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春日神社(山口市陶)

2023年10月30日

春日神社・社号碑

山口県山口市陶の春日神社とは?

山口市陶にある春日神社です。ご祭神は天児屋根命・武甕雷命・経津主命・姫大神の四柱です。御由緒については、以下の二つの説があります。

一、和銅元年 (708) に藤原不比等が創建した
一、延暦四年(785)に奈良の春日神社から遷座した

奈良県の春日大社が、藤原氏の氏神であることは周知のことです。貞観元年(859)、藤原真道という人が周防守兼鋳銭司長官として下向してきたとき、この地の春日神社を深く崇敬し、鋳銭司の総社にしたといわれています。

春日神社・基本情報

ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶 1339
御祭神 武甕雷命・経津主命・天児屋根命・姫大神
主な祭典 例祭(十月九日)、春祭・祈年祭(四月第一日曜)、新嘗祭(十一月)、風鎮祭(八月二十六日)
社殿 本殿、弊殿、楼門
主な建物 手水舎、鳥居、狛犬、社号碑、潮吸桶
境内神社 八坂神社 ※八坂神社については別に項目を立てます。

(参照:『山口県神社誌』)

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ミル

潮吸桶って何のことだろうね……。

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五郎

分かりもしないものを書くなよ。

春日神社・歴史

藤原氏ゆかりの神社

春日大社は言わずと知れた藤原氏の氏社ですね。同じく興福寺は藤原氏の氏寺。神仏習合していた時代には、氏寺・氏神渾然一体(というか完全に一体)化していたことは言うまでもありません。その辺り大内氏の妙見社と興隆寺の関係とまったく同じです。

藤原氏(中臣氏)の祖先神とされるのは天児屋根命という神様です。それゆえに、天児屋根命が主祭神となります(陶の春日神社)。天児屋根命は天岩戸にお隠れになった天照大神が、神様たちの機転により岩戸から出て来られたという有名な神話の中で祝詞をお読みになった神様です。受験勉強で中臣氏は元々祭祀を司る役割を担っていた氏族だった、と習いますが、なるほどという感じですね。それと比較すると、武甕雷命・経津主命両神様は、出雲国・大国主命に国を譲ることを承諾させるのに活躍した神様たちであり、武神のような側面も持っているように見受けられます。

『陶村史』には、天児屋根命は「天孫降臨の時の随神の筆頭」とありました。これについては、これ以外の神様系マニュアル本に、一切記述がなかったので、確認が取れません。ですけど、ただの「お祭り係」に過ぎなかった中臣氏が、大化の改新で鎌足が活躍したことによって重要な地位を占めるようになり、やがては摂関家の地位を独占した(鎌足の子孫に限る)ことなどを考えると……。後からちょい書き足して、祖先神をより立派な立場に押し上げる脚色をしたことも、じゅうぶんありそうな話ですね(根拠なし)。

全国津々浦々の春日神社の総本社・春日大社と春日信仰については場を改めることにしますが、ごくごく簡単にメモしておきますと、春日大社の起こりは、鹿島から都のある奈良に、武甕雷命を勧請したことです。そのほかの神様についても、経津主命は香取から、天児屋根命と姫神(比売神)は枚岡からそれぞれ勧請されました。ですので、そこらじゅうの春日神社も同じ神様のラインナップとなっております(むろん、合祀などで大量にほかの神様がお祀りされているケースもあると思いますが)。

肝心の「陶の」春日神社ですが、御由緒看板によりますと、和銅元年 (708) に藤原不比等(中臣鎌足の息子)が創建した、という言い伝えと、そうではなく、延暦四年(785)に勧請されたのだ、という説とがあるようです。奈良時代のことなど、正確に調査するのは、もはや不可能に近いですので、どちらなのかわからない、というのが実状でしょう。藤原不比等なんかが陶の地にやって来て神社を建てていたとしたら、とんでもないスゴいことになるのですが。また、隣に鋳銭司があることを考えると和銅元年に勧請された、という年代もたいへんに興味深い説となります。『陶村史』には不比等云々は書いてありません。いずれにしても、神様方は勧請されたものであり、八幡宮そのたの縁起でよく見かける、神様がこの地に降臨なさったとか、この地に社を建てるようにという神がかりがあった、何か神聖なものが天から降ってきた、というような逸話は伝えられていないようです。

都も時代も奈良から平安へ移り、律令制もまだそれなり機能していた頃。弘仁・貞観文化で聞いたことがある元号「貞観」元年(859)に、藤原真道という人が国司となって周防国に下向して来ました。読んで字の如く「藤原」さんです。もしもこの時点で、周防国内に春日神社が一社もなかったとしたならば、自らの祖先神をお祀りする氏社がひとつは欲しいと考えるのは当然です。大内氏歴代が遠い分国に妙見さまをお祀りしようとしたように。けれども、県内に「春日神社」はたくさんございますので、いちいちどこが一番古いかなど、現在のところわかりません。上の藤原不比等創建説が事実であるのなら、ぶっちぎりでココが格式高いってなりそうですけどね。

藤原真道さんはこの「陶の」春日神社を、お隣鋳銭司の「総社」に指定しました。じつは、この真道さん、ただの国の守ではなかったのです。この方だけが特別だったのか、この時代の周防国司は皆そうだったのか調べていなくて申し訳ないですが、真道さんは隣にある、鋳銭司(← ここでいう鋳銭司は地名ではなく役所名です)の責任者も兼ねていたんですよ。なので、県知事兼造幣局長官みたいな地位にあったわけです。それゆえに、本人の発言権が大きかったか、あるいは、須恵器製造所も銅銭鋳造所も隣り合って存在するこの「陶 + 鋳銭司」なる場所が極めて重要視されていたのかは不明です。

ですが、「氏神」である、という尊さから、陶にある春日神社が鋳銭司の「総社」となったのです。「銭=お金」と聞くと、陶よりも鋳銭司のウェイトが高いように思えるのは気のせいでしょうか。この春日神社とともに、鋳銭司の黒川八幡宮も鋳銭司の鎮守社とされましたが、「総社」となったのは、「陶の」春日神社のほうだったのです。

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五郎

総社って何? 一番エラい神社ってこと?

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ミル

うーん。そうとも限らないよ。本来国司は着任地の主立った神社に順番に挨拶に行ってたんだけど、だんだんメンドーになったから、それらの神社に祀られた神様をひとまとめにして、それも国衙に近い場所に社殿を設置したと聞いたよ。だけど、この春日神社の場合、「周防国の総社」ではなく、「鋳銭司の総社」であること。神様方をひとつにおまとめして手抜きする適当な人が増えていったのは、律令制がいい加減になってからだという点に注意してね。

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五郎

ふーーん。じゃあ、俺の故郷・陶の地にあった春日神社が、鋳銭司地域の大切な神社に選ばれてたって考えていいんだよな。けど、単に藤原某の氏神だから、ってだけの理由じゃないか……。俺が国司になったら妙見社を選ぶよ。もしも妙見さまがいない地域には新たに造るんだ!

ミル涙イメージ画像
ミル

悪くない考えだけど、君の先祖は国司さまが政務をお執りになる国衙の下っ端役人……あ、いいえ、下っ端は余分ですが。

神社の「神紋」そのたには藤原氏の「下り藤」が用いられており、残念ながらココには大内菱はないようです。

武家の信仰

伊勢神宮は皇室の、春日大社は摂関家の、石清水八幡宮は武家の神様というようなことになっています。けれども、当然のことながら、皇室の方々以外が伊勢神宮を信仰してはならないとか、春日大社に参詣できるのは摂関家の人オンリーとか、八幡宮は武家以外来るなとか、そんな決まりはありません。

寺院は法事を執り行う時だけ、いきなりうちの宗派なんだっけ? っとなったり、居住地に鎮守の社があるのにもかかわらず、有名な観光地と化した神社の麗しいお姿に萌え萌えてしまったりするのがイマドキですが。それもまた自由でいいと思います。それとは少し意味合いが違いますが、往時の春日神社もけっして摂関家だけのために存在する神社ではありませんでした。

摂関家の人たちが信仰する氏神なんて聞いたら、雅じゃないと参詣できないのか!? って思いますけど、武家の信仰も篤いものがありました。つまりは、かつてわずかな期間ながらこの地を拠点とし、名字の地とした陶家の人々も、この神社とはけっして無関係ではなかったであろう、ということです。何しろ、鋳銭司の総社なわけですし(いつまでそうだったのか知りませんけど)。むろん、藤原姓の国司やら何やらはたんまりと寄進を行ないました。

けれども、庭園の主たちともゆかりの深い足利家の人々、具体的には室町幕府の祖・足利尊氏もこの神社に寄進を行なっています。

 「今春西国下向の処当社春日大明神者武将守護之由承仍而捧太刀一振等恢復祈願頼候委細者舎弟直義可申候
建武三年二月十五日
源朝臣尊氏」

というような「願文」があるそうです(『陶村史』)。

敵方にやられてボコボコになって九州まで逃れる途中、所々の有名な武門の神様に神頼みしながら西へ向かったっていうんですが、それらの「著名な神社」の中に、「陶の」春日神社も入っていたんですね。

春日大明神さまは武将を守護してくださる神様であらせられると承っております。太刀一振りなどをお納めしますから、どうか再起をはかれるよう、お力をお貸しくださいますよう、何卒よろしくお願いいたします。詳細は弟・直義から申し上げますーーてな感じ。

いったい道中、どれだけの神様に神頼みしたのか、本人ではなく、弟に丸投げしていいのかとか、あれこれ考えたら何やら可笑しいですが、なんとか再起をはかりたいと切望する尊氏からしたら必死です。我々が受験前に合格通知を掻き寄せてくださる天神様の熊手におすがりする時の気持ちを思い起こすと、尊氏の気持ちが非常によく理解できます。そんな時に、聞いたこともない通りすがりの祠ではなく、由緒ある神社ほど霊験あらたかではないかと考えるのも普通の流れです。つまりは、陶の春日神社がそれだけ著名であった、ということにほかなりません。

最初のほうに書いておいたけど、武甕雷命は「武」の神様ですからね。源氏だからと、八幡宮ばかり選んで祈願している場合ではありません。また、商売繁盛をお願いする案件ではないので(まあ、軍資金とか考えれば可能性はゼロではないけど)、武神でもある春日神社を選んだことは大正解です。おかげさまで、無事に天下一統を成し遂げたではないですか。南北朝統一は孫の代になっちゃったけど。幕府を開いたのは尊氏ですから。

尊氏の一件は、例として挙げましたが、このほかにも多くの武家たちに篤く崇拝されたそうです。それらは、神社に奉納された品々、寄進された土地などから明らかになっているようです。

春日神社と関係深い寺社

神仏習合していた時代、お寺と神社とは切っても切れない深い関係にありました。今はどこをどう見ても寺院は寺院、神社は神社とはっきりと分れておりますが。どちらかというと、神社よりは寺院のほうが羽振りがよかった時代が長く続き、その反動としていやいや古来からこの国にましました神様こそを大切にすべきなのだ、という考え方が提唱されるようになったりしました。

現在は本当に、神仏習合? ナニソレ? ってくらいきれいに役割分担されてしまっていますけれど(例外もあり)。ちょいと古文などをチラ見したり、歴史書(啓蒙書レベル)を覗いたりすると、神社の話なのか、寺院の話なのか分らなくなっている、謎な場面に出くわすことが多々あります。今は今で、あるがままのお姿を受け入れればよいだけですが、たまにこれらのわけわからないナニソレについて知りたくなることがあります。

昔、神社には社僧と呼ばれるお坊さんがおり、別当寺とか神宮寺とかいって、神社の中に寺院を建てて仏事を行なっていました。どちらかというと、お坊さん=寺院のほうがワンランク上といった雰囲気だったので、ちょい威張っていました(多分)。

全国の春日神社の本家本元である春日大社は、かつて興福寺と結びついていました。我が意のままにならぬのは僧兵による強訴とサイコロの目と鴨川の水である(それ以外はなんでも意のままになる)と豪語するほど絶対的な権力を誇っていたかつての院政の主たち。彼らすらも、南都・北嶺の僧兵たちが自らの要求を通すために神輿を担いで都に乗り込み、騒ぎを起こすことには手を焼いていたわけです。神輿を担いでってことは、神社の人たちがやっているのだろうって想像しますけど、寺院と神社が一つになっているため、大寺院が一体化した神社の神輿を担いでいかせるっていうのが正しい。南都=奈良ですので、興福寺と春日神社、北嶺は比叡山で延暦寺と日吉神社を指しています。興福寺は摂関家の氏寺、春日神社は氏社ですので、朝廷の中枢にいる摂関家の人たちも、自らの大切な氏社のご神木を担ぎ込まれて騒がれたら、どうすることもできないわけです。そうと分っているから、このようなやり方で強訴するとも言えますけどね。

話が逸れましたが、このように神様と仏様、神社と寺院が一緒になっていた時代。こちら「陶の」春日神社はどんな感じだったのでしょうか。まさか、本家本元の興福寺と一体化するのは無理ですよね。遠すぎます。当然、ペアになっていた寺院は春日神社付近のお寺となります。

鋳銭司の辺りについて、往時の姿を研究する方々必読の史料として『鋳銭司志』が頻繁に出てきます。ほかに、現在の山口県全体までに及ぶ地域を視野に入れて調査している先生方の文献には『注進案』が頻出です。これらを確認すると、陶や鋳銭司の歴史を知ることができます。とはいえ、一般の観光客がそこまで手を広げる必要はないですので(そもそも読めないですし)、素直に『陶村史』などの先生方がお書きになったご本を参照すれば問題ありません。

で、『陶村史』には神仏習合時代の春日神社についても触れられております。そこから学んだことをまとめると、だいたい以下のような感じです。

『鋳銭司志』によると、春日神社の社僧をつとめたのは「一元寺」。いっぽう、『注進案』では正護寺となっているそうです。二種類の記述が存在する理由は、一元寺が場所を移したなどによって、社僧が交代したのではないかと考えられています。いっぽう、このほかにも、現在は廃寺となってしまった光明寺という寺院も春日神社と関係が深かったそうです。これらの寺院はすべて禅宗である点が共通しており、「春日神社は代々禅宗寺と縁の深かったこと」が指摘されています。

また春日神社にはかつて「鐘つき堂」があったようでして、これは近年まで残っていたそうです。神社で鐘は突きませんので、これも神仏習合時代の産物だったのでしょう。現在は跡形もありません。

なお、これは神仏習合とは無関係ですが、春日神社と並んで鋳銭司の鎮守社とされていた(前述)黒山八幡宮とも深い関係がありました。『陶村史』にはそれについて、「七度半の使」の話が載っています。これ、神福寺のところで書いたことがあるのですが、この時は神社からお寺にお使いを送るという話でした。中身的にはまったく同じようなことなのですが、神社から神社へも、そのようなお使いを送るしきたりがあったのですね。

要するに、黒山八幡宮が祭礼儀式を行なうにあたり、春日神社にそのお手伝いをお願いする際に、七回 + 一回のお迎えのお使いを差し向けた、という意味です。神社には「格式」がありますので、格式の低い神社から、高い神社へお願いをするには、このような手順を踏むというしきたりがあったわけです。つまり、七回もお迎えに参上しても来てはくれず、とはいえ、漸く重い腰を上げてはくれるので、使いが帰った後にお手伝いに出発します。すると、八回目のお迎えの使いとは、黒山八幡宮へ向かう途中で遭遇します。そこで、ありがとうございます、ご一緒しましょう、ってなるのです。⇒ 関連記事:「七度半の使いとは」神福寺

最盛期の春日神社と現在

春日神社が鋳銭司の鎮守社や総社に定められた古代史の時代がもっとも輝かしい時代であったかのように思われますが、戦国期に毛利輝元が再建をした際、その本殿は、春日大社のように四柱の御祭神それぞれが祀られた神殿が四棟並んでいるかたちだったそうです。「再建」しているということは、この時には廃れてしまっていたのか、もしくは例によって大内輝弘が燃やしてしまったのかも知れませんが、どこにもそのような記述はないため、単なる定期的なメンテナンスだったのかも知れません(だとしたら『再建』とは書かない気がしますが)。

つまりは、足利尊氏をして、武威挽回を祈願させるほどの著名な神社として、中世にも繁栄していたと考えられ、そうなると当然、当時この地で勢力を拡大していた大内氏からも大切にされたはずです。この頃の記述があまり見付からないのが残念です(単に見付けられていないだけですが)。

毛利輝元が再建した社殿も自然災害によって壊れてしまい、寛政年間に修復が行なわれました。現地案内看板にも、『陶村史』にも、この修復の際に、規模を縮小した旨の記述があることから、それ以前は、現在目にすることができる社殿よりも大規模なものであったことになります。しかし、規模縮小 = ちゃちなものになった、ということではけっしてありません。室町時代の建築様式を用い、四棟の小さな建物の中にそれぞれ一柱の御祭神を祀るというなかなかに手の込んだ造りになっているそうです。残念ながら、ご本殿の内殿に収められたこれらの社殿を参拝者が目にすることはできませんが。

つまりは近世、江戸時代になっても春日神社に対する人々の信仰心はとても篤いものがあったと言えます。それゆえにきちんと修復事業が行なわれ、規模は縮小されたものの、優れた建築技術を以て修繕以前と遜色ないかたちの社殿となったと思われます。

古代から続くものがどれだけ残されているのか、もはやまったく失われてしまったのかは分りません。ですが、『陶村史』は現在まで伝えられている狛犬や灯籠、手水鉢や御旅所の石まで調べ上げた結果、つぎのように結論づけています。

 「大体に文政から安政にかけての三、四十年間、特に安政頃に施設がよく整備された ことが想像され、その頃が寛保復旧後における神社の最盛期だったようである」

要するに信者の方々が奉納した狛犬や石灯籠などに刻まれた年代が、文政~安政年間のものが多い、ということですね。さらに、これらの奉納品などから、当時「今宿村」の人たちも氏子になっていた事実がわかり、春日神社の氏子の皆さんには、陶にとどまらず、鋳銭司の方も含まれていたようです。

春日神社付近の橋「今宿橋」

あれこれ立ち寄りながらダラダラ歩いていたので、あまりアテにはなりませんが、春日神社から「今宿村」とゆかりありそうなこの橋に来るまで一時間半かかっております。

春日神社・みどころ

境内外にも鳥居、御旅所があるなど、大規模かつ荘厳な趣の神社です。ことに、摂関家の氏神であった春日大社を勧請していることから、この地区内ではたいへんに格式のある古社だった模様です。古代史時代からの社殿は失われてしまっているためか、重要文化財クラスのものはないのですが、江戸時代の再建物ながら社殿はとても立派で、室町時代の建築様式で建立されています。

※なお、境内社として八坂神社がありますが、ほかのページに項目を立てますので、ここでは扱いません。⇒ 関連記事:八坂神社(陶)

鳥居と御旅所

春日神社・一の鳥居

かなり長い参道の手前に鳥居と御旅所があります。恐ろしいことに、この鳥居の先は、十文字に交差する車道によって行き止まりになっております(道路の向こうは見えていますが、渡れません)。普通に考えて真っ直ぐ参道を進んで参拝することができないのは残念なことです。行き方はもちろんあるのですが……。

下の写真は御旅所です。毎年四月の例祭の時、御神幸が行なわれる場所です。

春日神社・御旅所

なお、この鳥居ですが、『山口県神社誌』によれば、神社の境内に五つの石鳥居がある、となっていまして、ここは境内ではないので数えないとして、ものスゴい数だな、と思いました。例によってどちらから一の鳥居と呼ぶかは神社によって違うため、ココが幾つ目の鳥居にあたるのかは不明です。

神社庁さまのご本は発行年度がかなり古くなってしまっている(古書店で入手)ため、現在も境内に五つの鳥居があるかどうかわかりません。うち一つが境内社・八坂神社のものだとしても四つはあることになりますから、ここが何番目なのかは迂闊には決められません。

なお、ミルたちがこれなしでは歩けないほどお世話になっている Googlemap さまによれば、これは「一の鳥居」です。

入口

春日神社・入口鳥居

みどころが「入口」って何!? って思われるかも知れませんが、要するに鳥居の順番が分りませんので、誤魔化しております。鳥居、灯籠、社号碑が確認でき、遙かに拝殿も見えます。左手に屋根だけ見えているのは、境内社にしては大きすぎる八坂神社です。

社殿

春日神社・社殿

神社庁さまのご本によれば、社殿は向拝口 ⇒ 楼門 ⇒ 拝殿 ⇒ 弊殿 ⇒ 本殿と並んでいるということなので、典型的な楼拝殿造りです。なので、例によって、横からも眺めてみます。

春日神社社殿・横から見た図

ミルがいるほうが拝殿、五郎がいるほうがご本殿となりますね。

当初のご本殿は、本家本元の春日大社さまと同様に、神殿が四つ並んでいたそうです。むろん、本殿の中は覗くことができませんから、「?」となってしまうのですが、春日大社さまのホームページに「回廊内 本殿」のお写真がありますので、ご覧くださいませ。目茶苦茶お美しいです。

むろん、どれだけ頑張っても、本家本元を越えることはできませんが、イメージ的にはあのようなかたちで四つの神殿それぞれに神様がお祀りされていたのです。天正二年(1574)に毛利輝元が再建したものだということですから、藤原姓国司の時代からそのままというわけではありませんでしたが。けれども、せっかく輝元さんが再建してくださった社殿も、「暴風のため屋根が吹飛んだ」(『陶村史』)といいます。

屋根をも飛ばす暴風って、台風でしょうかね……。寛保元年(1741)に再び修理を行いましたが、その際、やや縮小されてしまいました。とはいえ、中の神様のお祀り方法はやはり四柱それぞれ分けられており、案内看板によると、室町時代初期の建築様式が取られているということですので、藩政期もずっと大内氏時代の建物の姿を大切に受け継ぎ守ってくださっていた、ということになります。

『陶村史』には、内殿の外周に「近江八景の彫刻があり」と書かれています。ほかにもあれこれの彫刻があって、一部分ではありますが、外から覗き見ることができるということなのですが……。参詣前にこのことを知らなかったせいもありますが、ご本殿内部を覗き見ることはしなかったので、現在もチラ見できるのかは不明です。『陶村史』は素晴らしいご本ですが、発行年代が昭和時代となりますので、その後にまた改装されていたりする可能性もあることには注意が必要なのです……。

鋳銭司古図

春日神社「鋳銭司古図」

現地の案内看板によりますと、拝殿内にある「鋳銭司古図」は、古くから描き続けられてきたものなので、鋳銭司の昔の姿を知ることができる、とのことです。おそらくは、この図がそれだと思われます。右上のほうに「国司総社参拝及鋳銭司古図」というタイトルが書かれております。

正直、見てもよくわからないのですが、地元の方々ならば地理的感覚が観光客とは違いますから、なるほどなぁとお分かりになるのであろう、と思います。

小祠群

春日神社・境内小祠

大きな亀趺ですが、漢字だらけですので、何と書かれているのかはサッパリです。タイトルは「周防国吉敷郡潟上庄春日祝詞碑」と書いてあるように読める気がするのですが……。

しかし、ここでの主役はこの立派な亀趺ではなくして、その背後、@ SITEOWNER の傍に写っている小さな祠群です(黄色枠内)。これは本来ならば、近付いてよく見てみるべきものだったのですが、歩くのに疲れていて完全に見落としておりました。帰宅後、偶然にもチラリと写り込んでいたので、とりあえずこの写真を使います。再訪時にもう少し大きなものをご覧いただけるようにする予定です。

これらの小祠は、元々他所の場所にあった神様をこちらにお遷ししまとめたものです。よくある光景ではありますが。これらについても、『陶村史』には詳細な記述がありましたので、軽視できないものであろうと判断します。最初にご本をお読みしてから行けばよかった……。

まとめるとだいたい以下のような感じかと思います。

 「社殿の背後に石造の祠二つと木造の祠一つが並んでおり、鳥居と灯籠の残欠、並びに文政四年の文字を刻した小さい自然石がある」(『陶村史』)

二つの石祠:大歳様 東側は溝口から、中央は下糸根から移されたもの
『鋳銭司志』では、糸根村には二つの大歳社があったとしており、それぞれ「保食命・倉稲玉命」を祭神とする石祠と 「倉稲玉命」を祭神とするもの(後者は『森 祭神倉稲玉命』と書いてあるけど、『森』の意味は分りません。『陶村史』がではなくて、書いている人が分らない)。これが現在春日神社内にある大歳さまと同じものなのかどうかは不明だが、現在糸根村には春日神社境内にある石祠以外の大歳社の類は一切ない。

木造の祠(西側):河内様 もとは「山の後」にあり、近年になって移されて来たもの
河内様は元々、荒郷に鎮座しており、現在の八坂神社(春日神社境内社)・拝殿ほどの立派なものだった。『鋳銭司志』にも「河内社入一間五尺五寸横一間三尺五寸糸根村にあり 祭神罔象女神 社人吉武左名井・高橋内記」と書かれている。残念なことに崩壊してしまったため、小祠に改めて春日山山麓に移した。現在境内にあるものは、それをさらに移して来たものとなる。

というような具合でして、これらの小さな祠群はあれこれの曰くがあるものだったのです。「小さな自然石」というのが何なのか、ものすごく気になるのですが、遠目にもそれとわかるように、現在もきちんとございます。

近代化の波で元々のご鎮座地を離れざるを得なかった小祠は数限りなくありますし、中には神様は合祀されても、お住まいともいうべき祠などは失われてしまったケースも多々あります。これも自然の流れ、歴史の一コマではありますが、何となく寂しいですね。けれども、春日神社さまをはじめとして、由緒ある大きな神社さまには、これらの移されてきた神様たちの小祠がまとまっていることがよくあります。中には凄まじい数の祠が所狭しと並んでいる所も……。これら、意外にもとんでもない年代モノである可能性が大きいですので、見落としは NG です。

春日神社(山口市陶)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶 1339
御旅所と鳥居 〒754-0891 山口市陶 1380
※いずれも Googlemap にあった住所です。

アクセス

最寄り駅は山陽本線の「四辻駅」です。ほかの行き方もあるかと思いますが、いわゆる「陶」+「鋳銭司」の神社仏閣と陶窯跡と鋳銭跡の史跡をすべて網羅する最も「安い」行き方です(だと思います)。ただし、四辻から陶窯跡まで一時間ほどかかりますので、陶の地を愛する方限定のご案内となります。

四辻駅がとてもローカルでして。出入り口は一箇所しかありませんので、素直に電車を降りて駅から出ます。駅を出ましたら、そのまま駅を背にした状態で右手方向へ向かいます。「周防往還自転車道」なる道が続いております。ちょいくねっとなっていますが、道なりに行き、進行方向右手に見えております線路の最初の踏切を渡ります。渡ってなおも行くと程なく道が二股に分れます。左側(近いほう、手前の道)を進みます。民家の建ち並ぶ細道を行く感じですが、やがて右手に春日神社の「一の鳥居」と「御旅所」が現われます。ですので、ここで右折すれば、そのまま参道が続いているわけなのです。

「が」そもそも、この参道は車道で分断されてしまっておりまして、信号はついているんですけど(Google 様の航空写真を拝見しながら書いております)、「横断歩道がない」。車はビュンビュン飛ばしているし、どうやって向こう側へ行くんやろ? と思ってしまった記憶が。そもそも、四辻から陶窯跡まで向かうことが当初の目的であり、途中あれこれあったなぁとお得な気分になれた中に、こちらの神社さまも入っておりました。どこかで安全に渡れる場所があったはずですが、エラい遠い。陶窯跡に着いたのち左右チェンジできたので、渡れなかった側の史跡群も見れた感じです。というようなわけですので、春日神社さまも含めまして、陶 & 鋳銭司の史跡巡りについては「行き方」を別のところにまとめます。しばらくお待ちくださいませ。

※距離的、道順的には基本、一の鳥居 ⇒ 参道 ⇒ 神社です。ですけど、本人がその行き方をしなかったこと、航空写真とマップからは道の繋がりが分らないこと(分断されているように見えます)から、万が一真っ直ぐ行けなかった場合申し訳ないので、敢えて保留とさせていただいています(確認のためには、もう一度『陶』に行かなくてはならないので、来年になってしまいます……)。

参考文献:『陶村史』、『山口県神社誌』、現地案内看板ほか

春日神社(山口市陶)について:まとめ & 感想

春日神社(山口市陶)・まとめ

  1. 創建は奈良時代とされ、とても古い神社
  2. 由緒には二種類あって、和銅元年 (708) に藤原不比等が創建したものであるという説、延暦四年(785)に奈良の春日大社から勧請したという説
  3. 貞観元年(859)、周防守兼鋳銭司長官として下向してきた藤原真道は、この春日神社を深く崇敬。黒川八幡宮とともに鋳銭司の鎮守社に定めるとともに、春日神社を同総社とした
  4. 古代史を飛び越して、いきなり中世に飛ぶが、この頃に至るまで延々と春日神社は著名な神社であったらしく、足利尊氏も武運の挽回を祈願したという。これは春日神社の御祭神に武神・武甕雷命が含まれていることにも関係しているだろう
  5. 戦国期、毛利輝元が社殿を再建したことが知られており、春日神社の本殿が、本家本元の奈良・春日大社と同様に四棟の神殿にそれぞれ一柱ずつの祭神をお祀りする荘厳なものであったことがわかっている
  6. 輝元再建の本殿はその後、暴風によって壊れ、寛政年間にさらに修築が行なわれた。この時、本殿の規模は縮小されてしまったが、本殿はやはり四柱それぞれの神様をわけてお祀りしており、また、室町時代の建築様式を採用した古式ゆかしいものである
  7. こうして、古代、中世、近世と摂関家から地元の氏子の方々まで、幅広い信仰を集めた春日神社は、今も地元の方々に愛される由緒ある神社として存続している

ついに歩いて陶を回るという荒技をやってしまいました。お陰で、お、ここに神社が……あ、あそこにも寺院が……という具合にあれこれ見ることができました。たいへんに得難い経験でしたが、何せ歩き疲れたために、見落としが多発。春日神社についても事前知識ゼロで参詣したため、ん? 摂関家の氏社がココに? となりました(それは帰宅して『陶村史』を読んでからのことで、歩き回っていた時は、案内看板すらロクに見ていない状態でした……)。

これからほかの参詣箇所等についての記事もアップしていくと、あれこれ繋がる部分も出てくると思いますが、現状分ったのはここに書いてあることくらいです。陶と鋳銭司ってけっこう貴重な文化財が襲われて失われたりしており、古くは藤原純友、ついで大内輝弘と豪快に燃やされたりしてますので、その意味でちょっと悲しい歴史もありますね……。ココが藤原不比等が創建した神社だという説が本当ならば、もっと全国区で有名になってもいいのにと思いますが、そうであったにせよ、江戸時代の再建物となってしまった本殿も風で屋根が飛ばされても一度再建ってなったくらいですので、奈良時代からの建物が残っている奇蹟は期待できません。

不思議なことに、大内氏が云々したという記事が神社庁さまのご本や、現地案内版には一切ありません。「室町時代の建築様式」にて再建された、とあるのも、毛利輝元期の様式という意味かも知れず、だとすれば、大内氏時代の痕跡は「目に見えるかたちでは」何ひとつない、って感じですね。これはまあ、この時代、この規模の神社が無関係なはずはないだろう、ってことで特に言及がないのだけかもしれません。

『陶村史』がたいへんに素晴らしい郷土史のご本であり、わざわざ陶村と陶家との関わりについて一章割いて詳説してくださっているので、そこまで読み進めば何か書かれている可能性は高く、読了したらリライトとなりましょうか。やはり大内本家は山口と大内の神社仏閣との関わりが圧倒的に強く、分家が任されていた市町村をご訪問すると、そちらのお殿様関係の逸話が山と出てくることがあります。そこまで手を広げていたら崩壊してしまいますが、少なくとも「陶」だけはやりたいと思っています。

肝心の神社本体についてのお話が最後になってしまいましたが、普通に立派で奥ゆかしい趣の神社さまです。境内社になっている八坂神社をはじめ、近代の神社や寺院の統廃合であれこれまとめられてきた神様方もおられるため、いわゆる春日神社といったら……という四柱の神様だけでなく、ほかにもあれこれの地元の神様だったり、残念ながら社殿が崩壊してしまった神様だったりと、陶の地にかつてあった多くの神社や小祠、神様たちの歴史をも受け継いでおられます。

また、著名な神社で信仰する方々も多いことから、現在も数々の祭典が盛況です。春祭・祈年祭が四月の第一日曜日となっているのですが、このような日程となっている神社さまってかなりの数存在し、長らく「?」でした。春日神社の例祭も最初は四月の八日だったそうです(陰暦使ってた時代のこととかは分りません)。ですが、これだと、学校や会社がある人は参加しにくいということで、敢えて学校が休みの「日曜日」に変更したのです(会社が云々について書いてある本は見たことないんですが、いちおう、お祭りに出たいのにーという大人の存在も想像して書き添えました)。つまりは、子どもたちが参加しやすいような日程に変更した。だから「何月の第○日曜日」というような日程になっている祭事をよく見かけるのですね。

将来を担っていく子どもたちに、早い時期から地元のイベントに参加したりして、郷土愛を育んでいこうとか、あまりそこまでいっちゃうと思春期の頃くらいになって、年寄りたちメンドー、都会に行きたい……。とか言い出す輩が現われかねません。ですけど、さりげなく、学校がお休みの日にお祭りの日を設定し、子どもたちが喜びそうな出し物を用意しておけば、お祭りはごく自然に楽しいものとなります。

平日のこんな時間に観光かよ? というような日にち、時間帯に参詣したため、境内はやや閑散としておりました。お祭りの日は人々が賑やかに集い、その中に子どもたちの歓声も響き渡ることでしょう。郷土愛ゼロの人物がこの手の文字を綴るとヤラセっぽいですが……。自宅付近の平日こんな時間に観光かよ? という日にち、時間帯でも周囲が人で溢れて(神社に行くつもりはないのに)歩くのも大変なところに住んでいると心中複雑となりました。あの源氏の氏社(石清水八幡宮ではないです)がこちらの摂関家の氏社より優秀だとも思えないのに(そもそも神様方に優劣などつけられません)。もう、そうなると、子どもたちのために例祭を日曜日にしよう、などという心優しい配慮は不要となります。そもそも、地元の子どもたちが参加しようにも、混雑しすぎてはじき出されてしまうだろうと推測。

由緒正しく、心優しい、そんな長閑な神社さまでした。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きなすべての方に
  • 摂関家の氏社!? 絶対行きます(そういや来年の ○○ ドラマはようやくタ×キが失せて摂関家の方々が出てくるお話ですね)という方に

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

結局、摂関家の氏神とか、藩政期に修理したとか書いて終わりじゃないか。歩き疲れてヘトヘトになったのに、ご先祖様とこの神社との関連性は何なんだ?

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ミル

あああ、えーと、正護寺との関連性からまずはかなり浅からぬご縁があったはずだね。

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五郎

だから、その関連性の「中身」が知りたい! それに、見出しにまでした小祠の写真が米粒ほどって、どういうことだよ?

ミル涙イメージ画像
ミル

疲れたから裏まで気が付く余裕がなくなったのは、君も同じじゃないの。リライトはちゃんとするんだから、とりあえず、毎日更新できるようにしようね。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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