山口県岩国市岩国の錦帯橋とは?
江戸時代初期、岩国吉川家の三代当主・広嘉公が建設した錦川に架かる橋です。それまで、錦川に架けた橋は、洪水のたびに流されてしまっており、「流されない橋」を作ることが急務でした。
明国西湖に架かる橋をヒントに設計された、五つのアーチ型橋が連なる美しい橋です。釘を一本も使わない木組みの橋ですが、定期的な架け替えを繰り返しつつ、戦後の台風被害によって流されるまで、ずっと創建からの姿を保っていました。
現在ある錦帯橋は、昭和、平成と台風の被害を受け架け替えられたものとなりますが、その姿は往時のままに再現されています。
錦帯橋・基本情報
所在地 〒741-0062 岩国市岩国
橋の長さ 193.3メートル(橋面210メートル)、幅 5メートル 橋脚の高さ 6.64メートル
(参照:現地案内看板、住所は Googlemap のもの)
錦帯橋・歴史と概観
世界で最も美しい橋のひとつ
橋というのは、河などの向こう側に渡るために架けられるもので、船で渡るという面倒な問題を解決してくれる重要なインフラのひとつです。現在は瀬戸大橋のように、本州と四国を結ぶというすごい橋があるくらいですので、河に架けられた橋など、それに比べたらちっぽけな感じがします。
いっぽうで、河の両岸を結ぶ橋は実用的な面だけに特化して存在する場合が多いものの、その建築様式の優美さなどから、その町ひいてはその国をも代表するくらい著名な観光資源となっていることも少なくありません。日本にもまるで芸術作品であるかのような美しい橋がいくつもあります。錦帯橋はその中でもとりわけ素晴らしく、一生のうち一度は目にしていただきたい岩国、いえ、日本が誇る名橋であると断言できます(注:個人的な意見です)。
架橋の歴史と橋の特徴
錦帯橋の歴史は古く、江戸時代初期、三代当主・吉川広嘉公の時代に遡ります。錦川は鵜飼いも行なわれている美しい河川ですが、なにぶん県内最大の河川であることから氾濫などが起きた時の被害も甚大。河の両岸を結ぶための橋は何度も架けられましたが、いずれも洪水のたびに流されていました。
広嘉公は、病弱なお方だったそうですが、錦帯橋を架けたご当主さまとして誰もがその名を知っているお方となられました。広嘉公と錦帯橋については、『岩国の三英傑』というご本に詳しいです。
明国から帰化した僧侶・独立という人に病の治療を受けていた広嘉公は、「西湖志」なる絵図を贈られました。そこには中国杭州の西湖に架かる橋の図が描かれており、錦帯橋建設のアイディアはこの絵図が元になっているそうです。
錦帯橋には二つの大きな特徴がありました。
一、五つのアーチ型の小さな橋からなる木造橋である
一、釘を一本も使わない木組みの橋である
五つのアーチが連なる様が、まさにこの橋の美しさであり、最大の特徴です。もちろん、橋単体でも麗しいのですが、岩国の城下町と背後に佇む岩国城の美しさと相まって得も言われぬ風情を醸し出しています。
江戸時代には、お城は破却されて存在しない状態だったわけで、現代の我々がうっとりと眺めている風景とはかなり異なっていたと思われます。
当然のことながら、橋は架けたらお終いではありません。完成した翌年に中央三つの橋が流されてしまい、問題点を洗い出して弱点を強化しつつ翌年に再建。その後も、定期的な修理や架け替えなどを行いながら、維持されてきました。釘を一本も使っていないという点にびっくりなのですが、世界中の観光資源においてこの表現が使われているものって、けっこう多いです。
こうして、江戸時代から守られてきた錦帯橋でしたが、昭和時代に台風の被害によって流されてしまいます。台風はそれまでにも何度も来たであろうに無事だったのが、なにゆえ、現代になって流されてしまったのでしょうか。特にその時の台風の勢力が凄まじかったのか、あるいは、やはり経年劣化によるものなのか……。
『山口県の歴史散歩』には、かように堅固であった橋がこの時の台風で流されてしまった理由について、二つ挙げています。
一、戦時中、松根油採取のため、河の上流で過剰な伐採が行なわれた
一、戦後、岩国基地滑走路建設のため、下流の土砂を用いた。ちょうど、その作業中に台風が襲来した
いずれも必要なことゆえ仕方ないですが、江戸時代にはなかった出来事が重なり、橋の強度がやや弱まってしまっていたのかもしれません。
江戸時代から続いてきた橋が失われたことは残念でしたが、今も昔の通りに再現された美しい橋が錦川に架かっています。
略年表
延宝元年(1673)十月 当主居館・横山と城下町・錦見を結ぶ「城門橋」として完成
延宝二年(1674)五月 中央の三つの橋が流失
同十月 橋台を補強の上、再建
昭和二十五年(1950)九月 台風により流失
昭和二十八年(1953)再建
平成二年 架け替え
平成十三年~十五年 架け替え
参照:『日本史広事典』、『山口県の歴史散歩』、現地案内看板
錦帯橋・みどころ
錦帯橋と岩国城をセットで楽しむことがお約束です。天守閣に入ることをおすすめしているわけではなく、風景としてです(もちろん、お城にもぜひご訪問ください)。
錦川
錦川の水はとても綺麗です。鵜飼いも行なわれているので、シーズンには観光客の皆さんで溢れているそうです。奥に見えている橋が、錦帯橋です。ここからは、三つしか見えませんが、合計五つのアーチ型の橋が連なっています。
錦帯橋
背後の山、右端のほうに岩国城の天守閣が見えていますが、とても小さく見えます。ここは橋の渡り始めの場所でして、こちらで料金を支払い向こう岸まで渡ります。渡橋往復チケット、岩国城の見学まで含めたコミコミのチケットがあります。「入橋料」という名目で徴収され、錦帯橋の補修工事やら何やら、とにかく橋を守るために使われますので、きちんとお支払いしましょう。ちなみに、「片道」券というものは存在しません。帰りは橋を渡りませんという方でも行って戻ってくる料金を払うことになります。
このような向きから撮影したほうが、アーチ状になっているお姿がよくわかります。
案内看板
案内看板の立派さにびっくりでした。
「名勝 錦帶橋
名勝指定年月日 大正11年3月8日
昭和18年8月24日 追加指定
指定の理由
指定基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号) 名勝の部二 (橋梁・築堤) による。
指定說明 穹隆形ノ奇構ヲ以テ卋二著ハル五個ノ弯曲セル木橋ヨリ成り延長約百二十五間上下流ノ河底二ハ各約六十間ノ石甃ヲ敷キ四個ノ石造橋脚ヲ設ケ両端ノ二橋ニハ柱橋アルモ中ノ三橋二ハ之ヲ用ヒ弯曲ノ底少シク強シ延寶年中ノ創設二係リ尓来数々損傷ヲ修メテ舊形ヲ今二存ス
世界に誇る名勝錦帯橋は延宝元年(1673)、第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建されました。 それまでの橋は、 錦川の洪水のたびに流されていましたが、広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋の形が作り出されました。 長年美しい姿を誇っていましたが、昭和25年9月、当地方を襲ったキジア台風により惜しくも流失しました。 その後、 昭和28年1月再建されました。 現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた工事により架替えられたものです。
橋の長さは、橋面にそって210m、 直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ 6.64mとなっています。
錦帯橋といえば周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、 木組みのアーチや橋脚、 その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術であると言われ、当時の岩国藩の技術の高さを裏付けるもので、 その匠の技は今日まで脈々と伝えられています。
《保存上注意すべき事項》 名勝範囲内で現状変更等の行為をする場合は、許可・届出が必要です。この説明板は文化財保護法の規定により設置された説明板です。」
(看板説明文、英文部分省略)
錦帯橋(岩国市岩国)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒741-0062 岩国市岩国
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
常に疑問符となるのが、岩国最大の観光スポット岩国城と錦帯橋の最寄り駅が、岩国もしくは新岩国ではないことです。いずれかの駅に近い宿泊施設を拠点とする方が多いと思われますが、両駅からはバスを使うことになります。
参照文献:現地案内看板、『山口県の歴史散歩』、『日本史広事典』
錦帯橋(岩国市岩国)について:まとめ & 感想
錦帯橋(岩国市岩国)・まとめ
- 江戸時代初期に、三代当主・広嘉が錦川に架けた橋
- 五連のアーチ型橋、釘を一本も使わない木組みの建築様式などが特徴
- 明国杭州西湖に架かる橋をヒントに錦帯橋のアイディアが生まれたと伝わる
- その後数百年もの間、橋は定期的な架け替えを行いつつ、守られてきた
- 戦後、台風の被害によって創建当時の橋は流失。現在ある橋は、往時のままに復元れたもの。台風は昭和、平成と二度も橋を流し、そのつど再建された
- その姿の美しさと、当時の建築技術の高さから、極めて貴重な文化財として全国にその名を知られる名勝となっている
橋を渡るのには入橋料が必要です。恥ずかしいことに、渡り賃必要!? とびっくりしました。正直、錦帯橋の美しさは遠くから眺め見るものですので、お金を払いたくない方は払わない(橋を渡らない)選択肢もあります。金額はさほど高額ではありませんが、さりとて格安でもないです。橋を渡らずとも城下町の見学や岩国城への入場はできます。
ただ、遠くから眺め見るにしても、せっかくそのお姿を拝ませていただいたのですから、料金を払って著名な橋を自らの足で渡ってみることをおすすめします。確かに渡っている最中にはあまり橋の麗しさを感じませんが、アーチ型五連ですので、上ったり下ったりでそれなりの運動量です。橋の上からしか見られない光景もまたあるわけでして。それに何より、お支払いした入橋料は、錦帯橋のために使われるのです。文化財の保護に貢献することができます。
江戸時代に架けられた橋が、戦後間もなくまで流されることなく存在していたことに驚かされます。台風の被害で、元々の橋が流されてしまったことは本当に残念ですが、現代の技術で甦った橋も素晴らしいものでした。ひとり旅ではなかったので、写真撮影の時間があまりなかったことから、記念撮影した結果はほぼここにあるものがすべてです。渡り終えた後とか、渡っている途中に立ち止まる余裕はありませんでした。次回はひとりぶらり旅で橋だけを満喫するのもいいかな、と思っています。
こんな方におすすめ
- 世界に誇れる観光資源を求めて全国回っている方
- 有名な橋を制覇している方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
橋を渡るのにお金を払うなんて、中世みたいと思ったけど、大切な文化財を守り伝えていくためにもお金がかかるということだね。
寺院さまの拝観料とかにびっくりして、お金を払うくらいならいいですーって人がよくいるけどさ、この場合その選択肢はないよね。
確かにいるよね。誰とは言わないけどね。
山口と広島では拒絶したことありませんよ。
(ほかではやっていることを自白してる……)
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