系図に名前あるけど「詳細不明」の先祖たちまとめ

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実在すらわからない謎の先祖たち

琳聖太子が周防国に流れ着いた後……。「史料」によってその「実在」確認が取れるのは、十六代・盛房以降の人々ということになっている。つまり、それ以前の人々については、学術的には「本当に実在したのかどうかわからない」という扱い。

えー、でも系図には「六代欠落」以外、盛房までの人々の名前も載っているし、いなかったなんてはずないのでは? そう考えたいのが世の常だが、始祖・琳聖すら実在が取れていないのだから、いくら頑張っても盛房以前の人については難しいのが実情。

ただし、始祖も含めて、彼らの存在を世に知らしめた『大内多々良譜牒』が現われたのだって、数百年も前の話。「今となっては昔のことだが」となっている感は否めない。さらに言えば、家譜をまとめた時点の人々にとっても、琳聖の時代からは遙かに時を経ていたのだから、書いた本人たちすら誰なのかわからず記入していたこともないとは言えない。

ただ、当たり前だが、どんな一族にも先祖はいる。口伝のようなものがあって、名前だけでも伝えられてきたか、家譜を作る時点で「数合わせ」をしたのかは永遠の謎。ただ、ひとつ思うことは、「数合わせ」をするのなら、「六代欠落」も埋めてしまえばよかったはずなので、恐らくは何かしらの典拠となるものがあったのではないかと考えている(考えたい、個人的な意見です)。

ところが、現状、どれだけ頑張っても、盛房以前歴代について、なにがしかの事蹟を見つけることは困難となっている。最も信頼視されている「新撰大内氏系図」でも、古い時代の当主については、なんの但書もない。ただ、世代順がわかっている(?)だけである。

それでも、八代・正恒と十一代・茂村については、降松神社の和歌水伝説や、妙見社の大内への勧請などの事蹟(『大内多々良譜牒』に記述あり)が伝えられる。他の人については、絶望的で、お一人お一人をピックアップすることは困難なので、茂村以降、盛房までの方々について「ご先祖さま」としてまとめておく。

大内氏系図の異説

系図とはどれもそんなようなものなのか、この一族だけが特にそうなのかは不明ながら、系図には大量の「異種」があったりする。そして、そこには、本来「正統」と信じられているものとはまったく違う世界が展開されていることも。むろん、単にわずかな差異しかないこともあるだろう。

全国の郷土史の中でも、名著の誉れ高い『大内村誌』は、大内氏の名字の地としての誇りから、かなりの紙幅を割いて、この一族の来歴について詳細に考察している。それでも、始祖・琳聖の実在には疑問符を投げかけておられるし、郷土史でありながら、歴史学的な考察も織り込んだ分析はかなり鋭く、未だ色褪せることがない。恐らくは未来永劫そうであろう。名著とはかくあるべしという模範のようなご本。

「史料」が少なすぎて古い時代の当主については多くを語れないという事実に直面した際、自由に地元の伝承を採用できる郷土史という立場から、始祖も含め歴史的根拠がないことも拾い上げて読者を満足させてくださっている。

残念ながら、そこまで間口を広げてみても、さほど多くのことは見つからなかった。『大内村誌』は闇雲になんでも拾い上げるのではなく、「大内氏系図の異説」に絞って事蹟不明の当主たちについてまとめた。

以下のような注意書きがあった。

参考までに正恒より盛房・弘盛頃までの多々良氏についておよその時代を伝えている異説的な系図類(いかがわしい系図類ではあるが)を拾って見よう。

出典:『大内村誌』河野通毅

「いかがわしい系図類」ってなんなんだろうと考えると、なんだか可笑しい。でも、残念なことに、『鷲頭山旧記』もその中に入れられてしまっていた。降松神社の縁起に対してなんてことを……。拾われていたのは、和歌水の物語ではなかったが。

ただ、『大内村誌』の主張は至極真っ当で、この本が書かれた当時に入手可能だった史料がない事例については、ほば「伝承」枠になっている。和歌水の伝承も含めて、ある時代、ある人々によってそれらの説は唱えられたが、それを裏付ける史料がないから、伝承として紹介するのである。読者は信じてもいいし、厳格なひとは「史料」はないけど、と「別枠」に入れてもいい。

皮肉なことに、『大内村誌』が書かれた時代に「いかがわしい」とされていたことが、現代になっていきなり「真実でした」と言われたりする謎の逆転現象も起きているから、将来のことは誰にもわからない。ただ、「史料」と「伝承」をごちゃ混ぜにするわけにはいかないので、念のため、分かち書きしておくのが賢明だろう。

以下に、『大内村誌』ならびに、『大内氏実録』と『新撰大内氏系図』から拾えたわずかな手がかりをまとめておく。かなり望み薄だけれども、もしも将来、これらの人たちについて、項目を立てられる日が来たら、ページに格上げとなる予定。

なお、八代正恒と、十一代茂村については項目を立てているので省略したいとことろだが、流れがわからなくなるので、一応中に含めた。名前だけ、ほかのページと重複になる。

始祖琳聖⇒(六代欠落)⇒ 八代・正恒


琳聖の後は、系図に六代分の「欠落」があるものの、それらは、「後世の偽作」によって埋められている。その後に来るのが、正恒で『鷲頭山旧記』に、宇多天皇の病を治すため、北辰星供を行なった功績により、都濃郡、佐波郡、吉敷郡を賜ったとあるとか。

正恒 ⇒ 藤根 ⇒ 宗範 ⇒ 茂村

『大内氏実録』には、「(正恒)藤根を生む」と書かれている(17ページ)。また、系図の「或説」として、「正恒の後数世伝はらず、天慶年中に藤根と云ふ者ありて大内氏を継ぐと云へり」とも書かれている。その後は、「藤根、宗範を生む」「宗範、茂村を生む」と系図の繋がりが確認されているだけである。

ところで、この「〇〇、△△を生む」という表現にぎょっとするのは、執筆者だけでしょうか。なんともおどろおどろしいので、見つけ次第「〇〇の息子が△△である」などと書き直して回っておりますが。

さて、『大内村誌』は、この間の人々についても記述を発見して、指摘しておられる。以下の通り。

  • 藤根弟・康俊「天慶年間(938一946)周防国問田金花山在城」(多賀社本大内本系)
  • 宗範弟・宗茂「永承 (1046―1053)安部貞任退治之軍列或は永承年間東国合戦有功」(出典不明)
  • 茂村「鷲頭山から妙見を勧請」(『大内譜牒』ほか)

「新撰大内氏系図」や『大内氏実録』の系図に載っていない、藤根や宗範の兄弟についてまで書かれた系図が存在するというのが興味深い。藤根の弟が問田に住んでいたというのはあり得ぬことではないけれど、宗範弟のほうは、なんと前九年の役に参陣していたとは。荒唐無稽なのか、真実なのか、ぜひとも知りたいところ。なお、茂村が妙見社を勧請したという逸話も、ここに入れられているということは、『大内村誌』では、『大内氏多々良譜牒』もいかがわしいと感じていて、そもそも、この逸話を信じていない可能性も。じつは、「新撰大内氏系図」にも、このことは書かれていない。しかし、系図をお書きになった御薗生翁甫先生が『大内氏史研究』本文中で絶賛しておられるので、固く信じておられたことは間違いない。

保盛 ⇒ 弘貞(弘真) ⇒ 貞長 ⇒ 貞成

『大内氏実録』は、茂村が妙見社を勧請した話の後、いきなり「弘真を生む」となっている。じつは、「正恒―藤根」のところにも、いきなり「藤根を生む」となっていて、正恒がと加筆したのは執筆者(だからカッコに入っている)。ところが、この「弘真を生む」は、主語がわからない。「新撰大内氏系図」だと、茂村―保盛―弘真……と続くが、『大内氏実録』の系図と「新撰大内氏系図」とは=ではないから、迂闊に繋げることはできない。

案の定、『実録』の系図では、「茂村或茂材初保盛或以保盛為茂村子」と書いてある。現状、多くの系図類では、「新撰大内氏系図」の世代順を用いているが、近藤先生の『実録』は、「六代欠落」を数えず、正恒を「二代」とする世代順を取っているから、「新撰大内氏系図」とは大いなるズレが生じる。さらに、この保盛の扱いは、正恒(二世)、藤根(三世)、宗範(四世)、茂村(五世)、弘真(六世)としていて、世代順にも入っていない。

こうなると、「弘真を生む」の主語が誰なのかはもはや、お手上げ。茂村と保盛とは同一人物である可能性も示唆されているからだ。頼みの『大内村誌』には、「保盛を宮野太郎とするもの(系図?)」があることが記されていた。

弘真に至ると、『実録』、『新撰大内氏系図』、『大内村誌』がとたんに賑やかとなる。先ずは、『新撰大内氏系図』に「宮野郷本主」と但書がある。『実録』にも、「吉敷郡宮野村風土注進に、大内殿居館址と云ふ所あり、一本系図に弘真宮野郷本主とあれば、弘真の居館の址なるべしと云へり」とある。加えて、『大内文化研究要覧』の「大内氏の一般業績」(40ページ~)にも、13代弘真欄に「支配地」として「宮野郷」と書かれている。

ここで、先に、『大内村誌』で、保盛を「宮野太郎」と記していた記録がどこかにあると指摘されていたことが気にかかる。当然、弘貞が「宮野郷本主」と書かれていることにも言及がある。ただしいずれも「時代は知れない」と書いてある。異説系図に書かれている逸話に分類されているから、話半分ですよという扱いながら、二代続けて「宮野〇〇」と記されていたことは注目に値する。この時期(ただし時代不明)、当主の屋敷は宮野にあった可能性が高い「気がする」。

ところが、弘真については、その後がいけない。

系図の中に、弘真の子に貞長・清致・女・盛実をかかげ、女は崇徳天皇の宮女で大内局と号し、後、源為義に賜い二男子を生むとし関東・東国方面の源氏流多々良大内の祖にあてているが、清致は宇野氏の祖で、盛実と共に貞長の子、貞成の弟とする系図が普通であり、いわんや関東の大内惟義等を周防の大内氏の系図に載すはこじつけに過ぎない。

出典:『大内村誌』河野通毅

五郎

なに? 「源氏流多々良大内」って。お前らの中に俺らと同姓がいるってこと?

義豊

そうみたいねぇ。『平家物語』にいなかった?

五郎

いたけど、微妙に漢字が違ってたんだよ。ちっ。

どうやら、この引用を境に、十五代・貞成までの「怪しい」逸話については、出尽くしたらしく、『大内村誌』の考察はここで一段落している。次はいよいよ、史料に登場する十六代盛房なので、記録のない歴代についてのひとまとめ解説も、いったんここで終了することにする。

まとめ

  1. 大内氏の先祖たちは、始祖・琳聖から始まって、十六代・盛房までについては、史料的裏付けがとれていない
  2. 史料的裏付けがない=学術的には存在が証明できない人々となる
  3. にもかかわらず、現在最も信頼されていると思しき「新撰大内氏系図」にも名前は載っているし、寺社の縁起などに登場したりもしている
  4. 史料がないからいなかったと断言することもできないが、確実に存在していましたとも言い難い、なんとも扱いが難しい人々だが、それだけに伝承に彩られた魅力もある
  5. とはいえ、それらの伝承すらも数が限られており、その姿を窺い知ることは実に困難である

参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』、『大内氏史研究』、『大内村誌』

五郎

少なくとも、始祖さまと正恒さまはいたと思うんだよね。

ミル

そうだよね。降松神社と鷲頭寺が証明してくれてるもんね。

新介

君たち、「少なくとも」とはどういう意味? 父上がおまとめになった「譜牒」に載っているご先祖さまたちを、いたとかいなかったとか、あまりに無礼だと成敗するよ。

ミル

いえその……。逸話が少ないと、記事が書けないねという話を……学者は史料史料うるさいねとも……。

新介

父上の「譜牒」こそが、最良の史料なんだよ。それを信じない人は出て行ってください。下松を贔屓するのもいいけど、あまり偏っていると追い出すからね。

法泉寺さま

……。

【更新履歴】20250816 旧記事「弘世以前の大内氏歴代の話」をリライトしました。

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