雑録

大内氏系図における「六代欠落」の問題について

法泉寺さまイメージ画像

大内氏系図における始祖から八代・正恒にいたる間の「六代欠落」。この家の系図が整理され、世に現われてからこれまでの間、この空白を埋めようとした人々がいました。それを証拠に、名前もわからないはずの「欠落」している方々のお名前を記している物語などが存在します。そこにはきちんと「欠けている」はずの当主さまのお名前が載っているのです(※注・人数が合わないなどの問題もあります)。

歴史学者の先生方にも埋められなかった空白を、どなたがどうやって調査し、埋めたのでしょうか。

現在「史料」として歴史書などに採用されている系図では、この間はやはり「欠落」扱いとなっています。せっかく苦労して穴埋めをしてくださった先達の努力は打ち消されたのでしょうか?

今回はこれらの「六代欠落」の問題について考えてみたいと思います。

「六代欠落」とは?

大内氏の系図の中で、始祖・琳聖から、八代・正恒に至るまでの当主が誰であったのか分からないと記されていることをいいます。

一、『大内氏実録』附録系図 ⇒ 特に但書はなく、漏れ・欠けについては無視されている

二、『新撰大内氏系図』⇒ 「此間六代名不知」

これら、名前がわからない当主たちの扱いについて、二つの系図では、まったく異なる対応方法をとっています。それぞれ以下の通りです。

一、名前も伝わらない方々を世代順から排除し、八代・正恒(※近藤先生は、七代と認識なさっておられます。後述)を琳聖の子として「二代」当主として数えております。

二、この六代分の方々を、名前はわからないが存在していたものとして、琳聖ー(名前不明の六人)ー八代目・正恒と数えています。

以上のことから、二つの系図では、それ以降の当主の世代順が合わないという相矛盾した状態となっています。なお、現在は「新撰大内氏系図」の世代順を採用している研究者の先生方がほとんどです。「新撰大内氏系図」は『大内氏史研究』で著名な御薗生翁甫先生などがお作りになった系図です。

なお、「六代欠落」は固有名詞ではありません(=学会などでこのようなタイトルで議論されたりしているかは不明です)。執筆者がテキトーに命名しただけですので、誤解のないようによろしくお願いいたします。

「六代欠落」問題にどう対処すべきか

普通に考えて、系図における「漏れ・欠け」の問題は、どの家の系図でも起こっているはずです。大貴族の家柄でもなければ、系図が命より大切ということはないですので。それを証拠に、我々一般庶民で、古来から続く系図を伝えている家はほぼないと思います。古来から延々と繰り返されてきた戦乱や自然災害などにより、散逸や焼失の憂き目に遭い、直近では第二次世界大戦の空襲によって失われたと思われます。よほどの名門でもない限り、すわ一大事という際に、とにかく系図だけは守らなければという考えには辿り着かないでしょう。

その意味で、どこの家もそれなり「いい加減」であると思われます(一般庶民の話)。しかし、名門となるとまた別でして、滅亡して系図を守り伝えることができなくなった一族のものすら、研究者の先生方の手で再現されております。大内氏の系図も、そのようにして、研究によって少しずつ埋められていったものに属します。それでも、六代分のどうしてもわからなかった部分が出て来てしまったわけです。

ここはもう仕方ないので、素直に「六代欠落」と諦めるのが賢明かと存じます。しかしながら、数々の魅力的な逸話を持つこの一族については、滅亡以降も数々の物語が生まれました。それらの創作によって、「六代欠落」部分がいつの間にか埋められてしまい、「欠落」どころか、漏れ・欠けのない系図ができてしまいます(※実際にそのようなものがある、という意味ではなく、それらの『作られた人々』を加えることで漏れ・欠けが埋まる。ただし、それでも『一名足りない』という問題が残る。後述)。

現在、それらの人々の存在については否定されているゆえ、最新の研究が反映されたご本でも「六代欠落」となっております。しかし、名前もわからないとされる方々がなぜ「存在していた」ことになっていたのかなど、非常に気になるところであります。

最初に結論

「六代欠落」の扱い

「六代欠落」分の人々については、現在も不明のまま。学術的には、始祖同様、正体不明と言わざるを得ない。

以下、大内氏研究の権威の先生方は、この問題についてどう処理しておられるのか、順番に見て行きましょう。

『大内氏実録』曰く

諸家大系図に正恒を琳聖七代孫とす。按るに、正恒の名後世めきてきこゆ。必琳聖の子にはあらじ。大内太平記といふ俗本に、琳聖と正恒との間に琳龍太子、阿戸太子、世農太子、世阿太子、阿津太子の名を加へ、山口龍福寺の牌にもこの五太子の名をのす。こは故人多賀大宮司高橋有文が著書中に、大系図に七代孫とあるによりて後人の偽作せしものと云へるが如し。
出典:『大内氏実録』

『実録』の著者・近藤清石先生は、大内氏歴代当主についての事蹟をまとめるという偉業を成し遂げられましたが、古代史部分に関わる当主たちについては史料的裏付けも取れないゆえにか大胆に省略しておられます。巻第一は「世家第一 弘幸」として、二十三代・弘幸以降の当主たちのみを詳述なさっています。

しかし、それ以前の当主たちについても無視できませんので、始祖以降弘幸までの人々については弘幸項目の中にすべて詰め込まれています。上の引用は、始祖についての記述の後、「琳聖、正恒を生む」と書いた本文に対する注釈となります。正恒は琳聖の子であるとしながらも、「必琳聖の子にはあらじ」と書いてある状態です。

「大内太平記」なる「俗本」を目にしたことがないので、なんとも言えませんが、どなたがお書きになった本であるかなども非常に気になります。近藤先生の目には『陰徳太平記』なども「俗本」中の「俗本」とうつるようでして、何度も悪し様に書かれております。しかし、欠けているはずの六代を飛ばして琳聖と八代の正恒を直接繋いでしまうことにも問題があるように思います。そのことは、先生ご自身も指摘なさっておられるわけで。

それよりも、言い伝え好きの面々にとっては、これらの「○○太子」云々の方々のほうに興味津々となられるはずです。龍福寺の博物館にある歴代当主の肖像画を一枚にまとめて描いた掛け軸。あそこには、近藤先生も書いておられるように、これらの「○○太子」たちも描かれております。そもそも、位牌まであると書いてありますね。本当に、全員がでっち上げられた方々なのでしょうか。

そもそも、現代の研究では、始祖そのものがでっち上げという扱いです。だとすれば、その子孫も当然デタラメとなります。ただし、近藤先生が最初のひとりとして伝記を綴り始めた弘幸よりは早い時代の人、「史料」に名前が現われる十六代・盛房以降は「実在」した人物と見なされています。近藤先生も当然、この点はご存じでした。しかし、弘幸以前の方々は、名前が確認できる程度です。それゆえに、大内氏が歴史上で名前の知られた大勢力となる弘世代から書き始めようとお考えになったのでしょう。弘幸も弘世の父ですから、無視できません。「編年体」ではなく「紀伝体」で記述するという形をとっていることで、事蹟も不確かで名前くらいしか伝わらない当主たちについては、「伝」を立てられなかったのですね。

もしも令和の御代となった現在、どなたかが『実録』の改訂版を出すとしたら、盛房が巻第一となるかもしれません。とはいえ、これはあくまでも、「史料」による実在証明がなされているか否かの問題です。先生方も、それ以前の歴代当主の存在を否定しているわけではありません。始祖についても、朝鮮半島出身の人物であろうというところまでは推定されています。そうであるならば、それ以降の方々についても、名前などは不明ながら盛房に至るまでの人々が誰かしら存在したことは間違いないのです。

なお、近藤先生のご研究では、正恒を「琳聖七代孫」としておられます。それゆえに、琳聖(初代)から正恒(七代)までの間の空白部分は「五名」となります。ゆえに、上述引用文の通り、どなたかがこれらの空白を埋めるにあたり、五名分を創作すれば事足りたという扱いとなっております。この点は、後に御薗生翁甫先生が整理なさった「新撰大内氏系図」(後述)で、正恒が「八代当主」となっているのと、大きく異なります。正恒が八代ならば、六名分創作しなければ、空白を完全に埋めることができません。この辺りからも、最新の研究から鑑みて、いかにも過去の方々による古い認識に基づいた「創作」であることが窺えます。

「新撰大内氏系図」での扱い

御薗生翁甫先生の「新撰大内氏系図」では、始祖以降の方々を八代・正恒までの間は「名前が伝わっていない」として処理しておられます。これはあくまでも、系図ですので、御薗生翁甫先生のご著作『大内氏史研究』ではどのようになっているだろうかと拝見してみました。すると、始祖については、先祖伝説として詳細な考察がなされておりましたが、それ以降については妙見社と興隆寺を氏神・氏寺一所にまとめた第十一代・茂村以外言及がありませんでした。

『大内氏史研究』の目次は、「前紀 第一編」として、以下のように続きます。

第一章 大内氏の出自と多々良賜姓
第二章 多々良氏の始見
第三章 多々良氏の流罪放免と拾頭
(以降省略)

つまりは、実在不明の方々はバッサリと切り捨てて、史料に名前が現われる十六代・盛房から本格的論考に入っていかれる構成となっているのです。始祖から史料にて実在確認がとれるまでの方々については、それに類する者はいたであろうが、詳細はわからないということで取り上げておられないのです。実に科学的です。

それでも始祖については詳述なさっておられるのは、先生が史料的裏付けの取れない琳聖の存在を認めているか否かは不明ながら、大内氏歴代が始祖として語っている人物であることからその重要性をお認めになったゆえにでしょう。どんな一族も、最初のひとりがいなくては後の人々もいないわけです。先祖についての伝承を考察することは、一族の来歴を研究するにあたりとても重要と思われます。実在するしないに関わりなく、大内氏という一族の出自を理解する上で、極めて重要な手がかりを与えてくれるというわけですね。

とはいえ、このような構成となっている関係上、始祖以降盛房までの人々については(茂村を除き)『大内氏史研究』中には何のヒントもない、ということにもなります。それを補うために存在しているのが、ご本の中にも記述がある「大内氏系図」(=『新撰大内氏系図』)であり、そこに大内氏の系図についての矛盾や漏れ・欠けについて詳細な考察があります。本文中で触れられていない人物についても、ここにきちんと名前が記されております。ただし、名前だけです。

大内氏世系については、二代正恒の名が後世めいているから、これまで、始祖琳聖と正恒との間に数代欠漏のあるべきことは、いい古されていた。続群書類従巻百八十七所収大内氏系図にも、正恒の名下に、「この間数代断絶始立館舎号大内」とある。予が歴覧するところの大内氏系図二十二本、一として完備せるものなく、正恒以前の人名古来不明のままとなっており、なおかつ、真正の系図らしいものは、見当らない。(後略)
出典:『大内氏史研究』391ページ

系図の考察だけで、一章分を割いておられ、非常に詳細です。しかし、やはり盛房以前の「史料」がない人物については語られておりません。

『大内氏実録』と『大内氏史研究』では、当主の世代順なども大きく異なっておりますし、当然のことながら、先行する『実録』上での誤りを正すかたちで作られたのが「新撰大内氏系図」です。より正確、詳細となっていることは確実ですので、「実在不明」の方々について突然に存在していたことになるはずもありません。もちろん、それを裏付ける新しい史料が出て来ていれば、修正がなされるはずですが、出て来ていなかったからでしょう。現在に至るまで、この区間は「欠落」したままですから、最新のご研究でも、その事情は変らないのです。

伝承上の五名は実在したのか?

学術的には否定されても、龍福寺さまの掛け軸や位牌その他、言い伝えに出てくる五名の方々とはどのような人々だったのでしょうか。研究者ではないので、興味半分にそのお姿を覗き見ることは許されると思われます。

問題は、五名だとやはり一人分足りないことだったりするのですけどね。「六代欠落」ですから。

「大内太平記」曰くの五名

「大内太平記」については、『大内村誌』などにも記述がありました。大内義隆と叛乱者・陶一味とが直接戦ったなどの言い伝えが書かれているそうで、どう考えても目茶苦茶です。どこで原本にあたれるかも不明ですが、ここまで怪しげなことが書いてある書物については無視してもよいでしょう。しかし、近藤先生が『実録』で「俗本」の例として挙げておられたことから、五名の名前が分かってしまいました。

 琳龍太子、阿戸太子、世農太子、世阿太子、阿津太子

なる方々です(典拠は上述引用文の通り)。

なんともはやと思いますが、龍福寺さまの掛け軸と位牌の問題もあり、完全なるデタラメとするのも気が引けます。ただ、これだけですと、本当にお名前しかわかりませんのでつまらないですね。

しかし、実在しない方々について、現代の研究書に言及があるとも思えず。どうすればよいのでしょうか。こんなとき、頼りになるのが『陰徳太平記』なのですが、残念ながら何も書いてありませんでした。

結局のところデタラメ?

今、ちょっと思い出せないのですが、それこそ、近藤先生に「俗本」! と言われてしまうかもしれないご本で、これらの五名のお名前を見たような記憶があります。ただし、記憶が曖昧ですので、全く同じ名前かどうかはわかりません。はっきりしているのは、全員が「○○太子」であった、ということだけです。

誰が最初に言い出したものか不明ながら、最初にこれら「○○太子」が世に出て以降、それに続く読み物は皆これらを踏襲したに違いありません。書き写す時点で、一文字間違えるなどといったことは普通にありますから、多少の差こそあれ、大同小異かと思われます。

ただし、これらの方々については、始祖ほどのインパクトはなかったものと思われ、取り立ててあるはずのない事蹟が語られることもなかったかと。どなたかは存じ上げませんが、欠けてしまっている六名分(当時は『五名』という認識)を埋めておこうと「尽力」なさった方の創作力の賜物でしょう。どうせなら、面白おかしい逸話なども書き添えてくだされば楽しめたのですが、そこまでは思い至らなかったようでして。

「結局のところデタラメなのか」というお問い合わせについては、上述の「結論」通り、限りなく「デタラメ」に近いと言わざるを得ません。ただし、ここで話題にしているのは、嘘か本当かではなくして、それらの方々の逸話を知りたい! という切実なる思いです。

この期に及んで、琳聖来朝に先立ち松の木に北辰が降臨した云々を本当だと信じる人は、まさかおられぬと思います。しかし、それでは、星降る町・下松に行っても何も楽しめません。世の中、嘘だとわかっていても、その浪漫に浸りたいと願う方々のほうが多いとお見受けします。そうでなければ、鼎の松を見るためにHND(羽田空港のスリーレターコードです)から飛行機で訪れる人はいないでしょう。

始祖と八代までの空白を埋める物語

関東の図書館でいくら頑張っても何も見つかるはずはありません。近藤先生と御薗生翁甫先生のお二人が、それぞれ「名後世めきてきこゆ」「名が後世めいている」と指摘している「欠落後」の当主・八代正恒さま。結局のところ、始祖と八代を結ぶ間の糸が切れてしまっているものの、両者はともに(史料的裏付けはないものの)「存在していた」ように思われます。事実、始祖同様、謎めいてはいるものの、八代に関する伝承も残されています。

結局のところ、「六代欠落」の問題は、始祖もしくは正恒と結び付けて語られる付属品の扱いです。始祖についてはそれこそ、後世の人々によって、嫌と言うほど脚色されてきました。ここでは、あえて、後者に寄せて「六代欠落」の方々についてみてみようと思います。正恒という名前は「後世めいている」、確かにそうかもしれません。一見すると、伝説の域を抜け出した、いかにも実在した人物のように思えます。しかし、寺社縁起の中に現れるそのお姿は、単なる在地の豪族というよりも祭祀を司る神官のように見えます。その意味で、まだまだ謎に包まれており、そうであるがゆえに魅力的です。

なお、ここでは学術的ではない話題を扱っております。当然のことながら、典拠はございますが、「史料」ではありません。北辰降臨を隕石襲来と一笑に付す方にとってはつまらない内容となりますので、お引き取り願います。非科学的であることとデタラメを羅列することとはイコールではありません。長らく語り継がれてきたことは、たとえ真実とは思えなくとも、語り伝えてきてくれた方々にとっては大切な宝物です。それは享受する側の我々にとっても同じです。

松の木に星が降るなんてあり得ないという謎は、現代の科学にあてはめれば、隕石の類が落ちたのだろうとなります。そう考えると、あり得ないと思われていた伝説を、実際にあり得たことととらえることが可能になります。科学的視点で分析することで、隕石の存在など分からなかったであろう時代の人々がその現場に遭遇したらどのように感じ、行動したであろうかを想像してみます。すると、今よりも神仏のご加護を信じていた人々が、星が降ってきたという謎の出来事を北辰降臨と信じてしまったという思考回路に辿り着きます。科学の力によって、あり得ないと思われた伝説が、実は本当にあったであろうことが証明できてしまいます。「史料」的裏付けとはやや異なりますが。その意味で、現代の科学は、長らく語り続けられてきた伝説を否定するためのものでは決してないことがわかります(個人的見解です)。伝承の裏には何らかの真実が隠されている、執筆者が常に口うるさく書いているのは、そういう考え方からきております。

始祖と聖徳太子

推古天皇の御代、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦の松の木に大きな星が天降り、七日七晩もの間、輝き続けた云々の「始祖来朝伝説」については重複しますので、繰り返しません。また、始祖・琳聖が日本にやって来たのが、聖徳太子に面会するためだったということも、もういいでしょう。

今回、参照しておりますのは、毎度おなじみ『山口県寺院沿革史』の下松・鷲頭寺さまの項目です。本来ならば、鷲頭寺さまのページに書くべきところですが、著名な寺院さまゆえこのご本を紐解くまでもなく文字数が埋まりました。『沿革史』は極めて有難くも優れたご本ではありますが、出版年度が古いためオール文語体で難解でして、できれば現地案内看板などの説明文を優先しております。残念なことに、何もご由緒看板がなかったりしたときに、最後の切り札としてご登場願っております。

鷲頭寺さまの項目は難解な上にも難解でしたので、『下松市史』から記事をまとめました。それゆえ、使わなかった寺社縁起の中に、始祖から正恒までのお話が書かれていたのです。かなり端折ってのご紹介となりますので、引用符はつけず、参照とします。

だいたいにおいて、皆さまご存じの始祖来朝までの物語が書かれており、多少の相違はあれど、大筋は同じものです。ここで初めて見かけたなぁと感じたのは、百済の建国者・温祚王が北斗七星をお祀りし、そのご加護によって国を治めていた云々のような記述でしょうか。また、始祖着岸の地にも諸説ありますが、『沿革史』では「周防國佐波郡鞠生之濱」でした。

また、日本から「吉備羽島」という人が百済まで迎えに来たとか、上陸後には、都から「勅使・秦川勝」が出迎えに来たとかあります。さらに、「問田郷」に仮の「王宮」を建ててお移り奉った云々とかあります。

この後が、下松ならではの伝承かなと思われる部分です。琳聖は春三月に来朝していますが、秋になるまで周防国に留まっていたものか、星が降ったとされる都濃郡青柳浦の桂木山嶺に宮殿を建立します。王子なだけに「宮殿」となっていますが、どうやら宗教施設的な建物だったと思しく、九月九日に参籠し、百済国から持ってきた「北辰尊星之御神體」を中に納めます。そして、日本初となる「北辰星供」を行いました。これ以降、「北辰妙見尊星王」とお呼びし、毎年九月十八日を祭日と決めました。人々は、鷲頭の氏神であるとして崇敬するようになります。桂木山の麓には下宮があり、北辰妙見尊星を勧請し、氏子たちはこちらに参籠しました。

なお、北辰が降臨した松の由来についても言及されています。降臨之松、連理之松、相生之松という三本の松が、鼎の足のようになっていたことから、鼎松といわれるようになったこと、青柳浦を降松と名を改めたことなどが語られます。

推古天皇十一年秋、高鹿垣の嶺に「星宮」を建立し、これを「上宮」としました。北斗七曜石をここにお祀りしたといいます。桂木山の麓には社坊を一宇建立し、閼伽井坊と名付けました。そこには井戸があり、なんとも奥ゆかしい風情だったので、後世「豐井」と呼ぶようになりました。

推古天皇十三年、琳聖太子は多々良という姓を賜ります。十七年、鷲頭山の頂に「星堂」を建立なさいました。上宮と中宮です。高鹿垣の宮、桂木山の宮を遷されたのです。上宮を「星檀」といい、「北斗七曜石」と「七寶之玉」をお祀りしました。中宮には、「妙見星之像」をお祀りし、毎月の代参と四季のお祭りはそれは厳かなものでした。この年、百済の阿佐太子(『隠徳太平記』に出ていた人です!)が聖徳太子に会うために来朝しました。推古天皇十九年、琳聖は百済国の法から脱して日本の十二階による衣冠に改め、玉冠を賜りました。難波の都「生玉之宮」で、北辰星供を行いました(なんと。いつの間にか上洛しておられます)。

舒明天皇五年、琳聖は難波に百済の仏像師を招き、仏像の作り方を習います。自らの手で、推古天皇と聖徳太子の尊像、虚空蔵の尊像、そのほかの仏像をお造りになり、王城鎮護と当家繁昌のために、鷲頭山にこれらを納めます。上宮に北斗七曜石、中宮左に聖徳太子と推古天皇、中央に妙見尊星王、右に琳聖太子と千手観音をお祀りしました。

天智天皇六年六月二十一日、琳聖は難波の「生玉之御所」で薨去されました。御年九十六歲であられました(すごい長寿……)。百済寺に妙見大菩薩を奉祀し、周防国三田尻車塚妙見には、琳聖太子の御車をお祀りしたと伝えられております。

八代・正恒の鷲頭山再建

宇多天皇の寛平元年、天皇さまは病にかかられ、琳聖七世(ママ)の孫・正恒は、禁中において北辰星供を執り行うようにと命じられました。おかげで病が治まったので、天皇はお喜びになり、正恒は大内氏(?)と周防国都農郡、佐波郡、吉敷郡の三郡を賜りました。

大内正恒が、鷲頭山の上宮・中宮を再建し、ご参籠なさった時、山中の水が乏しかったので、東の渓に行って、和歌を詠まれたところ、たちまち清水が湧きだしてきました。それゆえ、「和歌水浴」と呼ばれるようになりました。
(ここに、麗しいあめつちの和歌が入るはずが、『沿革史』では、アメツチの以下は虫食いが酷くて判別不能と書かれていました……)

大内正恒は琳聖が持ってきた「金像観音佛」を中宮に祀りました。「琳聖太子・名は隆、本地は虚空龍藏菩薩―琳龍太子・名は晏慶、本地は觀音―阿戸太子・名は眞興、本地は文珠菩薩―世農太子・名は隆基、本地は普賢菩薩―世阿太子・名は慶明、本地は藥師如来―阿津太子・名は政明、釋迦如來」、これら六太子は難波の都「生玉之御所」で薨去され、百済寺において、妙見大菩薩を奉祀しました。

大内正恒の本地は大日如来、母君は長門国国司の娘。山口で亡くなられましたが、百済寺で妙見大菩薩と追号を奉られました。これらの方々を、「多々良七世妙見大菩薩」「七佛妙見」とお呼びします。鷲頭山の上宮・中宮が再建された年号はわかりません。五代・茂林(ママ)が再建、寺号を氷上山と名付け、北辰尊星を勧請しました(興隆寺のことでしょう)。十二代満盛の代から武家となりました。再建年代は不明ながら、二十代・義弘が、應永元年に仁王門、五重塔を建立しました。

何やらよくわからないことになってしまいましたが、現状、虫食いのためではなく、読解力のためこんなものです(汗)。正恒が鷲頭山の宮を再建したという逸話の後に、琳聖以下六名の「太子」について触れられております。これらの方々は皆、都の宮殿に住まいし、そこで亡くなったこと。百済寺で葬儀が執り行われたらしきことがわかります。正恒については、その母が長門の国司の娘であったこと、宇多天皇から周防国に領地を賜ったことなどから、下向して土着したようです。しかし、葬儀はやはり百済寺で営まれたようでして、始祖から正恒までと、系図で名前不明となっている五名の「○○太子」を含めて「多々良七世妙見大菩薩」とか「七仏妙見」とかお呼びしたのだということがわかりました。

百済寺は著名な寺院さまであり、参考書にも載っているくらいですが、百済国ゆかりの人々であるゆえに、百済寺に結びついているのでしょうね。これらが真実ならば、百済寺さまの記録などに彼らのお名前もあるのでしょうか。『沿革史』の記述を見る限りでは、正恒以前の始祖代々は都住まいをしていたようにとらえられ、琳聖が周防国大内県に采邑を与えられて下向した云々という伝説とは、完全に別系列のものと思われます。

『妙見さま』

『沿革史』掲載の縁起ですが、どこかで似たようなお話を目にしたことがあるような? と感じました。じつは、下松市のデジタルアーカイブに鷲頭寺さま発行の『妙見さま』という素晴らしいご本が記録されており、過去に拝読したことを思い出しました。『沿革史』掲載の寺社縁起も、鷲頭寺さまが提出されたものですから、同様の内容になるのは当然です。

当初は、本当にちんぷんかんぷんだったのですけれど、今回はかなり話が理解できるようになっており、明後日の方向に誤訳しないように、チラと拝見いたしました(参照文献にお入れします)。

下松市は『下松市史』までデジタルアーカイブに入れてくださっている何とも心優しい自治体さまなのです。さらに、「妙見さま」のような素晴らしいご本まで。正直、何かの間違いでこんなページに飛ばされてしまった皆さまは、今すぐデジタルアーカイブに行って、『妙見さま』を拝読してください。大内氏と妙見さまのすべてがわかります。

『妙見さま』をお読みすれば、琳聖太子の活躍が日本の歴史を変えるほどすごいものであったことまでわかります。『沿革史』に書かれていることは、基本、『妙見さま』と同じですが、違う部分もあります。まずは、圧倒的にボリュームが少ない。執筆者の力量不足以前に、情報が足りないのです。本一冊分を数ページにまとめているからでしょう。

『沿革史』の記述にも、例の五人の太子が出てきますが、いきなりなんのことなのかわかりません。単に名前が羅列されているだけです。『妙見さま』を拝読すれば、これらの方々が琳聖から正恒の間にはさまって、家督が動いていたことがわかります。ちょっとしたヒントを出しておくと、阿津太子は正恒のお父上です。なお、『沿革史』および『妙見さま』では、正恒が大内氏を賜ったとか、七代当主であるとか、「新撰大内氏系図」と異なる記述があります。「七」という数字が極めて重要ゆえ(拝読すればわかります)、七代当主である必要があったのだと思います。

いやはや。もはやこのレベルに到達すると、琳聖や正恒が実在しなかったとは、とても信じられません。五人の「○○太子」も架空の人物とは思えなくなってきました。古代史好きな方々には、ぜひとも、始祖と八代の活躍について関心をもっていただきたいです。

『妙見さま』は下松市が認めた立派な郷土史のご本です。それに対して、世代順がどうのこうのとか、実在しない云々とか苦情を言える方はおられないと思います。実在しようがしまいが、これは大切な郷土の歴史であり、財産です。そして、大内氏と星降る町・下松を愛する観光客の宝物です。史料的裏付け云々で汚してはいけない領域です。

ですが、歴史学も郷土史とは、きちんと住み分けができているなぁ、と感心しております。怒られるのは、好きなのは郷土史浪漫だったのに、間違って歴史学部入ってしまった人だけですね……。学術論文で、「大内太平記」によれば云々とか書いたら落雷確実です。

なお、デジタルアーカイブには、利用規約がございます。『下松市史』ほか、下松市発行の資料については、プリントアウトして手許に置くことも可能です(インターネット上でいつでも参照できるのに、数百枚の紙を使って印刷する人はおられないと感じますが……)。いっぽう、それ以外の資料(『妙見さま』含む)については、印刷することなどは許可されておりません。

デジタルアーカイブ全体の規約として(下松市以外の自治体の資料も扱っておられます)、資料の使用については、それぞれの自治体のルールに従うことが大前提となっております。下松市の資料については上述の通りです。ただし、リンクについては特に下松市からの但書はありませんでした。デジタルアーカイブの規約では、自治体さまが特別に禁止事項として言及しておられない場合に限り、「目録」部分についてはリンク可能とありました。それゆえ、参照文献箇所に、『妙見さま』の「目録」ページへのリンクを貼りました。

『妙見さま』は、あくまで寺院さま発行のご本であり、寺院さまの歴史について記述したものとなります。大内氏が妙見信仰と深く関わっている一族であること、下松の地に妙見信仰をもたらしたのが、他ならぬ彼らの先祖であったことから記述が詳細となっているのです。今回は始祖から正恒までの部分を拝読したにすぎず、読了できてはおりません。また拝読していない部分に、重要なことが書かれている可能性は高いのですが、それについては理解できていない状態であることを申し添えます。

おわりに

最後に、ちょっと学術的なお話から逸脱してしまったことから、本来の研究書物についてご紹介しておきます。始祖から順番に、研究を開始したい。逸話には関心がないので、学術的な内容を知りたいとお考えになった方々のために。

大内氏研究の先達として、多くの方々にその功績を高く評価されている近藤清石先生とそのご著作『大内氏実録』。その後、近藤先生の記録における漏れや欠け、その後の研究成果における補足・修正などを行なったのが、御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』です。

偉大なるお二人の先生方を超える研究は、現在に至るまで現われていないのが実情です。大内氏研究も日々進化しており、様々な分野の先生方が、新たな視点を公表しておられます。『実録』や『氏史研究』の時代より、研究成果は遙かに進化しております。にもかかわらず、お二人のご研究を越えることができないという意味は、「通史」という形で歴代当主の事蹟を網羅したような大作が出て来ていない、ということです。

それぞれの先生方は、様々な分野からより深い、最新の成果を提供してくださっておられます。しかし、専門分化が進んでいる現在、お一人の先生が「通史」という形ですべての当主の事蹟をまとめて一冊の本にすることは難しくなっているのかもしれません。その意味で、史料や研究手法も乏しかった時代に、一族のすべてをまとめられたお二人の先生方の功績は本当に素晴らしいものです。
(※『大内氏史研究』は、教弘代までで記述が終了しています。これは、御薗生翁甫先生が志半ばにしてお亡くなりになったためです。先生のお言葉によるこれ以降の当主たちについてのご研究を拝読したいと切望していた読者にとっては、辛いことになりました。御薗生翁甫先生ご自身が、最も残念無念であられたと思えば、とやかく申し上げることはできません。)

新たな研究成果によって、お二人の先生方の記述が上書きされていくことは、お二人を信奉する者として、心中きわめて複雑です。しかし、先生方ご自身が、その後の研究者の先生方のご尽力を有難く見守ってくださっているものと思います。

基本は最初にこの二冊を拝読し、それから個々の最新研究に目を通して、上書きしていく作業が必要となります。とはいえ、この二冊のご本を読了するだけでも一生涯かかりそうに思えます。時間がいくらあっても足りません。勉強が進んでいる方々から、「古い」とお叱りを受けることがたびたびございますが、まずは基本文献を完全にしてからでないと、頭の中がグチャグチャとなります。

その作業が終わらないうちに、『妙見さま』のようなご本を拝読することは、本当は控えたほうがよいと思います。まずは全体像、流れをおさえる云々と日本史受験生のための予備校や熟のホームページでも語られておりますよね。大人の学び直しに至っては、参考書一冊をおさえれば十分とまで言われています。しかし、参考書一冊と言われても、完全に理解するのはどれほど困難な道のりか。この先どうなるのか、本当に見当もつきません。

参照文献:『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『山口県寺院沿革史』、『妙見さま』(下松市デジタルアーカイブ)https://adeac.jp/kudamatsu-city/catalog/mp000010-100100

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ミル

正恒さまって、絶対に超絶イケメンだと思っている。ちょっと、佐伯景弘っぽく思えない?

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五郎

なんで、厳島神社と繋がるんだよ? てか、佐伯景弘ってイケメンだったの?

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ミル

好きな人はみんな、超絶イケメンにしてしまふ

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五郎

(だからアイキャッチが先々代さまなわけか)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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