日清講和記念館(下関市阿弥陀寺町)

名前の通り、日清講和記念館です。
山口県下関市阿弥陀寺町の日清講和記念館とは?
明治時代、日本と清国の間で、日清戦争が起こりました。明示二十八年(1895)、その講和会議が行なわれたのが、春帆楼という料亭です。ここで、日本から当時の首相・伊藤博文、清国の李鴻章との間で話し合いがもたれ、下関条約が結ばれたのです。
日清講和記念館は、この料亭に隣接する洋館で、講和会議の際に使われた調度品、伊藤博文、李鴻章の遺品などが展示されています。
日清講和記念館・みどころ
親切なタクシーの運転手さんが、ここはぜひ見てくださいね、とお連れくださったのに、なんと、臨時休館で中に入ることができなかったんです。もう一度行きたいですね……。
(臨時休館なら、ミルに落ち度はないな。そもそも、最初からここに行く予定はなかっただろうし。俺も清国とか聞いたこともない)
日清講和記念館外観

この建物の中に、明治時代に歴史的講和条約が結ばれた時の、記念すべき調度品が当時のままの姿で展示されているのです。入れなかったので拝見できていませんが。外観は休館日でも見れます。
記念碑

春帆楼(未見)と伊藤邸跡
初代・総理大臣伊藤博文さんは、講和条約締結の舞台となった春帆楼にフグ料理「許可第一号」を印可(参照:『山口県の歴史散歩』)。そのせいか、以下のようなモニュメントがありました。単に「ふくの碑」ってあるだけなので無関係かも知れないですが。少なくとも、ここら付近が講和条約関連史跡だらけであることだけは確かです。


『山口県の歴史散歩』には以下のように書かれています。「伊藤家は藩政時代に赤間関の大年寄を世襲し、本陣をかねていた」(211ページ)。申し訳ないのですが、これ1000回読んでも理解できません。大年寄って何? 本陣とは? 教養ある分かる大人の方(こんなとこ見てないはずですけど)のために置いておきます。ちなみに、これ、「なんだ、なんか史跡っぽいケド、赤間神宮の何? ってずっと思ってました。近かったので。大内氏滅んでるし、専門外です。どうでもいいよ。
悩むことないんじゃね? じーさんで、何かの戦争の陣地だったんだろ?
俺も意味分からないけど、お前の解説は多分間違ってると思う。
お願いだから、あまり無礼なことを書かないでね。恐らくは元寇みたいなことがあって、国外の人と戦ったんじゃないの? 伊藤さんという方はとても偉いお方みたいだね。
新介さま、悩まないで。こんなページ誰も見てませんから。普通に西方極楽浄土で人知れず生きて参りましょう。
そうだな。気楽が一番だ。
日清講和記念館(下関市阿弥陀寺町):所在地と行き方について
所在地&アクセス
所在地 〒750-0003 下関市阿弥陀寺町4−3
日清講和記念館(下関市阿弥陀寺町)について:まとめ&感想
- 日清戦争の講和条約が結ばれた当時の調度品などを展示した博物館
- 伊藤博文、李鴻章の遺品も展示されている
- 付近には、関連史跡が多い
- なお、講和条約が結ばれたのは春帆楼という料亭であった
小学校の歴史で習いました「日清戦争」。あと、中華ドラマで見ました。日本との軍事衝突は避けられないと解く李鴻章は、北洋艦隊への軍事費を捻出して欲しい、と西太后に打診。取り巻き家臣たちは「日本人などに負けるわけがないだろう。李鴻章は軍事費軍事費と金を使いすぎている」「そうだそうだ」と揶揄。李鴻章がその時、日本の軍事力と清朝のそれとはどれだけの差があるか、という例として、船の速度を挙げました。何も分からない取り巻き家臣たちは「命懸けで戦えばいいのだ。何を恐れることがある。臆病風ですかな」(うろ覚え)「敵艦の速度が我らを上回るということは、狙いを定められたら即、追いつかれて撃破される、逃げるしかないと思っても絶対に逃げ切れないということですぞ」と説明。取り巻きも言葉を失いますが、戦争よりも、自らの誕生祝賀会にお金を使いたい西太后はわずかな金額だけを与えます。結果は当然の如く、惨敗。忠義の志を以て接しても思うに任せぬ遅れた宮廷が描かれていました。しかし、日本はそうではなかった。ひとえに明治維新で活躍した人々のおかげで、清朝同様に遅れた「鎖国」体制で井の中の蛙してた東国の政権が潰えたお陰です。
そんな一コマを思いつつ見る場所なんでしょうけど、入ってないので何とも申せません。
訪問日:20200302
【履歴】20250725 加筆修正、テーマ変更によるレイアウト調整
下関ではふぐのことを「ふく」と呼ぶそうですね。
美味しい縁起物だね。