山口県山口市香山町の香山公園とは?
山口市内にある公園です。瑠璃光寺五重塔がある付近一帯を指します。園内には五重塔をはじめ、枕流亭、露山堂などの明治維新ゆかりの史跡、維新の名君・毛利敬親公ほかの方々が眠る毛利家墓所などあれこれのみどころがあります。そして、忘れてはならないのは、山口開府の父・大内弘世公の立派な騎馬像が山口の町を見守るようにましましていることです。市民の皆さんの憩いの広場であると同時に、大内文化の香りから明治維新まで、山口の歴史を満喫できるという、観光客にとっても絶対に外せないスポットです。
香山公園・基本情報
所在地 〒753-0081 山口県山口市香山町7−1
最寄り駅 山口駅
香山公園・概観
観光案内版には、香山公園についてつぎのように記されています。「この地は今から 600年くらい前の大内氏の時代に香積寺のあった跡である。この公園は古くから市民の誇りと敬慕の場として親しまれて来た。今この公園内の由緒あるものを説明すると次のようである」案内板曰く、「由緒あるもの」とは、萩藩主毛利家墓所、勅撰銅碑、露山堂、枕流亭、瑠璃光寺五重塔、瑠璃光寺。
香積寺は大内義弘の菩提寺。五重塔は義弘の弟・盛見が兄の菩提を弔うために、香積寺の中に建立したといわれています。寺院は解体されて萩に移りましたが、五重塔は残されました。のちに、香積寺の跡地に瑠璃光寺が引っ越して来たため、この地は現在、瑠璃光寺となって、五重塔も瑠璃光寺五重塔となりました。何となくややこしい気がしますが、寺院の引っ越しというのはよくあることです。
公園には瑠璃光寺 & その五重塔はもとより、大内弘世の銅像から明治維新関連の枕流亭や露山堂まであって、山口のイイトコほとんどすべて、一ヶ所で見れてしまいます、という雰囲気。それはそれは素晴らしいことになっています。ただし、深く掘り下げようとすればするほど、あまりに見るものが多すぎて圧し潰されてしまう点には注意が必要。大内弘世さんの時代と明治維新とでは、あまりに飛躍しすぎています。これほど長い期間の歴史をすべて理解しようと思うことが所詮無理と思いましょう。もちろん、山口市を愛する人にとっては最終到達地点はそこであるべきですが。
というようなことで、香山公園は何でもありの憩いの広場。大内文化に興味がありますの人も、明治維新勉強してますの人も、五重塔を眺めながら至福の時を過ごせればそれでいい人も、楽しみ方は人それぞれ。何度来ても、何時間いても、楽しみは尽きない、そんな場所です。
歴史解説じゃないよな、これ。
だってだって、どこにもこの公園が何年にできました、とか書いてないもん(だから、見出しも『概観』て改めて誤魔化しました)。
香山公園・みどころ
香山墓地 & うぐいす張りの石畳
「萩藩主毛利家墓所」とあるので、本家のお殿様歴代の墓所かと思っていました(敷地広大だし)。しかし、説明看板によれば、十三代・毛利敬親公が萩から山口に移られた後、ここを墓地として使うために造営された、とあります。つまりは、山口で亡くなられた敬親公以降のお殿様、ご子孫の墓地ということになろうかと。
墓地はこの石段を上って行った先にあります。毛利のお殿様の身内ではないので、明治維新の偉業に感謝しつつ、ここからそっと手を合せました。
ここら辺で手を叩くと音が反射して響きます。それゆえに、「うぐいす張りの石畳」と呼ばれ、親しまれています。
ひゃー、面白い!! パンパン、っと。
ガイドさんと五郎のは響くのに、ミルが叩いても音が返って来ないの……。
へなっと叩いてはダメなのであって、パンパン、と力強く叩かないといけないようです(特に力いれなくてもいいけど、弱々しすぎると反応しないみたい)。
勅撰銅碑
「勅撰」は勅撰和歌集とかの勅撰、つまり、天皇関係。明治天皇が毛利敬親公の功績を称えるために建立をお命じになったものです。説明看板によると「篆額は彰仁親王の書、文は川田剛が撰し、それを書いたのが野村素介である」。篆額というのが難しいですが、調べてあれこれ出てきたことをまとめると、篆書体で書かれた石碑の題字ってことらしい。野村素介さんという方は、山口市出身の著名な書家であり、この勅撰銅碑は、「日本に数基ある勅撰銅碑の内もっとも美しいものとして有名」。
この手の石碑ではない「碑」も、そこらじゅうにたくさんありますが、それらの中で「もっとも美しい」とは。碑文に美しいとか美しくないとかあるという概念がなかったので、驚いた次第です。つぎからは、碑文を見る際に、美しいかどうか気にしてみようと思います(どれも同じに見えてしまいますけども……)。
露山堂
毛利敬親公が名君と称えられる所以は色々あるけれども、その中に、身分にかかわりなく様々な人々の意見を聞いた、ということがあります。普段はお殿様のお姿などとても拝めないような下級の家来でも、お茶会に招かれるというかたちならば茶室に入れたらしい。元々は現在の県庁あたり、一露山のふもとにあったので、一露山の一の字を省いて露山堂と名付けられました。明治維新後は、場所も持ち主も変遷し、建物も傷んでしまっていました。明治時代に、品川弥二郎さんたちが買い取ってこの地に移したといいます。(参照:説明看板)
枕流亭
「ちんりゅうてい」と読みます。「明治維新史跡」に指定されています。旧安部家の離れで、もとは一の坂川河畔にあったのがその名の由来、とあります。かつて、この建物の中で、明治維新の有名どころが集まって話し合いがもたれたそうです。
「幕末、七卿落ち、蛤御門の戦などで薩長両藩に大きな溝ができたが、勤王の大義と討幕の目的のためには、両藩が離反していることは大きな支障であるとして、土佐の坂本龍馬らの奔走によって、両藩連合の話し合いが進 められた。ここにおいて、慶応三年(一八六七) 九月、薩摩の藩士西郷吉之助 (隆盛)、大久保一蔵 (利通)、小松帯刀、大山格之助らが山口に来訪した。
これに対し、長州藩は木戸準一郎 (孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)、品川弥二郎らが迎え、枕流亭の階上において薩長連合の密議をかさね、連合討幕軍の結成を誓ったのである。 実にこの枕流亭は、明治維新のあけぼのをつくった記念すべき建物である。」(山口市教育委員会説明看板)
建物は、何度かの移築を経て昭和35年にこの場所に移ってきました。
こうしてみると、香山公園は大内家ゆかりの云々ではなくて、山口市民のものであって、どの時代の何でも、貴重なものはここに集められるんだな、と感じますね。
若山牧水歌碑
若山牧水が二十一歳の時、五重塔を見て詠んだ歌「はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 古塔のもとに 立てる旅人」を刻した歌碑。昭和39年(1964)6月3日制作、材質は花崗岩。同じ花崗岩は、明治時代、皇居造営の礎石としても使われたほどの良質なものだそうです。
若山牧水は宮崎県出身の有名な歌人。名前くらいしか知らないけど。「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」という有名な作品をガイドさんに教えていただきました。有名なので、確かにどこかできいたことがあるお歌です。何と美しい情景を詠んだ歌なのだろうか、と(よく分らないけど)感じるこの歌、じつは背後に複雑な恋愛関係が隠されているとかいないとか。知らなければそれまでなのに、わかってしまうと思い浮かぶ景色もただの麗しい情景ではなくなってしまいますね。まあ、歌などというものは、詠んだ本人に問い合わせなければ本当の意味などわからないものではあります。
なお、この石碑に書かれた文字は、牧水夫人の手になるものであるといいます。(参照:説明看板、山口市様 HP)
友廣保一歌碑
友廣保一という方は、山口県様 HP の「やまぐちの文学者たち」のリストにお名前が載っていますが、現在リンクが切れていてお名前の読み方が「ともひろやすいち」さんであること以外、調べられませんでした。説明看板によると、「アララギ」の同人で斎藤茂吉などの直弟子。長年に渡り山口県の歌壇に貢献した方であるとのこと。この石碑はその功績を称えるために立てられたもので、「在り慣れて散歩のところ池の辺に五重塔に心はよりて」という歌が刻されています。
ガイドさんから、この背後にある木についてのお話をうかがったのに、木の名前を忘れてしまいました。神社や寺院によく植えられている樹木とのことで、ご一緒している間、ほかの神社でも見かけて教えてくださったのですが。この木、何だったろう(涙)。(なんとなくですが、『シキミ』だった気がします。むろん、検索しまくりましたが、よく分りませんでした)。
司馬遼太郎「街道をゆく」長州路の碑
こちらも、ガイドさんからエピソードをお伺いしたのですが、やはり忘れてしまいました……。
大内弘世公像
山口に本拠を移したのは、大内弘世である、というのが通説。市内には弘世時代創建の寺院が数え切れないほどあります。恐らく、市民が一番好きな大内家当主の一人。⇒ 関連記事:大内弘世
この方の銅像がここに建っていることからしても、香山公園が山口市民の人々にとってどれだけ大切な場所なのかがわかるというもの。しかし、ほかにもあれやこれやの観光資源がありすぎて、弘世公も埋もれてしまっているかと思われるほど。
明治維新関連の史跡は、それらが重要なものであるがゆえに、この地に移されて大切に保存されています。しかし、元々は別の場所にあったのです。ここは、元香積寺跡。五重塔も香積寺にあったもの。大内文化の遺産であることを忘れずに(忘れる人もいないと思われますが)。
画聖雪舟像
雲谷庵跡には像がありませんでしたが、こっちにおられました。像の左手に説明看板があり、この向かいの山裾に雲谷庵の跡が残っている、と書いてあります。山口市様ほかの HP によると、この像の場所から雲谷庵が見える、とのことですが……。そういえば、雲谷庵にも、五重塔が見えるという台がありました。とんでもなく小さくてほとんど見えなかったので、ここから雲谷庵を見てもおそらく同じことになろうかと。五重塔のように大きく(高く)ないので、見付けるのはさらに難しいと思われます(見落としたことを言い訳しています)。⇒ 関連記事:雲谷菴
紙本栄一先生之像
「居合道範士」「剣道範士」と刻まれておりました。どなたなのか存じ上げなかったのですが、ウィキペディアによりますと、山口県出身で、「全日本剣道連盟居合の制定に尽力」なさった、とあります。「1984年2月、銅像設立実行委員会により」五重塔前に立てられました。(参照:ウィキペディア)
疲れた……。貴重なお話をほとんど忘れてしまうなんて、悲しすぎる……。
つぎの機会にまた質問すればいいだけじゃん。来年もまた来るぞ!
香山公園(山口市香山町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0081 山口市香山町7−1
アクセス
山口駅から町歩きで30分くらい。バスも出ています。
常に歩くことが推奨されているようだけど、駅からはかなりあるよ。
山口は町そのものがまるっとみどころの山。歩かないと分らないことだらけだよ。
以前、タクシー貸切り二日間旅をやったら、思いっきり楽チンな上、親切な運転手さま方にあれこれ貴重なお話もお伺いできた。とんでもなく料金がかかるけど、かなり遠いところまで、あますところなく見れてしまうという意味では、仕方ない出費だった……と思うことに(その後、数ヶ月の貧乏生活は思い出したくないケド)。でも、帰宅後何かが足りない、と感じた。歩いてないので、山口という町の香りを肌で感じるという経験値がゼロだったの。
新介さまもお忍び歩きをなさるでしょう? 民の暮らしを知るためにはやはり歩いてみないと分らないことってあるのだと思います。京都で将軍様にお仕えしている父上は、なかなか分国に帰れませんが。在京しなくなった田舎大名の若子様というお立場ならば……。
何が京都で将軍様にお仕えしている、だよ。年がら年中俺の親父に喧嘩売ってて、京都になんかいないじゃないのさ。それに、お前の今のその発言、とても危険だぜ。どうなっても俺の知ったこっちゃないが。
安心しろよ。近現代の史跡については先々代は目を通してない。けど、俺は聞いたからな。「田舎」大名っての。燃え尽きた京都より山口のほうが遙かに先進的だ。お前、焼け野原でなにやってんの?
参照文献:山口市様 HP、山口県様 HP、ウィキペディア、各文化財説明看板、案内看板。
香山公園(山口市香山町)について:まとめ & 感想
香山公園・まとめ
- 瑠璃光寺五重塔がある付近一帯を香山公園という
- 五重塔がある瑠璃光寺、お隣の毛利元就菩提寺・洞春寺を拝観できる
- 明治維新関連史跡として、枕流亭、露山堂が移築されている
- 明治維新期の当主・毛利敬親はじめ、毛利家の墓所がある(香山墓地)。墓所の付近は「うぐいす張りの石畳」と言われている
- 若山牧水、友廣保一の歌碑がある
- 雪舟の像、および、大内弘世の騎馬像がある
- 大内文化の最大の遺産ともいえる「五重塔」から、明治維新の志士たちゆかりの史跡まで、山口にかかわるあれこれがまるっとみれてしまう夢の空間
香山公園の範囲がどこからどこまでなのか、ということが、実は未だによく分りません。案内看板にある通りってことになると思われますが、瑠璃光寺さまと洞春寺さまを中に入れてしまってよいものかと悩ましいのです。もし、この二つを入れてしまったら、全国最強の公園となること必定ですね。だって、二つの寺院さまがそれぞれすさまじい観光資源なので。それを併せもつとなれば、他の追随を許さないでしょう。さすがに、それはないのではないか、と思うものの、少なくとも五重塔は公園内にあるものとして間違っていないと思われ。それだけでも、スゴいことに……。
公園にも色々あって、レジャー施設がメインだったりとかあれこれですが、こちらは完全に奥ゆかしい景色を楽しむところです。五重塔を見ながらぼんやりとベンチに腰を下ろしていたら日が暮れてしまった、とか普通にありそうです。ただ、そうも言ってはおられないのは、枕流亭を見て、露山堂を見て……とあれやこれや、見るべきものがたくさんあるので、リピーター以外の人は、ぼんやりする前にそちらです。
明治維新よくわからないので、枕流亭の中にお写真が貼ってある方々ほぼ全員「?」でした。ご案内のガイドさんも唖然です。大内氏? 誰それ? って人はかなりの数存在します。でも、明治維新のほうは皆さんご存じなんでしょうかね。恥ずかしいのでガイドさんとお別れした後、こっそりもう一度見に行きましたが、混んでいたのでみっともないから早々に退散しました。やはり、人気の観光スポットなんですね。思うに、市内、県内だけではなく、全国から明治維新に関心がある方が訪れるのではないかと。そういう方は萩のほうに行くのだとばかり思っていましたが、山口にもこんな史跡があるんだなぁ、と感心した次第。そもそも、政庁が山口に移されたとか知らなかったし。
もしも、山口に政庁を移す云々がなかったら、洞春寺さまは今も萩にあって、現在の洞春寺さまは常栄寺のままだったろうか、とか、いつも頭の中がグチャグチャになるあれこれについて考えてしまいました。そもそも、その場合、県庁所在地も山口ではなくて、萩になったんでは? ココは明治維新を学ぶ人のための公園だ、と思うと弘世さんの像がでーーんとあるので、なんだか不可思議な気分になりました。そもそも、五重塔がある公園なのだから、大内文化を満喫するための公園じゃないのか、と思ったり。新旧取り混ぜ、山口の歴史、何でもありますよ、が正解ですね。きっと。
こんな方におすすめ
- 国宝の五重塔を見ながらほっこりしたい
- 明治維新の史跡を見て回っています
オススメ度
普通の公園です。ただし、そこで見られるものの数々がスゴいので、正直採点不能です。一つ一つの史跡についての感じ方は人それぞれなので、訪れる人の数だけ評価も変るでしょう。あくまで、休憩するための公園とみた場合は、本当に普通です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
弘世公の騎馬像カッコよかったなぁ……。
どうした? カッコいいものが見れたなら、普通に喜んでいるはずなのに?
祖父さまとか、俺の父上とかの銅像はないなぁ……と思った。やっぱ、家来だと銅像にはなれないの? でも、雪舟の像なんて、ここにも常栄寺にもあったのになぁ。家来は芸術家以下なのか……。
そんなことはないけど……。そもそも、銅像があるかどうかなんて、たいして重要なことではないと思うよ。むろん、崇敬していない人の像など造らないので、市民の皆さんが弘世さんが大好きなのは分るけど。でも、法泉寺さまの銅像だってないじゃん? そんなもののあるなしで、悲しむような君じゃないと思ってたのに。