大内家最後の当主は、三十二代・義長です。しかし、受験参考書などによれば、大内氏が滅亡した年代は、1551年と記されています。これが、日本史のスタンダードだとすれば、最後の当主は三十一代・義隆となります。
現代の研究では、義長は幕府からお墨付きをもらった歴とした当主である、という見方が正解のようです。だとしたら、受験参考書で義隆が亡くなった年が滅亡年とされているのは何でなんだろう? 一部のマニアックな人のためだけに存在するおまけの当主なのか!? となり、謎です。
古い時代の研究では「叛逆」者に担ぎ上げられた「傀儡」のように書かれており、最後の当主として数えてはいないようです。その意味では、受験参考書と同じです。
このページでは、一体全体どう扱うべきかわからない「大内義長」という人物について考察いたします。
大内義長とは?
本名(初名)大友晴英。大友宗麟の弟。生母は大内義隆の姉とされています。その所以で、大内義隆を自害に追いやった叛乱家臣の政権から、当主として迎えられました。幕府から大内氏の当主、周防長門の守護として認められ、将軍・足利義輝から偏諱を賜り大内義長と改名しました。
なお、大友宗麟と晴英が異母兄弟なのか、同母兄弟なのかについては諸説あります。大友家側の研究資料では、宗麟は大内義興娘の子ではなく、別の女性を生母としている説を見かけることが多く、『日本史広事典』でも、二人の同母・異母関係については触れられておりませんでした。
叛乱家臣のリーダー陶と毛利元就が雌雄を決した厳島の戦いで、毛利家が勝利すると、自らを擁立してくれた人の庇護を失い半ば孤立。毛利家の防長経略を阻止できずに山口から逃亡。長府まで逃れましたが、最後は自刃しました。子息が安芸国に逃れて、名家・竹内家の祖となったことで知られています。
大内義長・基本データ
生没年 ?~1557.4.3(19才)
父 大友義鑑
母 大内義隆の姉(義興の娘)
幼名 八郎
本名(初名) 大友晴英
法名 春輝院殿春光龍甫
墓所 長福寺 ⇒ 現・功山寺(下関市長府)
官職等 周防介、大内介、従五位下、左京大夫、周防、長門の守護
勢力範囲 不明
(典拠:『日本史広事典』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』等)
五分で知りたい方用まとめ
ダラダラと長い文章を読むのが面倒な方のために、最初にまとめを置いておきます。
大内義長・まとめ
- 大内氏三十二代当主として、幕府に認められた人物。しかし、前当主義隆の息子ではなく、姉の子(甥)にあたるため、大内氏嫡流ではない
- 前当主・義隆は陶を中心とする家臣の叛乱に遭い、命を落とした。嫡男・義尊も同じく亡くなったため、義隆の死(1551)を以て大内氏は滅亡したとする意見もある。しかし、現在では幕府に認定されていたことから、義長も当主として数える見方が標準。ただし、嫡流としては1551年で滅亡した説も間違ってはいない(受験参考書などは1551年滅亡としている)
- 義長は義隆姉の嫁ぎ先、大友家の出身。本名は「大友晴英」。著名な大友宗麟の弟である。ただし、宗麟が同母兄なのか、異母兄なのかについては諸説ある
- 義隆を倒した叛乱家臣たちは、その準備段階から「大友晴英」を後釜の当主に据える計画だった。叛乱成功後、大友晴英は計画通り大内氏の当主「大内義長」となる。実権は叛乱家臣たちにあり、お飾りだった
- 厳島の合戦で、叛乱家臣の親玉・陶が倒された後、後ろ盾を失った義長は窮地に立たされることになる。毛利家の防長経略で、家臣らは次々に毛利家に降伏。家臣同士の内輪揉めまで起きる始末。毛利家の侵攻に備えて高嶺に詰めの城を築き始めたが完成を待つ間もなく、毛利家が襲来。未完成の城に籠もっていた義長は、山口を捨てて長府に逃亡
- 腹心の内藤隆世とともに且山(勝山)城に籠城していたが、「お飾り」の義長に罪はないので内藤さえ腹を切ればよい、との毛利家の言葉に従い城を出る。内藤の犠牲も空しく、義長は毛利勢に強要されて自刃した
- 最後の地となった長府の長福寺(現・功山寺)に、義長のものと伝えられる宝篋印塔がある
- 義長の子孫について、二つの伝承がある。一つは山口に墓がある人物で、成人前に亡くなった模様。恐らくは伝承と思われ詳細は不明。一つは現在の東広島に伝わる話で、地元の名家・竹内家の祖になったとされる人物。竹内家に伝えられる『竹内家文書』は史料としての信憑性も極めて高く、地元の方々で知らない人はいないと思われるほど著名。義長子孫が竹内家を開いたとみて問題ないと思われる
- 「傀儡」扱いゆえ、当主としての事蹟はあまり伝えられていないが、サビエルの弟子・トレルスにキリスト教布教を許可した「裁許状」を発布したことが有名。「裁許状」のレリーフが、山口におけるキリスト教ゆかりの地・サビエル記念公園、サビエル記念聖堂がある亀山に置かれている
大内義長を当主として認めるべきか
最新の研究では、三十二代当主と書いてあることがほとんどです。典拠は大量にありますが、研究者が幕府が認めていることを以て正式な当主とみなしていること、です。そこら中の歴史書、読み物、恐らくほぼすべてがそうみなしております。
しかし、「当主とは認めない人」も存在します。また、日本史参考書に1551年に滅亡したとあることから、滅亡した家に当主などいるはずがない、という見方もできます。ただし、参考書の記述は、大内氏の滅亡により「勘合貿易が終結したこと」に重点を置いています。その後、同氏内で起こった些細な顛末などは重視していない点には注意が必要です。
自治体の見解
瑠璃光寺五重塔は現在修理中ですが、その前に歴代当主を可愛らしいキャラクターにして描いた壁(塀?)がございます。それらの歴代当主イラストの最後尾に「大内義長」も描かれております。以下の写真です。「32代」だそうです。
ということは、自治体さまも彼を「当主」として認めておられる、となります。現代の先生方のご研究でもそのような認識となっていることから、公式見解としては「三十二代・当主」なのであろうと思います。
参考書の見解
「あろうと思います」という書き方も奇怪ではありますが、参考書では1551年で滅亡したことになっておりますので、あくまでこの人はおまけなのであろう、という認識(個人的見解)です。恐らく、日本全国見渡せば、ある特定の家の当主の世代順などに拘る方も少ないのであろうかと。要するに、関係者以外にとっては、どうでもいい問題です。
古本ばかり使って調べ物をしておりましたら、最新の研究成果とやらが分からないという本末転倒なことになり、現在人物関連の記述に関しては上書き作業が必須となっております。そのトップバッターが最後のこの方です。
『大内氏実録』時代の見解
古本ばかりと書きましたが、大内氏研究の偉大な先達となっておられるのは、『大内氏実録』の近藤清石先生だったりします。明治時代のお方ですから、「最新の成果」はご存じありません。ご著作も明治時代時点の到達点に沿って書かれております。その後の研究者の先生方も、皆さま近藤先生のご本には必ず目を通しておられますし、今もそのご功績が色あせることはありません。未来永劫そうでしょう。しかし、明治時代と令和の現在とでは、様々な部門で研究が進化しております。そのため、先生のご著作に書かれていることが、現代の通説とは異なってしまっている箇所も少なくありません。
そして、その『大内氏実録』では、大内義長をして「叛逆」なる項目に分類させ、当主として扱ってはいません。「山口県士族」と明記しておいでの先生ですから、恐らくは、毛利家に仕えておられたのでしょう。毛利家にゆかりのお方が、この人物を「当主」とお認めになるとは思えません。何せ、毛利元就公は、大内義隆を死に追いやった叛乱家臣どもを成敗する「義戦」を行なったお方ですので。それらワルモノたちが、当主として奉るために、大友家から借りてきた義隆の甥、それが大内義長なる人物の本来の姿です。
どうせ古本しか読んでいない執筆者的には、近藤先生のご説に賛同いたします。せめて、姓が同じならかまいません。しかし、姉の息子は異姓、他家の人間です。幕府の紙切れ一つで、形ばかり認められたとしても、そんなことには誤魔化されません。毛利元就公が「山口県」を侵略し、大内氏を滅ぼして我が物とした、という意見に否と唱えるお方はこの人物を当主とは認めないはずです。認めている方は、毛利元就を侵略者とみなしているか、それこそ、そんなことどうでもいいと考えておられるかのいずれかです。当方も後者(どうでもいいのほう)ですが、障りがありますので、近藤先生の説を採用しています。化石人類で申し訳ございません。
ただ、この問題は、さして重要ではないと考えております。別に三十二代がいたかいなかったかとか、誰が最後とか、そんなことどうだっていいではないですか。考え方は人それぞれです。執筆者と近藤先生は認めていませんが、自治体と最新の研究では認められています。深く考えないこと。それが大事です。なぜなら、たとえなにごとであれ、絶対にこうである、と決めつけてかかるのはきっと誰かを傷つける結果となります。いずれの意見の方も尊重されるべきである、と思うのです。古いとか新しいとか、学術的には云々とか、素人が喚くなとか、そのようなイジワルな方々とは関わりたくありません。
大友晴英から大内義長へ
大友家の人であった大友晴英さんが、大内家当主・義長となるにあたっては、当人の意志とは無関係な歴史の流れ的要素が大いにかかわっています。むろん、そのことと、ご本人が大内家の当主になりたい! と考えなかったかどうかの問題はまた別です。先ずは「当主」となるまでの道のりを見ておきましょう。
前当主義隆の養子候補だった
大内義隆には義尊という歴とした実子がいたこと、ほかにも何人かの男児がいたことは知られています。しかしながら、義尊誕生までの間に正妻との間に実子が生まれなかったゆえにか、養子を迎えていました。土佐一条家の人で、義隆の姉の子(異説あり)とされる男児です。後に、大内晴持として軍記物や歴史書等に名前が出てきます。
義隆はこの養子をたいへん可愛がっていたとする通説があり、月山富田城攻めに敗北した際、晴持が亡くなったことでその後政務一切に興味を失うほど落胆したなどと囁かれています。当主たるもの、跡継がいないというのは大問題ですので、やはり姉の子とされる大友晴英にも「猶子」となって欲しいという話が出ていたようです。ところが、その後、実子・義尊出生により、大友家との契約はなかったものとなりました。
ちなみに、義尊は義隆と「最初の」正妻との子ではありません。正妻に仕える女性を見初めた義隆が、彼女を深く寵愛した結果生まれた子です。なお、正妻とは離婚し、義尊の生母が正妻の座につきました。ゆえに、嫡男です。
※大内氏本家および分家の人員に関しては、諸説あったり新しい説が出て来たりしておりますので、ここではあくまで「新撰大内氏系図」を参照しておりますことを、お断りしておきます。
家臣の叛乱と義隆の死
参考書に出てくる大内氏の滅亡年1551年、この年は、義隆に不満を抱く家臣たちが叛乱を起こした年です。陶をリーダーとする重臣の一部が山口を占拠し、義隆は守護館を捨てて逃亡したものの、長門深川・大寧寺で力尽きて自害しました。
この時、義隆と共に逃亡していた山口下向中の公家、嫡男の義尊なども容赦なく命を奪われてしまいます。いわゆる「嫡流」としての大内氏はここにて滅亡とあいなりました。その意味では、参考書の記述も間違ってはいないのです(そもそも、参考書の記述が間違っているはずがないですが)。
つまり、1551年を境に、大内氏嫡流は滅亡。政権を握っているのは叛乱を起こした家臣たち、というようなかたちとなったわけです。しかし、「叛乱を起こした家臣たち」という名前の家を立ち上げることも出来ませんから、やはり「当主」は必要です。時代が下がれば、下克上なるものが大流行となり、政権を握った家臣が新たな主となるのが普通となりますが。ここでは深掘りしませんが、叛乱家臣たちには自らが当主に取って代わるという思想はなかったようですね。
ここで、白羽の矢が立った「当主」候補が大友晴英でした。「ここで」と書きましたが、順序的には義隆生存中に、叛乱の企みが練られた時点で人選は決まっていました。義隆に不満を抱くのであれば、隠居を迫って幼い嫡男を当主に据えるという選択肢もあったわけです。しかし、やるならば徹底的にと当主の弑逆まで視界に入れた場合、その息子を生かしておくことには抵抗があったのでしょう。それゆえ、父子ともに亡き者として、大友晴英を当主に立てると決めていました。晴英にはあらかじめ打診があり、承諾する旨の回答が来ていました。
現当主を亡き者にして、その後釜に自らを据える。しかも、その亡き者にされてしまう現当主は自らの叔父である。そんな恐ろしい話を聞いて晴英はどう感じたのでしょうか。本人に確かめる術はないので、不明です。しかし、軍記物などによる叛乱者たちの「企み」シーンによれば、晴英は二つ返事でこの話に乗ったような雰囲気で描かれていることが多いように思われます。
いにしえの儀式を経て正式な当主に
叛乱家臣らに擁立された大友晴英は天文二十一年三月に、多々良浜に着きます。そこで数日逗留したのち、山口に入りました。この「多々良浜」という点が極めて重要です。叛乱家臣らは大内氏の始祖とされる琳聖太子の故事に倣い、太子が上陸したとされる多々良浜から晴英を山口入りさせたのです。
最新の研究ですと、存在すら疑わしいとされている琳聖だったりしますが、当時はそんな研究などあるはずもないです。歴代当主らがそうであると主張している以上、大内氏の始祖は琳聖でなければならなかったわけです。叛乱家臣たちには何らかの負い目があり、晴英を琳聖の故事に倣って上陸させることで、その正統性を主張したかったのでしょうか。あるいは、彼を第二の琳聖に見立て、ここから全く新しい大内氏の歴史が始まると理想に燃えていたのでしょうか。真相は不明ですが、多数意見は前者のようです。
しかし、人々の感情はどうあれ、形ばかりの「正統性」はあっけなく手に入るものです。年月不明ながら(参照『大内文化研究要覧』)、幕府は大友家から来た新しい当主を大内家の当主と認めます。そして、時の将軍・足利義輝から偏諱を頂戴し、大内「義」長なる当主が完成しました。
幕府に公認されるにあたり、多々良浜から上陸したことが何らかの役割を果たしたとは思えませんが、琳聖太子伝説を真似して上陸し当主になったことは事実です。
傀儡でしたが事蹟もあります
この人を当主として認めるか否かについては、諸説あると前述しました。また、現在では当主として認めることがスタンダードである、とも(受験参考書の問題は保留しておきます)。いずれの意見に賛同しようとも皆さま次第と考えますが、どんなお考えの方にも共通している点が一つございます。大友さんは「傀儡」、つまりお飾り、操り人形であり、彼自身の能力値は不明ということです。
見渡せばこのようなケースは古今東西山ほどあろうかと思います。仮に「家」を牛耳っているのが家来たちであり、当主はないがしろにされていたとしても、何らかの決め事をした場合、それを有効なものとするには最終的に当主のサインが必要です。逆に言うと、サインをしてもらう人が必要であるからこそ、お飾りでも当主を立てねばならないのです。
別にどこかから連れてこられたケースではなくとも、政務は面倒なので自らはサインだけしていた、というような当主も大勢いたと思います。当主の負担を軽くして、出来うる限り手助けすることも家臣の責務なので、このあたり線引きが難しいように感じます。当主も同席の上で家臣たちの意見をとりまとめ、最終的に決定事項として当主がサインをして公式文書を出す、これが最も望ましいかたちと思います。しかし実際には、当主が独裁的に何でも決めてしまい、家臣は否と言えないケース。もちろん、当主が有能であれば、これでまったく問題ありません。逆に、家臣たちが何でも取り決めてしまい、当主は黙認するだけになっているケースがあるかと。これも、当主が趣味に生きたいのであまり政務にかかわりたくないのであれば、問題ありません。
大友さんの場合、叛乱家臣たちから当主として祭り上げられたという経緯がありますので、サイン係的色合いが濃いのではないか、と思う次第です。とはいえ、当主として意見をし家臣たちからも賛同を得られれば、自らの意見を通すことも可能です。その意味で、サインしただけなのか自らの意見によるものなのか、大内義長という人の事蹟についてはよく分かりません。
大内義長裁許状
正直なところ、大友さんが大内義長として成し遂げた事蹟ともいえるものはキリスト教布教を認めた裁許状発布くらいのことかと。むろん、もっと多くのことがあるはずですが、それは専門の研究者が踏み込む領域となります。
前任の大内義隆が山口に来たサビエルにキリスト教布教の許可を与えたことはよく知られています。天文二十年(1551)のことです。義隆さんはこの後間もなく、叛乱家臣たちのために命を落としてしまわれました。いっぽう、サビエルさんのほうも、布教活動のため日本を後にしました。弟子であるトレルスという人に、山口での布教活動を託して去って行ったのです。
当主が代替わりし、しかもその理由が家臣の叛乱によるという物騒なもの。先の殿さまに認めてもらえていたキリスト教布教の件はどうなってしまうのか、不安になりますね。それに対しての回答が、大内義長によるキリスト教布教についての「裁許状」です。とにかく布教が仕事であるトレルスさん的には、ほっと一安心できたことでしょう。
この「裁許状」が、当主自らの意志によるものか、家臣らの意見に従っただけなのかは不明です。しかし、この方が大内義長ではなく大友晴英であった時代、九州を訪れたサビエルと面会した可能性があります。大友さんの出自は大友宗麟の弟である、と前述いたしました。大友宗麟といえば、キリシタン大名とやらになったことで有名な人です。兄同様、弟もまた、キリスト教に関心を抱いた可能性はあります。となれば、自らの意志でこの件を処理したとしても不思議はないです。
天文21年(1552)義長は大友義鎮との関係でトレルス神父に布教の裁許状を与えた。大道寺跡が教会となり布教活動が展開され、日本最初のクリスマスが祝われ、賛美歌が流れた(西洋音楽発祥の地)。信者2,000人といわれる。かくて西洋文化をとり入れ大内文化は多彩な特徴あるものになっていった。
出典:『大内文化研究要覧』81ページ
当主・義長がしたためた裁許状を刻したレリーフが山口市内に二箇所安置されております。サビエル記念公園とサビエル記念聖堂がある亀山です。⇒ 関連記事:サビエル記念公園
歴代当主は山ほどの文書を残しているはずですが、このように記念碑的なかたちで展示されている例はほかにないのではと思います。この「裁許状」が、それだけ重要なものと見なされていることが分かろうかと。これひとつだけとっても、義長という「当主」が残した業績は確かにあったと考えてよいでしょう。
高嶺城築城
毛利元就の防長経略が開始された後、防御に向かない守護館では危険と感じた義長政権は、高嶺に詰めの城を建てることを決定しました。残念ながら、城は未完成のままに終わりますが、築城を開始したのは義長期です。その意味で、自治体さまなどでも高嶺城を大内氏関連遺跡としております。ただし、「未完成のまま」であったという点には注意が必要です。
要塞堅固な城が完成していれば、大内氏滅亡の地は山口となった可能性もあります。しかし、毛利家の進軍があまりにも早かったこと、準備がどれも後手後手になったことなどから義長は山口を放棄して逃亡。それゆえに、最後の地は長府となりました(後述)。
興隆寺に願文奉納
弘治二年(1556)、近年乱世のために、興隆寺二月会の行事が滞っているが、先例通り祭礼を行ないますと宣言した模様です。これについては、『興隆寺文書』に記録があります。(参照:『大内文化研究要覧』)
国内外ともに乱れている真っ最中に、いや、そうであるからこその願文でしょうが、哀れを誘います。弘治二年といったら、内藤隆世と杉重輔の合戦で山口が燃え、義長も守護館から焼け出された年です。そんな最中に、祭礼どころではありません。むしろこれ、お詫び文に思えますね。
毛利家の防長経略と義長の死
叛乱家臣たちによって擁立された大内義長でしたが、厳島の合戦で叛乱家臣の親玉であった陶が倒されると、勢いに乗って防長の地に侵攻してきた毛利軍の前に、残された義長以下叛乱家臣一味はあっけなく滅ぼされてしまいます。大内義隆の死と大内義長誕生が1551年、厳島の合戦が1555年。毛利家の防長経略が1555~1557年ですので、わずかに六年間という短い当主人生でした。ほんの一瞬で終了しますが、流れをおさらいしておきます。
大内義長関連略年表
天文二十一年(1551) 大友晴英山口入り、大内義長と改名
天文二十三年(1554) 石見の吉見氏が叛旗を翻し、毛利元就も挙兵し大内方の城を奪うなどする
弘治元年(1555) 毛利元就、厳島の合戦に勝利、防長経略開始
弘治二年(1556) 内藤隆世と杉重輔の対立から、味方同士合戦に及び、山口市内が火の海に
弘治三年(1557) 一月、高嶺築城開始、二月、高嶺入城、三月、内藤と義長山口を放棄し、下関逃亡(且山城)、四月、内藤隆世、ついで義長自刃
(年号参照、典拠:『大内文化研究要覧』)
厳島での敗北
陶晴賢が厳島で敗れた詳細は、ここでは触れません。戦には勝ちもあれば、負けもあります。どれほどの大打撃を被ろうとも、本来ならば単に一武将の戦死で終ることです。しかし、陶という人物のおかげで当主の座に就き、ほとんど彼の采配にサインをしていただけの存在だった大内義長という「傀儡」にとって、彼の死は衝撃でした。
陶の死後、彼の妻の弟・内藤隆世が晴英を助けます。しかし、その力量は前任者には遠く及ばなかった模様です。それのみか、単に生きるか死ぬかの大博打(=厳島合戦)に勝って命永らえただけかと思われた毛利家が、これ幸いと今度は防長の地をすべて手に入れるべく侵攻を始めてきます。
降伏ラッシュと内輪揉め
叛乱家臣らの政権はよほど評判が悪かったらしく、毛利家の侵攻にあわせて、そそくさと降伏する者が後を絶ちませんでした。重臣の一人が戦死して、パワーバランスが大きく崩れたとは言っても、しっかりとした当主が頑張っていたらこうはならないはず。それだけ皆が、義長を当主とは認めず、叛乱家臣らを苦々しく思っていたことの表れではないか、と思えてしまいます。
とはいえ、そのた多くの人には、そんな感情的な問題よりも自らの将来を考えることが先決です。降伏すれば命も助かる上、現在の地位と身分も保証されるといわれたらおとなしく降参するのが筋でしょう。
玖珂郡蓮花山城主・椙杜隆康と、鞍掛山城主・杉隆泰の話は中でも有名です。彼らは隣り合った城の城主ながら、犬猿の仲でした。毛利方から内通を求める書簡を受け取り、椙杜はさっさと降伏しました。杉のほうも降伏するつもりでした。毛利からしたら戦わずとも二つの城が手に入るわけで、これ以上楽ちんな話はありません。
ところが、杉は後から心変わりしてしまいます。椙杜はそのことに気付き、毛利方に密告。哀れ、毛利&椙杜の連合軍にやられた杉隆泰は戦死。椙杜は元杉の領地をもらい、以後は毛利の忠臣となりました。これらはすべて、軍記物などから来ている逸話ですので、どこまでが真実かは不明です。諸説ある、としか申し上げられません。椙杜が毛利家の味方となり、杉のほうは毛利家に滅ぼされたということは史実です。
陶の嫡男・長房は父が出陣中の若山城を守っていましたが、そこに杉重輔とその弟が突如攻め込んできます。毛利の侵攻には備えていたとはいえ、杉兄弟は同じ大内氏の味方のはずです。杉重輔の父は家臣の叛乱の折、最初は陶に味方して義隆を倒す謀に加わったものの、のちに仲違いして命を奪われていました。つまり、晴賢は彼らの父の仇でした。晴賢が亡くなった後、父の仇討のためにはせめて残された晴賢の子らを殺すしかないと、杉兄弟は味方かどうかなどはほったらかしで、長房らを襲ったのでした。
気の毒な長房は支えきれずに亡くなってしまいますが、これに黙っていなかったのが、長房の叔父・内藤隆世です。そして今度は、隆世と重輔の争いが始まりました。毛利家が迫っているという国家的危機の状況下で、こちらはとんでもない内輪もめが始まったのです。
あろうことか重輔は、内藤隆世が攻撃してきたのは彼を側近として用いている義長の命令ではないのか、と詰め寄って来ます。義長は身の危険すら感じた模様。家臣らがなんとかなだめすかして、とにかく杉と内藤の内輪もめをやめさせようと試みますが徒労に終わります。結果として、杉兄弟は内藤隆世によって自害に追い込まれ、内紛は終結します。
この時の、杉と内藤との合戦で山口の町は火の海となり、多くが燃えてしまいます。叛乱家臣や毛利家の侵攻のために山口の町が燃えてしまったと誤解なさっている方がおられますが、実際にはこうした内輪もめと、その後の大内輝弘の乱による被害のほうが甚大だったのです。
高嶺からの逃亡
大内屋形が合戦時の防御にはまったく向かないものだったことは、大内義隆が政変に際して法泉寺に逃れたところの話でも出てきます。毛利家との関係が雲行き怪しくなってきたため、内藤隆世と義長は、万が一の時の詰めの城として、高嶺城の建築を始めていました。
しかしながら、毛利家の侵攻のスピードが速すぎたことで、城の建築はまったく間に合いませんでした。それでも守護館に居残り続ける危険とは比較になりません。そもそも杉と内藤との合戦による火災で、館には住まうことができない状態となっておりました。義長主従は早々に、未完成の高嶺城に移ります。
この城が無事に完成していたとしても、毛利家が防長の主になるという史実は変えられなかったと思います。しかし、どれほどの機能の城となる予定だったのかはとても気になるところです。それについては、のちに、毛利家がこの城に城番を置き、文字通りの「城」として使っていたことからもある程度想像できます。さもなくば、日本の城 100 選に入っているはずはありません。自らの手で完成までこぎつけられなかったのは、義長にとって、返す返すも無念であったことでしょう。
高嶺は未完成であったこと、兵糧も尽きてきたこと、などから、主従は名残惜しいこの城を棄てて、長門国豊浦郡の且山城へと逃れます。
弘治三年(1557)、毛利家は唯一その攻略に手を焼いていた須々万の沼城を落とし、ついに山口へと侵攻してきます。
義長の死
毛利軍は義長と内藤が籠もる且山城を包囲します。包囲網は徐々に狭まり、守備兵らは次々に逃亡していきました。包囲開始の年月日ですが、『大内氏実録』では「三月□日」からとなっていて、具体的に何日なのかわかりません。著者の近藤清石先生は十八日より後のこと、と明記されておられます。十八日からとしても、結局、四月二日には城を出ていますので、二週間も持ち堪えられなかった計算です。
毛利側は、内藤隆世の切腹を条件に、義長に降伏を求めます。義長は大友家の人間で「借りて来ただけ」なので、陶の一味である内藤を処分したらあとはどうでもいい、という内容です。内藤はとにかく、義長はその言葉を信じたでしょうか。
四月二日、内藤隆世は切腹。義長は城を出て、長福寺(現・功山寺)に入ります。
約束通りなら、内藤の死を以てすべてが終わったはずです。しかし、義長は大友家に返してもらえるでもなく、一生寺の中で経を読んで暮らすでもなく、自害を強要されました。ここは完全に、毛利家の策にはまったのです。
毛利軍は大友晴英、こと、大内家最後の当主・義長を名乗っていた人物の首級を毛利元就親子の元に送り届けます。父子はそれを確認した後、最期の場所となった長福寺に埋葬しました。
長福寺はのちに、毛利家に大切にされ、功山寺と名を変えて現在も存続しています。義長の墓と伝えられる宝篋印塔も、その中にひっそりと佇んでいます。
大内義長の末裔・竹内家
東広島市では地元の名家としてどなたもがご存じの竹内家。同家により伝えられた『竹内家文書』は郷土史において、欠くことのできない史料となっています。じつは、この竹内家の創業者は、大内義長さんのご子息です。亡くなった時、わずかに十代末というご年齢から、子孫などおられたのだろうか微妙です。現在と中世では、年齢感覚が異なりますから、ご子息を残されていても、まったく不思議ではない年齢です。しかし、「新撰大内氏系図」は大内義隆で終わっておりますし、『大内氏実録』に至っては、「大内義長=叛逆」という扱いですので、その後のことなど書かれているはずがありません。
しかし、東広島を旅した機会に地元のガイドさま方から、竹内家のことをご教授いただきました。居合わせたのが全員がガイドさま方であられたという特殊な場面とはいえ、「え!? 知らないの?」というような雰囲気。皆さま当たり前のようにご存じでした。
大内義長は三十二代当主ではありませんという説を支持します、と記した関係上、あの竹内家ゆかりのお方をないがしろになさるんですかとお叱りを受けそうで、だんまりを通すしかありませんでした。ところがです。きちんと、大内義長は三十二代当主である、としてご研究をなさっている愛好家の方にこのお話をしてみたところ……。「嘘でしょ、あり得ない」との反応。これには逆に参ってしまいました。山口に伝わるお話では、大内義長の子息は確かにいたが亡くなっており、墓もある、と。「諸説ある」では片付けられないような雰囲気でした。
その上でですが、大内義長の子孫は、東広島で竹内家を創業。子孫繁栄し現在に至るという説を「諸説ある」中で信じます。貴重な一級史料としての文書まで残している名家が嘘偽りを伝えてきたとは到底思えないからです。山口に伝わっている亡くなってしまった子孫については、伝承なのか、複数いた子孫のうちの別の一人なのかは分かりかねます。しかし、取り敢えず執筆者は歴史家ではありませんので、この目で見、耳で聴いた話を信じます。信頼できるガイドさま方のお話に偽りがあろうはずはないからです。
竹内家についてはこちらに書きました。
-
竹内屋敷跡(東広島市八本松吉川)の歴史、観光情報、所在地、アクセス
大内氏最後の当主・義長は、下関で自刃。家は滅亡。しかし、義長には息子がおり、西条の地に逃れて竹内家を興します。竹内家は地域に対し様々な貢献を ...
suoyamaguchi-palace.com
雑感
毛利家の非情?
大友晴英、こと、大内義長の最期について。いつまでも亀のように楯籠もって城から出て来ない義長・内藤隆世主従が面倒になった毛利家は策を弄しました。とにかく、楯籠もりをやめて出てきて欲しいわけなので、「内藤隆世さえ命を絶てば、義長については罪に問わない」として降伏を促したのがそれです。内藤隆世が忠義の家臣で、晴英のためならば、我が命を捧げても構わないと心晴れやかに亡くなっていったのかは不明です。ただ、我が身可愛さのあまり、義長が隆世の生命を軽んじた、というような話は聞いたことがありません。むしろ「必死で止めた」ようです。どの道、毛利家は己を助けてはくれないだろうと義長が達観していたかは知りませんが(知りたくないだけ。恐らく分かっていたでしょう)、内藤隆世は最後の最後まで付き従ってくれた人です。先に行かれたらどれだけ心細いことか。どうせ死ぬなら一つ所で、と思うのは当然と思います。
いっぽうの、内藤隆世という人も有能だったという話は聞いたこともありませんが(どこかに書いてあったらすみません)、自らの生命と引換えに主の一命を救えると本当に考えていたのでしょうか。もしも本当にそう考えていたとしたらまさしく悲劇だし、愚かにも思えます。最後の一瞬まで主の傍にいることのほうが忠義の人であるように感じますが、現代人の勘違いでしょうか。
そのまま包囲を続けていたらどの道城は落ちます。早く落城してくれるにこしたことはないものの、わざわざ策を弄してまで義長を引きずり出す必要はあったのでしょうか。大内義長は単なる傀儡で罪はない、という言い分(実は騙し文句)もいちおう筋が通っています。内藤はそこに一縷の望みを託し、主を救おうとしたのかもしれません。けれども、その結果、義長が救われることはありませんでした。この逸話も軍記物などから来ていたりしますので、真実かどうかは分かりません。しかし、真実であるとすれば、毛利家は義長主従を「騙した」ことになります。
戦国乱世、何でもありだ。策を弄するくらい普通のこと。騙されるほうが悪い……等々のお叱りの言葉が山ほど降ってくるであろうと思います。ただ、せっかくワルモノたちを成敗する「義戦」を貫いてきた毛利家の方々が、最後に相手を騙すような手段を用いたことでちょっと後味が悪い気分となってしまいました。毛利元就の人柄からいって、無益な殺生はしないという先入観もあり、義長の命を助けなかったことに多少の違和感がありました。助けると言っておきながら助けなかった、ということがなければ、こんな気分にはならなかったかと。
それらのもやもやについて、(広島県の)郷土史の先生にお伺いしてみました。先生は、のちに出てきた大内輝弘のように、敵対勢力に担ぎ上げられる可能性をご指摘なさいました。確かに、大内輝弘はともかく、問田亀鶴のような子どもまで担ぎ上げられて火種の元になっています。ただ、問田亀鶴は義隆の息子だし、大内輝弘もいちおう「大内」姓。大内家が滅亡した後に担ぎ上げる人物として、「大友姓」の人間を使うなどあまりにずうずうしいという思いは拭い去れません。しかし、あれこれ企む輩は数知れないので、本人は大人しく念仏を唱えながら余生を送りたいと望んでも、それらの「ワルモノ」に目を付けられたら面倒なことになった可能性は極めて高いかと。加えて、大友宗麟の弟であることを考えた時、生かしておいた場合に起こり得るあれこれは計り知れません。
毛利家の人に後押しされる前に、忠義の家臣と一緒に行ってしまえば多少カッコ良かったと思うんですが、いかがなものでしょうか。ここは、毛利家が性悪というよりも、義長主従の配慮が足りなすぎたと感じます。そう考えると、義長自身も深層心理で「命ばかりは助けて貰える」という浅はかな考えがあったのかもしれません。そうであったとしたならば、この人の能力値も推して知るべしですね。
儚い夢
大友晴英という方が、叛乱者たちに擁立されて他家の当主の座に就き、たとえ傀儡と分っていても大国の主をやりたかったのか、あるいはやがては国を牛耳ろうという野心でもあったのか、本人に問うことはできません。妙な色気を出さなければ、やがて九州で大勢力となった大友宗麟の弟として、全く違った人生が待っていたことでしょう。
どうせ兄がいるから家督は継げない身。最低限の衣食住はきちんと保証されて、大して面白くもないが気ままに過ごして生涯を終えるか、あるいは兄の野心に付き合わされ、こき使われ続けるかわりに多少のおこぼれでももらうか。せいぜいその程度の人生のはずでした。そんなところに、実家より勢いのある大国の当主にしてくれるという嘘のような誘い。なんだかすべてが夢の中の出来事のように思えます。
隣国の叛乱者からの誘いも夢、本当に大国の当主の座に就けたのも夢。兄の保護下で平凡だが安穏とした人生を送るしかないのが現実でした。夢はいずれ覚めます。夢でもかまわない、束の間でも大国の主というものをやってみることができるのなら。自らを当主の座に就けてくれた「恩人」の死も、その後の敵国の襲来も、すべてが夢ならよかったのですが。けれどもそれは、夢ではなく、頬を抓れば痛みを覚えました。大国の主の座に就いたまでは心地良い夢。その後は悪夢の連続でした。
大内義長だったのか、大友晴英だったのかわかりませんが、彼の人生には「その後」はもうありません。本人にとってそれが楽しい夢であったならば、たとえ短い間であっても、それはよい思い出だったでしょう。果たして楽しかったと言えるのかどうかは、それこそ本人にきいてみなければわかりませんが。
少なくとも、大内家の滅亡と、大内義長(大友晴英)とのあいだには、なんら因果関係はありません。なぜなら、この家は 1551 年時点で、すでにおわっていたからです。もちろん、この意見には賛同できない方もおられると存じておりますが。
参照文献:『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』、「新撰大内氏系図」、東広島市ボランティアガイドの会さま資料ほか
※この記事は 20241123、「大内義長 最後の当主」とそのリライト版「大友晴英」を加筆・修正し、新たなURL にて再構成したものとなります。
初稿公開日:2020年8月23日 2:13 PM
当主として生きた彼の人生には幸福なひとときもあったと俺は信じる。陶入道の死後、彼の傀儡ではなく、自立して生きていける道もあったのに。乱世の到来がそれを許さなかった。いや、彼の存在自体が、乱世の中に咲いた一輪の徒花か。平穏な日々なら、きっと九州で生涯を終えていたお人だね。