人物説明

大内弘直 終始一貫して南朝支持の人

新介イメージ画像

大内弘直とは?

二十三代当主・弘幸の弟で、南朝のために武家方と戦い亡くなった人です。普門寺に供養塔があることで知られています。

古い時代に書かれた書物である『大内氏史研究』では、宮方に味方することを正義ととらえているようで、この人が参加した武家方との戦いを「義戦」、戦死を「忠死」と表現しておられます。現代ではそのような考えた方に共感しようとも、何ら感動せずとも、個人の思いは人それぞれです。

しかし、中世という時代においては、「古い考え方」が主流だったかも知れず、その意味ではその行いを高く評価された人物であったことも十分に考えられます。現代的には、最初の一行ですべて説明できる人です。

大内弘直の基本データ

生没年 ?~13360707
父 大内重弘
兄弟 弘幸(弘直は弟)
幼名 新介
法名 瑞雲寺恵海浄智大禅定門
墓所等 普門寺と所領とされる波野に宝篋印塔、亡くなった地・石見大山に五輪塔あり。
(典拠:『大内文化研究要覧』)

南朝? 北朝? まずは立ち位置を明らかに

大内氏一族の南北分裂

南北分裂の時代、大内氏内部も分裂し、南についた弘世、北についた長弘とに分れる。大内氏内部の分裂は、弘世とその父・弘幸の代、当主でもないのに、一族の代表のように振る舞っていた鷲頭(大内)長弘に対する反発から起こった。長弘が北朝についているのなら、こちらは南朝につき、正々堂々と大義名分を以て長弘一党を退治しよう、という意図から(※実際に、弘世が鷲頭氏を討伐した時点では、長弘は亡くなっている。長弘と弘幸・弘世との武力衝突はなかったので、要注意)。仮に長弘が南に味方していたとしたならば、弘世は北についたであろう。その意味で、格別南朝、宮方につくことが正義とか、そのような考え方は当人たちにはなかったと考えられる。

むろん、本人たちに直接確認することはできないから、推測にしかならないけれども。この時代の一家内部分裂だの、敵方への寝返りだのは、ほとんどにおいて「敵の敵は味方」理論から、その親玉に誼を通じるというケースであったというのが通説。何も一族内部の仲間割れとは限らず、普段から境目論争そのほかで犬猿の仲となっている隣国との対立から、相手とは別の「側」につくこともあり得た。

近藤清石先生が『大内氏実録』をおまとめになった時点で、弘世が南朝に寝返ったのがいつなのか、史料の上ではっきりと断言するのは難しい、と書いておられた。なぜなら、この時期、南朝と北朝は、それぞれの朝廷、それぞれの天皇がおられ、元号もそれぞれで異なっていた。南朝に味方している勢力は南朝元号を使うだろうし、北朝に味方している勢力はその反対となろう。しかし、南北対立の親玉ともいえる南朝の朝廷と北朝の幕府(足利尊氏ら)はともかくとして、周辺の状況に合わせていずれかに味方したにすぎない勢力にとっては、そんな細かいことはさして重要ではない。それゆえにか、南朝に味方してからも北朝年号で文書が書かれていたりして、混乱していたらしい。

だいたい、一族内部が分裂しているのであり、しかも長弘が一族の代表のように振る舞っていたのだからして、北朝年号の文書が大量にあっても何の不思議もない。そんなわけで、史料の年号が南朝年号に書き換わった瞬間が寝返った年月日であるというように、そこに手がかりを求めることは無理であったらしい。また、弘世方大内氏の文書を記録していた者とて、それまで北朝年号を使うことに慣れていたら、急には改められなかったかも。

その上で、現在では、様々な書物で、「定説」のようにして、弘世が南朝に寝返った年を明記している。それらによると、1351年らしい。このことを心の片隅に置いておく必要がある。

忘れがちなスタート地点

大内弘世人気と相まって、一族が分裂していた、ということはかなり広範囲で認知されている事実。しかしながら、そもそも、最初は足利尊氏と後醍醐天皇にも蜜月があったという根本はともかく、二人が手を組んでいた時期には、朝廷は分裂などしておらず、南北朝対立もなかった。つまり、北につくとか、南につくとかそのようなややこしいこともなかった時期がわずかながらあったことは、結構見落としがち。一般的にはそれでまったく問題ないのだが、ここを思い出しておかないと、こと、大内弘直という人の生涯については語れない。

まとめておくと、

一、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げる ⇒ 足利尊氏はじめ、鎌倉幕府(というか北条得宗)に嫌気がさしていた武家たちも天皇方につく
二、倒幕に成功し、後醍醐天皇が親政を開始する ⇒ 謎の天皇親政についていけない武家が多数発生し、武家政治の復活を望む声が高まり、尊氏がそのリーダーとなる
三、後醍醐天皇の新政に反対する尊氏らの武家勢力が天皇と対立するに至り、南北分裂が始まる

つまり、一の時点では、いや、我々は北条氏と運命をともにする、と思った忠義の家臣以外は全員が天皇派で、そこには尊氏はもちろん、その他の反鎌倉幕府の人たち全員が一致団結していたということ。この時、大内氏の一族はどうしたかというと、沈みかけた鎌倉幕府に味方するようなことはなかった。つまり、後醍醐天皇についた。

で、鎌倉幕府の滅亡が1333年。続いて天皇親政が開始される。当初は我慢していた武家たちもついに呆れ果てて天皇親政を見限り、新たな政権を打ち立てようと立ち上がったのが、1335年。

ここで、大内氏一族もやはり怪しげな天皇親政はちょっとなぁ、と思ったかどうかは別として、尊氏方についたとされる。その年代は、『大内氏実録』の弘幸項目によれば、建武二年(1335)のこと。当主である弘幸からの申し出であったらしい。その後、叔父・長弘が武家方として大いに活躍し、尊氏から周防守護職を与えられたことは知られている。

その後、長弘の専横が目障りとなってきた弘幸・弘世父子が、長弘と対抗するために南朝に寝返ったのが、先の1351年である。つまりは、1335~1351に至るまでの期間は、一族総出で武家方であったことになる。

まずは、大内氏一族としての、南北の立ち位置を確認した上で、ようやく大内弘直について語り始めることがかなう。

弘直は、1336年に南朝方として北朝方と戦って戦死した。

え!? 1336年は、弘幸・弘世父子も含め、一族すべてが北朝についていたのでは? と疑問に思われる方が多いかもしれない。執筆者もそう思い、何度も確認をした。しかし、この年号は間違っていない。そう、弘直は、弘幸・弘世父子の寝返りよりずっと早くに南朝方だったのである。もっと正確に言えば、南北分裂という時代を迎える以前、皆が後醍醐天皇を助けて倒幕のために力を合わせた時代からずっと、変ることなく天皇方の人だったということになる。

終始南朝方を貫く

忠節の人

一族の総意として、武家方についていた時期、なにゆえに弘直一人が朝廷方についていたのかについて明記している文書はないようで、弘直の行為を絶賛する『大内氏史研究』にも理由は書いていない。

「義戦」とか「忠死」とか書かれているのは、書物をお書きになった先生のご意見だが、敢えて一族皆と別の道を行き、結果戦死という結末を迎えた以上、本人に何らかの強い意志があったのは事実だろう。そして、恐らくは先生が感動しているような理由以外には考えられない。なぜなら、特に宮方に忠節を貫く意志がないのなら、普通に一族の取り決めにあわせて武家方につくのが自然の流れであるからだ。

『大内氏史研究』は、のちの弘幸・弘世父子の宮方転向も絶賛しているが、それが単に鷲頭家に対抗するためだけの理由であったことは周知の事実で、今時の研究者にはそんな理由を挙げる方はおられないと思う。もしも、宮方に忠節を云々であったのならば、鷲頭長弘が怖くとも、弘直同様、宮方のために忠節を尽す所存なので、ここで別々の道を行くことにいたします、と言えばいい。彼らは長弘の言いなりになって、嫌々宮方への忠節を諦めて武家方についたわけではないと思われる。だって、そうだとしたら、後から大内弘世が武家方に寝返った理由の説明がつかない。すべては損得勘定によるもの。だからといって、そのことを以て弘世を批判する人はいないだろう。せいぜい「世渡りが上手い」と感心する程度。中には彼の実益優先主義を無節操だと呆れる人はいるかもしれないが。いたとしても少数だろうし、それは宮方云々とは関係ない。

まあ、このような時代の流れの中で、どこまでも宮方を貫いた弘直という人はある意味すごい。現代人には理解しがたいが、「忠節」の人というのは、このような人を指すのだろう。

「義戦」敷山城の戦い

残念ながら忠節の人ではなく、武家政権を支持しているため、大内弘直の行動は理解できない。大内弘世が宮方についたのは、方便と思っているから、特に気にしていない。「敵の敵は味方」論者でもあるし。しかし、どこまでも忠節を貫くというのは感動的であると同時に、現代人からしたら、「世渡り上手くない」ととらえられかねない。まして、そのために命を落とすようなことにまでなれば。

南北朝時代が三代将軍・義満の代まで続いたことを考えれば、武家方の戦いも楽ではなかったことが分る。相手は朝廷の軍隊。容易く倒せるように思いかねないが、見ての通り、様々な思惑から、宮方についた武家も多く、単なる柔な朝廷軍を倒す戦いというわけにはいかなかったためだ。

やがては泥沼化していくが、弘直が亡くなった1336はまだ、初期の初期といったところ。ただし、それこそ、終始一貫して「忠節」の武家も少なくなかったから、尊氏たちの武家方も緒戦から苦労した。新田や楠木といった大物がだんだんと姿を消し、優位になっていっても、弘世みたいな「いきなり宮方なってるし!?」という勢力が出たこともしばしば。

そんな中、弘直が参加した敷山城の戦いというのは、純粋にいかにも弱そうな雰囲気。国府の役人たちが「賊軍」を迎え撃ったみたいに読める。「賊軍」にやられて敷山城は落城。弘直は城内にいたのか、それとも参加しようとして、城が落城したと聞き、城に入ることはなかったのかも定かではないようだ。しかし、落城の三日後、石見で戦死したという(『大内文化研究要覧』には、防府敷山の戦いで敗れ、石見大山城で戦死とある)。

亡くなったとされる場所、益田大山に彼のものとされる五輪塔があるという。

三箇所もある供養塔

我々が、普通に大内弘直の供養塔としてお参りしている普門寺にある石塔。見た目が新しいため、それなりに最近のものであることは間違いないと思っていた。昭和十五年に、「紀元2600年記念」として建立されたものであるという。だとすれば戦前のものなので、そこそこ年代ものとなる。さらに、その時代であれば、それが建立された理由もなんとなく分った気がした。

ほかに、亡くなった地大山に五輪塔があるのは前述の通りだが、ほかにも、弘直の領地であったとされる「波野」(田布施波野町)に宝篋印塔があるという。

参照文献:『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『大内文化研究要覧』、受験参考書

まとめ

  1. 大内弘直は二十二代当主・大内重弘の子で、二十三代・弘幸の弟
  2. 「波野」を領有しており、波野殿と呼ばれていたらしい。
  3. 大内氏一族は後醍醐天皇の倒幕に賛同、のちに、足利尊氏が武家政権の樹立を目指して天皇と一線を画すと、尊氏側(=武家方、北朝)に味方した
  4. 世は天皇方(宮方、南朝)と武家方(尊氏派、北朝)の南北に分裂。互いに天皇を立てたため、二つの朝廷が同時に並び立つ稀有な状況となってしまう ⇒ 南北朝時代
  5. のちに、惣領であるはずの弘幸を差し置いて「長老」として一族をまとめる鷲頭長弘に対抗するため、弘幸・弘世父子は南朝方に寝返り、一族内部が分裂するなどの出来事が起きる
  6. 大内弘直は、一族が武家方についても、宮方に味方することをやめず、終始一貫して南朝支援を貫いた
  7. 防府敷山での武家方との戦闘に敗れ、石見大山城で戦死。普門寺や、旧領地、亡くなった場所に供養塔がある
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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