関連史跡案内

中領八幡宮(山口市小郡)

2023年11月23日

中領八幡宮・入口

山口県山口市小郡の中領八幡宮とは?

山口市小郡にある八幡宮です。総本社の宇佐八幡宮から勧請されたという、わかりやすい御由緒です。南北朝期に、社殿が建てられて以降(再建でしょうか)、大内氏の祈願所となりました。大内氏の滅亡後も、そのまま毛利氏の祈願所となり、明治維新を経て現在まで続いております。

中領八幡宮に伝えられている鐘が、かつて大内持世の菩提寺・澄清寺にあったもので、寺院が廃れた際に、中領八幡宮に買い取られたのだといいます。戦時中にも、小学校の警鐘となっていたお陰で供出されることなく、現在に至り、山口市の指定文化財となっています。

中領八幡宮・基本情報

ご鎮座地 〒754-0002 山口市小郡下郷柳井田 329
御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
配祀神 比売大神
合祀社 宮地嶽神社(三女神)、白髯社(猿田彦命、手置帆負命)、小八幡宮(応神天皇、神功皇后)、加茂社(別雷命、玉依姫命、賀茂健角身命)、荒神社(素戔嗚尊、奥津日子命、奥津日賣命)、蛭子社(事代主命)、菅原神社(菅原道真)、町尾屋城(菅原道真)
社殿 本殿、弊殿、拝殿(楼門造)、神饌所
主な建物 鐘楼、舞殿、手水舎、宝庫、鳥居、灯籠、狛犬ほか
主な祭典 例祭(九月十五日、十六日)、春祭(五月一日)、新嘗祭(十一月二十五日)
社宝 釣鐘(永徳二年造) 
(参照:神社さま由緒看板、『山口県神社誌』)

中領八幡宮・歴史

大内氏・毛利氏の祈願所

元久二年(1205)、柏崎の藤重土與丸、弟・五郎丸、末弟・四郎丸ほか四人の人たちが豊前の国・宇佐八幡宮に参詣した際に、神さまを中領に勧請したのが起源です。

その後、南北朝期の康永三年(1344)三月、社殿が建立されました(元久年間以降、ずっと社殿がなかったとは思えませんので、再建でしょう)。棟木に大内氏の家紋が用いられ、祈願所となりました。

滅亡後、毛利氏の時代となっても同じく崇敬され、やはり祈願所となりました。

『山口県神社誌』によれば、小早川隆景は、武運長久のために当神社に剣二口を寄進したそうです。

中領八幡宮の釣鐘

永徳二年(1382)、豊前国到津庄・晏禅寺のために藤原弘忠(※神社様案内看板では、弘忠、文化財案内看板では守忠。しかし、親子二代にわたってやりとげた事業なので、どちらも正解と思います。父の名をとるか、息子の名をとるかで。未確認ですが)という人が鋳造したものです。永正九年(1512)の銘によれば、宮野・澄清寺の鐘が壊れてしまったため、寺僧が銭・二万で買い入れたそうです。大内氏滅亡とともに、澄清寺が廃寺となったため、中領八幡宮がこれを買収しました。

周知の通り、澄清寺は大内持世の菩提寺です。滅亡した大内氏の歴代当主菩提寺は、廃寺となったり、後から来た毛利氏の菩提寺に取って代わられたり……とあれこれの悲劇に見舞われました。しかし、毛利氏の誰かの菩提寺となったところは、寺院は現在にそのまま続いていますし、完全なる廃寺となっても、墓所だけは残されていたりします(墓所については、あくまで『伝承』とはなりますが)。けれども、大内持世は菩提寺が失われた上、墓も現存しないという気の毒なお人です。ここらに墓所があったのだろう、という場所に看板が一つ立っているだけです。亡くなり方も、犬死になどと揶揄される将軍・義教の暗殺事件(嘉吉の変)に巻き込まれる、というどこまでも運が悪い方でした。

けれども、その菩提寺の鐘だけが、現在まで伝えられていたのですね。文化財案内看板によりますと、この鐘は「小郡国民小学校の警鐘として使用され」ていたため、戦時中の供出を免れたのだそうです。数々の貴重な鐘や像の類が供出のために失われたことを考えると、この鐘が供出されずにすんだことは本当に奇蹟的です。わずかに残された鐘ひとつは、運がよかったということになりましょうか。

現在も中領八幡宮に伝えられるこの鐘は、山口市の指定文化財となっております。

大量の末社

境内には多くの末社があります。どこもそうですが、小さな社や祠の類は、明治時代に整理整頓されて、大きな神社に合祀されたり、その境内に場所をまとめられたりしました。長らく続いてきた信仰が途切れるのは寂しいですが、神さまは分けるも合せるも自由という超越した存在ですので、そんなに悲観することはないでしょう。近代化の波で、先進国に負けない立派な役所、企業や一般庶民のための住宅などを造らねばならぬのに、そこら中に、神様のお住まいが点在していて、畏れ多くて建設ができない、というのも困るからです。

が、神社さま案内看板によれば(というかこれ、山口市史などにも書いてあることですが)、長州藩つまり、毛利のお殿様の時代ってことですが、「天保の寺社整理」なるものが行なわれ、「寺社堂庵九六〇〇、石仏金仏一二五一〇」が整理されてしまった、っていうんですよね。明治時代は理解できるとして、江戸時代に何で整理されちゃったのか、今のところよく理解できていません。しかし、凄まじい数ですよね。

で、整理された結果、中領八幡宮内にも多くの末社が移されました。神社さまご案内看板にはそれらすべてが明記されておりますが、社や祠のほうにはいちいち書いていないので、どれがどの末社なのかは熊野神社以外不明です。かなりきちんとしたお社だったりするので、それぞれ元の由来が知りたい所なのですが、如何ともしがたいです。案内看板によれば、末社は以下の通りです。

六社大明神(市杵島姫命)
多賀大明神(伊弉諾命、伊弉冉命)
若宮大明神(大鷦鷯尊)
稲荷大明神(保食神)
鷺大明神(月読尊)
大神宮(天照皇大神)
天満宮(祭神不明)
三社堂(軻遇突知命、大山祇命、猿田彦大神)
大歳大明神(大歳神)
北辰妙見社(天御中主神)
松堂(不動尊呪詛神)

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

スゴい数……書き写すの疲れた……

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

あれ、妙見さまもあったんだ……。何で整理されちゃったんだろ?

じつは、合祀された神さま方をおまとめしたらしき「合祀社」なる社が、きちんと鳥居もついて存在し、そこには合祀された神社の神さま方がおられるようですが、その合祀社の神さま、合祀前の神社については、基本情報にある通りですので、ここに書かれた「末社」の神さま方は、お社、もしくは祠ともども、これとは別、ということになります。残念ながら、ご神職にお伺いする以外、確認は難しいでしょう。

中領八幡宮・みどころ

なんといっても、大内持世さんの鐘ってなってしまいますよね。社殿は平成時代に改築工事がなされておりますし、建物に文化財指定がないことからも、取り立てて貴重な建造物はないと思われます。むろん、文化財指定されているか否かは、信仰とは何ら関係ありません。

鳥居

中領八幡宮・鳥居

立派な鳥居と大きな灯籠です。鳥居は明治時代のもので、さほど年代モノではありません(って、明治時代もじつはものすごく古いと思うんですけど……。もはや感覚がマヒしているので、推古天皇とか聞かないと反応しません)。

社号碑

中領八幡宮・社名碑

これ、神社庁さまのご本だと、社名碑ってなっております。これまで、ずっと社号碑と思ってたけど、もしかして偉大なる勘違い? そうだとして、すべてを直すのはエラいことになるので、そのままにしておきます。というよりも、上の写真にすでに写っているコレを、特に拡大する意味もないような……。

縁起碑

中領八幡宮・縁起碑

神社によくある漢字だらけのコレ。何なのかよくわからないけど、今回は『神社誌』の境内案内図の位置から推定してコレは「縁起碑」であろうと。ということは、この細かい文字が読解できれば、かなーり長い縁起が書いてあるってことになりますよね? 本にも、由緒看板にもわずかしか説明文がなく、閑散としていたので、もしもこれが読めたらなぁ……と。

中領八幡宮・石段

例によって、どっちが一の鳥居なのかわからないんですが、入口と、長い石段を上ったところとの二箇所に鳥居がございます。右手に手水舎、左手奥に鐘楼です。

鐘楼

中領八幡宮・鐘楼

この鐘ですよ、これ。なんかアングルがヘンテコだけど、なぜか写真はこれ一枚でした……。つまりは、鐘楼よりも、鐘のほうにこだわったみたいでして、鐘は大量にありました……。

拝殿

中領八幡宮・拝殿

ちょっとカラフルな印象を受ける拝殿です。とても綺麗で、それでいて神聖です。

中領八幡宮・社殿

脇からも拝見しました。弊殿の手前になにやら広い舞台のような空間がございますが、ちょっと珍しいですね。少なくとも、初めてお見かけしました。普通なのかな?

合祀社

中領八幡宮・合祀社

この鳥居の後ろにあるのが、合祀社となります。

境内社・熊野神社

中領八幡宮境内社・熊野神社

たくさんある末社・摂社の中で唯一名前が分っているのがこの熊野神社です。お祀りされているのは、速玉大神、夫須美大神、事解之男神の三柱です。

境内末社・小祠

中領八幡宮・末社

こんなしっかりとしたお社もありました。末社のひとつと思われますが、お名前が知りたいですよね。いっぽうで、下のような可愛らしい小祠も。

中領八幡宮・末社(2)

神社の方、地元の方は当然、何の神様でどこから来たのかご存じかと。ですが、通りすがりの観光客にはお名前プレートがないと、由来どころか、お名前すら分りません。

中領八幡宮(山口市小郡)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒754-0002 山口市小郡下郷柳井田 329

アクセス

残念ですが、電車の最寄り駅から行くことは難しそうです。今回はタクシーを使いました。歩いて行くことも不可能ではないと思いますが、この神社さまと付近の数カ所だけで一日が終わってしまうと思います。

参考文献:神社さま由緒看板、現地文化財説明看板、『山口県神社誌』

中領八幡宮(山口市小郡)について:まとめ & 感想

中領八幡宮(山口市小郡)・まとめ

  1. 柏崎の藤重土與丸とその弟たちが、豊前の国宇佐八幡宮に参詣した際、神様を勧請したのが起源と伝わる。
  2. 南北朝期に社殿が建てられ、大内氏の祈願所となった
  3. 大内氏滅亡後は、毛利氏の祈願所となった
  4. 当神社に伝わる鐘は、元々大内持世の菩提寺だった澄清寺の鐘だったもの。寺院が衰頽したのち、中領八幡宮が買い入れた
  5. 戦時中、この鐘は小郡国民小学校の警鐘として使われていたため、供出を免れて現在にまで伝えられた。山口市の指定文化財となっている

大内氏祈願所 ⇒ 滅亡後、毛利氏祈願所、というのも、もはやおきまりのパターンですが、どうやら寺社にも、運命の分かれ道があるみたいでして、元の主が滅亡すると同時に廃れていくケースと、引き続き新たな主にも重く用いられるケースとがある模様です。何をもって運命が分岐するのかは、まったくもって、わかりませんが。

中領八幡宮は、大内氏滅亡後も、毛利氏の庇護下で現在まで存続した神社さまということになります。大内、毛利両氏とも、格段緊密な結びつきがあった旨の記述はなく、単に祈願所であった、と淡々と記されているだけです。むろん、だからといって、結びつきが緩かったなんてことがあろうはずはなく、もはや当たり前すぎることは書いてないだけでしょう。これだけ立派な神社さまが、地元有力者と無関係なはずはありません。そもそも祈願所だったわけで。

そんな中、大内持世菩提寺の鐘の逸話が際立っております。歴代当主の中でも存在感が薄く、お墓までないという気の毒な方でしたが、菩提寺の鐘が現在に至るまで残っていたとは。大内義隆の梵鐘とか、ほかにも残っている鐘はあるわけですが、あれだけ何でも残っている人の物など珍しくも何ともありません。その意味では、本当に、貴重な文化財だなぁと思いました。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きなすべての人
  • 大内氏祈願所、もしくは、毛利氏祈願所を巡っている人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

結局、鐘だけを見るために来たとか、そんな無礼なことを言わないだろうな?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

違うよ。目的のものはそれかもしれないけど、ちゃんとお参りしたもん。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

どれだかわからないけど、妙見さまもあったしね。

ミル吹き出し用イメージ画像(笑顔)
ミル

ちっちゃなお社可愛いよね(あ、神さまのお住まいを可愛いとか言ってはいけないのだろうか)。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

どれが妙見さまなのか、やっぱり知りたかったよね、あ、今は天御中主神だっけ……。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

続きを見る

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます
※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-関連史跡案内