系図に載っている情報が乏しすぎて、何をした方々なのかよくわからないことがままあります。また、系図が途中で途絶えていても、実際には後々も活躍している場合も。こうなると繋がりを把握するのは困難です。黒川氏は最後の当主・義隆に殉じた「黒川隆像」が有名ですが、この黒川氏は宗像氏から改姓した人々で、宗家から分家した一族とは別なのです。とりあえず、どっちも黒川ということでまとめています。
黒川氏概説
系図だけでは動向不明
十九代・弘成の子にして、二十代・弘貞の兄弟である貞保を祖とする一族です。いかなる事蹟を残した方々であるのか、系図だけを拝見している限りにおいては、まったくわかりません。
黒川氏のその後については全く不明です。毛利家臣となった記録もないですから、どこかでひっそりと続いたものか、国難に至る以前で消滅していたのかも分かりません。
なお、『大内村誌』を拝見した時に知りましたが、途中消滅しているように見える方々の場合、名字を替えて存続していることもある模様です。具体的にどの家がどう替ったかという例は書いてありませんでしたが、「恐らくは改姓したのだろう」と推測なさっている例はありました。途中消滅している理由も不明の方々だったためです。黒川さんたちもそうだったのかも知れないです。
黒川氏を有名にした宗像氏出身の人々
じつは、黒川姓で有名な人といえば、義隆期の隆尚と隆像です。隆像にいたっては大寧寺で義隆とともに亡くなっています。それゆえ、とても既視感がある姓なんです。
けれども、これらの方々は、大内氏の女性が嫁いだ先・宗像氏の出身です。その意味では、血のつながりはあると言えますが、そもそもは異姓のかたです。義興、義隆に重用されて、多々良氏を賜ったのです。黒川姓を名乗ったのは、黒川に領地があったゆえにです。元の黒川氏たちも同様に、黒川を名字の地としていたものと思われますので、この時にはすでに断絶したか、根拠地もかわり、他の姓を名乗っていたのかもしれません。宗像氏出身の黒川氏と、元々の黒川氏との間に何らかの関連性があったのかは、系図からはまったく不明です。
せっかくの名門が絶えてしまっていたので、義隆から跡を継がせるような形で、黒川姓を名乗るように言われたのかも知れません。
現在のところ、これらの事情について言及しているものを見つけられていませんので、わかり次第埋めるとお約束いたします(わからなければ永遠にこのままです)。⇒ 関連記事:宗像大宮司家
『新撰大内氏系図』全コメント
何と! 四代にして途絶えています。もちろん、系図が途絶えているからといって、ここで断絶しているとは言い切れません。なぜなら、前後不明ながら、義隆に殉じた黒川姓の人が確認されているからです(参照:『大内氏実録』)。
貞保―成保―貞信―弘明
貞明
男(出雲守)
男(肥後守)―僧、宗的
女子
弘村
分かりづらいですので、注記しておくと、貞安の子は、成保と弘村(あくまで系図上)
成保の子は貞信と女性一名
貞信の子は弘明、貞明と男性二名
最後は名前も不明の貞明の子に家督が行き、その後僧籍に入ったらしき人物を最後に途絶えています。
貞安 或弘保、黒川五郎
成保 平野太郎
弘明 大内十郎
貞信 黒川近江守、長門守護代、法名禅少
貞明 民部少輔
有名人(大内氏時代の人々限定)
今回に限っては、有名人がすべて他姓から黒川姓にかわった方々です。その意味で、ここにお入れすべきかはわかりません。ただし、いずれも『大内氏実録』に伝が立てられた有名人ですので、ここにまとめます。
黒川隆尚
筑前国宗像大宮司宗像左衛門尉氏佐の嫡男で、母は政弘の娘。初名は政氏、のち正氏と改める。刑部少輔。永正五年正月、従弟・興氏の譲りをうけて大宮司となる。二十年在職したのち、弟・氏続に大宮司職を譲り、山口に来て、大内氏に仕える。大永七年のことである。
宗像氏は、代々大内氏やその一門から妻を迎えていた。九州における信頼置ける配下の一族として、大内氏歴代に従って、数々の功績をあげた。大宮司職を譲られた興氏(血縁上は従兄弟にあたる)も、義興に仕え、九州での少弐氏との戦いや、義興上洛時の船岡山の戦いで功績をあげている。
母が政弘の娘ということは、隆尚と義興とも従兄弟どうしという関係にあり、直接出仕するために山口に移ったのかもしれない。吉敷郡黒川村を領有したので、「黒川」と名乗った。
義隆代には、その偏名を賜り、隆尚と改名した。『大内氏実録』には、隆尚は義隆と従兄弟どうしだったので、かくなる厚遇を受けたと書かれているが、先に母は政弘の娘とあり、義興の従兄弟のように見えるので、ほかにも婚姻関係で繋がっていたものか、義興と誤解なさったのかは不明。なお、同じく、従兄弟どうしであることから、義隆が隆尚に「多々良氏」と改姓させたとあり、先に「黒川」と名乗ったと書かれていることとの時系列が不明。宗像氏のまま「黒川」と名乗っていたのだろうか。
天文元年、九州が兵乱で乱れたため、筑前に帰還し、再び大宮司となった。天文二年に至るまで、各地を転戦していたことが、『実録』 に記されている。天文五年、姪・氏男を養子として大宮司職を譲ると、再び、山口に出仕した。天文九年、義隆とともに岩国に在陣。同十年正月十五日、警固船の将として、厳島に向かい、野島、呉島、因島の警固船と戦って厳島を奪い取った。天文十三年正月十一日、従五位下叙位。二十年三月四日に亡くなった。
黒川隆像
筑前国宗像大宮司左衛門尉氏続の嫡男。母は問田大蔵少輔弘胤の娘。 初名は氏男。天文三年十月二日、従五位下、近江権守に叙位任官。多々良と改姓し、黒川と名乗った。伯父・正氏(=黒川隆尚)の養子として、大宮司職を継ぐ。
大友義鎮、龍造寺隆信等と戦い、二十年八月六日、大宮司職を従弟・鍋寿丸に譲って山口に移る。伯父・黒川隆尚の遺跡を継いで義隆に仕え、小坐敷衆となった。義隆から偏諱を賜わり、隆像と改名した。
この頃、陶隆房はすでに叛乱を企てており、隆像も誘われたが応じなかったという。叛乱軍が山口に入った時、義隆は法泉寺に逃れ、ともにいた隆像は嶽山防衛を命じられたが、翌日には呼び戻された。義隆一行が、法泉寺を出て、長門方面に逃れたからである。最後は、大寧寺に於いて義隆と運命をともにした。
妻は正氏(=黒川隆尚)の娘。一男一女があった。息子は父の死の翌年に生まれた。幼名を国丸という。叛乱者たちは、隆像が誘いを断り味方にならなかったという経緯から、隆像の一族を殺害するよう鍋寿丸(=隆像が大宮司職を譲った従弟)の家人に命じた。隆像の遺臣・占部貞安と許斐氏鏡らは協力して、隆像の家族を山田村に匿った。叛乱者たちの怒りは倍増し、命令の実行を督促し続けた。国丸の傅役・吉田尚時はついに、この命に従い、二十三年三月二十三日に弑逆を決行しようと企んだ。この時国丸は、尚時の所領吉川村にいた。貞安、氏鏡の二人は、密かにこのことを乳母に伝え、国丸を他所に移して匿った。国丸を託された人物は、翌年長門国に渡り、阿武郡大井に隠れ住んだ。国丸はこの地で無事に成長し、五郎左衛門尉氏隆と名乗った。その子・五右衛門氏一の時、黒川を改め宗像姓に戻ったという。 子孫は今に続く。
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『日本史広事典』
雑感
叛乱者たちが、己に与しなかった者たちを許さなかったのは周知の如くで、政権確立後、まずはそれらの人々を粛清することが行なわれました。後に火種となりかねない忘れ形見の類も手に掛けられたのは頷けますが、実際にはそこまで徹底している余裕はなく、逃げおおせた例は多かったのかもしれません。のちに毛利家に仕えた云々は大量にありますので。
『実録』の中で、幼い子どもまで容赦しなかったことがことさらに記述されているのはこの部分だけでして、かなりの憎悪を感じます。叛乱者親玉の父の姉は、宗像氏に嫁いでいたとされ、その意味で血縁者と見なしての「声かけ」だったものかと。隆像に状況判断能力が欠けており、叛乱者についたほうが安全と思えなかったのか、生まれついてからの忠義の人であったのかは、これだけの情報からは判断しかねます。
なお、隆像の遺児が無事に成長し、元の姓氏に復してその後も続いたという件ですが、『日本史広事典』によれば、宗像大宮司家は十六世紀末頃に宗家が断絶。近世になって、庶流の一類によって再興されたとなっています。隆像遺児の子孫は繁栄したように書かれていますが、もはや宗像大社とは無縁の長門国の民として生きたのでしょうか。その辺りも『実録』の記述だけからはわかりません。
想像にお任せしますの世界になっており、宗像氏の件はとても気になりますが、何だかんだ言って九州の勢力。滅亡後どうなろうと、もはや関係のない世界ではあります。隆像の子孫が山口県内におられたのなら、毛利家に仕官したのかどうかも気になるところです。
どっち道、最後まで謎なのは、当初宗家から分家した黒川氏のほうです。どう見ても、記録に出てるのは(あくまで『実録』しか見ていない状態)宗像氏改め黒川氏であって、それ以前の人々についての事蹟などは不明です。
陶入道って執念深いね。こういう『こだわり』には関心できない。この野郎って思ったらもう、絶対に許せない性格みたいで。お前、よく生き残れたね。
……。
そう言えば……。ミルは俺を呉に連れて行ってくれると約束したのに、今に至るまで実行されていないじゃないか。出来もしないことを約束するなんて。前回の宮島行きではもみじ饅頭を買い忘れるし。あの世話係、絶対に許さないからな(怒)
(次元が違うが、すぐにキレて根に持つところ、そっくりではないか)
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大内宗家から分家した一族
「大内」以外の名字の地を名乗って分家していった多々良氏の人たち。滅亡後毛利家に仕え今に続く人、宗家と運命をともにした人色々。
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人物説明
大内氏の人々、何かしらゆかりのある人々について書いた記事を一覧表にしました。人物関連の記事へのリンクはすべてここに置いてあります。
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