人物説明

石見国吉見氏

2022年4月11日

大内義隆イメージ画像
吉見正頼の義弟・三十一代当主

吉見氏概略

大内配下から毛利家臣へ

清和源氏の流れを汲む石見の名門である。源義朝の子で、義経とともに平家討伐に功績のあった範頼の子孫である。

大内氏との関係においては、政弘期に陶弘護と刺し違えて亡くなったとされる信頼、義隆期に義隆の姉婿として義隆を死に至らしめた叛乱家臣たちに対抗した信頼が著名。ほかにも、義興期に、信頼の弟・頼興が船岡山の合戦にて戦功を立てたことが知られているという。

信頼の代、同じく叛乱家臣たちと敵対するにいたった毛利家と手を組み、その防長経略で大いに手柄を立てた。その後は毛利家臣となり、元就はその功績により、正頼が攻略した阿武郡全域をはじめ、厚東郡、佐波郡にも所領を与えるなどして厚遇した。

正頼は七十六歳の長寿を全うした。嫡男・広頼の代には、天下人・秀吉が朝鮮出兵を行なったが、病弱だったらしい広頼に代わり、嫡男と思しき元頼が参戦した。合戦の際に得た病のためか不明ながら、元頼は帰国後わずか二十歳で亡くなってしまう。早世した兄に代わり、家督を継いだと思われる広行は朝鮮の戦役で手柄を立てたが、後に領地に関わる問題から主家に不満を抱いたらしく、出奔してしまう。病がちながら父と同じく、七十代までの長寿であった広頼が再び当主となった。

とんでもない理由からお家断絶

領地問題による不満とはいったい何があったのか。秀吉がお気に入りの毛利秀元に、長門国一国を分け与えるよう遺言していた。秀元には長門一国ほかの領地が与えられたが、その中に吉見家の所領も含まれていた。実際には、秀元に与えた長門国領地の中に、吉見家の所領は入っていなかったとか、それ以外の地についてもかわりの土地を用意することなどが考慮されていたなどあれこれ書かれている。しかし、当主・輝元に対する広行の不満はかなりのものだったようで、当主と不和になったことで蟄居させられるなど穏やかならぬものがあった。

姉が毛利元康に嫁いでいたので、元康らの仲介もあり、広行は赦免された。しかし、ここでまた厄介なことが起こる。関ヶ原以後、毛利家本体の領地が大幅に減少した。当然、家臣らの取り分も元のままとはいかない。広行はまたしても、不満を抱き出奔したという。この件に関しては、十年以上に及ぶ諸国放浪の末、ほとぼりが冷めたのか広行が帰国。輝元も罪に問わなかったため、広行は心を入れ替えて忠義に励もうと誓ったらしい。ところが、妾にしていた家臣の娘(三人の男子さえ儲けていた)とその姉とをともに寵愛したために、姉妹が互いに嫉妬し合うという事態となる。このくらいなら、どこにでもある話である。けれども、嫉妬に狂った姉は実の妹の殺害を企み毒薬を手に入れたというから、凄まじい。

結局、この愚かしい出来事が輝元の耳に入ることになり、広行は妾とその子らを手に掛けた後、自らも命を絶った。なお、広行は後に広長と改名したので、広行、広長は同一人物である。広行にはくだんの妾の子以外に男児がなかったらしい。系図に正室として、児玉豊前守女とあり、離縁したと書かれている。よほど家臣の娘姉妹に入れ上げてしまったようだ。もちろん、そのために妻と離縁したのかどうかはわからないが。

大野毛利氏の誕生

ここで、清和源氏としての吉見家は断絶した。広行の後を継いだのは、何と吉川弘家の三男・就頼。就頼は最初、黒田長政の父・孝高の「隠居領」を継ぐ形で黒田家に養子入りしていた。「隠居領」を継ぐって何なのか、現在の知識ではよく分からず申し訳ないけれども。輝元の命令で、吉見家を継ぐことになるが、これは、就頼の妻が吉見広頼の娘(つまりは広行の妹)だったからである。しかも、広頼の正室は毛利隆元の娘(早くに亡くなったのか、継室として、内藤隆春の娘の名前もある)。早世した嫡男・元頼は吉川元春の娘を妻としていたという具合に、毛利家との結びつきが濃厚だった。

これ以後、就頼は毛利姓を名乗ることを許され、「大野毛利氏」となる。(以上典拠:『萩藩諸家系図』)

大内・毛利時代以前には空白も

毛利家と共闘し叛乱家臣政権を倒した忠臣

『大内氏実録』に描かれる吉見家像は、大内義隆の無念を晴らすために叛乱家臣たちに抵抗した義理堅い人物(正頼)。陶家および益田家との確執についても、そこを出発点にして考えれば、単なる境目相続の域を出ない。陶家の横暴に絶えかねた信頼は、このままでは、吉見家は滅ぼされてしまうかもしれないと思い悩む。家を守るためには陶家の横暴を止めねばならないと決断し、自らの生命を懸けて敵対する人物を倒したのである。そう考えると、大内氏当主主催の宴席で、その重臣を刺殺するという蛮行も、悲壮感漂う物語に読めてしまう。

何やら曖昧な点が多く、あれこれの憶測をよんでいる事件ではあるが。少なくとも、この一件で、吉見家が滅びるなどという悲劇は起こらなかった。その意味では、信頼の命がけの策は功を奏したのかもしれないし、そこまでしなくても、結果は同じだったのかも知れない。

ただし、この事件以後、何やら吉見家が大内氏内でその地位を高めていったかのように思えるのは気のせいだろうか。それはとにかくとして、かくも壮烈な命懸けの賭けに出た信頼や、義理の弟・義隆に忠義を尽した正頼の物語に比して、最後の広行は愚行が際立つ。

広行以後の吉見家は、それ以前とは全くの別物。姓も毛利に改まり、結局のところは、広行で滅んだとみてよい。大内氏滅亡後の吉見家が、毛利家の忠臣となったことで、この家の家譜は現在まできちんと伝えられている。中の人はまったく変ってしまったが。

大内氏時代までは動向不明

ところが、毛利家家臣となる以前の吉見家については、じつはよく分からないことになっている。毛利家家臣になるにあたり、かつては大内氏配下にあったことはあまり好ましくないと考えられていたふしがあるとかで、敢えてぼかされているらしい。そんなこと言ったら、ほかにも同じようにして、毛利家に鞍替えした人は大量にいたわけで、それらの人々の系譜はすべて怪しいということになるが。しかし、不明な点はそれだけではないのである。

『大内氏実録』曰くだと、およそ以下の如く。

そのちすじは蒲冠者範頼の子・吉見二郎範国から出ている。範国の子孫・三河守義行(ママ※)は、弘安年間に初めて鹿足郡津和野に下向し、一本松城を築いて本拠地とした(後に三本松城と改名)。義行の玄孫頼弘の子・成頼のとき、大内氏にしたがった。

源範頼‥‥範頼孫・為頼(吉見祖)⇒ 吉見範国‥‥直頼 ⇒ 弘信 ⇒ 頼弘 ⇒ 成頼 ⇒ 信頼

かなり大まかなものだが、大内氏配下となる直前と、先祖だけがわかればよいという主旨なので、こんなものだろう。『大内氏実録』にある三河守義行なる人物は、『萩藩諸家系図』には載っていない。より新しいものが正しいとみなせば、頼行を誤ったものか。

ところで、『日本史広事典』にも、吉見氏の項目があって、以下のように書かれている。

(前略)承久の乱では吉見十郎、小次郎父子が幕府方として活躍。南北朝期、能登国守護頼隆、氏頼父子は足利尊氏に従い、北陸の南朝方と戦った。桃井氏との抗争は激しく、建徳年間に敗退させたが、以後の動向は不明。
出典:山川出版社『日本史広事典』1997年版「吉見氏」

中国地方系軍記物で、石見吉見氏について書いていないものはないのではないかと思われるほど著名なのに、全国区版の事典では、吉見氏が石見に移る過程が空白なのであった……。

『萩藩諸家系図』では、この「以後の動向は不明」の部分を丹念に調査し、空白を埋めてくださっている。拝読すると、吉見氏がいきなり石見に現われた謎も解けるが、あくまで大内氏との関係だけわかればいいので、そこまでは追求しない。興味がおありの方は図書館でご覧ください。余裕ができればここにも書き添えたいですが。

事典で「動向不明」となっているのが、完全なる「謎の空白」であるとするならば、毛利家に遠慮して大内氏との関係を偽って報告したことは「意図的な空白」といえる。しかし、素人にはそうと見抜けない程度だし、そもそも、そんなことする必要あるの? というレベルなので、深く考える必要はないと思われる。

これまで通り、政弘期に完全に支配下に入ったという理解で特に間違ってはいない。ただし、『萩藩諸家系図』によれば、それ以前にも大内氏と行動を共にしていた事実がある。大内満弘(南朝残党討伐)や大内盛見(九州凶徒討伐)などの軍中にも吉見家の者が付き従っていたらしい。被官化されていない国人などは、幕府の下知に従わざるを得ないから、守護の命に従って駆り出されたことは十分に考えられるけれども。

ただし、応仁の乱で当主に叛いた大内教幸側に味方したのはいただけない。しかし、これまた、管領・細川勝元の遠隔地攪乱戦法によって、駆り出されたともとれる。それよりも何よりも、吉見家と益田家の境目論争に関わる怨恨の深さに由来するところが大きいという。まさに一所懸命。

有名人(大内氏との関わりを中心に)

基本は『大内氏実録』から要約しました。一部『萩藩諸家系図』により修正。この項目はもっとボリュームが増える予定です。ただし、他家の修正がすべて終わってから戻ります。

吉見信頼

成頼の子。幼名:三郎、のち能登守となる。
勇敢な人で、強弓の使い手だった。そのうえ、書道にすぐれ、蹴鞠もよくした。

文明年間、応仁・文明の乱で政弘が上洛中に、政弘の伯父・教幸が挙兵した。管領・細川勝元に唆されてのふるまいだった。このとき、教幸は信頼に援助を求めた。信頼は教幸を助けて戦ったが、叛乱は陶弘護に鎮圧され教幸は敗走した。

大内軍は阿武郡地福、得佐などに陣を構え、信頼の攻撃に備えているようだった。
文明三年正月、信頼は地福の合戦で勝利し、末武左衛門大夫氏久父子ら三人を斬った。七年冬には得佐城を攻撃したが、弘護の来援によって信頼方は敗北し、吉賀長野の地を奪われてしまった。

大乱終結後、帰国した政弘に和睦を求め許されたが、陶氏との不和は続いた。

文明十五年(※『諸家系図』十四年)、信頼は山口で政弘に拝謁したが……。

弘護は信頼を好ましく思っていない。山口に出仕すれば、陶の讒言などにより、やがて吉見家は滅びてしまうかもしれない。ならば、そうなる前に弘護を殺すにこしたことはない、と信頼は考えた。あらかじめ、弟・頼利に家督を譲っておいた、という。

五月二十八日(※同二十七日)、政弘は諸将を招いて宴席を開いた。信頼はその席で陶弘護と刺し違えて亡くなった。

吉見頼興

信頼には実子がなかったので、弟・頼利が跡を継いだ。のちに頼興と名を改めた。頼興は義興期の主な合戦ほとんどに従軍。

明応五年(1495) 少弐討伐
文亀元年(1501) 豊前馬ヶ岳合戦(少弐・大友)
永正八年(1511) 船岡山合戦
(参照:『萩藩諸家系図』)

吉見正頼

頼興の跡を継いだのが、正頼であることは間違いないわけだが、当時の系譜は曖昧だったらしい。『実録』で近藤先生があれこれ書いておいでになる。しかし、『萩藩諸家系図』ではきちんと整理されているので、研究が進んでいなかった時代の疑問点は解消されたと見なし、無視する※。

正頼は頼興の四男。初め僧となって周鷹と号していた。のちに兄・隆頼の死にともなって、還俗(隆頼の子は早世していた)。吉見氏を継いだ。

※近藤先生の疑問点は、正頼が「弥七」と名乗っていたらしきこと、しかし系譜にはその旨記載がないという点。および、系譜にある家督を継いだとされる年代「天文八年」よりも早い「享禄二年」の文書に、「吉見弥七正頼」の名があり、すでに「家老」扱いとなっている点。『諸家系図』にはこのような指摘はない。

大内氏の家老につらなった。のち大蔵大輔となる。

義興の娘(義隆の姉、大宮姫)を妻としているところからして、大内氏にとって重要な人物であったことは間違いない。

いっぽう、陶氏と険悪な関係であることは、先々代からずっと、変ることがなかった。吉見氏は同じ石見の益田氏と不和であった。よくある境目論争で、代々合戦が絶えない間柄だ。その益田氏と陶とは、互いに婚姻を繰り返して血縁的にも強く結びつき、甚だ親密なのである。

やがて陶隆房が政変を起こし、義隆は命を落とした。正頼からしたら、ただでさえ頭にくる陶が首謀者だし、義隆は妻の弟であり、畏れ多いが義理の弟だったのだ。叛乱者に協力する謂われはない。義隆の死から二ヶ月後、またも益田氏が戦を仕掛けるそぶりを見せ、津和野に陣を取った。この時は撃退したものの、今後も陶とその傀儡当主とが益田氏を援助してしつこく攻撃してくるに違いない。

座して死を待つよりも、徹底抗戦することを決意した正頼は、ついに兵を挙げたのであった。
大内義長と陶軍とは正頼の居城・三本松を全力で討伐し、正頼はいったん和睦せざるを得なくなる。敵方が和睦に応じたのは、毛利元就が叛旗を翻したからであった。

そののち、正頼は毛利元就と連携して義隆の無念を晴らし、毛利氏の家臣となった。子孫は今に続く。

(以降省略)

参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』、『日本史広辞典』

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五郎

家臣の娘姉妹に現を抜かし、「名門」を潰すとか。およそ信じられないね。毛利家とベタベタし過ぎた挙げ句、毛利家に乗っ取られてしまったじゃないか。

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ミル

君の好きな吉川弘家さんの家系に受け継がれたね。

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五郎

祖父さまに刃を向けるようなことをした報いを受けたんだよ。まあ、家が潰れたのは俺も同じだけど。益田家だけが残ったんだなぁ……。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

系図に載っているのは、ほんの一部分だけだよ。姉妹や娘は結婚すると名前が変ってしまうけれど、どこかにきっと、一族の血が受け継がれている(それは君の子孫も同じだよ)。

この記事は、20241224 に大幅に加筆・修正されました。なお、修正途上です。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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