島根県松江市の大内神社とは?
大内義隆の養嗣子・大内晴持を祀った神社です。義隆が出雲国尼子家の月山富田城に遠征した際、合戦に敗れ撤退を余儀なくされました。たいへんな大敗北で、退却も容易ではなかったと言われています。多くの犠牲者を出しつつも、義隆は辛うじて逃げ延びましたが、晴持は逃走中、乗っていた舟が転覆して亡くなってしまいます。
大内方は海に落ちた晴持を見付けることができませんでしたが、後日地元の漁師の網にかかって引き揚げられます。若くして無念の死を遂げた晴持の霊を慰めるために地元の人々によって建てられたと言われているのが、この神社です。
大内神社・基本情報
ご鎮座地 〒699-0101 島根県松江市東出雲町揖屋 596
祭神 大内晴持
社殿 本殿(社)
主な建物 小祠、社号碑(石碑)、鳥居、狛犬、説明看板
最寄り駅 揖屋駅(山陰本線)
大内神社・歴史
無様な敗北
大内家が尼子家と雌雄を決しようと大遠征を決行したものの、難攻不落の月山富田城を落とすことはかなわず、却ってとんでもない大敗北を喫して這々の体で逃げ帰った話は有名です。月山富田城の戦いと呼ばれるこの合戦が行なわれたことは紛れもない史実です。
この時点で実子がいなかった当主の義隆は、甥にあたるとされる土佐一条家から来た養子・晴持を跡継とするつもりでした。当主自ら出陣する大舞台に、義隆は晴持を伴って出発します。先に毛利家の吉田郡山城を落とそうと安芸に遠征して来た尼子晴久は、大内家の援軍などもあって、城を落とせずに撤退。尼子家はこの敗戦でかなりのダメージを受けたと思われ、また、先代・義興と中国地方の覇権を争っていた尼子晴久の祖父・経久(この時点では隠居して、晴久に家督を譲っていた)が亡くなるなど、尼子家が勢いをなくしたこの機会につけこもうという算段でした。
けれども、先代と違い戦に疎い当主が親征を行なってもぱっとせず、家臣たちも代替わりして一回りも二回りも見劣りする状態。毛利元就のような力をつけてきた国人領主たちを味方につけていたことは強みでしたが、軍略に長けた元就の意見など無視して身分だけは高い軍事部門責任者たちが強引な作戦を決行。当主にもそれらの意見を適切に判断する能力はゼロ。いかに尼子家が吉田郡山での敗北で士気が弱まっていたとはいえ、適当にやって勝てる相手ではありません。しかも、遙々防長の地から遠く出雲まで乗り込むわけです。よほどの自信がない限りは……と思いますが。
そもそも、この遠征、行くべきではないとする意見と、決行すべきという意見とで家中は真っ二つに割れていたことで知られています。戦嫌いの人物が、なにゆえに安易に決行したのでしょうか? 理解に苦しみます。己の能力値がわからなかったのでしょう。好戦派の家臣が云々は言い訳にはできません。その罰があたったというか、貧乏くじを引かされて異国の地で亡くなった養子はじつに気の毒です。
言い伝えなのか、真実なのか?
とりあえず、大内晴持が月山遠征で亡くなったことは事実です。溺死したというのも恐らくはそうなのでしょう。けれども、その霊魂が彷徨い出て地元の人を震え上がらせただとか、実は生きていて地元の方に助けられたというのは眉唾でしょう。詳しくは ⇒ 関連記事:大内晴持
けれども、晴持を祀ったとされる神社は現在まで続いているのですから、心優しい地元の方々によって手厚く葬られたのだと思われます。
当主の跡継が乗った舟がひっくり返って溺死とか、無様の上塗りとしか思えませんが、滅亡間近の勢力なんてこんなものかと。
近藤先生の『大内氏実録』によれば、晴持の遺体は地元の漁師に見付けられ、その首を斬って尼子家に献上したとあります。そんなことをしたから祟られる仕儀と相成ったように思えますが、観光案内版の説明を見た限りでは、例のモノを献上したという事実はなく、そのまま遺体を埋葬したように読めます。
そんなことが尼子家にバレたら、漁師さんの身も危険です。けれどもそうと知りながら手厚く葬ったのに、にもかかわらず「祟りした」というのですから、恩知らずな霊魂ですね。社が建てられたのは、霊を鎮めるためですので、一、我が身の危険も顧みず手厚く葬った、二、にもかかわらず化けて出た、三、慰めるために社を建てた、四、その結果大人しくなったという流れです。
なお、説明看板は二種類あり、それぞれの内容が微妙に異なります。もう一つのほうは、晴持を引き揚げた時、まだ息があって、手厚く介抱したものの助からなかった、となっています。その後手厚く葬ったことは同じです。
親切な地元の人、恩知らずで迷惑な霊魂という構図にしか見えません。まあ、天神さま(菅原道真)とて恐ろしいことになったわけなので、不運な亡くなり方をした人というものは、当時は皆、こんな具合だったのでしょう。
大内神社・みどころ
正直なにもありません。民家の隙間にちいさな社と祠がある、といっただけのものです。けれども、興味・関心のある人に言わせたら絶対に見ておかなくてはならない神社ということになるかと。そうでない人からすると、地元の方々の神社なのだなぁ、と通り過ぎるだけになりそうです。
鳥居
最近は、鳥居はど真ん中真正面から写真撮影したらダメです。そこは神様の通り道なので云々というネット上の噂に恐ろしくなり、出来る限り気を付けているつもりなんですが、一度限りの場所で撮り直しがきかないと、もう仕方ないですよね。まあ、神様は寛大なので、そんなせせこましいことは気になさらない、と思います。
社号碑
地元の方々が大切にしてくださっていることがわかって嬉しくなります。裏側に関係者の皆さまのお名前があります。
社殿
コレ、「本殿」って呼ぶのか正直わかりません。でもただの社って書くのも何となくなので。ちなみに裏側までまわってみたところ次のようになっていました。
前から見ると単なる平屋建ての家にしか見えないのですが、このように背後で小さな本殿と連結してるのです。と、思いますが、違うかも。後ろの小さな祠みたいなものが本殿だとすると、手前の大きな建物は拝殿とでもなりましょうか。たかが社とか書いてありますけど、けっこうきちんとした本格的なものです。
説明看板
この説明看板の文章が、すごい長文でして、中身も非常に充実しております。残念なのはご覧の通り、判読不能となっている点。書いてあることは、皆さまご存じの通りの内容ですが、地元の方々の視点で、つまり敵方・尼子の領国に住んでおられた人々の歴史として書かれていることがとても貴重です。
神社の由来、歴史、すべてがここにつまっています。でも、読めない……。なんとか文字起こしを試みましたが限界もあり、「?」となっているところは「こうなんじゃないか」と推測して埋めたか、もしくはそれすらもできず飛ばしている部分です。
残念ながら現地に赴いて直接ご覧になっても、これ以上のことは無理と思われます。ご参考までに。
「今から四百五十年ほど前(天文十二年)、瀬戸内沿?岸を支配していた山口の武将大内義隆は山陰地方を支配していた尼子氏を討つために北進してきた。尼子氏の城は広瀬の富田城だったので、広瀬が見おろせる京羅木山に陣をとった。義隆は三万の軍勢で富田城を落とそうと二度も総攻撃をかけたが成功せず持久戦となった。しかし、その間に尼子氏に味方する武将が現われたり、長雨?が続いたりして、義隆の軍勢は次第に弱っていった。
そこで、義隆は山口へ退却することを決心し、ある夜に全軍を京羅木山から脱出させた。そして自らは揖屋から??、宍道を経て??尼子家の追撃を振りきり、石見路?から山口へ退却していった。義隆の軍勢の中に義隆の嗣子晴持(二十歳)という若大将(??義房)がいた。彼は海路出雲浦から船出を命じられていたので、大混乱の中揖屋の灘へたどり着いた。灘?には船が用意してあったが、たくさんの将兵が我も我もと乗り込んだために、晴持の乗った船は?転覆?してしまった。暗闇の海の中とうとう晴持は溺れ死んでしまった。
翌日晴持の水死体が揖屋の漁師の網元・八戸?屋?惣右衛門の網にかかって引き上げられた。見れば年は若いがその装いはただならぬので調べてみたら大内氏の若大将だとわかった。揖屋は尼子氏の領地なので敵方である晴持の屍を葬ることは厳しく禁止されていたが、心のひろかった惣右衛門は、年若くして異郷で死んだ晴持を哀れんで現在の大内神社の地に密かに葬り回向してやった。葬った当初は晴持の霊魂が馬で通行する武士などを懼れさ?せた。そこで惣右衛門はその霊を慰めるため小さな社を建て晴持を祭神として大内権現と名付け毎年祭事を執り行った。明治時代になって大内神社と改められたが、古いしきたりで今でも「権現さん」と呼んで親しんでいる。
昔しの道は神社の北側を通っており、社殿は道路を背にして建ててあった。それは晴持がはるか南方の故郷山口を慕う心を哀?んだ思いやりのある建て方であったと思われる。
※晴持は京都の公家一条大納言の次男で母は義隆の姉。三歳の時に?義隆の養子となる 。顔かたちが美しく、詩歌・管弦・蹴鞠の道はもとより、武芸にもすぐれた腕前を持っていたといわれている。
平成元年??」(説明看板)
説明看板・その二
こちらの説明看板は普通に読めますので、文字起こしの必要はないかと。けれどもこちらだと、漁師さんに発見された際、晴持はまだ生きていたことになっています。介抱の甲斐もなく、結局は亡くなってしまったので、やはりこちらの神社を建てて供養しました。こちらには、介抱してもらったゆえになのか、霊魂が徘徊した旨の記述はないです。
なお、漁師さんの名前は「吉儀惣右衛門」さんと書いてあります。上の判読不明部分がある看板でも、お名前は同じく「惣右衛門」さんと読めます。ですけど、姓の部分がちょうど判別不能部分となっています。何となく三文字で、しかも最初の文字は「八」と読めるんです。なので「八戸屋?」と思いました(有名な尼子関係の方で、『三刀屋』さんっておられるではないですか。なのでなんとなく……『と』が違うけど。本当に、完全に判読不能なのです。涙)。どちらも同じ方について記しておられるものと思われますが、上の看板だと姓は「吉儀」さんではないような? ただし「判別不能」ですので、もうどうしようもありません。
祠
近藤先生の『実録』に、晴持を祀る社の側に小祠があり、それは晴持を救った(つまり『引き揚げた時生きていた』説)漁師さんを祀るものである、ということです。これがそうなのか、どこにも説明がないのでわかりませんが、ほかに同じ境内にまとめられそうな人物も思い浮かばないので、そんなところではないでしょうか。
しかし、近藤先生は「晴持を救った漁師」の物語を否定しておられます。
大内神社(島根県松江市)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒699-0101 島根県松江市東出雲町揖屋 596
山陰本線「揖屋駅」付近
アクセス
月山富田城跡を訪問した後に、車で立ち寄りました。なので、歩いて行く行き方はわかりません。ですが、付近に山陰本線の「揖屋駅」がありますので、そこからナビゲーション起動で問題ないはずです。
住宅地の中に埋もれていますので、見付けられるか不安でしたが、意外にも車窓からすぐにそれとわかりました。カーナビに住所を入れればバッチリです。
地図をご覧になれば分る通り、月山富田城より大内軍が本陣を置いていた京羅木山に近いです。ここから逃げたか……というのがよく分ります。ルート的になんとなく「順路」沿いっぽいです。むろん、神社がある所 = 亡くなった場所というわけではないですが。しかし、普通に考えてそう遠くはない場所でしょう。
参考文献:『大内氏実録』、『大内氏歴代当主とゆかりの地』、神社ご由緒看板
謝辞:大内文化探訪会さま発行の『歴代当主とゆかりの地』というご本がなければ、この神社の存在はわからなかったと思います(『実録』に載ってはいるものの、現在まで存在しているとは考えなかったはず)。この場を借りて御礼申し上げます。また、この場所に無事辿り着くことができたのは、広島県内のお世話になっている郷土史の先生のおかげです。遙々遠い所まで、本当にありがとうございました。
大内神社(島根県松江市)について:まとめ & 感想
大内神社・まとめ
- 大内義隆の養子・晴持を祀る神社
- 月山富田城攻めに敗北して逃れる途中、晴持は溺死
- 地元の漁師によって遺体、もしくは辛うじて生存している状態で引き揚げられる
- 生存している状態で引き揚げられた説だと、介抱空しく息絶えたので、社を建てて祀った
- 遺体を引き揚げた説だと、手厚く葬ったもののその霊魂が彷徨い出たために、社を建てて供養した
- 神社は最初「大内権現」といったが、現在も「大内神社」と名を変えて存在している
大内晴持という人は「詩歌・管弦・蹴鞠」に勝れ、おまけに武芸にも秀でていたって「言い伝え」が神社の説明看板にも書かれていました。どれだけ使い回されているんでしょうね。常に思いますが、「武芸に秀で」はまったくの根拠なしですし、蹴鞠なんてできたところで合戦では 1 ミリの役にも立ちません。公家の宴会に興じてた養父と養子は国許で大人しくしてて、「武芸に秀で」た家臣だけで遠征して欲しかった。
幕府の将軍親征同様、当主自ら出陣することはパフォーマンスでしかありません。むろん、将軍様自らがご出陣なさる、ということで味方の士気が高まるというメリットがありますが、それで負けてしまったら、士気は高まるどころかダダ下がりです。
晴持が「武芸に秀で」ていたのはあるいは事実なのかもしれません。ですが、実際の戦場では「武芸に秀で」ていることよりも、軍略に長けていることのほうが重要かと。刀ぶん回して敵なぎ倒すのは侍大将 A クラスに必要とされることです。毛利元就さんのような知恵者こそが必要とされる人材なのです。そんな立派な人物を配下に出陣しながら、ロクに意見も聞き入れず、挙げ句の果てにこの体たらく。晴持に罪はありませんが、マジ笑えない。
詳細は月山富田城のところで書きますが、京羅木山に陣を移そうとしたってのも、アホらしい選択みたい。正直、祖父・経久と比べたら小粒であることを否めない尼子晴久相手でも、どこぞの当主には挑戦権なかったと思います。周防から出雲まで、どんだけ遠いの? 勝つ見込みもない戦でお気に入りの養子を失ってやる気をなくすとか、誰も同情しないどころか、呆れてものも言えない。もっとマシな戦い方なかったのでしょうかね。
けれども不思議なのは、海路船で逃げるって言っても近くにあるのは「中海」つまり湖です。川伝いに行くということなのかなぁ……。そう思って大きな地図を広げたら、中海は日本海と繋がっていた……。当時の地形と現在とでは、およそ違うだろうけれど、この神社の場所から日本海に出るのはすごい遠いのですが。晴持が沈んだ「出雲浦」って、いったいどの辺だったのでしょうか。期せずして月山富田城跡からこちらへ向かったので、自らも逃亡者になった気分。ご一緒した郷土史の先生曰く、確かにこんなルートになるかなぁ……と。半ば呆れていらしたけれど。ここからどうやって船で逃げるのか、先生にお伺いしておけばよかったと後悔。
こんな方におすすめ
- マイナーだけどあれこれのゆかりがある神社に行ってみたい方
- 「容姿端麗、歌舞音曲に勝れ、武芸にも秀で」しかも若くして亡くなる、そう言う話に弱い人(ですけど、これらの出典すべて『軍記物』ですので。のっぺりした公家はありかもね)
オススメ度
晴持が亡くなってからこの方、数百年間も地元の方々に大切にされている神社です。その事実に素直に感動します。ただし、観光資源として考えた場合には、小規模な地域密着型神社という印象です。観光客がゾロゾロ来るような神社さまではないです。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
船で逃げてたら陶入道も危なかったかな? 無事に戻れてよかった。
(そうだね……君の神社が建ってたかも……。島根は遠すぎるよ)
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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