大菩薩」を残すことができた。とは言え、妙見はそもそも仏教系のものなのかはっきりしない。八幡神すら八幡「大菩薩」だったわけなので、菩薩号だけで、仏教系と断言することなど無理。琳聖とともにやって来た異国の神、くらいに考えておいたほうが無難。

そんな中で、神仏が分離した現在も、鳥居を備え、異国の神である妙見を祀り続けておられる興隆寺や鷲頭寺(元下松妙見社の社坊)はさすがと思う。

神仏習合の世界は、神も仏もない、無宗教の現代人には難しすぎる。想像することも無理。そんな中で、興隆寺や鷲頭寺は、寺院であるにもかかわらず、じつは神社でもある。これ、何も知らずに参詣した時、意外にも驚きだった。寺院なのに鳥居があるのは、付近に神社があって、その鳥居だろう、と思ったりして。

そんなわけで、いずこも同じく、かつての栄華はどこへやら。降松神社も興隆寺も立派な神社であり、寺院であるが、かつては「こんなものではなかった」と。驚くやら悲しいやらの連続。

さて、降松神社は妙見さまのいない神社となってしまわれたが、現在の若宮は本当に立派である。しかし、立派すぎるところは当然、最近になって再建された経験を持っている。むろん、全国には延喜式の時代から続く由緒ある神社や、奈良時代から続く著名寺院もなくはない。それでも、それらの寺院とて、地元の人々の保守点検、定期的修繕を繰り返しつつ現代に至っている。つい最近までは、それらの貴重な建築物が残されていたのに、天災や火災などの被害で、あっけなく崩壊した悔やんでも悔やみきれない例もある。

現在の降松神社は、人々の参拝の便を考慮して通いやすい場所に移転され、立派な社殿に造り替えられた若宮である(移転は毛利家の時代となってから)。元々の妙見社は鷲頭山にあり、下宮(若宮)、中宮、上宮と山全体が神聖な領域として、信仰の対象になっていた。その歴史はそれこそ、琳聖来朝まで遡るから、どれだけ古いか分からない。

当たり前だが、そのような古式ゆかしい神社が、現在もそのままの姿で鎮座しているはずはない。直接的には、火災で全焼し、さらには、神仏分離で仏教系のものはすべて神社系のものと置き換えられ、かつての社坊は別の寺院として、離れて行った。つまり、現在も、かつての大内氏時代の姿を拝もうなど無理な相談なのである。

「が」そんな様変わりした鷲頭山に、唯一、大内氏時代から現代に続くものが残されている。それが「和歌水」である。

妙見社の移転

下松の妙見社は、現在の鷲頭山に鎮座するまで、場所を転々とした、ということになっている。まず、下松に妙見社が建立された理由について復習しておくと、推古天皇の時代に、都濃郡鷲頭荘青柳浦の松の木に北辰が降臨。地元の人々が七日七晩も光り輝く星を訝しく思って見ていたところ、異国の太子(つまりは琳聖だったことが後にわかる)来朝にあわせて、彼を守護するために舞い降りた北辰(=北極星)であるとのご神託が下る。人々は何とも畏れ多い奇瑞であるということで、社を建ててその北辰をお祀りした。ただの北辰というのも困るので、北辰尊星大菩薩として。これは降臨した「北辰」が自称したのかも知れない。我こそは八幡大菩薩と称して降りてくる例など、全国山とあるので。この北辰尊星大菩薩=妙見なのだが、暗記するほど繰り返しても、星が降ってきてそれが神さまであったという話を信じろといわれても現代人には無理です。この項目とは無関係なので、取り敢えず信じてください。

この、最初の妙見社、つまりは北辰尊星大菩薩をお祀りした社のようなものだが、それがどこにあったのか具体的なことはわからない(書かれていた研究を今のところ見たことがない)。普通に考えて、北辰が降り立った場所からほど近い場所と考えるのが妥当であろう。しかしながら、その場所が手狭になったゆえにか、あまり相応しくない場所だったのか不明ながら、このお社は何度か場所を移転した。

『大内氏史研究』には次のように書いてある。

妙見宮の根本神社たる降松の妙見信仰はいよいよ盛んになって、社を桂木(宮の洲) に遷し、また、高鹿垣に遷した。神社は山上に在って、神光赫奕としてきらめき、沖行く船はまぶしくて、航海に悩んだから、今の鷲頭山の地に遷したといわれるが、大内氏の崇敬ただならぬものがあった。

出典:『大内氏史研究』

これ以前の記述が飛んでいるので、少し分かりづらいが、要するに北辰降臨と最初の社を建てるまでの経緯が書かれている。なお、古い時代のご本ゆえ、そのまま引用すると現在なら即「放送禁止用語」になるようなワードが多数含まれており、これ以前の部分は執筆者には恐ろしくてご紹介できない(お察しください)。

要するに面倒なので、まとめて書いてくださっている部分をお借りしたけれど、妙見社は以下のような順序で場所を変えたことになる。

最初の鎮座地 ⇒ 桂木(宮の州)⇒ 高鹿垣 ⇒ 鷲頭山

神社が尊すぎて眩しい光を放っていたので、下を行く船の航行が危険であったというのも、現代人には意味不明というか、意味は分かるがあり得ない。太陽の反射が眩しいことになっていて、迷惑な建物は現在でも稀にあるが、24時間反射し続けていることもない。そもそもこの一文は、神社のご威光ゆえに神々しくて眩しいという意味だから、あり得んよな、となる。まあ、そう言ってしまうと、夢も浪漫もなくなるので、信じてください。

信じてくださいと繰り返しながら、絶対に信じられない。なにゆえにかくもこだわるかと言えば、空から星が降ってきて守護星であると自称したとか、あまりのご威光に光り輝いていたとかいう非科学的なことを放置すると、結局のところ、大内氏の先祖伝説って、科学的根拠がまるでない、インチキだという話になってしまうから。

それについて、下松の郷土史研究の先生から、目から鱗のお話を拝聴したので、先祖伝説と妙見社のために一言。

一、北辰降臨はおそらく、隕石の類。古代の人にそんなものの説明ができようはずはなく、神がかったものであると信じても何ら不思議はない。

一、妙見社の移転は多分、水源を求めてのこと。神仏に奉仕するためには、水が豊富にないと困る。恐らくは、その意味で各旧地は条件に合わなかったのではなかろうか(この件については、ほかにも指摘している学術研究者の方の見解もあるそうです)。

隕石ね。じつは自分でもずっと、そうじゃないかと思っていた。七日七晩も輝くってすごすぎるので、相当にすごいモノが落ちてきたと思われ、地面にはクレーター、落ちてきた先の松の木なんて焼け落ちてしまったに違いないと考えると謎だけれども。

和歌水とは?

さて、水源を求めて場所を転々とした妙見社だったが、最後に鷲頭山に移転した後はそこに落ち着き、現在に至るまで動いていない。ということは、鷲頭山には十分な水源があったと考えるのが普通。実際そうだったと思われる。

ところが、伝説だと、やはり水はなかった(あったとしても足りなかった)ことになっている。そもそも、当時は表向き(?)妙見社の移転は後光がさしていて、船の航行にまで影響を与えたゆえになので、水源云々のためではなかったことになっていただろうけれども。ただし、移転させた当人たちは、水がないと困るから遷していたのであろうから、またしても水が足りないところだった……となる。こうなると、毎回毎回、事前調査もきちんとせず、水源が豊富ではない場所に移転させている先祖たちって、よほど計画性のない人たちだなぁと考えてしまう。

しかし、実際には鷲頭山にはきちんと水源があり、それゆえにそれ以降は移転する必要がなく、現在も妙見社(元)は同じ場所にご鎮座しているのである。……というような考え方をするのが、現代の我々だが、古代の人々は違った。「和歌水」という伝説により、やはり水の問題が生じた鷲頭山を八代当主・正恒が救ったのである。

和歌水とはいったいなんのこと、どんなものなのだろう、という疑問の答えは「池」。この池が、鷲頭山の水源とされている。現在は水も涸れてしまい、どこにあるのかもわかりづらくなっているが、正恒の時代にはそんなことはなかったのだろう。そして、この池こそが、火災により焼失した社殿、神仏分離で置き換えられた神さま、同じく、再建してもらえなかった義弘期の五重塔など諸々の貴重な文化財を差し置いて、古代(?)からそのままの姿で存在する、大内氏時代からの唯一の遺産なのである。

あめつちの歌と正恒

名前以外、何一つわからない当主

この連載を書くにあたって、大内文化探訪会さまの『大内文化研究要覧』という本を参照させていただいている。各当主ごとに事蹟がまとめられており、大内氏にかかわる重要項目についての年表がついていたり、ゆかりの寺社、文化財などについて一覧表を記してくださっている。むろん、系図もついている。ここでは、基本「新撰大内氏系図」を使っているが、こちらのご本では『大内氏実録』の系図に、会の方々がご研究なさった結果を反映させた系図をつかっておいでになる。とにかく至れり尽くせりのご本なので、大内の二文字にむすぼほれたる人々は座右に置くことをおすすめする。

そんなわけで、だれか当主のことを書いたら(書く前でも)必ず、この本で確認をする(※現状、ご本の入手前に書いたものについては、確認が追いついていませんので、ご注意を)。しかし、年表にも、事蹟にも、正恒については何も記載がなかった。要するに信頼すべき史料がないということ。ひとつだけ、「信頼できない」との注釈付きの記述があったが(後述)。唯一、『大内文化研究要覧』も含め、系図には正恒が初めて多々良姓を賜ったとある。

正恒は始祖・琳聖の次に名前が出てくる歴代当主。始祖の次がなにゆえ、「八代」なのかと言えば、それまでの六人の当主については、名前すらわからないのである。それゆえに、系図類には「六代欠落」と書かれている。しかし、系図にも色々な版があることも、よく知られた事実であって、研究者の方々が笑って相手にしない系図の中にはこれらの六代をちゃんと記しているものもある。ただそれは、およそ信頼に値せず、どなたか後世の方が六代欠けていることを嫌って、適当にそれらしき名前を当てはめたのではなかろうか、程度の認識となっている。

欠けている六代を記している系図は、多くが「○○王子」「○○太子」のように書いてあり、琳聖が百済の王子であったことをヒントに創作したと思しきもの。正恒になっていきなり王子でも太子でもなくなって、あらー、臣籍降下されたんですかぁ、って感じ。正直なところ、琳聖じたいの存在が否定されていたりするから(似たような人物はいたのだろうが、名前や身分などは違っていたかもしれないというのがだいたいの意見)、それに続くナンタラ王子だの、ナンタラ太子だのがいるはずもなく、だとすると、八代目から突然現われる正恒も、何となくだが、限りなく怪しい感じがする。

六代欠けていたのに、いきなり八代目から出てくるのも妙な話だし、彼本人も含めて以降しばらくの間は、系図に名前が出てくるくらいしか、ほとんどなんの記録もない。はっきり言ってしまえば、「史料に名前が現われた最初の人」多々良盛房以前の人物については、存在の確認は取れていないというのが現状。恐らくは、今の今まで分からなかったことが、この先わかるとも思えない。

じゃあ、正恒は琳聖同様、いたのかいなかったのか不明。伝説上の人物ということでよろしいので? と問われれば、限りなくそうであるような気がする(個人的見解です)。しかし、もし、彼が実在しない人物であったとしたら、降松神社の和歌水はどう説明するのですか? という前に、ん? ただの池だったのではとなりそうなので、この池の謂れを説明しないと片手落ちに。

麗しい和歌で清水が湧き出した

系図に名前が出ている以外、学術研究の方々にとっては何の意味もなさない名前だけの存在、正恒さま。しかし、下松と降松神社を愛する人にとっては、途端に麗しい伝説と結びつけられたご当主さまとなる。「和歌水」は降松神社の中でも、聖地のような場所なので(個人的見解です)、それにまつわる伝説はけっして避けては通れない。

下松の妙見社は何度かその場所を変えたことは前述の通り。ただ、それがいつ、どの当主の代にどこへ遷ったのかということは明らかではない。実は、史料が存在しない始祖以降の当主たちの中で、11代の茂村という人が、妙見社を氏寺・興隆寺に勧請した人物として、その名前が知られている。当然、鷲頭山から勧請したのだろう。ただし、それ以前の人は、本当に名前だけ。とまれ、この時点で、鷲頭山の妙見社は多々良氏の氏神社・本家本元として、荘厳な姿でそこにあったであろうことは、十分に想像がつく。

そこには当然、数代前の正恒によって「造られた」池もすでに存在していただろう。この池は名前を「亀池」と呼び、二段に分れたそこなり広大な池で、かつては池の中で亀が泳いでいたという。それゆえに「亀池」なのだ。亀と聞いたら、法泉寺さまや凌雲寺さまの幼名「亀童丸」を思い出す人もおいでかも。ただ、これらの幼名が使われたのは、滅亡間近の頃数代限りなので、古代史の時代とは無関係。

妙見が亀の上に乗っている姿で描かれるなど、亀や蛇とかかわりの深い神であったゆえにの命名だろう(池)。のちに、氷上山のほうでも、亀や蛇に関わる禁制が出されて神聖化されたのと同じく、本家本元にして、同じく神聖不可侵な鷲頭山でも、亀は大切にされていたのである。

恐らくは付近に水源があり、それが池になっていたのか、もしくは、泉程度のものに手を加えて立派な池に造り替えたのだろう。古すぎて分かるはずもないけれども。ただし、何となく後者のような気がする。言い伝えあるところに、何らかの真実あり。北辰降臨が後世のでっち上げではなく、きっと隕石が落ちたという事実があり、それを説明できなかった古代の人々が何らかの神聖なことだと信じて疑わなかった。それと同じ。

大内氏の先祖は、氏神・妙見社を転々と遷し、最適な場所を探していた。恐らくは水源を求めて。漸く、十分な水源がある場所・鷲頭山に辿り着いた。当然だが、いかに古代の人々とはいえ、神社を移転する前にきちんと事前調査を行なったのだと思う。だったら、先の桂木と高鹿垣の時はなんで事前調査やってないのかという声が聞こえてきそうだけれども。最初はそれなり水はあると思われたが、人々の妙見信仰が篤くなるに従い、神さまへの奉仕を続けるうちに、水が涸れてしまったのかもしれない。で、鷲頭山を調べたが、ちょろちょろ小川もしくは、小さな泉くらいなもので、本当にこの場所で大丈夫なのか? となった。で、水源を求めて彷徨ったか、その泉だの小川だのを掘り進めてみた結果水脈にあたったのかは知らない。しかし、ここならば大丈夫ということで、お社を遷したのだろう。

何の面白みもないが、恐らく事実はそんなところかと。そして多分、これらの移転工事を行なったのが、正恒代ではなかろうか。それゆえに、単に水脈掘り当てたので問題ないから遷そう、ではつまらないと思ったゆえにか、領民たちに当主の神がかった力を示そうと意図的に噂を流したのかは知らないが、鷲頭山の亀池の来歴について、以下のような伝説が残されている。

正恒公ご本人か、家来の面々かは知らぬが、皆は鷲頭山に水源がないことを憂えた。これでは、氏神さまへお勤めするための水が足りない。どうしたら? その時、正恒公は一首の和歌を詠んだ。

あめつちの水はつきしと思きや渓の草木はうら枯んとは

すると、不思議なことに、清水が滾々と湧き出してきた。水はみるまに池となり、以来、鷲頭山でお勤めの水に困ることはなかった。この故事にちなみ、鷲頭山のその池を「和歌水」と呼ぶのである。

このことは、現在も降松神社のご案内に書かれており、執筆者のいい加減な創作ではない。ただし、みるまに池となったかどうかは不明。神社の御由緒には和歌を詠んだら水が湧き出たとなっている。ただし、その水源を池とし、何時の頃かまでは定かではないものの、長いこと亀が泳ぐ神聖な池として存在していたことは事実。その跡地は現在も存在している。

始祖さまに次ぐ浪漫チックな当主さま

史料がなに一つなく、存在したかどうかも不明な正恒。しかし、そうであるがゆえに、兄弟同士の争いや他家との抗争、臣下に命を奪われる……といった俗世の血生臭い「史実」とは無縁である。これで、「和歌水」の伝説がなかったら、それこそ、「名前だけ」の存在となったと思われる。しかし、降松神社に残る麗しい伝承から、正恒の名前は永遠に人々の心に刻まれることになった(と、偉そうに書きながら、降松神社でガイドさんのご案内を拝聴するまで、この人から多々良という認識しかありませんでした。恥ずかしい)。

系図そのたから拾える正恒についての事項

一、始祖琳聖ののち、六代欠落があり、八代目の当主(参照:系図など)
一、初めて多々良の姓を賜った(参照:系図)
一、『大内文化研究要覧』に、以下のような興味深い一文があった。記された研究者の先生ご自身が否定されているが、すべて拾うという主旨から引用しておくと、以下の通り。

京都府京田辺市に多々良正恒旧館址という絵図が(出自に問題あり…明治になって描いたものか)が発見されている。

出典:『大内文化研究要覧』41ページ

なんで京都に多々良正恒の館跡が? と思う方は多いかもしれない。しかし、ここでは取り上げていないが、欠落していた六代分の当主を書き加えたり、琳聖を絶対に存在していた高貴な人物として疑わなかった過去の人々(江戸時代以前のような人々を指している)の中には、琳聖と聖徳太子の麗しい交流についてもあれこれと尾ひれをつけて物語を作っておられるので、琳聖が聖徳太子とともに長らく都にいて太子を助けたとか、その子らも都の「王宮」(琳聖は王族なので、それに見合った待遇を受けた)に住まいしていたなどなどの荒唐無稽な伝承が多々ある。

執筆者が目にした中にも、正恒は都にいたという内容のものがあった(難解すぎて現代語訳できないため、典拠として掲げられず)くらいなので、都=京都と誤ったか、もしくは奈良と京都は近いので、実際に京都にいたという解釈もそれらの人々的には可能。ただこれ、史料がないだけに、完全なる嘘とも証明できないわけで。

少なくとも、琳聖が聖徳太子とあったのち、周防国に帰国して云々のほかに、琳聖は暫くの間「都」かその近辺にいて、それから帰国。その期間はとても長く(もしくは都で亡くなった、という説も)、琳聖の子らも同じく都(かその近辺)にいたという説も信じられていたフシがある。なんたら宮に住んでいたくらいなので、その子らも、なんとか太子、なんとか王子となるわけです。

正恒の子孫

系図類を見ると、

始祖 ー(六代欠落)ー 正恒 ー 藤根 ー 宗範 ー 茂村……

となっている。ただし、これを以て、藤根が正恒の子であるのかなどは不明。何も史料がないから。だいたい、この辺り、まだ奈良時代くらいであるらしい。超古代だと、天皇家くらいしか系図など知られていない(教科書などにないということ)が、それらの時代には、兄弟間で家督が動くことも普通にありというか、そのほうが主流であった模様。教科書などでも、名前が知られる天皇たちの時代となって、ようやく親から子への相続が始まっていた気がする。そうでなくとも、時代が新しくなってからも、子宝に恵まれず兄弟や甥などに家督が動いていくことは普通にあった。つまり、これだけみても、親子兄弟関係すらわからないということ。

完全に血統が途絶えてしまい、婿養子のような人物が跡を継いでいたとしたら、それ以降は琳聖の子孫云々ではなくなっている。しかし、それすらも不明(※じつは、『大内氏実録』には、藤根という者が出て、大内氏を継いだという云々と書かれていて、すでにこの辺りから怪しさが滲み出ている)。

史料の欠落というのは本当に厄介で、研究者ではないのだから、多少は適当でも……と言うにせよ、これだけ何もないと、想像することすら不可能。その意味でも、正恒に「和歌水」の逸話が残されていたことは、本当に幸いだった。少なくとも、「実在していた」ことは降松神社が証明してくれていると思いませんか? 寺社の縁起や由緒は信用できない? そう思われる方はそれで結構です。

歴史学とは、それなりに「想像力」を働かせることができる人でないと暗記できないと、どこかの受験勉強サイトで見かけた気がします。こんなことが歴史学者の先生の目に入ったらたいへんですが、受験科目として学ぶ人を対象に言って(書いて)いるのであって、歴史学者になる人たち向けの言葉ではありません。史料が欠落している部分は、記憶が抜けているかのように空白となるのもいかがなものかと思われ、その意味で、欠落を埋めるには想像するしかありません。先生方がやれば、立派なご推測となりますが、我々素人がやると根拠なき想像になってしまうようでして。

正恒公が和歌を詠んだ途端に清水が湧き出した場面を想像したら、華流ドラマの仙界モノみたいに麗しい光景が目に浮かびました。歴史学者にはできない芸当ですねぇ。信じるか否かは皆さま次第。

参照文献:『大内文化研究要覧』、『大内氏史研究』、「新撰大内氏系図」、降松神社パンフレットほか

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

南無八幡大菩薩我が国の神明、願わくは此の地に水を湧き立たせ給え!

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

神頼みする前に、和歌で水出せないの? それに、八幡大菩薩って……。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

伯父上の知り合いから昔の呪文を教えてもらった。清和源氏の人だから石清水八幡宮じゃないの。てか、武家の神さまとしては、俺も祈ってよくない? 歌だけは詠めないので勘弁な。あ、それより、この和歌の意味は?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(しれっと避けてよ……)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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