イマドキやまぐち

岩国城(岩国市横山)

岩国城・復元天守閣

山口県岩国市横山の岩国城とは?

吉川広家が居城として建てた近世城郭。山の上に佇むその姿は、岩国の城下町と錦川の流れ、川に架かる錦帯橋の美しさと一体化し、得も言われぬ風情を醸し出しています。

徳川幕府の一国一城の制云々で破却され、いわゆる創建時そのままの現存天守でないことが非常に悔やまれます。けれども、当時の姿に忠実に再現され、錦帯橋とともに岩国のシンボルとなっています。

高台にあるため、登城にはロープーウエーを使います。わずかに数分で到着しますが、眼下に広がる岩国の町並みの美しさを堪能できます。もちろん、天守からも町を見下ろすことができ、展望が素晴らしいです。

岩国城・基本情報

正式名称 岩国城
別名 横山城
立地 山頂
標高(比高) 214メートル(210)
築城・着工開始 慶長六年(1601)八月着工、慶長十三年(1608)竣工
廃城年 元和元年(1615)
築城者 吉川広家
廃城主 同上
遺構 郭、堀、石垣ほか 
(参照:岩国城パンフレット、『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』、『日本の城辞典』)

岩国城・歴史

毛利家の防長移転と吉川広家の岩国移転

東軍・西軍とか聞くと応仁の乱しか思い浮かばないのですけど、天下分け目とかで戦国時代大好きな人が萌える関ヶ原の戦いとやら(慶長五年、1600)ののち、吉川家は出雲富田から岩国の地に移りました。新天地に、居城として相応しい立派な城を築こうとして造られたのが岩国城です。

現在、城跡と復元天守の所在地となっている「横山」というのは、城が建てられた山のことで、「西南から東北に伸びていて、屏風のように横たわった山」(参照:天守入場券)で、200メートルほどの高さがあるそうです。「山の三方を迂回する」(同)錦川を天然の外堀とし、城下町が造られました。

この錦川の流れがとても美しく、鵜飼いでも有名です。そして、この川に架かっているのが錦帯橋です。川、橋、城下町の面影が残る町並みと何もかもが麗しい岩国の町を見下ろす高台に佇む天守閣。何とも言えぬ趣があります。

全国見渡せば、風情ある城下町として売り出している自治体は数え切れないですが、岩国を見たらもうほかのところはどうでもいいと思いました。かように美しい町づくりをなさった、吉川広家さんというお殿さまに俄然興味が湧いてくるではないですか。

吉川家は元々安芸国の国人でしたが、毛利元就が次男の元春を養子に入れたことで、その後は毛利家の一族となりました。広家はその三男にあたります。長男ではないのに家督を継いでいるのは兄が亡くなったからです。元は吉川元春の居城だった日野山城に、戦国の世が落ち着いてからは父・元春が隠居所として城付近に建てた館跡に住んでいましたが、豊臣秀吉の命令により出雲に国替え。元尼子家のものだった月山富田城に住むことになります。これからは出雲国の人になるのかと、富田城より利便性の高い米子に新たな城を築くことにします。

ところが、築城の最中に例の関ヶ原が起り、負けた側の毛利家は広島を追い出され、吉川家も岩国に引っ越しとなります。「天下人」(秀吉 ⇒ 家康)とやらの都合で、好き勝手に居住地を変えられて面倒なことこの上ないですね(勝てばよかったんだけどね)。

岩国は山口への入口

当たり前すぎるタイトルですが、これはとても重要。廿日市から岩国は目と鼻の先という感じなので、何度も行きました。あまりに近いのでもはや、広島文化圏なのではないか、と感じるほどです。毛利元就の防長経略で、有名な激戦地(というか単なる哀れな最期の砦)となった、須々万の沼城。広島から入って岩国を抜け、須々万まで行くと、山口に通じる道の途上にあることがまる分かりです。つまりはここを落とせないと先に進めないと同時に、落とされたら市内まで入られてしまうので、凄まじい攻防戦(というか囲まれてて、籠もっていただけですが……)になったわけです。……というようなことが、現代の車道を走っていてひしひしと感じられるそうでして。

今でこそ、県境を越えるのなど人々の自由で、ガードレールの色が変ったら、あ、山口入った……となるだけです。でも、昔はそうはいきません。となりは別の国で、その境目にあるとなれば、防衛上、極めて重要な場所ということになります。

この頃はまだ、元就とともに防長経略に参加した老臣たちが残っていました。彼らの意見なども参考に、地理上重要な現在の場所が築城地点に選ばれた模様です(参照:岩国城パンフレット)

城の形

「天下分け目」とやらが終わり、戦争のない世の中となったはずですが、なおも油断は禁物です。とは申せ、中世から近世へと移り行き、オダノブナガだのなんかが出てきた時代ともなると、日々是合戦で昔のように、平地に館、いざとなったら詰めの山城へという形ではなくなっていました。常に戦闘状態なので、もはや城の中に住んでしまおう、ってことで城は平地に建てられ、城主の館もその中に造られました。城の防御技術も進歩し、ただでさえ登るのがたいへんな山の中などに、天然の地形を利用しただけの簡単な城を造る時代ではなくなったのです。経済も発展し、城の近くでは城下町も栄えました。でもって、城主はその権力のシンボルとして、天守閣なる建物を建てるように(未だに分んない。なんなのアレ?)

というようなわけで、広家居城も、立派な天守閣を備えた平城になりそうなものですが。一つには大きな平城を建てるには土地が狭かったこと、一つにはやはり未だに防御面も重視したことから、現在見るような山の上に立つ天守閣という稀有なお姿となりました。

築城開始は、岩国入り後の慶長六年(1601)八月から。最初に「御土居」と呼ばれる城主の居所が山麓に建てられました。それから山頂の城郭部分の建築に取りかかりますが、途中普請奉行が江戸城工事手伝いに駆り出されたり(どんだけ迷惑なんだろう……)して不在となったり、広家自身も留守になったりしたため、城郭工事は慶長十三年(1608)に漸く完了します。岩国城のパンフレットには、城普請において、奉行に丸投げではなく、広家自身も事細かに指示を出していたことから、築城名人として著名な藤堂高虎と比して、「大名でありながら技術者としての顔をもっている」と書いてあります。

せっかく築城したのに壊された

もうこれに尽きますよ。ナントカ幕府ってよほどの臆病者だったのですね(知りませんが)。城くらい、いくつあったっていいと思うのですが。明治に入ってからのことにはなりますが、岩国は藩として独立してたんですから、城持っててもいいじゃないですか。明治維新で前時代の遺物として、天守を破却させられたところも災難ですが(近世史わからない人物が書いています)、後から復元するくらいなら壊すなですよね。でも、岩国城に限っては、その時点ではなく、築城した途端に「一国一城」云々ですよ。やっとの思いで完成させたというのに。即座に破却させられる悲しさはいかばかりか。経済的損失も相当なものであったと推測されます。

ただこれ、じつはナントカ幕府だけの話ではないのです。「一国一城」の制ですよ。つまり旧国名で〇〇国には、城は一つってことですよね(多分)。この命令が出されたのは元和元年(1615)のことでした。その時点で、周防国には岩国にしかお城はありませんでした。ゆえに、広家さんは、破却する必要はないのではないか、と考えたようです。しかし、長門国には萩と長府に城があり、それゆえに長府のほうは破却の憂き目に遭います。そのような腹立たしい一件があったゆえにか、毛利輝元はお前のところも壊せと命じてきました。

例の関ヶ原で徳川家と内通していた云々の流れから嫌われていたみたいですね。本家には逆らえなかったのか、城は破却されることになりました。一国一城というのが、具体的になんなのか興味ないのでわかりませんが、この「一国」というのは、確かに旧国名一つにつき一ヶ所という意味にもとれますが、そんなこと言ったら一つの国にいくつも詰め込まれていた小さな家(そんなのあったか知らないけど)は、話し合いの結果どこか一つだけ残して、ほかの家は城なしになっちゃいますから、「一国」というのは「一大名家」のようにも取れますね(違ってたらごめんなさい)。その意味では、同じ毛利の国に城は一つだ! とタヌキ(息子の代?)に言われたら仕方ないとも言えます。二つも国持ってたわけなので。

破却の話には続きがありまして、教科書に載っている島原の乱とかいう、キリスト教徒の叛乱の時、破却された城が再利用されたとかで、城郭だけではなく「石垣」も壊せという新たな命令が出ました(臆病すぎる。そこまで、そこら中で反乱起こされたらどうしようと怯えるほど悪政を行なっていたんですかね)。これも、上から命令されたら仕方がないので、一部の石垣を破却して適当にごまかしたようです。だって、現在も石垣は残っていますから。よくぞ残してくださいました。おかげで、現代の我々も当時のままの石垣(一部分)を目にすることができるのです。

岩国城・みどころ

なぜか、城内の展示物は刀剣類が多いです。その話は事前に伺っていましたが、至る所で「刀ばっかりね」という言葉を聞いたので(主に女性)、皆さんそれなりに驚かれるようです。あるいは、ちょっとがっかりしたようにも聞こえます。逆に、刀剣類に関心がある方にとっては、何とも興味の尽きない展示品の数々となります。

みどころは、復元天守のほかに、天守からの展望や、天守に至るまでの道に残る遺構などです。

城の遠景

岩国城・遠景

下から見上げると、こんなに小さく見えます。でも、その遥かに仰ぎ見るお姿が本当に麗しいのです。

岩国城ロープーウエー

岩国城・ロープーウエー乗り場

右手に見えているのが、山頂へ向かうロープーウエー乗り場です。「山麓駅」から「山頂駅」まで、わずかに三分です。なお、背後に見えている「柏原美術館」は奈良時代から江戸時代までの、甲冑や刀剣類を中心に多くの美術品を所蔵していることで有名です。常設展示物のほか、年に四回特別展示が行なわれ、貴重な国指定重要文化財等が公開されます。なお、なにゆえにここにあるのか不明ながら「川中島合戦」の屏風絵が岩国市の指定文化財となっているようです(未見)。

岩国城・岩国城ロープーウエー

あいにくの雨降りながら、窓の外には錦川と城下町の町並みが見えました。

山道

岩国城・山道

じつは、ロープーウエーを降りたら、そこは復元天守だった、とはなりません。10 分ほど山道を歩かなくてはなりません。ご覧のように舗装された道路を歩くだけなので、たいして苦労することはありませんが。問題は、途中に見える「林」部分でして。天守や石垣は破却されたものの、かつて城であった遺構として、山城跡地のように堀などが残っているのです。そう聞くと、林の中をじっと見てしまいますが、例によって、普通にわかりにくいです。どこもそうのようにみえるし、違うようにも見えます。特にこれが堀です、とは書いていませんから、自ら目視するよりほかありません。

大釣井

岩国城・大釣井

例によって、井戸だけは分りやすいですね。

「岩国城本丸の西側にあたるこの周辺は水の手と呼ばれる。
水の手は城の水を確保する重要な場所であり、この大井戸も慶長十三年(一六〇八年)の築城の際につくられた。
また、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲された際や落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている」
(看板説明文)

復元天守

岩国城・復元天守

昭和三十七年(1962)年、三月に復元されたものです。およそ 350 年後に甦った広家さんの夢の跡。再現物であろうとなんであろうと、それはたいへんに貴重な岩国の人々の誇りです。考えてみたら、有名な寺社仏閣だって、元のままの建物ってわけではないのであるからして。全国各地の復元天守の皆さん、我が町のシンボルとしてのお役目、本当にご苦労様です。

なお、再建にあたり、建物は鉄筋コンクリートながら、残された絵図面などを参考に、なるべく当時のお姿に近いように再現されております。が、その配置は、元あった場所より50メートルほどズレております。これは、観光資源として錦帯橋や、街並みの中に映えるような場所に定めたためです。おかげで絶妙な場所にあるわけですが、この点はちょっとだけ、人工的に景観を作ってしまってますね。そのかわり、もともと天守が建っていた場所には当時を再現した石垣があります。

展望

岩国城・天守からの眺め

錦川がよくわかりますね。錦帯橋はちょっと小さく見えます。そのくらい、高いところにいるからです。

旧天守台

岩国城・旧天守台

こちらが、もともと天守が建っていた場所です。当時の石垣の石が多く残されていたので、復元整備されています。ここに建っていたら、下からはどう見えたのでしょうか。気になりますね。なお、石垣はほかにもあり、当時のままの姿の場所もあります。

山道(二)

岩国城・山道(2)

帰り道の山道を見下ろしました。なんとなく、雰囲気が中世山城に似ていますよね。実際、岩国城には、堀が三本あるそうです。畝上竪堀群とは書いてないので、全域に三本ってことかと。どれがその堀なのかなどわかるはずもありません。どのみち木が生い茂っており、仮に現地では見つけられても、写真に撮って帰るとどこがどうなっているのか判別できない状態になります。

岩国城・山道(3)

岩国城・山道(4)

ご一緒した廿日市の先生も、どことなく中世の城みたいに見えるね、と仰っていました。雰囲気はまさにそうなんです。これなんか、堀にも見えるとごちておられたのは、まさに堀だったのだろうと。見てもわかりませんでしたが。最後の一枚には、わかりにくいですが、石が見えています。明らかに人工的に手を加えた痕跡のような気がしました。

展望(二)

岩国城・展望(案内プレート)

これはいったい、どこから見下ろしているのでしょうか。天守閣から出て、山道を歩き、その後で現れた展望スポットと思われます。その場でメモしておかないと、帰宅後には何もわからなくなってしまいますね……。

御城印

岩国城・御城印

岩国城・御城印(2)

御朱印と御城印は思い入れのある場所のものしか購入せず、集めてはいません。岩国城のそれは、三種類もあって(20240305現在)一つ選べと言われても悩ましいので、ちょっとした散財になってしまいました。ここに載せてないもう一つは、岩国城の墨書の字体が違います。ナントカ体ってありますよね? そういう読めない字で書かれてました……。下のものは、カードタイプで、裏表があります。裏には100名城と書かれているだけですけどね。

岩国城(山口県岩国市横山)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒741-0081 岩国市横山3丁目

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

岩国で唯一残念なのは、「岩国」「新岩国」のような鉄道駅からいわゆる観光地としての岩国が遠いことです。ただし、これだけみどころ満載の町ですから、公共交通機関(バス)が充実しております。

行き方は三つ。岩国、新岩国、錦川鉄道の駅(駅名忘れた)それぞれからバスが接続しています。お金はかかりますが、タクシーも使えます。マイカーならばどこからでも行けます。

参照文献:岩国城パンフレット、『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』、『日本の城辞典』

岩国城(岩国市横山)について:まとめ & 感想

岩国城(岩国市横山)・まとめ

  1. 吉川広家が建てた吉川家の居城だった
  2. 「一国一城」の制により、築城後に破却されてしまい、わずかな期間しか存在しなかった
  3. 戦後、天守閣を再建しようという気運が高まり、昭和三十七年に現在の天守が復元された
  4. 横山の山頂に佇む姿は極めて美しく、麓からロープーウエーで上っていく。所要時間は約3分
  5. 高台にあるため、天守からの展望が素晴らしく、岩国の町が見下ろせる
  6. なお、ロープーウエーを使わず、歩いて山頂をめざすこともでき、地元の方々の散歩コースとしても親しまれている。徒歩で行くと45分ほどかかる

これまで生きてきて、見学した記憶がある近世天守閣のある城は、高知城(実家)、松本城(修学旅行、なにゆえ、修学旅行がココ!?)、名古屋城(親戚在住)、小田原城(遠足)、広島城(天守閣には入っていない)だけです。子どもの頃は、お城には天守閣があるもの、という認識だったので、今のように山城ばかり行く身分になるとは、夢にも思いませんでした。大内氏が近世まで存続していて天守閣造っていたら、この状態は少し変っていたかもしれませんが。そんな具合なので、岩国城行こうか? というお誘いにもあまり乗り気ではなかったのを覚えています。錦帯橋を見て感激した後、城のなかには刀剣類の展示しかないし、近世天守閣だし、しかも再建物だからスルーしようか? という言葉にそうします、と速答。かわりに永興寺に行って帰ってしまいました(時間の関係)。

しかし、その時から山の上に佇む天守閣にロープーウエーて行く、ということをすごいなと感じ、チラ見えた山頂の天守にも萌え萌え。まさか、もう一度来る機会があるとは思わなかったので、二回目はパスするなんて選択肢はありませんでした。上に書いた「行ったことがある」城の中に、こんな麗しいロケーションの城はないですから。全国見渡せば、山の上に建っているところもあるかもしれませんが、今後も近世天守閣の城とは縁がないことを思えば、岩国城が最初にして最後です。

平地にあっても天守閣からの展望というのはどこも素晴らしいものです。しかし、こちらは城自体が山頂にあるため、さらに高さが加わり、その眺望の素晴らしさは言葉に尽くせません。れいの「刀ばっかり」という声はそこここで聞こえ、刀に興味がない人にとっては、展示物は今ひとつだったのかもしれません。聞こえてきたのは女性の声ばかりでしたが、今は「刀剣女子」とかいう方々もいるらしいので、女性だから刃物は興味がない、とは言えませんけど。そもそも、城の展示物ってどんなものが多いのかなんて、最後に見た城がどこでいつだったかの記憶もないので、思い出せません。まあ、もしも、「刀ばっかり」の展示品に興味がない方がおられたとしても、展示品は気にせず、天守からの眺望を楽しんでくださればと思います。

こんな方におすすめ

  • 城巡りが趣味の人
  • 日本100名城制覇に向けて頑張っている人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(笑顔)
五郎

いいなぁ。父上に頼んで若山城にも天守閣を造ってもらおう。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

喜んでくれて嬉しいよ。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

ミルは刀剣を見てもなんだかわからないからだろうけど、俺は展示品にも満足した。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

確かに見てもわかんない……。でも、お城の展示品って何が多いのか、本当にすっかり忘れちゃった。ほかのお城も刀剣ばかりかもしれない。ん? でも、そうならば、刀ばっかりじゃん、ってつまらなそうに言っていたおばさんたちが何に期待していたのか謎。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

そんなことより、お前ら、本棚に『岩国市史』があるのに、開きもせずに書いているとはどういう了見だ?

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

余計なお世話だよ。どうせりらいととやらをするので。一度目はこんなもの。あんな分厚い上下二巻もある本、ミルによみこなせるはずがないだろう。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

それには一理あるな。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そういうところで、意見一致させなくていいから。

鶴千代イメージ画像
藩政期・明治維新・現代の観光資源

大内氏について語るというメインテーマとは外れる県内の主要観光資源についてご紹介している記事の目次ページです。当然のことながら、毛利氏に関するところが多いので、広島県内の訪問済み箇所も混じっています。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
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