人物説明

大内重弘 国司上人をクビにした周防国衙在庁官人のリーダー

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大内重弘とは?

大内氏二十二代当主。弘幸の父、弘世の祖父。鎌倉時代末期の人で、周防国衙の在庁官人中でも、かなり高い地位にありました。リーダーといってもいいくらいかと思います。この頃になると、文字史料も増えてきますので、先生方のご研究もはかどり、読者の側も頑張ればかなりのことが理解できます。

周防国が東大寺造営料国となって以降、何とびっくり、「国司上人」なる僧侶が国衙の最高責任者のようになります。その最高責任者・国司上人と対立。配下の目代と戦闘行為に及び、果ては国司上人を罷免させてしまったのがこの人です。在庁官人の力も侮れないものとなっていたと同時に、重弘本人の力量がわかるというものです。

大内重弘の基本データ

世没年 ?~13200306
官職等 大内介、周防権介、正六位上、六波羅評定衆
法名 乗福寺殿道山淨恵大禅定門
墓所等 乗福寺に無縫塔
(典拠:『大内文化研究要覧』)

鎌倉御家人にして国庁の役人

現地のことは現地の役所の役人に丸投げ

鎌倉時代という武家社会になると、元々崩壊して久しかった律令制の下で設置された各国の国衙も有名無実化する。それはまあ、当然の流れであり、武士の世の幕開けを待つまでもなく、国司が「受領」と呼ばれるようになった辺りからそうだった。とういうようなことは、受験生も知っている。

律令制は強力な中央集権体制だったから、各国の国衙はすべて中央の朝廷の差配に従って、それぞれの国を治めていた。ところが、それは戸籍によって人民を把握していたから機能していたようなところがあり、戸籍がまともに作れなくなった時点で崩壊した、と。

もっと時代が新しくなれば、国を治めるのは幕府が任命した守護となったりして、大内氏が文字通り周防国を治めることになるのだが、そうなるには大内弘世などの時代となるまで待たねばならない。だとしたら、この頃って、地方政治はどうなっていたの? という疑問が湧くかと。

実は、周防国を治めているのは守護職を得ている大内氏である、という世の中になっても、国衙はなおも存在していた。この頃になると、それこそ地方政治とは完全に無関係になるけれども。

下級貴族にとって、受領に任命されることが、「儲け」ることができる美味しい仕事になった頃、国衙はもはや、「徴税請負機関」と化してしまったようにとらえられるし、その理解で問題ないと思う。しかし、実際には徴税以外にも役所の仕事はあったはず。それらをこなしていたのが、国衙の役人、つまりは在庁官人と呼ばれる人々だった。中央は「徴税」のことしか頭にないし、その唯一絶対な任務を果たすためには現地の事情に明るい彼らの協力が絶対に必要。そんな立ち位置。

これらのことは、十七代・弘盛のところに書くべきことだと思われるが、なぜか時代が新しい順に書いているので、後から補足の上で書き直すつもりで。

徴税の邪魔となる地頭の誕生

泣く子と地頭には勝てぬなどと言うが、武家政権になってから「地頭」なる地位が配下である御家人たちにあたえられるようになった。これ、ちょっと典拠がはっきりせず保留にしたいけど、地頭という名称じたいは平清盛の頃にもあったっぽい。やっていたことも同じだろう。要するに開発領主の土地管理権を安堵してくれる有難い制度で、恩賞としてもらった土地、先祖代々管理してきていた土地などを幕府という公的機関から正式に認めてもらう。

ここだけは、本当に現代人が理解に苦しむところだが、自らの土地と言っても、それは実際には他の誰かの名義となっていて、本人は管理権しかもっていないということがあり得た。というより主流だった。しかしこの、「管理権をもっている」ということは極めて重要で、現地の農民たちに田畑を耕させ、収穫した作物から決められた分の税金を国もしくは、名義人に納める。これら一連の流れを管理し、差配する権利をもっていたわけ。

この時代の土地は未だに国のものである「国衙領」と、著名な寺社などに属する土地、寄進されて自らが名義人となった大貴族の土地など色々あったが、いずれに属していても「税」は納めなくてはならない(不輸の権をもつ土地以外は)。地頭たちは土地を管理し、集めた税金を納める義務を負っていたにもかかわらず、武力にものをいわせて多額の税を徴収しておきながら、次第にきちんと納付しなかったりという事態になっていく。こうなると、弱々しい大貴族や宗教家たちが敵う相手ではないので、泣き寝入りとなり、彼らの取り分は目減りしたり、最悪何も入ってこなくなる……。

貴族や役人は身分相応の土地を貰えた

税金逃れのために寄進された土地の問題を無視して、純粋に個人のものと言える土地というものが存在したのかといえば、存在した。これ、荘園とは何か云々系の本を読みすぎると混乱するけど。律令制を勉強した時、貴族らには官職に応じた土地が貰えたことを習ったはず。「職田」ってやつ。これは正真正銘その人個人の所有地。ここからの上がりでそれなりの収入を得られる仕組みだった。政敵に追い落とされて失職したら失われそうという意味では危ういけど。しかも、不輸だった(=税金を納める必要なし)。

じつはこういった土地、国衙の役人たちも貰えたんです! つまりは大内氏の先祖たちは代々役人として頑張って来た見返りに、そのような世襲の土地を持っていた。しかも、現地に住んでいて、現地の土地をもっているわけなので、管理権を与えられた何某にピンハネされる恐れもゼロ。何とも美味しい話である。してみると、在庁官人というのは、自らの地盤と地方政治に関わる権利をもっている分、とてつもなく有利に思える。

しかし、長い歴史の流れの中で、在庁官人から武家社会の主人公となった人たちだらけではないことから、彼らの中にも淘汰された人はいたことがわかる。開発領主たちが、土地を守るために武装したのと同様、在庁官人たちも武装しなくてはならなかった。となれば、武装化の程度もそれぞれなので、一族が繁栄していると同時に、武人としての能力値も高い人々でなければ難しい。いっぽうで、政治能力ゼロだったり、国衙の中でほとんど活躍できなかったりしてクビとなれば(一応世襲だけど)土地は失われる可能性もあるので、役所内部での実力発揮も必須。

国司上人との対立

先代から続く二足のわらじ

形骸化したとはいえ、朝廷が任命する国司はいちおう健在。国の役所である国衙も存在。いっぽうで、世の中は幕府が統治する武家社会となっている。謎の二重構造ながら、鎌倉時代の時点では守護に国政を担うような権限はなかったので、国の役所はちゃんと機能していたんだろう。とはいえ、国司は任命されても現地に赴かず、目代と呼ばれる配下にすべてを任せていた。目代とて、現地のことはよくわからないので、実務は国衙の役人たちに任せきり。こうなると当然、国衙は役人天国となる。

いっぽうで、幕府という新しい機関も成立。地方政治にはまったく口出ししなかったのかどうかまでは知らないけど、一応の住み分けができていたように思える。そんな中、大内氏の先祖は、国衙の役人を続けながら、幕府のメンバーとしても務めていたらしい。「六波羅探題評定衆」というのがそれで、系図に書いてある。名を連ねているくらいで、メインは国衙の役人のほうであったようだけれども、ともに籍があるというのはなんだか心強い。

国司上人って何?

これも先祖・弘盛の頃、平重盛によって焼討ちされた東大寺を修繕しようという話になる。周防国はその造営料国にあてられた。それで、有名な重源が下向してくる。国司(佐々木姓)も重源に協力したらしいことがあれこれの本に書かれているから、あくまで寺院の修繕の話なので僧侶が相応しいって話だろうか。

重源さんについては数え切れないほどの逸話が残されており、関連する史跡も多いので、別のところで考えることにして、重要なのはそれまで目代という配下に任せきりで適当だったところに、偉い人が直接乗り込んで来たという点。正直、周防国からは遠すぎて、東大寺? 関係ないよ。って感じなのに、いちいち差配されて面倒なことこの上ない。しかも、配下の目代でもないから、あれこれ顔色を窺うのも鬱陶しい。

ただ、国衙の役人たちが終始一貫して大人しく重源のいうとおりに協力したかといえば、そうでもなく、弘盛など非協力的だったために訴えられたりしている。

今も防府にある阿弥陀寺。この寺院は重源が建立したもので、多くの在庁官人たちに土地を寄進させた上で、勅願寺とした。勅願寺であることから、神聖不可侵で何人も手出しできない。在庁官人たちは土地を寄進したが、きっと守ってもらえる絶対安全な土地として将来を約束されたようなものであるから、皆こぞって阿弥陀寺の信者となった。大内弘盛もしかりだった。上手く考えたものですね。

そんなわけで、紆余曲折ありながら、重源とは最終的に協力関係となり、東大寺の再建も無事に終了。ところが、その後も、周防国はあれこれの寺院の造営料国にされてしまう。と、同時に、重源以来国衙は「国司上人」なる東大寺の僧侶が名目上の最高責任者となる。ただし、重源の如く、自ら現地に赴くことはせず、国司上人の目代が派遣されることになった。これはかなり特殊なことで、すべての国衙領についてなど、調べておられないので不明ながら、僧侶が国衙の最高責任者なんて何ともかわっている。

けれども、貴族であれ、僧侶であれ、目代を送ってきて丸投げ、目代は実務を国衙の役人に頼る、という図式がかわることはなかった。

尊智上人心源と目代・道空房承元

重弘代、尊智上人心源という人が国司上人となり、目代として道空房承元なる僧侶が送り込まれてきた。誰が国司上人になろうが、どんな目代が送り込まれてこようが、地方政治のすべてを在庁官人たちの裁量に任せて貰えれば何の摩擦も起きない。それは国司と在庁官人たちの関係においても同じだった。

ところが、時代の流れにもよるのだろう、地頭の横領などで国衙の税金を集めることは次第に困難となってきた。徴税を任されていた在庁官人たちは、地頭の横暴に遭って所定の額を徴収できずに撃退されるようなことになる。こうなると、国衙の収入は目減りしてしまうので、国司上人(目代)は任務をまっとうできなくなる。

それでは困るというので、目代・道空房承元は下向するにあたって、地頭の横暴に対抗すべくそれなりの軍事力をかき集めてやってきたらしい。僧侶の武装って僧兵でも来るの? と考えてしまうが、そこは本には書いていなかった。このような地頭のせいで決められた取り分を徴収できないという事態は、国衙領だけではなく、荘園でも起こっていた。そんな時、荘園領主たちは、彼らに対抗するため、腕に覚えがある「傭兵」をかき集めて自らも武装した状態で徴集に向かわせたとあるから、そんな感じだったかも知れない。

このようにして、まるで軍隊でも派遣しているかのようにして、強引な徴収を行なった承元のやり口に、現地の在庁官人たちがカチンと来た。一つには、確かに自分たちは地頭の横暴により徴収できなかった部分もあるとはいえ、そもそも、徴税は目代自らの仕事ではなく、在庁官人たちに任されてきたこと。これからは、目代自らがやるのかと考えたら、職権が奪われた感がある。さらに、広範囲に強引な取り立てを行なっていると、複雑に絡み合う土地のどこから何を徴収したのか不鮮明となってしまう。ひょっとしたら、在庁官人たちの職田なども侵されたかもしれない。

いずれにしても、承元の行為は在庁官人たちに「嫌われた」。のみならず、在庁官人たちも武装し、目代側の武装組織と武力衝突するに至ったというから尋常ならざるものがある。彼らはかつて重源が勅願寺として建立した阿弥陀寺に楯籠もって、目代と「合戦」におよび、勝利をおさめたという(1312年)。

重弘の「画策」とそれを可能にした大内氏の底力

東大寺の逆襲

東大寺側としては、在庁官人たちのこのような態度を国衙(=国家権力)に対する反抗ととらえた。大内重弘はその「首謀者」と目されたようだ。つまりは、在庁官人のリーダー的存在であったと見ていいだろう。そして、彼らの反抗的態度について、朝廷に訴え出た。

朝廷に持ち込まれた案件ではあったが、朝廷はその裁断を幕府に委ねた。審議の結果、東大寺は敗れ、目代・承元どころか、尊智上人心源その人まで罷免されることとあいなった。

『大内文化研究要覧』の年表、1318年のところに、「国庁に放火した吏員を追捕した上国司上人を罷免するに至る」とあるから、何者の仕業か不明ながら、在庁官人と目代の関係は相当に険悪となっており、腹立ち紛れに役所に放火した輩までいたらしい。先に、在庁官人らが阿弥陀寺に籠もって目代一派と戦闘におよんでから六年経って、遂に国司上人が追放されるに至ったということになるから、この間にどれほどの諍いがあったかは想像もできない。

なお、同じ1318年、つまり、上人が罷免されてすぐにということだろうが、東大寺はこの判決を不服として衆徒連署の上、上人の復職を幕府に願い出たようである。

勝訴の要因

東大寺という大寺院を敵に回し、訴えられてもびくともしなかった周防国衙の在庁官人ら。そこには、リーダーが大内重弘であったからこそのあれこれの要因があるとされる。

普通に考えて、六波羅探題評定衆という身分は、元より幕府の身内のようなものだし、最初から何となく重弘有利っぽいよな、という気はする。ただし、そんな依怙贔屓の判定を下す幕府だったら信用を失うので、そこは考えすぎかも。ただし、このような身分についていたということは、幕府の審理の内側について精通していたということにもなり、事を有利に進めるにはどうすればよいかを熟知していたのではないか、ということくらいはいってかまわないような。

ところで、系図の但書などを見ると、重弘の勝訴は彼の「画策」によるようなことが書いてある。画策って、いったい何をしたのか、という話になるが、どうも「裏金」らしい。今この文章は、松岡久人先生のご本を参考に書かせていただいているのだが(『大内義弘』の伝記本だが、それ以前のこともとてつもなく詳しい上に、おそらく、分りやすいこと他の本をよせつけない)、さすがに裏金などという品のない言葉を使ってはおられないが、「運動資金」と書いてある。

今も昔も、やはり最終的にはお金がものをいうのだな、と思うと貧乏人には悲しくもある。しかし、天下の東大寺が困窮していたとも考えられないから、お金の「使い処」を心得ていたという意味で、重弘というお人は相当の切れ者だったと思われる。

残念ながら、具体的なお金の動きについて触れているご研究には今のところおめにかかっていないので、何とも言えない。しかし、ここら辺は現代にも通じるところがあるので、何となく想像することは可能。

問題は、どうも勝訴を勝ち取るためには、相当の額が必要であるようで、結局のところ、大内氏にはそれだけの経済力があったのである、ということで話が落ち着く。では、その経済力とは?

大内氏の経済力=所領

在庁官人にはその職掌に応じて所領が与えられる、という話はした。しかし、誰がどこの土地を貰えるのかは運次第なのか、それとも好きな場所が選べるのかは不明。ただし、好きな場所が選べるというのはあまりにも虫がよすぎる話なので、恐らくは運次第なのであろう。あとは、財力さえあれば、実力で開発した土地を私できた時代もあったし、のちには、武力によってそれが可能にもなる。だが、基本は国衙の役人として得た土地なんだろうと思われる。

これについては、多くの先生方がご研究なさっておられるが、ここには『大内文化研究要覧』から。

重弘代の支配地

矢田令、宇野令、大内、宮野、大海(以上吉敷郡)、佐波令、国府浜、下右田(同佐波郡)、富田保、小津、馬嶋(同都濃郡)、本庄、由宇、通津、横山、日積(同玖珂郡)
参照:『大内文化研究要覧』

『大内文化研究要覧』には、歴代当主の事蹟がまとめてくださってあり、とても便利。重弘代にはまだ国衙の在庁官人に過ぎなかったから、支配地のところが、上記のように細かい地名がずらっと並ぶ感じとなっている。しかし、これが、弘世代などになると、周防、長門というふうになっていくのである。

さて、この地名を眺めて、なるほど。地の利を得たりとピンとくるのは研究者を除いては地元の方々だけかと。それ以外の方には、聞いたことある地名もあるけど? の世界。

まず、当たり前だが、これらの地はすべて周防国内。加えて、国衙を中心とした一円にまとまっているという。まとまっているといわれても、かなり広範囲におよぶのだが、と感じるが、のちに守護職などが各地の大名たちに与えられた弘世期など、国単位で飛び地となっている治めにくい家もあったことを考えれば、なるほど、コンパクト。多少の「隙間」があろうとも、のちに弱々しい在地領主を被官化したりして埋めていけば、あっと言う間に全国区(周防国全国区の意味)。

何のかんの言っても、国衙領という国の土地に所領を持っていることは有利であった。加えて、「海」とか「津」とかいう地名は沿岸部であることを指すが(例外あり)、そのような物資の積み出し等に有利な土地を抑えているということはあらゆる意味で極めて有利である。

ほかにも、土地以外に「職」のかたちで世襲している利権が多数あったが、ここでは省略する。

要するに、大内氏には美味しい場所に、美味しい所領が多数あり、これは今回の重弘の「画策」の「運用資金」調達に有利だったのみならず、のちのち全国区に飛躍する大勢力となる地盤として極めて重要であったと言えるだろう。

おわりに 附・文芸のこと

重弘期の文芸方面の功績については、何と言っても乗福寺を建立したことに尽きる。以降、弘幸、弘世三代に渡り、禅宗(臨済宗)と五山僧との交流の中心となった。無論、その後数え切れないほどの寺院が建立されていき、名僧との交流も途切れることはなかったが、その最初の寺院を建立したのが重弘であったことは、大きく評価されてよいと思う。

なお、乗福寺の建立年代は1312年とされているが、「伝承」と但書されていることが多く、正確なところは不明。これは、その三年前(1309)に弘幸が岩国の永興寺を建てたとされていることで混乱を来している。乗福寺は、周防国最初の臨済宗寺院といわれており、それが正しければ、同じ臨済宗寺院の永興寺の建立より早いはずで、1312年説は成り立たなくなるためである。

1320年、重弘は亡くなり、自らが建立した乗福寺に葬られた。今はかつての塔頭一つを以て、乗福寺としており、寺院は存続しているが、その規模は往時を偲ぶべくもない。重弘の墓碑は、孫の弘世のもの、始祖琳聖の供養塔とともにいまなお、乗福寺にある。秋色美しい名刹である。

参照文献:『大内文化研究要覧』、『大内義弘』(松岡久人)ほか

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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