人物説明

弘中氏 大内氏重臣の一族・子孫は毛利家に仕え今も続く

隆房・普段着

大内氏の配下にあった一族の皆さまを抽出する作業を続けております。『大内氏実録』に伝が立てられている方々を中心にして調査しておりますが、家臣の皆さままでは系図類が完備されているはずもなく、大変なことになっています。通史から拾っていくほかありませんが、のちに毛利家に仕えた方については、系図類をまとめたご研究もあります。本日は、その中から弘中氏についてご紹介します。残念ながら、毛利家に仕える以前の記録が消滅しておりまして(どこかにはあるのでしょうが、執筆者は知らず)、現在のところ分かっている範囲です。

弘中氏概説

清和源氏であること以外出自不明?

大内氏関連のご著作で、「弘中 ○○」という方は頻出です。にもかかわらず、『萩藩諸家系図』には「その出自は未詳」と書かれていました。そもそも最近まで、ご子孫が続いていることすら存じ上げなかった(駒ヶ林で亡くなられて、ご一家滅亡と思っていた)ので、その後、毛利家に仕えて続いたことが衝撃でした。それならば、過去の記録も確認できると大いに期待したのですが、少なくとも『諸家系図』では多くを語っておられません。これを越える労作も存在しないであろうと思われ、さてどうしたものかと思う次第です。地元の郷土史などにあたるしかないようです。

大内氏重臣の家柄

前述のように、関連するご研究類にお名前が頻出であるということは、大内家中で重きをなしていたことの現れです。そのことは『諸家系図』にも明記されています。有名どころの方々については、後述しますので、ここには記しません。

しかし、いつ、どなたの代に大内氏の配下となったものか、明確に記したものは確かに見かけたことがないように思います。『諸家系図』では、盛見代の「一切勧進帳」の中に弘中姓の人七名が載っていることを挙げ、その地位の高さについて解説なさっておられます。

つまりはこの時にはすでに配下におり、しかもかなりの地位を占めていたということがわかるわけです。でも、そこまでの道筋が知りたいと思い、本に書かれていないことは不明なのであろうと意気消沈しているところであります。

叛乱家臣に与した後、毛利家に仕える

弘中氏で最も有名な方のお一人と思われる隆兼さんが、厳島に渡海することの愚かさを説きながらも受け入れられず、それでも参陣して壮絶に亡くなられた逸話はよく知られております。「国難」において、どのような立ち位置だったのか、そういえば、言及されているのを未だ目にしたことがありません。しかし、近藤清石先生が『大内氏実録』の中で、この方を「叛逆」巻に記しているところからして、叛乱家臣に同調していたものかと思う次第です。少なくとも、義長政権下でも普通に重臣として仕えておられたことは事実です。

渡海することの愚かさを云々については、軍記物曰くの側面もあり、忠義の家臣についてはいいとこ取りさせようという脚色の可能性もゼロではありません。我々が目にすることができるのはすべて、毛利方が書き記した記録や軍記物ですから。冷泉隆豊が月山富田城に遠征することの愚かさを説いたのに受け入れられなかった云々と同じです。こういうのは、忠義の家臣に言わせたほうが、物語的には麗しいですので。

さらに、駒ヶ林で亡くなった件についても、『宮島本』では「伝承」に入っていたりして、どこまでが真実なのかは闇です。まあ、普通に多数意見に従っていればいいとは思います。

ここで弘中父子が亡くなったことで、弘中氏はいったん断絶します。しかし、僧籍に入っていた兄弟がおり、厳島には従軍していませんでした。その人が還俗し、弘中氏を継いだことで、家は守られたのです。その後は毛利家に仕えたため、子孫繁栄しました。

『萩藩諸家系図』に見る弘中氏

弘中隆兼の二代前から始まっており、「その先は不明」と。あんまりではないかと思いましたが、本当に不明なのか、意図的に不明にしたのかもわかりません。要は、子孫が毛利家に系図を提出した時点でわかっていたこと、というものなので、本当に不明となっていたこともあり得ます。いや、普通に研究者の先生方のご本に大量に出てくるのに、と思わないでもないですが。あくまで、自己申告ですので。

弘信―某―隆包―隆守
     某
     某
     就慰
(以下省略)

弘信 三河守、母大内弘世女、死去年月日齡不知、妻大内周防介持盛女、居城防州岩国中津村
某 三河守、母大内氏女、妻内藤修理亮隆時女
隆包 三河守、隆兼トモ、母内藤氏女、弘治元年十一月三日於厳島戦死、齡不知、妻不知
隆守 中務少輔、母不知、父一所討死
某 亦右衛門、母同、兄隆包同時戦死
某 忠左衛門、母同
就慰 方明トモ、三蔵主、民部丞、河内守、母同、死去年月日齡不知、妻堀立壱岐守某女、初防州岩国琥珀院弟子三蔵主 後還俗 元就公御代初奉仕

『新撰大内氏系図』を見た範囲では、弘中氏に嫁いでいる弘世の娘はいないし、持盛も同じ。こちらの系図通りなら、宗家の血も入っているし、重臣同士の婚姻関係もあったことがわかるし、興味深いです。

ところで、『萩藩諸家系図』の解説文を拝読する限りでは、毛利家に仕えた後、庶流も生まれ繁栄したらしいのですが、系図に限ってみれば、毛利家の人になって以降の記事もスカスカです。系図を作ることに熱心ではない一族だったのでしょうかね。

なお、ほかに、『諸家系図』本文中に、盛見一切勧進帳のところに、以下の名前が載っていましたので、補足。

 弘中民部丞兼実、弘中勘解由左衛門尉兼連、弘中縫殿入道喜快

『大内氏実録』から補足

『実録』には家臣の系図が載っているわけではないので、単純に「弘中」と入れて検索すると、ヒットしたのは以下の方々。同一人物はカウントせず、お名前不明の ○○ 守どまりの方も入れました。なお、同時に『大内氏史』研究も調べました。残念ながら、教弘期までで記述が途絶えているため、結果も『実録』と大差ないですし、カウントしませんでした。

弘中三河守(弘世・義弘期)、弘中下野守(義興期)、弘中越後守武長、弘中右衛門大夫興勝(義興・義隆期)

弘中氏有名人(大内氏時代の人限定)

弘中隆包が全国区で有名になっていることを除くと、ほかは知る人ぞ知る世界ですが、有名人には事欠かないはず。しかし、『大内氏実録』には、隆包の伝しかありません。そこに付属するようなかたちで、子息、兄弟も載っていますが。隆包さんについては、独立できそうですが、とりあえず、ここに入れておきます。

弘中武長

義興、義隆期の人。文武両道において活躍した。主・義興が足利義稙の将軍職復職のために上洛した際、従軍。船岡山の戦いなどで活躍した。また、在京中、有職故実を学ぶのに熱心であった主の使いとして、都の文人たちの間を行き来した。三条西実隆は、武長について「兵のつかさのまつりこと人源朝臣武長は、くれ竹の世をへて、多々良の家のたすけとして、梓弓矢のことく道をまもる、その心さし石をとほすにたりぬへし」云々と高く評している(参照:『戦国武士と文芸の研究』)。帰国後も、厳島神主家との合戦などで活躍。

弘中隆包★

岩国中津村亀ヶ尾城主。

『大内氏実録』に伝が立てられており、およそ次のようなことが書かれている(原文文語文)。

「幼名:小太郎。初め中務亟、のち三河守となる。中務亟興兼の子である。

義興に仕えた。大永五年、安芸に従軍し、大永六年七月五日、草津で戦った。

義興が薨じて義隆に仕え、天文五年十一 月、義隆の命で安芸国加茂郡に出、平賀弘保を援けて平賀興貞の高屋頭崎城を攻めた。

天文十年、義隆が安芸を攻撃すると、これに従った。三月十九日、内藤左京大進隆時等と佐東郡藤懸七尾山の地形を調べた。敵兵がふいに攻撃して隆時の弟・彦二郎正朝および南野藤右衛門尉等が戦死した、一隊はほとんど敵にとらえられそうになったが、隆兼が奮闘してこれ をしりぞけた。

天文十二年五月、義隆は尼子家との戦に敗北して出雲より還った。敵が備後を侵すことを慮り、隆兼を安芸の西条に派遣し、槌山城で備後外郡の事を裁判させた。
天文十三年、備後に出軍する。尼子の属城は皆降ったが神辺の村尾城だけが落ちなかった。
天文十八年四月、平賀太郎左衛門尉隆宗が一城を攻めるために大軍を他郷におくことの不利を論じ、 隆宗の兵を以てその任に当たることを望んだ。そこで攻城の諸族は皆撤兵し、隆兼も帰国した。
天文十八年九月四日、平賀兵が村尾城を落とした。ところが城主・山名理興が逃れてしまったので、青景隆著とまた備後に派遣された(帰国は天文二十二年の十一月十二月の間と思われる)。

義隆が薨じて義長に仕えた。

天文二十三年九月、(陶)全薑に従って玖珂郡岩国に出、琥珀院に陣をはった。

弘治元年三月十六日、全薑は毛利氏の反間策にかかり、隆兼に江良丹後守房栄を殺害させた。隆兼はこれを諫めたが、全薑はききいれず、隆兼もまた房栄に与したいと望むのか、といった。そこで隆兼はやむを得ず房栄を己の陣営に招いて斬殺した。

弘治元年三月三十日、海田、 仁保島で戦い敵の首を三つを獲る。

弘治元年九月二十二日、全薑は兵を派遣して厳島の宮尾城を攻めたが落ちないのを憤り、大挙して厳島に渡ることを相談した。隆兼はこれをとどめて、元就は防芸での弓箭が長いことを慮り、わざと弱いと示して、厳島に新城を築き、これを香餌(かんばしいえさ)として、大軍を入れるべきではない小島に味方を釣り出して勝敗を一時に決しようという策である、といった。全薑は聞き入れず、三河守の例は遠慮しているように見せて臆病なのだ。異見は聞く耳なしと誹り笑って、その夜厳島に渡った。
隆兼は聞き入れぬのなら聞かなけばよいだけの事である。我をすてて渡海するとは何事か、と怒った。しかし、最初から同意した弓矢であり、殊に此度の合戦は必ず負けるのだから、別々になろうとするのは丈夫の道ではない、陶は人の異見を用いず、知らずに死にに渡る。我は知っていて同じく死にに渡るのである。後日の為に言い置くといって、一 日後れて厳島に渡り、古城山の麓に陣をはった。

弘治元年九月一日、全薑は毛利元就父子襲撃にされて敗死した。隆兼は配下の兵を率い龍馬場の嶮にたてこもった。毛利兵が来て囲んだ。隆兼は防戦すること三日にして、子・中務とともに自殺した。」

近藤清石先生は、隆包(兼)を「叛逆」巻に入れてしまっておられるゆえに、評伝も偏ったものになっていると思われる。とまれ、この通りと言えば、そうとも言える。

なお、『萩藩諸家系図』には以下の解説がある。

「隆包は弥山竜ヶ馬場に布陣し激しく抗戦したが、遂に敗れ、弘治元年(一五五五)十一月三日 隆包は井上源右衛門に、嫡男中務少輔隆守は末田新右衛門に討ちとられた。」

弘中隆守

『大内氏実録』では、名前すら明示せず、「中務」となっている。どこかに信用ならない点でもおありだったのだろうか。父・隆包の伝に附して、わずかに以下の記述がある(原文文語文)。

「旧時記、 長屋覚書、 吉田物語は中務大輔とするが、父祖皆中務丞なので、それを継いで中務丞であろうと思われる。系譜に隆守と名前があるがほかに所見がない。
幼名:源太郎(言延覚書は彦三郎とする)。

隆兼は江良房栄を己の陣営に招いて殺害することを中務に命じ、中務は房栄の不意を撃たず、房栄に対して誅を加うることを言ってから事に及んだ。人々は中務の行いに感動したという。」

弘中就慰

隆包の弟。厳島合戦で、隆包、嫡男・隆守、弟某ともに戦死。家は途絶えた。しかし、僧侶となっていた三蔵主という人が還俗し、のちに毛利家に仕えた。これが就慰で、その後も子孫は続いている。

なお、『大内氏実録』には、「系譜」に載っているとして、以下のような逸話を記している(原文文語文)。

「隆兼の弟に又右衛門、忠左衛門、三河守方明がいた。方明は幼少の時、防州岩国琥珀院で出家して、三蔵主といった。十六歳の時、 兄三河守が陶尾張守が、江良丹後守を討果すべしと命じられたので、密談の結果、明朝琥珀院で相対することになった。討手は三河守弟・又右衛門、 忠左衛門と決まった。翌早朝琥珀院、又右衛門、忠左衛門ともに皮袴を着、早朝に琥珀院にやって来た。
丹後は何も知らずに、小人数で琥珀院へ参上した。三河守は密談があるので、御供衆は中に入れないように、というから丹後守は不審に思い、中門まで来たが、相談があるならご出馬願おうと中へは入らなかった。三河守は悟られたと思い、決めておいた通りに、又右衛門、忠左衛門に丹後を襲わせた。又右衛門が障子を開けて、丹後参ると言って打ち掛かると、丹後は江良の一討という、三尺二寸の刀を一間ばかり飛退て抜合せ打合った。又右衛門の裾を払うと皮袴を切られて、足にもつれ危うく見えた。忠左衛門が兄上助るといって、打ちかかると、又右衛門は引退いた。
弟の三蔵主は渋手拭いで鉢巻をし、脇指を差して、障子を破り、透間より見ていた。忠左衛門もまた皮袴を兄と同じく切放され、難儀となったので、三蔵主は障子を開けて、これも兄上助ると言って打ちかかった。忠左衛門が引退いた時、丹後は三蔵主を見て、小坊主推参と言って、はたとにらんだけれども、透間なく打ってかかった。丹後もこらえず打合せ、三蔵主は左の肩に三箇所の疵を負い、これは敵わぬと思い踏み込んで打ち、丹後の刀の鍔を切り削り、右の大指を打落したから、丹後は刀を取落した。三蔵主を見て小坊主めと言って笑い、左手で刀を取ったところを、飛懸って首を打った。
この一件は河内守方明の孫・与衛門元□が幼少の時、昔語に聞かされたのを与右衛門尉就治に物語の伝を書き出すようにと言ったとある。又右衛門、忠左衛門、三蔵主が負傷したことは、言延覚書に「終日切合い、手負三人候、打手の歴々に候へば、不叶被果候」とあることに符合する。しかしながら、この伝記は、与右衛門が幼少の時に聞いたものを、子・就治に話し、就治が話したものを記したのだから、言延覚書よりもはるかに後のものである。三蔵主が飛懸り首を打ったという、覚書の上のつづきには、「一段気なげなる人に而、門柱に寄かゝり、立死被申候を上下惜申て候」という部分に合致しない。 又右衛門、忠左衛門は兄と同じ場所で討死とあるが、ほかに所見がない。方明はのち、毛利氏に仕えて子孫は今も続いている。」

『萩藩諸家系図』の就慰に、方明ともいう、と書かれているので合致する。

参照文献:『萩藩諸家系図』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内氏史研究』、『宮島本』

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五郎

陶入道って、まさか、この人を積み残しで出発したの?

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ミル

どうだろうねぇ。この部分は、近藤先生が色々な史料からまとめておられると思うので。具体的にどれが典拠とかわからないんだけど、「積み残し」について見たのはじつはこれが初めてだったりする。

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五郎

古い記事の使い回しじゃないか。そもそも、弘中氏ってその後も続いてたってことは、俺知ってた。東広島のガイドさんに伺って。だいたい、自らが書いた文章にも「子孫は続いている」ってあったのに。無責任で恥ずかしいことこの上ない。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
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