人物説明

大内持盛 持世と家督を争い敗死・洞春寺観音堂の人

築山大明神イメージ画像
養父と家督を争った従兄弟です(築山大明神)

大内氏歴代当主とその関係者についてまとめております。今回は、大内持盛についてご紹介いたします。兄弟が家督を巡って争うという醜態が何度も起きているこの家で、前当主の死と同時に起こった騒動としてはこの兄弟が最後です。現在、洞春寺にある観音堂は、その姿も麗しい建築物として、国指定重要文化財となっていますが、元々はこの方の菩提寺にあったものです。

大内持盛とは?

室町時代の武将。大内義弘の子で、持世の弟です。義弘を継いで当主となっていた弟の盛見は、自身の後継者を実子ではなく、亡兄の子である、持世・持盛兄弟にと定めていました。二人は生前から、それぞれ長門、周防の地をもらう旨将軍家の「御判」も得ていました。けれども、兄と弟どちらを当主とするかを明確にせぬまま、盛見が九州で戦死してしまいます。

幕府の裁定では、兄・持世が家督となりますが、持盛はこれを不服として挙兵。ともに九州で凶徒討伐にあたっていた兄・持世の陣に夜襲をかけて敗走させます。持世は長門国へ逃れ、さらに石見国に向かいます。持盛はこれを機に長門に入りましたが、幕府の支援を受けている兄・持世の帰国で豊前国に逃れます。大友氏や義弘の兄弟満弘の子・満世などと手を結んでいた持盛でしたが、幕命を帯びた援軍を引き連れた持世の軍勢に敗退。豊前国篠崎というところで戦死しました。

基本データ

生没年 ?~14330408(永享五年、37歳)
父 義弘
呼称 孫太郎、新介 
官職等 正六位上、散位
法名 勝音寺殿(或観音寺殿)芳林道継大定禅門
菩提寺等 洞春寺境内観音堂に「位牌らしきものあり」※
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内文化研究要覧』※、『大内氏史研究』)

略年表(生涯)

永享二年(1430) 観音寺(勝音寺)創建
永享三年(1431) 叔父・盛見が九州で戦死。兄・持世とともに九州にいたが一旦帰国
永享四年(1432) 九州在陣中、兄・持世を襲い、家督争奪を企む
永享五年(1433) 兄・持世に敗れ、豊前国篠崎で戦死

出生の問題

かつて、近藤清石先生のご著作『大内氏実録』では、持世と持盛を弘世の子である、としておられました。その後『大内氏史研究』ではその説が否定され、現在は「持世・持盛」はともに義弘の子であるという『大内氏史研究』の説が一般となっています。

その根拠はいくつかありますが、最もわかりやすいのは、年齢の問題です。弘世、義弘の生没年と持世・持盛の生没年を比較。弘世の子であるとした場合、ほかの兄弟たちとの出生順の考察などからも、あり得ないこととされています。

要するに、『新撰大内氏系図』にある弘世の子らの中に、二人を組み込んだ場合、最晩年の出生だとしても、とんでもない長寿となり、なんかおかしい、となります。さらに、さまざま流布している系図類の中にも、二人を弘世の子としているものは存在しないそうです。

近藤先生は『薩戒記』なる書物の記述をご覧になって、系図類の誤りを正すかたちで、二人を弘世の子と決定づけましたが、そもそもこの書物の記述のほうが誤っていたという認識です。最新のご研究に統一しました。

おもな業績

盛見の後継者問題

『大内氏実録』では、持盛を歴代当主の中に組み込んでおられます。現在では盛見のつぎにくるのは、二十七代当主・持世となっています。しかし、先に持盛の家督相続があり、持世はそれを「簒奪した」というご認識です。この説は、『大内氏史研究』において否定されており、持盛には家督を継いだ事実はない、というのが現在の考え方です。

なにゆえに、このような誤解が生じたのかと言えば、やはり前述の『薩戒記』にある記述を信じてしまわれたためのようです。そこまでこの書物を信頼なさった根拠は何なのか、お伺いする術はありませんが。

実際のところはどうだったのでしょうか。『大内氏史研究』には、この辺りの流れが詳細に記述されております。結論から言えば、盛見は後継者を指名することなく亡くなってしまいました。そのため、事情がややこしくなり、兄弟が家督をめぐって相争う事態となったわけです。

ただし、後継者を指名しなかったがゆえに誰もが勝手に名乗り出て大戦争に、という考え方は誤りです。守護大名家の後継者が誰になるか、その件は重大事項ですから、幕府によって認可される必要があります。その決定を不満として叛旗を翻し、結果的に叛乱者が勝利し、実力で後継者になることもあります。現在話題にしている盛見がまさにそうでして、幕府が後継者として義弘の弟・弘茂を指名し、盛見を討伐対象としたことへの不満から兄弟相争うことに。結果、勝利した盛見を認めたくない幕府はその後も、弘茂にかわる後継者を指名したりするも誰ひとり盛見を倒せず、最後は幕府側が折れるかたちで盛見の家督を承認しています。

持世と持盛の場合も同じです。盛見が後継者指名なく突然に亡くなったことで(戦死)、跡継はどうなるのかという問題が浮上しました。幕府の裁定で後継者に選ばれたのは持世でした。『満済准后日記』に記載があるそうですが、『大内氏史研究』で拝読しました。

つまりは、持盛は、持世に家督を簒奪されたわけではなくして、幕府の裁定を不満としての兄弟相争うだったわけです。

叔父・盛見の恩情空しく兄弟相争う

そもそも、盛見は二十六代当主として、数々の実績をあげてきました。兄・義弘の死によって家督を継いだとはいえ、自らに立派な息子たち(教幸・教弘)がいたのですから、家督は子らに譲っても苦情は出ないはず。けれども、順当に行けば兄の家督を継ぐのは兄の子たち(持世・持盛)であったいう思いが終始心にあったようです。それゆえに、自らの子に家督を譲る気持ちはまったくなく、最初から、兄の子に相続させるという立場を明確にしていました。ただし、兄の子は二人いますが、家督を継げるのは一人だけです。最終的には、一人に絞るつもりだったものと思われますが、戦死により突然に亡くなってしまったため、そこまでの準備は整っていなかったのでしょう。

考えようによっては、盛見の子らも家督継承権を主張して立ち上がってよさそうに思え、そんなことになれば、それこそ大戦争に発展しますが、盛見の子らは完全にノータッチ。かなり厳格に後継者は兄の子である、と徹底して叩き込んでいたように思えます。それゆえに、将来我が子が兄の子たちの相続に異議申し立てをする事態を憂い、自らの子を手にかけたというとんでもない伝承まで産まれました。⇒ 参照:大内盛見妙湛寺

義弘の子らに家督が行くということを明確にするため、盛見は生前から、持世・持盛の兄弟に、将来分国の管理権を任せることを決めていました。

持世:長門国
持盛:周防国

二人で力を合わせて、国を守っていって欲しい、と常々申し聞かせていたのでしょう。でも、こんなふうに、半分ずつくれると言われていても、中途半端で困ってしまいます。守護職を分け与えることは可能だとしても、当主となれるのはひとりだけであり、これだけではどちらが肝心の後継者なのかわからないことになります。

盛見の死後、内藤入道から幕府宛てに、以下のような申し入れがありました。要するに、国の管理権を誰に分け与えるかの問題の申し入れです。

持世:長門国、豊前国、筑前国
持盛:周防国、安芸東西条

これに対する、幕府の裁定がどうなったかと言えば……

持世:周防国、豊前国、筑前国
持盛:長門国、安芸東西条

大内方の申し入れと比べて、周防と長門がみごとにひっくり返っております。なお、幕府決定による後継者が、持世であったことは前述の通りです。

どうにせよ、盛見が後継者を指名しないままに亡くなったことから、盛見の死と同時にいったいどちらが継ぐのだろうという問題で、家中も一時騒然となったものと思われます。

我が子ではなく、甥たちに家督を譲ると語っていた盛見の兄・義弘に対する敬意に感謝すべきはずの持世・持盛の二人は、叔父の思いに反して兄弟相争う事態へと発展してしまいます。幕府の裁定など、持盛からしたら受け入れがたいものだったのでしょう。さらに、盛見が命を落とすことになった、九州での争乱は未だ平定されず、兄弟二人は一旦帰国した後、再び九州で陣中にありました。いかにも一触即発となりそうです。

混乱の九州と持盛の挙兵

盛見の戦死は、九州での凶徒討伐の最中のことです。またしても例によって、少弐・大友・菊池が手を組み、九州を荒らし始めたので、その鎮圧のために渡海していました。盛見の戦死により、九州はなおも混乱がおさまらず。代替わりのどさくさに紛れて、ますます勢い付く始末です。

そんな中、永享四年二月十日、持盛は持世の家督相続を不満として、挙兵します。従兄弟・満世(義弘の弟満弘の子)とともに、持世に夜襲を仕掛けたのです。突然のことに、持世はなすすべなく敗れ、長門国に逃れます。

持世はさらに、石見国に至り、持盛方は、何ということか、敵であったはずの大友氏と手を結んでしまいます。敵の敵は味方あるあるですけども。こうして九州の凶徒どもと組んだ上で、長門国に帰国。二月十三日のことです。

いっぽう、態勢を整えた持世は、三月十四日、石見から周防に帰国します。なんのかんの言って、幕府のお墨付きを持っているのは持世です。危ういものを感じた持盛・満世は、再び九州に渡海。豊前国に逃れます。この時、一合戦もなく退いたのかどうか、ちょっと書いてある物が見当たりません。

持世は正統な当主としての権利を行使。先に持盛が認められていた長門国、安芸国東西条の地を幕府から安堵され、さらに翌五年三月五日に凶徒討伐の「御旗」を得ます。

持世から家督を奪うためとはいえ、九州の凶徒らと手を結んでしまった持盛・満世らは、討伐対象として持世から攻撃される身となってしまったのでした。備後・安芸・石見・伊予の諸勢力が幕府の下知により持世に従っていました。とうてい、持盛方に勝ち目はありません。

永享五年四月八日、持盛は豊前国篠崎で戦死。家督を望んだ野望は潰えました。満弘の子・満世は、隊列を離れて難を逃れましたが、京都にて自害したということです。

人物像や評価

毎度お馴染み家督相続争いを起こした一人

兄・持世は武家歌人としても有名な人です。しかし、兄に叛旗を翻し、挙げ句討伐された持盛については取り立ててその業績は伝わっていません。盛見戦死の際、持世とともに凶徒討伐に参陣していたことから、叔父について活躍していたことが知れるくらいです。

兄弟相争うとか、討伐対象となって死に至るという悲惨な事実が伝えられているのみです。そもそも兄が家督と決まった以上、大人しく従っていればよいではないか。叛乱など起こすからいけないのだと短絡的に考えてしまいがちです。けれども、叔父・盛見もスタート地点では、兄弟の弘茂と相争っていたわけですから、これを以てワルモノと決めつけるのもいけません。

「家督」という二文字には、血を分けた兄弟すら争わせるほどの魔力があるのです。当主の弟として生きていくという選択肢もあったかと思いますが、無理だったようです。いちおうの言い分として、最初、盛見から「周防国」は持盛に与えるという約束をされたとき、その件については幕府から「御判」をもらっていました。

それなのに、後から「長門国」と交換となったことで、契約違反だ! というような意見をいちおう主張できます(言ってみたところでどうにもなりませんけど)。むろん、怒っている理由はそれにとどまらず、叔父が正式な家督を決めていなかったにもかかわらず、兄が継承者と認められ、自らは外されたゆえにでしょうが。

家督争いが起こるのは毎度のことであり、持盛が特別というわけでもありません。そのたびに家中は混乱し、当主の位を勝ち取った者は、その安定をはかることから治世を始めねばなりません。その意味で、この人もまた、お家の安寧を乱したうちの一人という烙印を押されてしまっております。

持盛が武辺一辺倒の人で、文芸には一切興味を抱かなかったのかは分かりません。ただし、今のところ、そのような事蹟を目にしたことはありません。

なお、『新撰大内氏系図』を見た範囲では、持盛には子女はいなかった模様です。

菩提寺と墓所

持盛の法名は勝音寺もしくは観音寺芳林道継ということで、その菩提寺は勝音寺もしくは観音寺であったと推測されます。『実録』の注によれば、同じ寺院に二つの呼び方があったということで。現在、寺院は失われておりますが、その観音堂だけが現在の洞春寺境内に移されて国指定重要文化財となっています。

勝音寺は、永享二年(1430)に持盛が竜岡珠玄を開基として創建した寺院で、滝町にありました。元は観音寺、その後、勝音寺と改名されたのです。毛利家の統治下では、大通院と呼ばれでいましたが、幕末には衰退。唯一観音堂だけが残されていました。貴重な文化財として後世に伝えるため、修繕して洞春寺に移したのです。

『大内文化研究要覧』によれば、観音堂の中に、持盛の「位牌らしきもの」があるといいます。『実録』には、木像もあったと書かれており、観音堂の中には確かに木像が何体かございますので、その中の一つがそうだったとか違うとか。今ちょっと典拠が曖昧となっております。

いずれにせよ、持盛の事蹟として、後世に伝えられたものとして、この観音堂は貴重です。むろん、それだけの人ではないと思っておりますが。⇒ 関連記事:洞春寺

まとめ

  1. 義弘の子で、持世の弟
  2. 『大内氏実録』では弘世の子とされていたが、『大内氏史研究』でその説は否定された。『新撰大内氏系図』にある通り、義弘の子で、盛見の甥
  3. 義弘の死後、家督を継いだ盛見は、自らの家督継承者を実子ではなく、亡き兄の子にすると定めていた。義弘の子には、持世と持盛の兄弟がおり、盛見は生前から長門国を持世に周防国を持盛に任せるなどと決めており、幕府からの「御判」も得ていた
  4. ところが、当主となって家督を継ぐのは兄弟のうちどちらかという肝心なことを決定する前に、盛見が戦死。幕府の裁定で兄・持世が家督とされたほか、周防、豊前、筑前などの地が安堵された。持盛にも長門国と安芸東西条が安堵されたが、持盛は不満を抱いた
  5. 盛見代から続く、九州で蜂起した少弐・大友・菊池との争いは未だ決着を見ず、引き続き持世の指揮下で鎮圧のための戦が続いていた。持盛も参陣していたが、満世(義弘兄弟・満弘の子)とともに持世を急襲。大友氏と手を組むなどして、持世から家督を奪うことを企んだ
  6. 持世はいったん長門国、さらに石見に逃れ、持盛は長門国へ帰国。しかし、幕府の支援を受けている持世の反撃に遭い、豊前に逃れて篠崎という地で戦死した
  7. 菩提寺だった勝音寺(観音寺)は、明治時代に至るまでに荒れてしまったが、観音堂だけは残されており、修繕の上、洞春寺境内に国指定重要文化財として伝えられている

参考文献:『大内氏史研究』、『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』、『戦国武士と文芸の研究』、『新撰大内氏系図』、『大内義隆』(米原正義)

雑感(個人的感想)

『大内氏実録』だと、この人が当主として数えられていてびっくりします。『大内氏史研究』により即否定されていますが。丹念に史料にあたり、理路整然と反論している詳細な記述に納得すると同時に、近藤清石先生は、なにゆえ誤解なさったんだろうと不思議でした。

盛見が後継者を指定せずに亡くなったという一件ですが、実際のところどうだったんでしょうか。いずれは一人に絞らねばならぬはずのことが、突然の戦死で言い置く暇もなかったのだと思いますが。でも心の中には、すでにこちらにしようという思いが固まっていたのか、あるいはどちらとも決めかねていたのか。早々に意見表明しておくことは大切だなと感じると同時に、でも、それが幕府の意に染まぬ人事であった場合は覆される可能性もゼロではないわけで。だって、万人恐怖・義教期のことですから。

普通に考えれば、長幼の順で兄なのかな、と思いますけども。盛見・持世期の九州の争乱はかなりの長期におよんだという印象があり、そんな中、持盛の叛乱はわずかに一年内で鎮圧されています。もっと長かったように誤解していましたが、本当にあっけないものでした。以前、大内氏とは無関係な通史で、嘉吉の乱について書いてあるのを目にした時、即逃亡した人、居残った人のような話題となり。持世には、弟・持盛との家督争いの時、幕府に認めてもらった御恩があったので云々と。創作ではないですが、有名な作家先生がお書きになった通史で。今、『大内氏史研究』に目を通しても、この頃の九州はかなり危なっかしい状態であったことがわかり、幕府の態度も優柔不断で援助してくれないとこのまま潰れちゃいますみたいな悲痛な申し入れを重ねていたり。そのわりには持盛の討伐については援軍も出してもらえて。でもそのせいで、嘉吉の乱に巻き込まれて亡くなるとか、巡り巡って出元はこの兄弟相争うから来ているのか、と。だとすれば、持盛の無念も晴れたか。

でも、毎度思いますけども、家督を奪い取るか死かという戦いを挑む時、兄弟としてお互いに対する思いって、どんなもんなんでしょうか。現代でも遺産相続で揉めたりしますから、納得がいかない! は普通にあることです。でも、この時代だと、円満解決はあり得ないですからね(それは今もかも知れないですが)。当事者の立場になって理解するというのは、遺産相続で揉める可能性もない貧乏人にとっては永遠に無理な世界です。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

当主の地位ってそんなに目が眩むものなのかな? 兄上がいる俺からすると、到底信じがたい。

宗景アイコン
宗景法師

すっかりイマドキとやらに同化したお前にはわからぬだろうな。

陶興昌イメージ画像
五郎の兄

いえ。伯父上、心根の優しい子なのです。私も兄弟仲睦まじくと思っております。分家させて二人で家を治めるのもいいかななどと。

宗景アイコン
宗景法師

どうせ俺は、弟を死なせて追放されてる身だ。お前らの仲良しごっことやらのほうが理解できない……。

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます
※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-人物説明