大内氏の一門、家臣の概略を調べるのは素人には困難を極めます。苦労して調べたとしても、何かの見返りがあるわけでもないですし(研究者ならば、論文書いて出世できたりします)。すでにある研究成果を参照すればいいだけのことですが、典拠となる史料が曖昧な系図だけだと、研究者さえ正確なところはわかりません。もはや諦めの極地です。『萩藩諸家系図』は、立派なご本ですが、いかんせん「萩藩=毛利家」についての研究成果ですから、それ以前に消滅した家については記述すらありません。毛利に鞍替えしている家は本当に有難いと思うばかりです。問田家も大内氏内では有名処でしたが、どうやら叛乱家臣一味と運命を共にしたらしく、1555、1557以降どうなったのかは不明のようです。当然『諸系図』には載っていません。大内村に住まいしていた方々なので、『大内村誌』の記事が最も詳細です。
問田氏概略
問田氏の起こりは、平安末期から鎌倉初期、大内氏十六代当主・盛房の次男にして、十七代・弘盛の弟である長房が分家して、一家を立てたことにはじまります。所領であった大内村問田が名字の地となりました。
家中での地位
問田家は興隆寺二月会の歩射で「弓太郎」を勤めた家として有名です。このことは、「興隆寺文書」に記録が残っていることから、多くの本に書かれています。なぜ問田家がこの役に就いたのかについて記しているものを見たことがないため、理由は不明です(書いている人が知らないだけです)。
陶・内藤・杉のように家老格とは書かれていませんが、初期には周防守護代もしくは小守護代を勤めたこともあり、貞世、弘綱、隆盛等は石見守護代となっています。史料の欠落のためか否か、正確なところは疑問符になっている模様ですが、石見守護代を歴任していたと考えられているようです。弘綱以降は、代々奉行衆も勤めていました。
地元問田の寺社関連の史料に名前が出てくるのは当然として、興隆寺関係の史料にも頻出です。そもそも「弓太郎」は毎回勤めていたわけで、地元でもあり、ゆかりが深いのは当然ですね。
叛乱家臣らに与したお陰で、大内義長政権下で重きをなしたのは当然として、義隆期初期の「松崎天満宮棟札」に於いても、結縁衆の中で、陶興房に次ぐ順序で名前が書かれていたといいます。かなり高い地位を占めていたことがわかるかと。
文武両面に逸話あり
時代が新しくなるほど、史料が充実してくるのは当然として、政弘・義興期の弘胤・興之父子についての逸話が多いです。弘胤は政弘の九州平定に尽力。足利義尚の六角討伐には主君の名代として従軍します。さらに、義興代に至り、流れ公方・義稙の復職に尽した主君・義興を助けて活躍し、船岡山の合戦で戦死しました。その子・興之も同じ合戦に参加しており、父の屍を脇挟んで戦うという武勇伝を残しています。
この二人は、在京中に三条西実隆ら都の文化人と交流したことでも知られており、和歌などの文事にも熱心であったことで知られています。大内氏歴代がそうであったように、家臣たちにも文武両道に優れた人々が輩出されました。問田家もその例に違わなかったと言えます。
分家・野田氏
問田家から分家したのが、野田家です。始祖・長房の子は弘経ですが、弘経の子が成経・成俊の兄弟です。弟・成俊が山口野田の地に住み、野田家を立てました。右田家と陶家のように、本家と分家の間で家督を移し合ったこともあります。きわめて親しい関係にあったと思われます。
野田家については、以下にまとめました。 問田家から分家した一族。後継者がないまま当主が亡くなり、問田本家の者が継いだ。本家とともに叛乱家臣に与して滅んだらしい。 続きを見る
野田家 問田家から分家・跡継が途絶え問田家の人が後継者に
「国難」で叛乱勢力に与する
宗家三十代当主・義隆が、叛乱家臣たちによって倒された際、問田家は叛乱者側に与していたようです。一族全員がそうだったかどうかなどは不明ながら、『大内氏実録』の巻二十八「叛逆」にも名前が載っていること、毛利家の防長経略に際しても、叛乱者政権を助けて命を落としていること、などから結びつきの強さがわかります。
同じ分家一門どうしでも、横の繋がりは、その時々で変ります。婚姻関係など、様々な要因が絡んでくるのでしょう。個人的な人間関係の良し悪しも重きをなすと思います。よりにもよって、大内氏滅亡の時期に、叛乱者親玉が属する家と親しい関係にあったことは、その後の問田家の運命を左右しました。終始一貫して叛乱者政権に与したことで(あるいは、大内義長を当主と認めて忠義を尽したという見方もできます)、毛利家に臣従して新政権に仕えることはなかったようです。
この問題について。最近の研究では、系図にさりげなく書かれている但書が、非常に重視されています。
陶晴賢は一説に、実は問田紀伊守 (名不知隆盛の弟に紀伊守に任じた人がある)の嫡子で、陶興房の姉の子であったが、興房の養子となったとしている。この点は俗書の陰徳太平記などによった説であろうが、何等の確証もない。
出典:『大内村誌』155ページ
『実録』の近藤先生はじめ、『陰徳太平記』に書かれていると何でもデタラメのように思われてしまう流れです。確かに『陰徳太平記』には、毛利元就の素晴らしさを強調するために、敢えて真実ではないことを組み込むなどの脚色があります。それゆえ、現在の研究者の先生方も、この本を「史料」として参照することはないでしょう。ところが、「『陰徳太平記』=デタラメ」というフィルターを通して見てしまうことで、逆に真実がまやかしに見えてしまう側面もあるようです。
数年前に神道家の日記を典拠に、隆房=問田家の出身で、興房の実子ではない、というご研究が発表されました。これを以て、俄然、系図の但書が実は本当なのではないかという議論が起こっているようです。件の論文は拝見もしました。しかし、現段階では、では誰の子なのか、という点が解明されていません。そこまで分からなければ、近藤先生はじめ、偉大な先生方が否定し、地元の方々が「興房ー隆房」と信じて伝えてきた事実を覆すには足りないと思います。結局、誰の子かわからない、となってしまい混乱を招くだけです。ここは、さらなるご研究の成果を待つしかありません。それまでは、「伝統的な」説を信じていてかまわないと思います。「古い説」が時効となるには、郷土史や自治体案内看板の説明文、地元のガイドさん方のお考えがすべて置き換わった後です。
その上でですが、もしもそのような養子縁組関係が事実とすれば、問田家が半ば陶家とともに心中するようなかたちで、その後の歴史から消えていったことも頷けるようには思います。強い血縁関係があったがゆえに、叛乱者政権に味方したことは十分あり得ます。問田隆盛など陶長房とともに、龍文寺で亡くなっているくらいです。陶一家との絆の強さが見て取れる気がします。けれどもそれも、そのようなフィルターを通して見ればそう見えるというだけのことです。たまたま救援に入っていた時に杉重輔の襲来に巻き込まれ、長房と運命を共にすることになってしまっただけかも知れません。
問田氏の滅亡
隆盛が亡くなった後も、系図上はしばらく名前が続いていますが、詳細は不明のようです。隆盛孫・房胤という人が、長府で戦死したらしきことがわかるのみです。『大内村誌』は、この「長府で」というところから、恐らくは、大内義長が最後に自刃した長福寺に至るまでの戦闘で亡くなったのではないかと推測しています。大いにあり得ることです。義長が亡くなった後、義隆の遺児を担ぎ出した反乱などが起こりましたが、どれも鎮圧されます。「 問田氏もこの頃滅亡したものであろう。今に、その子孫の消息は全く不明である」と、長い長い問田氏についての解説は、そう結ばれています。
『新撰大内氏系図』全コメント
①長房 問田祖、平大夫
②弘経
③成経 太郎
成俊〈弘経子、成経弟〉⇒ 野田祖
④経貞
⑤重成 五郎、入道覚性〈経貞子〉
女子 右田六郎定幸室〈経貞子〉
貞義 弥六郎〈経貞子〉
弘義 彦三郎〈貞義子〉
⑥貞世 太郎、掃部助、備中守〈貞義子〉
弘有 十郎〈貞義子〉
⑦盛成 備中守
⑧弘綱 掃部助、備中守、石見守護代
⑨弘胤 掃部頭、大蔵少輔、贈備中守、永正四年八月廿四日於船岡山合戦死〈弘綱子〉
弘貞 三郎、於山口戦死〈弘綱子〉
⑩興之 掃部頭、備中守、於石州高城病死〈弘胤子〉
女子 宗像左衛門尉氏続妻〈弘胤子〉
⑪隆盛 十郎、丹後守、備中守、石見守護代、或作矢田隆通弟、弘治元年十月七日陶長房一所自害於龍文寺〈興之子〉
某 紀伊守〈興之子〉
安弘 喜平太〈興之子〉
弘胤 民部少輔〈隆盛子〉
房胤 備中守、於長州戦死〈隆盛子〉
晴元 新十郎、主水主
※数字は『大内村誌』にあった、当主としての家督が動いた順番です。隆盛より後の人については番号がなかったので、つけていません。
『大内村誌』からの補足
『大内村誌』は大内に居住していた問田氏について、非常に詳しく解説してくださっています。歴代当主ほぼ全員について説明文がついているほどです。滅亡し、毛利氏に仕えなかったと考えられている問田氏については、『萩藩諸系図』に載っていませんし、問田氏について知るなら、問答無用で『大内村誌』一択です。
いくつかの細かな点を除けば、だいたいにおいては『新撰大内氏系図』の通りです。敢えて補足が必要と思われるのは、問田興之の弟、興方です。この人は、野田家に入ったため、野田姓となったのですが、『系図』では、問田・野田両方ともに、名前が見当たりません。極めて重要な人物と思われるため、補足します。
「興方 野田、兵部少輔・野田鍋王ノ遺跡ヲ継グ」
このことは、実は『大内氏実録』にも記載されています。なぜ、『新撰大内氏系図』で抜け落ちてしまったのかは不明です。そもそも、野田家は問田家から分家していますので、両家の間で家督が動いているケースが多いのです。けれども、野田家について、『系図』はあまり詳細ではないため、この点も確認できません。
『大内氏実録』記載の問田氏の人々
『大内氏実録』で、伝が立てられていた問田家の人は限られています。その上で、『実録』が書かれていた時点で、身元不明の問田○○さんもおられました。これらの中には、その後の研究で明らかになった方も含まれています。
問田式部丞 応永十一年氷上山本堂供養日記 ⇒ 『大内村誌』が問田盛成と推定
問田入道道珠 応永十四年同寺一切経勧進帳 ⇒『大内村誌』によれば、道珠は問田貞世の法名
問田太夫 明応七年文書
問田胤世 五郎、文亀元年文書 ⇒『大内村誌』および『戦国武士と文芸の研究』では、「胤世=興之」であることが判明している。要するに改名しただけで、同一人物
問田英胤 大蔵少輔 年号不明文書
有名人(大内氏時代の人限定)
基本的に、この欄には、『大内氏実録』に「伝」があった人を掲載することにしています。けれども、問田家については、『大内村誌』にほぼすべての方について「伝」が載っております。これらを無視するのは、あまりにももったいないため、全員載せます。そうなると、誰が「有名人」なのかわからないという弊害も起こりますので、『実録』記載の人には「★」をつけました。なお、『大内村誌』には、在庁官人時代の解説もありましたが、ひとりひとり単独で項目を立てられるボリュームではなかったので、省略しました。それなり文字数が稼げそうな方から始めたところ、ちょうど大内弘幸・弘世父子の仁平寺本堂再建供養時期くらいの方々からとなりました。
問田重成
経貞の子。『大内村誌』が重成に関するものとして挙げている史料に以下のようなものがある
・『今山多聞寺縁起』:今山別当職安堵、正和四年(1315)寺社領内を裁許されるも、建武二年(1335)には貞義(或は貞能)の子の彦太郎弘義に遷補される。
霊夢により問田金花山に栖鳳山瑞雲寺を創建。得度して諱を覚性・字を心海と称する
貞治三年(正平一九年、1364)、今山堂知行所切畑村を購入し、菩提寺瑞雲寺の造営料所に寄附。応安元年(正平二十三、1368)、今山院主職を瑞雲寺に寄附
・『仁平寺本堂供養日記』:観応三年(正平七年、1352)三月十五日、問田日吉山の仁平寺本堂再建供養会に「 問田五郎入道覚性」(周防守護代もしくは小守護代か)馬一疋寄進、覚性次男・問田十郎弘有は守護方侍所に出仕
※瑞雲寺に今山院主職を寄附した後の覚性については詳細不明 ⇒ つまりは、応安元年(正平二十三、1368)以降の史料が欠落
問田貞世
重成の子。兄弟に弘有がいる。『大内村誌』が貞世に関するものとして挙げている史料は以下の通り(弘有もまとめて掲載)
・防府天満宮再建棟札
貞治四年(正平二十年、1365)棟札結縁衆「問田多々良弘有」
永和元年(天授元年、1375)棟札結縁衆「掃部助貞世」
・応安七年(文中三年、1374)、氷上妙見社上宮再建上棟式、「問田掃部助(貞世)」神馬一疋寄進
・永徳二年(弘和二年、1382)、義弘は氷上山二月会「歩射の弓太郎」の役を問田氏に勤めさせる例をきちんと条規として定めた ⇒ 貞世期のこと
・備中守補任、 剃髪して道珠と号する ⇒ 『実録』の身元不明者ひとり判明「道珠=貞世」
・盛見期、応永十一年(1404)~応永三十年(1423)の寺社文書に、「沙弥道珠」「問田入道」「問田入道道珠」等の名前が頻出。周防の守護代にも任じられていたらしい。
問田盛成
貞世の子。盛見~教弘期の人らしい。『大内村誌』には以下のような史料に名前が出ていると例示しています。
・応永十一年(1404))、氷上山興隆寺本堂供養会に御幣役を勤めた「問田式部丞」はこの人と推定 ⇒ 近藤先生の身元不明者がひとり判明したことになります。
・盛見時代応永末年のものと思える吉敷郡秋穂圧八幡宮の造営勧進奉加帳
・正長二年(1429)大内盛見は「問田十郎」に、氷上山舞児のことを寺家に伝えるよう命じている
・備中守補任
・嘉吉四年(文安元年、1444)、氷上妙見社上宮再建遷宮寺社奉行「問田備中守弘藤」は、盛成が弘藤と改名したものと思われる
問田弘綱
盛成の子。持世、教弘、政弘三代に仕えた。初名は貞世。
長禄三年(1459)、氷上山上宮御参詣時、御幣役を勤める。翌年(寛正元年、1460)「大内家壁書・養子御法」は、問田掃部助殿 「弘綱」宛てで文書が発行されている(この時、石見守護代だった)。文明十年(1478)の『正任記』に、問田備中守弘綱・問田備州など書かれている(以上参照『大内村誌』)。
『大内村誌』は、政弘期、備中守補任、弘綱と改名したとまとめている(ここイマイチ腑に落ちないのですが、参照は間違っていません。教弘は幕府に家督外されたことあったからでしょうかね)。
問田弘胤★
生没年 ?~1511
父 弘綱
子 興之、娘(宗像大宮司左衛門佐氏続の妻)
呼称等 初名:弘衡
官職等 掃部頭、大蔵少輔、大内家奉行衆、氷上山興隆寺惣奉行
文明十年(1478)、父・弘綱とともに、政弘の九州平定に従軍。十月三日、花尾城を攻略。『正任記』に十月三日に城を攻略したのは、問田十郎「弘衡」等とあり、十月十八日に花尾陣より政弘の元に問田十郎「弘胤」等の使者が参上した旨の記述がある。このことから、弘衡から弘胤と改名したのは、この期間のことと推定される(『大内村誌』)
長享元年(1487)、将軍・足利義熙(義尚)は、近江の佐々木六角高頼を討伐するため、鉤里に陣を置いた。弘胤は政弘の名代として東上した。正月二十二日、鉤里に到着。翌日、将軍は観世大夫に命じて松拍子を執り行った。弘胤は将軍の陣営年原口の警衛を勤めた。二月二日、将軍に拝謁。
永正四年(1507)、義興が足利義稙を奉じて東上するのに従った。
永正六年(1509)、周防国衙領を東大寺に還付する際、交渉にあたる。
永正八年(1511)八月二十四日、義興が細川澄元率いる軍勢と戦った船岡山の合戦に従軍。重傷を負い、亡くなった。
東上するメンバーに加えられた時、弘胤は同僚らに「勝敗はとやかく言わない。ただ、皆より先に戦って死に、その名を後世に残したい」と語っていた。果たして、その言葉通りとなったのである。将軍はいたく心に感じて、備中守を贈った。
※『大内村誌』および『戦国武士と文芸の研究』には、弘胤在京中に、三条西実隆らの文化人と交流があったことが記されている。猿楽、和歌などに熱心だったらしい。実隆は弘胤戦死の報を聞いて深く悲しみ、その思いを和歌に詠んで遺児・興之に送ったという。
問田興之★
生没年 不詳※
父 弘胤
子 隆盛
呼称等 幼名:十郎、初名:胤世(父の戦死後に改名)⇒ 『大内氏実録』の身元不明者ひとり判明
官職等 掃部頭、備中守
※没年については、石見国高城で病死説(系図)が有力。しかし、年代ははっきりしない。『大内氏実録』では、没年を大永五年(1525)~享禄三年(1530)の期間として、断定を避けている
船岡の合戦で、父・弘胤が戦死した。興之は膂力(りょりょく)があって、父の屍を左腋に挟んで奮戦した。敵も味方もびっくりしたという。
没年不詳。大永五年二月の文書に掃部頭とあり、興之のことだが、その後は所見がなく、享禄三年十月の松崎天満宮棟札に、陶興房のつぎに問田十郎隆盛とあるから、興之は大永五年二月~享禄三年十月以前に亡くなったと思われる。系図は石州高城で病死した、とする。高祖父・貞世、祖父・弘綱、子・隆盛皆、石州守護代なので、いかにもそのようだと思われる。しかしほかには所見がない。
『大内村誌』および『戦国武士と文芸の研究』では、興之と三条西実隆の交流や、和歌の会挙行などについても触れられている。
・永正五年(1508)、興之(当時は改名前なので胤世)は、道堅法師という人を介して、実隆に「和歌の道」について尋ねた。実隆はそんな興之を「哥道事数奇」と評したという
・永正六年(1509)三月、実隆に頼み、「詠歌大概」を書写してもらう
・永正六年九月、実隆に「夢想事五十首出題所望」。その歌題で夢想和歌を勧進
・永正七年(1510)、実隆に古今集校合を依頼、奥書を加えてもらう
・永正十三年(1516)、京都の宿所に冷泉為広を招き、和歌の会を主催
※弘胤の子で興之の弟にあたる、興方は分家・野田家から妻を迎えていました。野田家の当主(=妻の弟)が跡継がないままに亡くなったことで、野田家に入ります。⇒ 関連記事:野田興方(野田家)
問田隆盛★
生没年
父 興之※
呼称等 幼名:十郎
官職等 石見守護代、備中守、小坐敷衆
※実は矢田隆通・弟で、興之の養子となったとする系図あり。確たる証拠がなく、いずれが正しいのか断定できない(『大内村誌』)
享禄三年(1530))松崎天満宮再建棟札結縁衆中、「問田十郎隆盛、野田兵部少輔興方」両名の名は、陶興房に続いて書かれている。⇒ 「義隆時代初期の問田氏の地位がうかがわれる」(『大内村誌』)
天文三年(1534)五月十三日、豊後国薄野浦で戦い、矢傷を負う。
石見国守護代、備中守となる(系図に丹後守の名があるがほかに所見なし)。
叛乱家臣が主君義隆を追い落とした時、問田家は野田家ともども、陶方に与した。大内義長に仕え、小坐敷衆につらなった。
弘治元年(1555)十月七日、杉重輔が陶長房の居城・都濃郡富田の若山城を襲撃した。
※『大内氏実録』では、隆盛はちょうどその場に居合わせたために、長房ともどもに戦死したとする。いっぽう、『大内村誌』には。長房を守って菩提寺・龍文寺まで逃れたが、ついには長房ともども自害した、とする。
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内村誌』、『大内氏実録』、『戦国武士と文芸の研究』
陶入道は父上の子ではないかも知れないのか。道理で俺が知らないわけだ。兄上以外、見たこともないもんな。それが本当なら、陶入道と俺とは血縁関係にないことになる。お前と従兄弟同士ってことは変らないから、今後は味方してやるよ。
御免被る
(相変わらず感じが悪い奴……)
養子だとしても、その死によって政務を顧みることができないほど打ち拉がれたお方もいたし、そこら辺は何ともだよ。
あのトロい殿さまのことか。俺の父上はそんなことしないよ。悲しくともやるべきことはきちんとなさるはず。でも、妙な奴を養子にしたせいで、家が滅びる悲劇になってしまって。とんだ災難だな。あいつが毛利家に取り立てられたのは、叛乱者とは血縁関係にない赤の他人だったからか。ということは、俺もそうなるから、吉川家に拾ってもらえるかな?
(こやつがすべてを理解する日は永遠に来ないかも知れぬな)