イマドキやまぐち

山口城跡 旧山口藩庁門

2022年9月23日

山口城跡・基本情報

所在地 〒753-0071 山口県山口市滝町1
最寄り駅 山口駅、県庁前バス停

五郎

山口には大内氏館跡があっただけじゃないの? 毛利家の人は萩に住んでいたはずだし。山口「城」って何?

ミル

1555年までの知識しかないミルたちに、その後の歴史なんてわかるはずないよ。だけど、立派な「藩庁門」やお堀を見る限り、ここは明らかに近世の城跡だよ。

山口城跡・歴史

日本史の授業は原始人から始まって、たいてい時間切れで明治時代までは辿り着かない、というのが昔話にあった。そうでなくとも、山口 = 大内文化と思っているミルたちは、明治維新の知識がまったくない。しかし、知らないと町歩きの楽しみも半減。関連史跡は数多いからだ。だいたい、平和な世の中で、まったりと生きているこのイマドキの時代があるのは、維新の志士たちが活躍してくれたおかげだ。知りたいと強く望んではいるけれども、奥が深くてとても無理だ。今回毛利敬親公を尊敬するガイドさんがあれこれと興味深いお話をしてくださったが、貴重なお話もあっと言う間に忘却の彼方に。

世間一般の方々にとっては常識なので、当然知っていることとして基本事項の解説は抜きでお話が進んで行った。それらのことを、じつは知らなかったから、その場では理解できないところが多々あった。後からこっそり調べつつ、記憶を辿り寄せていくしかない。あくまで、記憶を呼び戻しているだけだから、内容に誤りがあったとしたら、それはガイドさんのお話がそうであったのではなく、すべてミルたちによる曖昧な理解と、忘却によるものだ。

文久二年(1862)、長州藩は攘夷に備えて内陸部に拠点を移すことにした。

五郎

ジョウイって何?

ミル

外国をやっつける、ってことじゃないかな。元寇で異国警固番役を置いたときみたいに、攻めてきたら危険だから準備したのでは? 攻めてくるのはモンゴル人じゃなく、サビエルみたいな西洋人っぽいけど。

どこに引っ越そうか、ということで、かつて大内氏の「都」として栄えた山口の地を選んだ。

そもそも、地理的にみて、本拠地を置くのにこれほど素晴らしい土地はないと思われる山口ではなく、萩の地に城を建てていたことにも理由がある。毛利氏を防長二ヶ国に押し込めるにあたり、徳川幕府はそれでも油断ならず、山口のような優れた場所に本拠地を構えられることに難色をしめしたという経緯があったらしい。

で、江戸時代もまもなく終わることになるこの頃、長きに渡って国の政治の中心から外れていた山口の地が、ようやく元通りの中心地に戻ることになった。

「山口御屋形」といわれた山口の城は、元治元年(1864)、洋式「稜堡式城郭」として完成したが、第一次長州出兵で壊されてしまった。

五郎

……

ミル

わかるよ。長州出兵、って何? だよね? 幕府を倒そう、っていう長州藩と幕府は仲が悪かった。室町時代的にいえば、あやつらけしからん「御敵」である、って凶徒認定されてしまって、幕府の命令に従わざるを得なかった他藩の人も含めた討伐軍が大挙して押し寄せた。この時点ではまだ幕府をやっつけるまでの力はなかった長州藩は負けてしまって、せっかく作ったお城は壊されちゃったんだよ(というようなことだろうと思っている)。

五郎

昔もこの時も、幕府ってのは常に横暴だな。

藩庁門のところに書いてある説明文によれば、敵軍が破壊したというのではなく、和解交渉の結果破却されたということです。

のちに、城は再建され、慶応元年(1866)にお殿様が城にお入りになった。

案内看板の地図を見る限り、現在の県庁付近から後ろは香山公園のあたりまで、ものすごく広大なものだったみたい。

山口城跡・みどころ

明治維新後、近代的な町づくりが進む中で、かつての殿様たちのお城も姿を消していく。山口の城も今は城跡となってしまったが、今もその名残を留めているものがいくつかある。特に、藩庁門は史跡として観光スポットになっている。

旧山口藩庁門

山口県指定有形文化財。最初の門は、第一次長州征伐の和議によって破却され、現在のこの門は、明治三年(1870)に再建されたもの、と看板説明文がある。上の(↑)「山口城跡」看板説明文によれば、第一次長州征伐による破却の後、城が再建され藩主が入城したのは、慶応元年(1866)だったから、再建年が一致しない。門だけが後から作られたという意味なのかは勉強不足のためわかりません。門そのもののほか、土塁と石垣も有形文化財。

この門は建築様式的分類(?)でいうところの「薬医門」です。城内への出入りは厳しく管理されており、普通は下々の者が平然と入ることなどできるはずはありません。時間帯によっても出入禁止だったでしょう。しかし、お医者さんだけは別で、緊急性がある案件でお呼びがかかることから、24時間体制で特別に入ることができたそうです。

五郎

右側の、常に開けっ放しのところが、お医者さん専用通路かな?

ミル

さあ、どうだろう? 常に開いているのかどうかも知らないけど、現在は県庁などの方々が頻繁に出入りしているみたいだったね。もちろん、ミルたちも普通に通れたよ。

土塀。木造漆喰塗り。瓦の文様に毛利家以外のものが混じっているということで、あらら本当だ! と、思って見ていたのですが、写真には毛利家の印が一つも写っていなかった……(現地で見たときも、毛利家のじゃないものがほとんどではありました)。

この写真からはまったくわかりませんが、説明看板にも、ガイドさんのご説明でも、「新旧の石組み」というお話が出てきます。堀の一部はいったん埋められてしまって、そのあと復元されたため、元々のまま残っている昔の石組みヶ所と、復元された現代の石組みとが混在しているのです。

これを見ても、ナニコレ? となりますが、藩庁門です。中央に見えるキズのような部分、これは脱隊兵士の反乱の時、反乱者がつけた刀傷なんです。県内の郷土史のご本にはこの、脱隊兵士のことがよく出てきます。至る所の立て看板で見かけたし。でも、生々しい刀傷を見ると、たいへんな騒動だったのだということがよく分りますね。

次郎

で? 脱隊兵士の説明はしてくれないわけ?

五郎

知識のないミルには明治維新の解説は無理だよ。俺も検索して自力で調べた。

石垣跡

五郎

あっ、これは……。

ミル

そうです。築山館跡で出てきた石垣です。

案内看板には「東稜堡の石垣跡」と書かれていて、写真が載っていました。これとは微妙に違いますから、これがその、「東稜堡の」石垣かどうかはわかりません。でも、築山館跡で、城の石垣にされてしまった、と言われた石たちですから、当然この石垣は城のものですよ。

次郎

俺しか読んでないからいいけど、あまりにいい加減な連中な。

ミル

だってもう、疲れ果てた……。ミルたち、日本史参考書も中世までの分冊しか持っていないのに、新しいことわかるはずがない。菜香亭で明治維新の本を買おうかものすごく迷ったけれど、今ある本を読んでからにしようと思ったの。

現状はここまでが限界です。写真は撮ってあるので、理解できたらリライトします。永遠にできないかも知れませんが。

アクセス

山口駅から徒歩。もしくは、県庁前バス停からすぐ。

参照文献:説明看板

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