大内義隆が家臣らの叛乱により倒された際、最後まで付き従った忠義の人々はあまり多くありませんでした。皆、事なかれ主義なんですね。そんな中でも、主と運命をともにしたのは、本当に忠臣の中の忠臣とでも呼ぶべき方です。
そのような人々の忠心物語はどれも感動に値しますが、中でもとりわけ強烈なイメージを残したのは、冷泉隆豊です。その活躍ぶりは『大内義隆記』などにも詳しいです。
今回は、大内氏の「親族」のうち、隆豊という忠臣を出した家・冷泉氏を取り上げます。
冷泉氏概略
冷泉氏の始祖は二十四代当主・弘世の子、弘正です。二十五代・義弘の弟でもあり、兄に従い「明徳の乱」にて活躍します。ところが、この合戦で弘正は戦死してしまいます(明徳二年、1391)。遺された嫡男・盛清はまだ二歳(※参照:『諸家系図』、『実録』は三歳とする)の幼児でした。父の死により「加州中典荘」をもらいます。戦死は、主のために尽した忠義の最上のかたちであり、その遺児に手厚い恩賞が与えられるのは当然のことです。しかし、出来うることならば、恩賞など要らぬので、お父上が存命であって欲しいですよね……。
その後、盛清の孫・弘豊の代には、応仁の乱が勃発しました。この時も、弘豊が摂州兵庫において活躍。「摂州灘七千貫」の地を与えられ、平野というところに住まいしました。
弘豊の孫・興豊の生母は冷泉大納言(※系図では少納言)の娘だったそうです。そこで、弘豊は母方の姓を名乗り、「冷泉」と姓を改めました。なお、『実録』によれば、興豊の代、文明年間に周防に下向したとあります。
『大内義隆記』などで活躍する隆豊は、この興豊の嫡男です。隆豊が最後まで義隆を守って壮絶な戦死を遂げたことで、冷泉氏はここにて途絶えたと思っていた人は少なくないかと思われます。しかし、隆豊には遺児がおり、彼らは後に毛利家に仕えています。このことは『大内氏実録』にも記述があります。
隆豊の忘れ形見は「五郎」「四郎」の二人で、母とともに平賀弘保を頼ります。隆豊の妻は弘保の娘であり、彼らにとっては母の実家であり、外祖父の家でした。後に、毛利元就は「五郎」に知行を与え、家臣とします。成人した五郎=冷泉元豊です。元豊は毛利家のために尽しますが、豊前国で大友家との戦に従軍中、戦死してしまいます(永禄五年、1562)。
元豊には息子がいなかったため、元満(=「四郎」)がその跡を継ぎました。その元満も、朝鮮出兵に駆り出され、戦死したといいますから、先祖代々、本当に戦死者が相継ぐ家です。けれども、『実録』には、子孫は今に続くとありますので、断絶することはなかったと思われます。(典拠:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』)
超・略系図
弘世 ⇒ 弘正 ⇒ 盛清 ⇒ 教豊 ⇒ 政豊 ⇒ 弘豊 ⇒ 義豊 ⇒ 興豊 ⇒ 隆豊 ⇒ 元豊 ⇒ 元満(以下省略)
『新撰大内氏系図』全コメント
弘正:「冷泉祖」五郎、修理大夫、明徳二年十二月京都四条大宮合戦之日戦死
盛清:藤丸、又五郎、下野守、父正広戦死之日藤丸僅二歳雖然因父之忠死恩補加州中典荘
教豊:介四郎
政豊:又四郎
某:式部少輔、弘豊:介四郎、下野守、剃髪、応仁兵乱於摂州兵庫顕高名仍賜摂州灘七千貫而居住平野
義豊:五郎、介四郎、下野守、母冷泉少納言女、至此時大内庶流冒正統之称号者多興豊慎謙退之意而母姓号冷泉仍之庶流僉改在名云々
隆豊:冷泉五郎、初隆祐、左衛門尉、検非違使、従五位下、従五位上、称大夫判官、御供衆、天文廿年辛亥九月朔日於長州深川大寧寺為義隆殉三十九歳、法名東泉寺殿鳳仙道麒居士
元豊:五郎、母平賀歳人大夫弘保女、永禄五年壬戌十月十三日於豊前国柳浦戦死二十六歳
元満:四郎、民部少輔、母同上、実元豊弟、慶長二年丁酉十二月廿二日於朝鮮蔚山戦死五十七歳
(毛利家仕官後は記述なし。元豊と元満については、隆豊の子だから特別でしょう)
改姓の理由あれこれ
弘正は「冷泉祖」ですが、この姓を使い始めたのは、義豊以降です。どこの家でも所帯が大きくなると分出していく人々が増えます。中には、それらの分家からさらに分出するケースも。分家の分家が本家より大勢力になるとか、中途で断絶した家もあったとか、事情は色々あります。
分家する時、名字の地を名乗りにしたりすることが多いですが、稀に母方の姓を名乗ることがあります。『実録』には本家に憚ってとあり、『諸家系図』では「庶流」なのに大内という「正統」の姓を名乗る者が多いことを嘆かわしく思って改めたとあります。いずれも同じ意味と思いますが、出所は「系図」の但書のようです。
周防国内の拝領地を名字の地とせず、母の姓を名乗ったのはなぜなんでしょう。やんごとなき家柄にも、冷泉さんがおられますが、そっちが気に入ったからでしょうかね。
加賀の国にいた!?
『実録』に、応仁の乱で活躍した後、主とともに周防に戻ったとあります。拝領していた地が加州(加賀国)だったこともあり、周防国の人となった時期は遅かったのかもしれません。応仁の乱の恩賞では、摂州灘に土地をもらって住み着いたようですし。応仁兵乱の最中、攻め取った元敵地である摂州の地をもらうのは分かります。しかし、なにゆえに加賀国なんぞに土地を得たのかよく分かりません。明徳の乱の恩賞なので、将軍家からこんな飛び地でも……と下賜されたのをゆずったものでしょうか。
では、文明期に至るまで周防国とは無関係だったのかと言えば、『実録』記事に、「伯父・式部少輔 (系譜に見えない) の旧領を知行」とありますので、本国にも土地はあった模様です。系譜には見えないとのことですが、『新撰大内氏系図』でも、名前も不明の「式部少輔」が出ています。
有名人(大内氏時代の人限定)
多くの人が「戦死」しておられますので、それぞれの合戦について記した軍記物の類に、その活躍が記されていることと思います。それらを読破した方は別として、『実録』には概略に記した以上のことは書いてありません。とにかく、冷泉隆豊が最も知られた人物であろうことは間違えありませんが、皆それぞれに戦死するほど活躍なさいました。
隆豊以外、まったくボリュームが足りないというか、この人だけが突出しておりますので、いずれ独立した項目を立てるかもしれません。とりあえず、他家の修正がすべて終了してからとなります。
大内弘正(改姓前)
大内姓を名乗っていますが、後の冷泉家の始祖です。弘世の子、義弘の弟。義弘期に「明徳の乱」で活躍するも本人は戦死。そのおかげを以て、遺された嫡男には恩賞の地が与えられましたが。
近藤先生の『大内氏実録』に、「山名の先鋒兵・小林修理亮と刺違えて死んだ若党がいたが、これが弘正であろうか」とあります。どこから導かれたご推測かは不明です。当主の弟なら、名前が書かれていそうなものですが、出典が『明徳記』という軍記物で、大内氏が主人公の本ではありませんから、名もなき人物であるかの扱いです。近藤先生がそうかもと仰っておられるくらいなので、まったく根拠のない話ではないようにも思えます。
ともあれ、義弘自身も危ういと思われるほど凄まじかった小林との一騎打ちですから、そんな怪物に向かって行った若党もただ者ではありません。亡くなりはしましたが、その活躍は天晴れでしたので、恩賞の地ももらえました。
大内弘豊(改姓前)
こちらは応仁の乱で活躍。どうやら冷泉家というのは武勇に優れた家柄のようです。恩賞として、七千貫もの土地を得たというのですから、相当活躍したのでしょう。ただ何となくですが、これらの方々のお名前までご存じの方は、もはや大内氏通を通り越して遙かな高みにおいでのように感じます。
冷泉義豊
この人から、ようやく「冷泉」と名乗り始めました。また、活躍の拠点も主の分国内に移ります。しかし、隆豊の父という以外には取り立てて事蹟もないようです。
「この人から冷泉」これに尽きます。
冷泉隆豊
何と言ってもこの人。この人なしでは、ただの分家がかくまで全国区で有名にはならなかったかと。正直、主が主なだけに、最後まで付き合う義理はなかったと感じてしまいますが。いつの世にも、ダメな主と分かっていても忠義を尽す人は存在するものですね。陶入道に反対意見を唱えつつも、渡海した弘中さんを思い出します。現代のようなドライな時代なら、こんな無意味な犠牲者は出ないだろうになぁと思います。その意味で、あまり共感できません。
冷泉隆豊について、詳しくは以下です。
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冷泉隆豊 大内氏最後の忠臣・主に殉じて壮絶な戦死
大内義隆に最後まで付き従った忠臣。武勇の人として有名で、大寧寺で意味深な歌を詠んで壮絶な戦死を遂げた。子孫は毛利家臣に。
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参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』
ふうん。俺なら見て見ぬふりするなぁ。だって、単なる無駄死にじゃないか。
まあさ、そもそも論として、叛乱家臣たちとは意見があわなかったのだから、これ以外に選択肢はなかったと思うよ。
元をただせばお前が悪い。
なんで俺が? 最近、陶入道についてあれこれ再評価がなされているだろ? 非難されるべきは殿さまのほうじゃないの? てか、俺、叛乱家臣の一味じゃないし。身内ってことなら、お前もじゃないか。
陶さまの再評価と殿さまが愚鈍だったかの問題は=ではないよ。まして、純粋に主への忠義を貫いた人たちを悪く言ってはいけません。
(もしも愚かな主のために犠牲になったとしたならば、父上と兄上が浮かばれない。だから絶対に認めない。たとえ最後のひとりになったとしても)