イマドキ『陰徳太平記』上巻

『陰徳太平記』曰く「尼子経久の陰謀」

右田弘詮イメージ画像

『陰徳太平記』曰く……「尼子経久の陰謀」

『陰徳太平記』が吉川家(毛利家)の歴史を綴った物語だとすれば、主役の吉川家、毛利家を中心としたストーリーとなるのは当然です。軍記物である以上は、メインは戦争、合戦ですし。となると、登場するのは吉川家、毛利家以外は「敵勢力」となります。もちろん、いずこかの勢力と手を結んでいる場合は、共闘関係にある味方も登場します。毛利家が中国地方の覇者となったことから、その周辺、九州や四国の勢力との関わりも描かれることとなり、担当エリアがものすごく広大となっております。

そんな中で、登場回数最多を誇るのは何と言っても大内、尼子両家でしょう。数えていないのでランキングとかできませんが。そのうち数えようかな(無理)。尼子経久の登場から始まり、大内氏滅亡後、毛利家が尼子をも滅ぼすまで出まくりなので、相当の文字数あると思われます。尼子家の滅亡は大内氏が歴史から消えたのちのことですので、こちらで取り上げるとしたらわずかな部分となりましょうかね。

今回取り上げるのは、大内も毛利も出て来ない、完全に尼子経久の物語部分です。なお、毎度のことながら、誤訳はとにかくとして、史実と違うと思われる点も敢えて書き直していませんので、あーー平気で嘘書いている! という苦情にはご対応できません。クレームについては恐山などに行って、直接香川さんとご交渉お願い申し上げます。

尼子経久隱謀之事

孟子曰く、「未だ利を好んで而もその君を愛する者は有らず(利を好みしかも主君を愛する者はいない)」。尼子伊予守経久は、源氏から分れ出た。出雲国に居住して数代、 与国属郡はすでに七ヶ国におよび、武名と功績は中国地方を脅かし、天下を圧倒した。大内義興とは、その国土の境界を接していたから、両国の間に住む国人たちは、朝には出雲に礼を執り行い、夕べには周防の命令に従い、「龍の如く変じ雷の如く動く」という具合であった。両家は互に相手の国を奪って手に入れたいと思い、長年に渡り戦闘を繰り返し、勢力を争った。両者の功名は二匹の虎の如くで優劣付けがたかった(ゆえに戦いは決着がつかなかった)。

ところで、今回将軍(足利義稙)が再任されたことは、ひとえに義興の功績である。将軍は甚だ重んじて、義興は一日に多額の金銭を賜り、一年に九回も官位が変った。りっぱな徳と高い名声は評判となり、武力の勢いも燃え上がる炎のように高まった。自らも武勇をふるったので、将兵らはへりくだり、頭を下げて参上した。そもそも、女性は美しくても醜くても、宮中に入れば嫉妬され、男性は賢くても愚かでも朝廷に入れば妬まれるのが世の常である。経久もまた、自らの威光が義興の下に立っていることを無念に思い、常に注意深く見て、欠点を曝こうとしていた。

こうしているところに、近江の佐々木貞頼は、義澄卿の御嫡子・義晴朝臣を長らく養育し、義軍を起こす時を待っていた。近国に力を合わせて相談する将がなかったので、大鵬南飛の風を待っていると、経久と義興が晁錯と爰盎のように勢力を争って対立していることを伝え聞き、経久に檄書(ふれぶみ)を送った。

「今天下は義稙卿の指図で動き、戦は終わりしばらく平穏となりました。けれども、義稙卿は豪奢な酒宴に興じ、「鶴に乗って魚を観る」の気ままにおぼれているので、皇族権門は無礼を恨み、庶民人民は、無慈悲を悲しんでいます。そもそも、悪い主を退けて善君を立て、苛政を改め正しい教えを広めることは、昔から今に至るまでこの上ない忠義であり、支配者がなすべきことです。わたくし貞頼は、先代主君の遺児・義晴卿を養育申し上げ、長いこと再興の時を待っていましたが、助けとなる人が欠けておりました。東から西まで国君城主をよくよく見てみましたが、わたしのために協力してくれる人は、あなたでなければほかに誰がいるでしょうか。

女というのは自分をありがたく受け入れてくれる者のために、化粧や身支度をするといいます。私はあなたを長く存じ上げており、すでにそのお心を理解するほど身近に感じています。しかもまた、われらは同族の近江源氏です。水と魚のように親しく、賢臣が聖主に仕えるように思いを一つにし、天下をまとめ、前後相応じて賊徒にあたる謀に加わらないということがありましょうか。鄧禹と馮異が心を合せれば、白水に龍を起こすのはきわめて容易です。大業が成就したら、勧賞はその功績によるので、あらかじめ推測するのは難しいですが、まずは、出雲、伯耆、因幡、美作、石見、備後はあなたの思いのままとすることをお約束しましょう。早く一致団結するという返事をください」と礼を厚くし、へりくだった言葉で、言い送って来た。

経久はこの書状を見るなり、渡し場に船を得、山中で仁獣に出逢った心地となった。吾が功を立つべきときが来たと悦び、いささかも考えをめぐらすこともなく、直ちに承諾の返書をしたためた。その後、ひそかに京都から逃れ下る。まずは仇敵・大内の国よりとり始め、それから中国を徐々に侵略していこう、と考えた。従属国に至急の檄を飛ばし、盟約を結び相談をして、兵をととのえる。「謀」が実行に移される日が逼っていた。

尼子先祖之事

尼子の先祖は、宇多天皇第八の皇子一品式部卿敦実親王の御子従二位左大臣、雅信公から出ている。雅信公は承平六年正月七日、初めて源の姓を賜った。これが宇多源氏の始祖である。その御子が正三位参議扶義卿、その子が正四位下参議経頼卿、その子・従五位下式部少輔章経、その子・伊勢守高綱、その子・豊前守高信、その子・近江守経方である。この経方が初めて、近江・佐々木に住んだ。その子・三郎秀義には、六人の子どもがあった。嫡子・太郎左衛門定綱(紋四目結)、二男・中務少輔経高、三男・三郎兵衛盛綱(紋三連銭)、四男・四郎左衛門高綱(紋三巴)、五男・隱岐守義清(紋輪違) 、六男・吉田法橋源秀(紋三洲浜)にいたるまで、父子七人の武勇については、『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』等にくわしく記されている。

定綱は子沢山で、その中に、四男・従五位上近江守信綱(山城守弘綱とするものもある) は、承久の乱で上皇方に味方して誅せられ、その所領は四人の子どもに分け与えられた。大原、高島、 六角、京極がそれである。大原、高島にはその後、不忠があったので、六角、京極二名が近江南北を賜って、七大名の中に加えられた。信綱の四男・京極近江守氏信、法名道善、その子・従五位下佐渡守満氏、その子・従五位下三郎左衛門宗信、法名賢観である。

宗信の子・佐渡判官高氏、法名道誉という人は、武勇も知恵も抜きん出ていて、足利尊氏公、義詮公、義満公の三代に、その忠勤がぬきんでていたので、 賞として近江半国、出雲、隠岐、飛騨、そのほか多くの領地を賜った。その子が三男京極治部大輔高秀法名淨泰で、その嫡男が京極大膳大夫高詮法名浄高、次男が尼子備前守高久である。この高久が近江尼子に居住し、近江尼子の始祖となった。

高久の嫡男が出羽守満秀、次男が上野介持久(号、正雲寺)である。持久が初めて出雲の守護職(注・守護代の誤り。出雲の守護職は『京極家』。やがて経久が主家を凌駕する勢力となるまでは。以下同じ)となり、出雲に下向した。これが出雲尼子の初めである。持久の嫡子は刑部少輔清定(号、洞光寺)で、この清定の嫡子が伊予守経久である。生母は馬木上野介の娘で、長禄二年十一月二十日の生まれである。のちに、中国地方に武威をふるい、ついに出雲、伯耆、因幡、隠岐、石見、安芸、備後、備中、備前、美作、播磨十一ヶ国の軍令をほしいままにした。嫡子は民部少輔政久(号、不白院花屋常栄居士)、母は安芸国・吉川駿河守藤原経基の娘。政久の嫡子は三郎四郎晴久で、母は山名兵庫助の娘。永正十一年二月十二日の生まれで、占いは本卦益の六四(ココ意味不明。すみません)に当たる。後に民部少輔と称した。 天文二十一年十二月三日、従五位、修理太夫に叙位・任官された。同年、将軍・義輝卿から、 八ヶ国の守護とする、との御教書が下された。

尼子経久立身之事

尼子伊予守経久は、初めは出雲富田七百貫を領して、一ヶ国の守護職であったが、天文の頃、十一ヶ国の守護に成り上がった来歴を探ってみよう。

その昔、出雲国は塩治判官高貞が、将軍・尊氏公から賜って領有していた。高貞が高師直の讒言により自害したのち、佐々木道誉が賜って、自身は近江にありながら、出雲には一族の中からひとりを派遣して政務を執らせていた。一度は山名氏に横領されてしまったけれども、明徳に山名陸奥守、同播磨守が亡んだので、再び道誉の孫・大膳大夫高詮が旧領を取り戻した。

出雲国には経久の祖父・上野介持久を下向させ、守護させた。持久の子息・清定と相継いで国務を司り、租税を近江国に船で運んでいた。経久がまだ又四郎といった時、近江の下知に従わず、富田近郷を押領し、同国のさむらい・三沢、三刀屋以下の者たちを攻め従わせようとした。六角貞頼は大いに怒り、すぐさま三沢、三刀屋、浅山、 広田、桜井、塩冶、古志などの国人に命じて、経久を追出し、塩治掃部助を同国の代官に定めた。

経久はこのことを非常に無念に思ったが、どうしようもないので、あてもなく諸国をさまよっていた。すでに飢餓状態となったので、ある辺鄙な寺で僧侶になるなどして歳月を過ごした。経久は何とかして富田の城を奪い取って本懐を遂げたいと苦心したけれども、腹心と頼りにする家来たちは、亀井、河副等を始めとして皆、妻子兄弟を育むため近江に上って六角に仕えていた。ゆえに、今、国に留まっている者は山中の一族だけであった。

山中を頼って欝懐を晴らそうと思い、出雲国に忍んで行き、宿所に立ち寄った。山中が急いで中に招き入れると、経久は、色黒く痩せ衰えて「喪家の狗」に等しく、昔見た面影さえない。山中はたいへん気の毒に思い、涙がとまらなかった。もてなしの膳などを用意してすすめたが、時節は神無月の末の頃。雹交りの時雨が降り、木の葉を誘う山風が痛いほど吹き、荒れた宿の寒さはことに耐え難く感じられた。山中入道の妻は、柴を折って炉ばたの火にくべ、壺の中に醸して置いたにごり酒を取りだして、温めてすすめた。経久は家刀自(いえのとじ = 主婦、ここでは山中の妻)の思いやりに感謝して、何度も盃を傾けた。

昔、宗の太祖は雪の夜に趙普のところに行き、江南を平定する策を論じ合った。その時も、非常に寒かったので、趙普の妻が太祖を炉ばたに招いて酒をすすめた。太祖はひとつの腰かけをのぞけば皆、他人の家と宣ったが、のちにはついに江南平定の功績を建てたのである。このことを思えば、現在の経久のありさまと同じである。敵城を奪い取るのはきっとおもいのままと感じ、たいそう頼もしく思われた。

その後、入道を近くに呼び、「なんとかして富田の本城に夜討ちをかけ、塩治を討ち取って我が本望を遂げたいと思うがいかがなものか。もし、昔のよしみを忘れないのなら、うまくいくように計略をめぐらせ、吾に協力してほしい」と涙を流して頼んだ。山中も旧交を忘れがたく、主が憂う時は臣下も辱められる道理を思ったのか、「仰せ畏まって存じます」と承諾した。

すぐに、一族の者たちと相談すると十七人が仲間となった。経久は喜びに堪えず、暫くは山中の宿所に隠れていた。しかしながら、塩冶は当国の守護職として、兵士の数も多く、勢いも盛んだから、たすやく討つのは難しい。ああしようかこうしようかと思いをめぐらしていたが、急に思いついて、すぐに当国の穢多の頭・賀麻という者を召し出した。

「おまえが知るように、吾は当国を追い出され憤怒止みがたく、ゆえに塩治を討って、恨みを晴らそうと思う。それについて、おまえに頼むことがある。もし承諾してくれたなら、本望を遂げたのちは、褒美は望みのままである」と経久は言った。賀麻は地に平伏し、「賢者は感忿睚毗(いきどおり)の意を以て窮僻(片田舎)の仁者(仁徳をそなえた人)に近付くとはいいながら、旧恩三万の士を差し置いて、かくも卑しき乞食非人を頼みと仰せくだされること、生前の面目、何事かこれにおよぶでしょうか。この上はたとえ一身三族、骨を粉にされ肉を醯(酢漬け)にされたとしても、恐れることはありません。きっと仰せに従いましょう」と答えた。

経久はたいそう悦び、「それならば、おまえたちが正月元日、富田の城で千秋万歳を舞うが、例年は卯の上刻だが、来年は寅の上刻に始めよ。そうすれば、見物するため甲の丸の者たちは二の丸へ出てくるだろう。その時に、吾は前もって搦手よりひそかに塀を越え、所々に火をかけ、甲の丸へ切って入ろう。その鬨の声を合図におまえたちは大手から切り入れ。前後より揉み合せ、塩治を始め城中の兵たちが行き場を失うところを突き伏せ切り殺せば、たちまちに城を乗っ取るのに何の難しいことがあるだろうか」と言うと、賀麻は「わかりました」と承知して立ち帰った。

さて、あらかじめ取り決めてあるので、尼子民部少輔経久と山中一党十七人、そのほか昔のよしみを忘れない譜代恩顧の郎等たち五十六人は、文明十七年十二月晦日の夜半から、富田の城へ忍び寄った。城内部の事情はよく知っているから、丑三つくらいに塀を乗り越え、大手の合図を待っていた。あけて文明十八年、鷄はすでに暁を告げた。賀麻の一族七十余人は甲冑の上に鳥帽子・素袍を身につけ、城の門外から、太鼓を持って千秋万歳を始めた。甲の丸、 二の郭の老弱は、「今年はいつもより早く万歳が入ったぞ、善は急げとの祥瑞はめでたい」と、あわてて押し合い跳ね合い、二の曲輪の大庭をふさぐように集り、無邪気に見物していた。

このようなところに、経久以下、所々に火をかけ、「火事だ」と叫んだ。城中の兵たちは、武具の一つも手に取る者はなく、 うろたえ騒ぐところを、賀麻の一党が鳥帽子・素袍を脱ぎ、太刀を引っ提げ、そこここにて切り伏せた。「これはどういうこと? 夜打が入ってきた」と女の童等はありったけの声で泣叫び、家の中に帰ろうとすれば猛火が身を焦す。ならば火を逃れようと走り出れば、敵は城中に隙間なく満ちて、鬨の声を作って切って回る。「これはどうしたことか。助けてください、つれて逃げてください」と士卒たちの袂にすがり、裳裾を引き留めて喚き叫んだ。

さすがの勇者も、やはり思いやる悲しさに心が迷って目が眩み、太刀を打ち弓を引くことを忘れ、ただ茫然とあきれて立っている者もいた。また、とても暗いので、いずれが敵でいずれが味方なのか見分ける術がなく、親子兄弟とも言はず、行き逢えば最後、手に任せて切り合って死ぬ者もあった。塩治掃部助は少しも騒がず、「夜打が入ったぞ、静まれ、あわてふためいて事を仕損ずるな。敵は小勢のはず」と、長剣を引っ提げ、七縦八横に切って回ったけれども、敵は前後から攻め入るので、敵うわけもなく、ついにその場で討たれてしまった。

経久は塩治の首を切先に貫き、「当国の守護職・塩冶掃部助を、尼子民部少輔経久が討取ったり」と大声で叫ぶと、城中の者たちは「これはいったいどういうことか」と一度わっと叫ぶ声が聞こえたと同時に、武士も女の童も一つに入り乱れて、吾先きにと落ちて行った。搦手へ逃げようとすれば山中一党が追い掛けて切り伏せる。大手へ逃げようと思えば賀麻の一族が追詰め突き殺し、あるいは身ぐるみを剥いだので、生きながら恥を晒した者もあった。討たれた者は多く、逃れる者は少なかった。こうして、経久は男女児童七百余人が首を取って、富田川の端に竿を渡してかけて晒し、勝ち鬨をあげて悦んだ。

経久方便三澤事

経久が長年の望みを一日でかなえ、ただちに富田に入城すると、当国の御家人在庁等の多くは腰をかがめて、命令に従った。しかしながら、三沢、三刀屋、赤穴等は、当国に於ては典型的な権威ある者だったから、いまだ経久の号令を受け入れなかった。そうかといって、容易に彼らを攻め従えることも難かしいので、計略を用いて討とうと、 寝食の時にも思いをめぐらせていた。あるとき、山中勘允という者を近付け、「吾は計略を用い、三沢を騙さねばならない。おまえは才知と弁舌が人に越えてすぐれているから、きっと騙すことができると思う。わが教えのように手立てをめぐらせ、 三沢を欺いてみよ」とその謀をこまごまと言い含めた。山中は「仰せ承知いたしました」と言うとすぐに、経久の歩兵で死罪に処せられることになっていた重罪の者を、喧嘩のように仕立てて忽ちに斬殺した。山中は三沢を頼って逃げ去ったので、経久は大いに怒り、山中の妻子ならびに老母を捕らえて狭い牢に入れてしまった。

山中は三沢に裏切りの心なく奉公したから、三沢も目をかけて召し使った。二年ほど経って、今は欺けるだろうと山中は思った。ある時、三沢に向って言うには、「それがしはどうということもない口論のために、経久の歩兵で沢田と申す者を切りました。ところが、経久はそれがしの老母妻子等を捕らえて、牢屋に入れてしまったのです。さむらいの喧嘩口論に相手を討って立ち退きますことは、世の中に多い例ですのに、その罪を妻子父母に及ぼすのは、いまだかつてない状況、きわめて無念です。どうか、私によりぬいた兵士三百人をおつけくださいませ。富田の城内の事情はよく知っているので、 夜討ちして、鬱憤を晴らしたいと思います。 一門の中に三人は心を合せる者がおりますので、経久を討つことは、『嚢中の物を探る』が如くにたやすいと思います」と、いかにも本当らしく言ったので、三沢は大いに喜び、野沢大学兵衛、三沢与右衛門、梅津主殿助、野尻、竹田、中原、下川などという究竟の兵を選んで、五百余人を山中に付けたのだった。

勘允はうまく欺せたと思い、経久へしかじかの通り告げると、経久は長年の謀略が即時に叶うと悦び、すぐに伏兵を三ヶ所に置き、寄せる敵を待ったのだった。山中と五百人が先に立って、富田の城へと急いだが、中壟というところまで忍び上ったところで、「おのおのはここでしばらくお待ちください。わたしは、 一族どもが城門の外で手引しようと言っていたのが、出ているかどうか見て戻って来ます」と一人だけで行った。その間、(山中が)一町ばかりも上がったと思われる頃、城内より一千余人、鬨を作って打って出てきた。

寄手は今夜の夜討ちについて、敵は知るはずがないとただ漫然と油断していたので、これはいかなることか、山中に謀叛の心があったのだろうか、と大いに驚き、すでに気後れした様子になった。そうはいってもやはり三沢の郎等の中でも、いずれも名のある者たちなので、それぞれ一ヶ所に集まって、ぴったりと寄せて控えていた。そうしているところに、敵がまた、思いもよらない後ろから進んできたので、三沢の郎等たちは、「さては山中に欺かれたのだ。ただ一方を打ち破って逃げよ」といったものの、皆我先にと逃げていくので、暗い上に道もないところを通りかかり、むなしく討たれる者もあり、谷底へ落ちてはかなく死ぬ者もあった。

その中にも、三沢与右衞門、野沢等の者たち三百余人は、真ん丸になって打破り打破り逃げて行ったが、三ヶ所で伏兵に遭遇し、野沢大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などを始めとして、二百余人が討たれた。三沢与右衛門、中原、下川等わずかに三百人ばかりが、辛き命を生きて三沢まで帰ったのだった。こうして三沢は主立った兵たちが討たれ、勢いをなくしたところに、経久が近いうちに三沢を取り囲むと伝え聞くと、今は力なく三沢の亀瀧の城を出で、降旗(降旛、降伏を示す旗)を建てた(= 降伏した)。

経久はすぐに三沢の軍勢を合せ、国中へ打って出ると、三刀屋、赤穴を始め悉く幕下に属し、ついには出雲一国が従うのみならず、後には中国十一ヶ国の士卒を生かしたり殺したりする権力をもつ者(司命)となった。またあの賀麻一族も、尼子家繁榮の間は、数カ所の所領を賜り、富み栄えたという。

春秋の古に、呉王闔閭は、王子慶忌を殺したいと思い、家臣・要離という者に命じて、偽って罪科があるとして逃げ去り、慶忌のもとへ赴かせた。呉王は怒った態度でふるまい、要離の妻子を焼いた(焼き殺した!?)。慶忌は要離に心を許したので、要離は隙を窺って、剣を用いて慶忌を刺殺した。経久が山中にうその喧嘩させたのは、この謀を思い出したからだろうか。

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次郎

この尼子っての、俺らの親戚じゃん。しっかし、「十一ヶ国」の守護!? 大内より多いよな? 何なのこのバケモノぶり。俺はともかくとして、於児丸の親父の舅って京極家じゃん。俺ら西軍だから、六角とできてたけど。「同じ近江源氏だから」って何なの? 六角と京極は仲最悪のはずじゃん。

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於児丸

六角や京極は宇多源氏だ。源氏というだけですべてを同じにするな。○○ 源氏はほかにも存在する。それから、当たり前だがいつまでも西軍・東軍の組み分け(← 応仁の乱)を引き摺っているわけではない。利があれば、誰とでも手を組む。それが世の習いだ。お前が父上を死に至らしめたのも、「元」東軍の細川政元と手を組んだせいだ。

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次郎

怖……。その話はいいから。けど、源氏ってたくさんいたって、そーなの? マジメンドー。あ、そうなると、俺と光源氏とかいう野郎も親戚ではないのね。よかった~。

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半将軍

このような輩と身内であると考えると(← 清和源氏、細川家)我が家にも傷がつく。斯波家ほどの名門でもなく、我らのように雅でもないのが、畠山の連中だ。せいぜい侍所所司でも勤めさせればよいものを。なにゆえに、管領をやっていたのかわからぬな。

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五郎

(山伏のどこが『雅』なんだよ……)。先代は亡くなるまで尼子のじーさんと戦ったけど決着がつかなかった。じーさんの孫の代まで戦いは続き、俺の父上も、陶入道も活躍したのに、殿様が腑抜けだったからボロ負けしたんだ。どの道この尼子家も毛利にやられちゃったみたいだけどね。

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次郎

うひょ。じーさんばっかりどんだけ強いのよ? 残念ながら、活躍した時期がじーさんだと、うら若き女性ファンはつかないって大原則知ってた? どーせ、俺は知名度ないけどさ、俺の親父がモテモテなのも若かったからよん。まあ、十年も合戦してるうち、多少老いちゃったけど。あとはさ、早死にしないとダメね。長生きすると当然、じーさんになるから。その意味では俺も、もう少し振り返ってもらいたい……。

訂正と説明(※必ずお読みください)

『陰徳太平記』によくある「○○先祖之事」の尼子家バージョン。大内家のそれが、とんでもないシロモノであったため、これもまったくアテにならないと思ったが、ほとんど何も語られていないがゆえに、誤りも特に気付かなかった。さすがに宇多源氏の系図は正しいものがあるのだろうか。

けれどもやはり「誤り」に気が付いたので、訂正しておく。ただし、尼子家についてすべてを知っているはずもないので、あくまでも「気が付いた」ところだけである。

これら一連の尼子家に関する記事は連続している。このあとしばらくは毛利家の話が続き、尼子については小休止となるが。この本が何らかの信頼置ける史料を参照しているがゆえにか、それとも、多くの方々がこの本を参照としてしまっているからなのか、尼子経久が出雲守護代の地位を追われて放浪し、その後月山富田城を奪い返した、とする逸話は尼子関連の書物には必ず採用されている。つぎに三沢を騙した話がくることもたいてい同じ。

どこまで信用していいものか悩ましいところだけれども、「多くの本が採用している」からたぶん、こんな感じだったんだろう。ちなみに、経久が一度追い出され、再び元の地位に戻ったということは史実で、どうやって城を取り返したかだとか、三沢を騙した話などは事実そのような経緯だったかもしれないが、作者による脚色で読み物として面白くなっている。

ところで、「誤り」と思ったのは、六角定頼と尼子経久の関係。六角が経久に「共闘」を持ちかけた云々については、事実かどうか知らないけれど問題ない。おかしいのは、経久が守護代を追放されたところで、主筋にあたる六角家が腹を立てたというくだり。同様に、山中以外の家臣たちが主筋の六角を頼っていたというのもおかしい。京極なのでは? 

尼子家の主筋は六角ではなく、京極家。なので、守護である京極家のためにきちんと働かなければならないところを、横領だの税の滞納などによって嫌われ、挙げ句幕府の改善命令にも従わなかったために「追放された」のである。六角も京極も同じ佐々木家から出ているが、分れてしまっているので「別の家」。ここを間違えたらいけない。なぜなら、最初に、経久に「共闘」を持ちかけたのも、腹を立てて出雲国から追い出したのも同じ六角定頼ということになり矛盾する。

むろん、最初の六角からの手紙のシーンは、時系列的には新しく、先祖のこと以下は回想シーンなので、かつて「追放」した経久と今度は手を組もうと考えた、ということもあり得ぬことではない。とはいえ、やはり「主筋」であるところが、こんな風に下に出て「陰謀」を持ちかけてくるのもどうかと思う。確かに同じ近江源氏ということを口実に使えて、しかも、現在は主筋を凌駕する勢いの経久であるからこそ声をかけているのではあるが。だからといって、かつての主その人だったとしたら、いくらなんでも……と感じる。同じ佐々木でも、流れが違う六角だったからこそではないのか? 

ついうっかり間違えたのか、それとも、元の主が腰を低くして頼み込んでいる、という何らかの効果を狙っての書き方であるのか、理解に苦しんだ。まあ、この辺り、書いた本人に聞いてみなければわからないレベルの話にはなる。

コーヒーブレイク(私的な戯言)

六月に月山富田城に登る予定で(この記事を書いていた時。ぐずぐずしていたのですでに登頂済みです)、常に常に思うが、勉強不足でせっかく行ったのにあれもこれもわからなかった……とならぬように、予習を兼ねて。それよりも先頃、小田原城に行って来たの~と明るく笑う愛らしい知人と城廻の話で盛り上がり、それなりに歴史(というか城?)に詳しい人であると思われたのに、尼子家も月山富田城も知らなかった……。山中鹿之助のお陰で、そこそこ知名度は高いはずなのに。それをご存じないとすれば、その上大内氏の鏡山城ご存じですか? と問いかける勇気はなかった。

観光地理の参考書に、山口県の暗記ポイントとして出ているのは萩、秋吉台、錦帯橋だけである。嘘だろ、おい、と思い、「超上級」の参考書もチラ見したが、赤間神宮と防府天満宮、瑠璃光寺五重塔が増えていただけであった。旅行業界の一般常識の中には、大内氏関連史跡など存在しないのだとわかった。そもそも中国地方全体が「地味」とかで、鳥取と島根を反対に覚えてしまう人が多いので云々ときいて絶句。かくいう己も、北陸地方って何県あんの? ってくらいなので、人のことは笑えない。試験問題頻出の北海道もさっぱりわからない。チラ見だけですべて知っていた四国は試験に出ないワースト5に入ってるし……。しかしですよ、比叡山を覚えるために、オダノブナガなどが好きな人は聴いたことがあるかもしれませんが……って、どーゆーこと!? 燃やしたからだと思い至るまでに数秒要した。比叡山延暦寺は伝教大師最澄、天台宗じゃないの? オダノブナガ関連施設だと説明しないとわからないんだ……。ある意味スゴい。そういう人たちに、築山大明神さまが通じるはずはない。

畠山尚順アイコン(卜山)
卜山

時はすでに戦国乱世に入っているな。その乱世の始まりに彗星の如く現われてあっけなく消えていった尼子家というのは、じつにファンが多い一族である。ここまでくると、太平記はおろか、応仁の乱の世界すらもう遠い気がする。オダノブナガなる人物についてまでは語られぬが、尼子家の歴史は始まったばかり。経久の活躍とその孫・晴久の物語はまだまだ続くし、大内殿との合戦もこれからだ。とうてい、登山の日までには終わらぬであろうな。

足利義材イメージ画像
将軍様

この尼子なる人物、無礼千万ではないか。「あの」ニセ将軍・義澄の遺児を養育していた者と手を組むだの、それを将軍に就けるだの、聞き捨てならぬ話だな。しかし、なにゆえ、六角定頼に養育されておるのかの???

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次郎

あんたさ、俺と一緒で『負け組』なのよ。最後まで。大内いなくなった途端、京都は目茶苦茶になってあんたはまたしても追い出される運命。於児丸に管領職あげてれば、俺らもう少しあんたのために尽したと思うけど? 

足利義澄イメージ画像
新将軍

義晴は我が息子。義輝、義昭も我が孫だ。結局、今出川は『断絶』して終わっている。つまりは『勝ち組』はこの私なのだ。たとえ、我が身が薄幸でも子孫を残せたことは幸いだった。

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九郎

(……従兄弟と養父が『勝ち組』ならば、私は安心して瞑目できます。親不孝な九郎も幸せでしたよ、父上、母上)。

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ミル@周防山口館

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