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源久寺(山口県山口市仁保下郷)

源久寺

山口県山口市仁保下郷土井の源久寺とは?

源頼朝に仕えていた平子重経は、源平合戦で活躍した恩賞として周防国に領地を得、地頭職に補任されて下向しました。頼朝の死後、その菩提を弔うために重経によって建立されたのがこの源久寺です。名前の通り、源家の久しい繁栄を願ってのものだったと思われます。

頼朝の嫡流はわずか三代で途絶え、鎌倉幕府の重鎮だった重経の身内・三浦一族も滅亡しましたが、周防の地に根を張った重経の子孫はその後も繁栄。仁保氏として、活躍します(江戸時代になって、三浦氏と名乗ります)。寺院には一族ゆかりの貴重な文化財が多数あるほか、蓮の花が美しい寺院としても有名です。

源久寺・基本情報

所在地 〒753-0303 山口市仁保下郷土井 2910−1
(※Googlemap にあった住所です)
山号・寺号・本尊 仁楽山・源久寺・阿弥陀如来
宗派 曹洞宗
(参照:『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』、『山口県寺院沿革史』)

源久寺・歴史

鎌倉御家人・三浦氏ゆかりの寺院

『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれています。

「当寺院の開基は平子重経である。桓武天皇七代の後裔・三浦大祖平太夫為道の三男・三浦平太夫為名の次男・平三郎道継八代の苗裔にあたる。木工亮平子重経は武勇に優れ、賢い人だった。合戦のたび、源頼朝公に従い、忠義を尽した。大将として先頭に立ち、退くことなく命がけで敵陣に切り込むこと数度にわたった(すなわち、治承四年伊豆石橋山の合戦よりの戦闘のこと)。重経の忠節が抜きん出ていたがゆえに、右大将頼朝公より周防国六箇所の所領を賜った。

将軍家からの下文三通(原本は延享二年の災厄によって失われた)

一、石橋山合戦の褒賞として周防国仁保深野長野吉田恒富多々良庄宛行状
一、周防国仁保庄安堵状
一、周防国仁保庄地頭職に補任状

平子重経公は仁保の領地に館を建て、当寺院の開基となって四方の田畑を寄進した。鎮守として、鶴岡八幡宮(勅額は八幡大菩薩)を勧請し、当寺院の境内に鎮座させた。その後、鬼門である恵比須山に遷し、旧地には若宮大明神を祀り奉り、今当寺院の鎮守はこちらである。

仁保三浦第一祖 当寺院開基・平子重経
法名は源久寺殿西仁大禅定門、元和元年九月十四日寂

重経公の「長州渡川竜宮城行縁起」、将軍家代々の御証文、御朱印などがあるがここには記さない」

つまりは、鎌倉幕府の御家人として名高い三浦氏の一門である重経が、合戦で手柄を立てた恩賞として頼朝から下賜された地に下向してきて土着したわけです。重経は平子と称しており、やがて居を構えて落ち着いた仁保の地が名字の地となり、仁保氏を名乗ります。大内氏が勢力を広め、その支配下に入ってから活躍した時期には、仁保氏として登場します。よって、「仁保」というお名前のほうが見慣れています。しかし、事情はわかりませんが、後に毛利氏の時代になると再び三浦姓に戻っています。

宝治元年(1247)の宝治合戦において、鎌倉幕府の有力御家人であった三浦泰村は、執権・北条時頼によって討伐されてしまいます。これにより、三浦一族は滅ぼされてしまいました。遠く周防の地にあった平子重経の子孫らは難を逃れた模様ですが、遙かに程経て後、三浦姓に戻したことにはどんな意味が込められているのでしょうか。

相模国鎌倉にある三浦氏終焉の地

三浦一族供養のやぐら(説明看板)

「鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏が討たれ、北条家の得宗に権力が集中する機会となった宝治元年(1247年)の宝治合戦において、北条時頼に攻められた三浦泰村以下一族276人は、源頼朝法華堂にこもり自害したと伝えられています。
源頼朝法華堂があったとされる地とは60mほど離れていますが、ここは自害した三浦氏一族の供養が行なわれているやぐらです。
やぐら:13~15世紀頃に造られた横穴式の墳墓のこと。鎌倉とその周辺で特に多く見られます。
令和四年(2022年)3月 鎌倉市教育委員会」
(看板説明文)

三浦一族供養のやぐら(神奈川県鎌倉市)

宝治合戦で滅亡した三浦氏一族を供養するやぐら

源頼朝を供養するために建てられた寺院

『寺院沿革史』の記事からは、源久寺の開基が平子重経であったことと、重経が彼の地に寺院を築いたのは頼朝から土地を下賜され地頭職を得たからであったことしかわかりません。そこで、最近に書かれた書物などから、もう少し詳細な事情を補足しておきます。

源久寺略年表

建久八年(1197) 平子重経、地頭識補任により現地へ下向
正治元年(1199) 源頼朝死去 ⇒ 重経、その菩提を弔うために寺院を建立(源久寺)
元仁二年(1224) 平子重経死去 ⇒ 源久寺に葬る ⇒ 以後、一族の菩提寺となる
慶長年間 瑠璃光寺九世・雲南永岳和尚源久寺に入り、中興開山となる。曹洞宗に改宗
参照:『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』

重経が当寺院を建立したのは、源頼朝の菩提を弔うためだったのです。寺号の由来は「源家久昌」だといいますから、まさに源家の末永い繁栄を祈願する寺院でした。まさか、源家が三代で滅び去るとは夢にも思わなかったでしょう。さらには、重経亡き後、相模国に残った本家本元三浦一族が滅亡するなどとも。

何やら儚い夢の跡といった気分となります。けれども、源久寺のほうは、その後も仁保氏の菩提寺として繁栄し、現在に至ります。江戸時代に瑠璃光寺から中興開山とされるお坊さまがいらして、曹洞宗になったとのことですので、それ以前は別の宗派だったことになります。以前の宗派が何であったのか、また、開基は重経であるとわかっているものの、開山はどなただったのかについても明らかではないそうです。

寺院の本尊である阿弥陀如来坐像は重経が鎌倉から移したものであると伝えられています。いかにも遠い東国からやって来た人であること、主君であった頼朝はじめ、ゆかりの地・鎌倉との結びつきが強く感じられます。

源久寺・みどころ

鎌倉時代創建の由緒ある寺院です。平子重経の木像(国指定文化財)、本尊・阿弥陀如来坐像、重経の墓と伝えられる宝篋印塔、仁保弘有の肖像画(以上四点県指定文化財)などの貴重な重要文化財の宝庫であるほか、蓮の花が美しい寺院としても有名です。宝篋印塔は参道脇にありいつでも見ることが可能です。また、蓮の花についても、開花時期に合わせて参拝すれば美しさを愛でることができます。

山門

源久寺・山門

両端にいかめしい仁王像が立っておりました。

鐘楼

源久寺・鐘楼

いかにも新しいですし、特にいわれもないと思われます。お勤めに使われる立派な鐘です。

文化財説明看板

源久寺・文化財説明看板

入口にある文化財説明看板です。参拝しただけでお目にかかれるとは思えませんが、これだけ貴重なものがある寺院さまだということが分かれば十分です。それぞれの文化財については、自治体ホームページなどで写真を確認できます。

本堂

源久寺・本堂

オレンジ(?)の屋根瓦が美しい立派なご本堂です。幾度もの再建を繰り返してこられたと思われます。

大内菱?

源久寺・山門にあった大内菱

山門内側に、大内菱と思しきものが……。なんで? の一言です。

源久寺(山口市仁保下郷)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0303 山口市仁保下郷土井 2910−1
(※Googlemap にあった住所です)

アクセス

最寄り駅は山口線の「仁保」ですが、とんでもなく遠いです。徒歩では無理ですので、公共交通機関で行くことになると思われますが、友人の車に便乗して行きましたので、行き方は調査中です。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』、現地案内看板(源久寺、鎌倉市法華堂跡のやぐら)

源久寺(山口市仁保下郷)について:まとめ & 感想

源久寺(山口市仁保下郷)・まとめ

  1. 開基は平子重経で、鎌倉御家人三浦氏の一族
  2. 源平合戦期に立てた数々の勲功により、源頼朝から重経に周防国仁保ほかの地が恩賞として下賜され、地頭職に赴任されて下向(建久八年、1197)
  3. その後、頼朝が亡くなったので、その菩提を弔うために重経が建立したのが当寺院。源久寺は「源家久昌」という願いを込められての寺号だった
  4. しかし、源家はわずか三代で滅亡。重経の身内である三浦一族も北条氏によって滅ぼされた。しかし、周防の地にあった重経の一族はその後も繁栄し、居館のあった仁保の地を名字の地として仁保氏を名乗り、西国の歴史の中で活躍する。なお、江戸時代になって、子孫は三浦姓に復した
  5. 源久寺の開基は平子重経だが、開山は不明。曹洞宗になったのは、慶長年間に瑠璃光寺九世・雲南永岳和尚が寺院に入って以降のことで、同和尚は中興開山となっている
  6. 源久寺には、重経が鎌倉から移したとされる本尊・阿弥陀如来坐像(県指定)、重経の木像(国指定)、重経の墓とされる宝篋印塔(県指定)、仁保弘有肖像画(県指定)と、数々の重要文化財がある
  7. 蓮の花が美しい寺院としても有名

瑠璃光寺跡地に行った帰り、ご案内くださった方が、寄り道していきたいけどいいかしら? と仰って立ち寄られた寺院さまです。お名前だけは存じ上げておりましたが、平子重経が立てた、蓮の花が有名というくらいしか事前情報がありませんでした。蓮の花の時期はとうに過ぎておりましたし、特に見るべきものはない、という感じでした。見回してみましたが、何も見当たらず。ご本堂できちんとお参りしましたので、あるいは、ご本尊を目にしていたかもしれませんが、記憶にありません。

なお、重経のものと伝えられる宝篋印塔についてですが、参道わきにある、というご案内(本)ですので、目にした可能性もあるのですが、気付きませんでした。あるいはほかの場所に移されたのかもしれませんが、現状わかりません。蓮の花の時期に再訪をと考えておりますので、その際に確認できればと思います。本に載っている写真を見る限りでは、かなり大きな石塔ですので、見落としは考えられないのですが。車で参拝すると、参道は通り越して駐車場に向かっていることも考えられますので、惜しいことをしました(現状、再訪は難しいですので)。

こんな方におすすめ

  • 花の美しい寺社巡りがお好みの方(蓮の時期に)
  • 由緒ある寺院に関心がある方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

久々に出たな。ミルの「何も見ないで帰ってきました」が。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

仕方ないよ。この時はひとり旅ではなかったし。ご案内の方にお願いしていたのは他の場所だったので。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

お金かかるけど、次回、タクシー貸切りでここらも網羅しよう。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

お金がありませんったら。それに、タクシーで来たら同じことになるよ。後は、入口の文化財案内看板に、宝篋印塔のことが書いていなかったのも気になる。塔の前に書かれているんだろうか。だとすれば、看板が目につくので見落としはなさそうに思うんだよね……。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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