
大内氏館跡・基本情報
住所 〒753-0093 山口県山口市大殿大路117−61
最寄り駅 山口駅、県庁前(バス停)
大内氏館跡・歴史
大内氏館が山口につくられたのは、南北朝期大内弘世の時代とされている。
ゆえに、香山公園には、弘世公像が建っており、市街を見守っている。
大内氏は、大内盆地(山口市大内御堀)から山口盆地(山口市大殿通)へ拠点を移した。
考古学的な研究によると、つぎのことが明らか。
山口の大内氏館は14世紀頃すでに存在。弘世時代まで遡るとみられている。
その後、16世紀中葉の大内氏滅亡まで存続。それ以降は消滅し、跡地は龍福寺となった。
現在の龍福寺のあたりがだいたいかつての館跡だとされ、その周辺には敷地を囲むように土塁や堀がある。
歴代当主は京都に滞在 = 在京していたから、京都にも館をもっており、山口に常駐しているわけではなかった。これはほかの守護大名たちも事情は同じだが、やがて応仁の乱が勃発、そして終結すると、京を離れそれぞれの分国に腰を落ち着けるようになっていった。
ただし、この応仁の乱終結後在国するようになった、という通説は大内家にはあてはまらず、大乱勃発前の大内教弘の代からすでに在京をやめてしまっていた。
伊藤幸司先生はこれを、「時代先取り」と書いておられる(『大内氏の文化を探る』)
教弘代、山口の館で在国するようになった頃から、山口の町は都市として大いに発展する。そして、大内氏館も拡充されていくのである。
16世紀中頃、山口の町も館も最盛期を迎える。
このとき、館には三つもの庭園が存在したという。
しかし、その後まもなく、16世紀後半に館は消滅。
跡地は龍福寺になった。
大内氏館跡・みどころ
大内氏遺跡として調査が進められているのは、館跡、築山跡、高嶺城跡、凌雲寺の四か所だが、もっとも成果があがっているのはこの館跡だろう。
それでも整備計画はなおも続いている。
発掘調査が完了した遺構については、二種類の保存方法がある。
目に見えないかたち ⇒ 埋め戻して地下で保存
目に見えるかたち ⇒ 露出展示または復元展示保存
後者だと、学習のための資料や観光資源にすることもできる。しかし、露出していれば風雨にさらされることになり、文化財の保護的観点からは悩ましい。
現在大内氏館跡の保存状況は……。
遺構そのものを露出展示 ⇒ 枯山水庭園と石組溝の一部(西門付近)
復元展示 ⇒ 池泉庭園や土塁・堀跡・建物跡
つまり、現状でも二つの庭園と土塁、さらに一部の建物跡を見ることが可能。
将来的には大内氏遺跡すべてを連動させて活用させる壮大なプロジェクトが進行中であり、完了したらすごいことになるだろう。
池泉庭園
中央に島(木が生えているところ)がある、瓢箪形の池。南北約90メートル、東西約20メートル。池の縁に護岸のための石を積み、土塁から池につながる水路から水を引き込んだ。西側には、池を観賞するための建物があったと考えられている。1400年代末に作られ、1500年代半ばまで使われた。(参照:説明看板)
想像していたより、意外に小さい。また、14世紀末から1500年代半ばというと、実際に使われていた時期も短い。凌雲寺さまが1477年のお生まれなので、メインで使っていたのは法泉寺さま以降の人々。築山跡を神社にしてしまってから使われたのだろうか?
ちなみに、池は広大な発掘調査地の中のわずかな部分でしかない。ほかにも、あれこれの跡が見つかっていて、その一部が紹介されている。
石組かまど
かまどがあるということはつまり、ここに台所があった。この付近からは、調理の道具なども出土している。ガイドさんから教えていただいたのだが、当時食器として使われていた「かわらけ」というものが見つかっている。これは、おもてなしなどに使われると、使い捨てにする。下向公家から亡命将軍まで滞在していた山口なので、それら高貴な方々、および、自らも高貴である館の主たちは、惜しみなくそれらの食器類を捨てていたのだろう。そんな中に、金箔を張った土師器皿があった、と。おそらく、将軍クラスの人物が使ったのだろうというお話。くだんの皿は、つぎの「石組井戸」から見つかった。
流れ公方
石組井戸
いかなる場所に行っても、井戸の遺跡だけは初心者にも一目でそれとわかるわかりやすさ。ここもそうだった(むろん、『井戸』と明記されているし)。
土塁
初秋なので、緑に覆われているところが土塁。ぐるっと巡るとそれなり広いけれど、肝心なのは土塁で囲まれただけがすべてではない、ということ。居住スペースを含めて、町全体が支配下にあるようなイメージです。
石組溝
あんまり雅な遺物じゃないけど、生活排水を処理する施設は必須。
西門
これが、復元されたもの、ということは知っていましたが、全然誤った認識をしていました……。

田舎大名宅の正面玄関なんて、こんなものだよ。僕たち管領を歴任する名門の屋敷ならば……

愚か者! これは「内門」である。

お許しを……。
さらに付け加えると、復元といっても、出てきた遺物をそのまま組み立てて再現したというわけではなく、発見されたのは、柱を据える穴、支える石と砂利くらい。むろん、考古学がご専門の先生方が知識を総動員なさって復元なさったものなので、限りなく実物に近いけれども、まんまこの木戸(正門じゃないので)が出土したわけではありません。
枯山水庭園
あくまでホンモノにこだわる人々にはありがたい、ほぼそのままの形で露出展示されている庭園。1500年代半ばに作られ、その後、火災に遭って庭園としては使われなくなって終わったらしい。すべてではないけれど、当時使われていた石をそのままに再現、復元したもの。
もっとも、これを造り、楽しんだのは最後の殿様らしいので、適当に遊んでいてください、というよりほか感想なし。
ガイドさんから教わった知識
枯山水というのは、水を使わずに、石だけで水の流れをあらわしています。

へええ、そうなのね。俺も学んでしまったぜ。

ガイドさんから教わったことは、こんなちょびっとじゃないの。本当にたくさんの貴重なお話をしてくださいました。だけど、ミルがトロいから、すぐに忘れてしまう……。

忘れても、また何度も会いにいって質問すればいいんだよ。色々教えてくださって、本当にありがとうございました!
館跡拝観記念 2022
※わざと、ピンボケでトリミングしてます。
参照文献:山口市教育委員会「史跡大内氏遺跡保存活用計画」2019年 PDF、『大内氏の世界を探る』勉誠出版、館跡各種説明看板
アクセス
山口駅から街歩き。敢えて言います、歩いてください! そうでないと、街並みがわかりません。さらにいうと、県庁前バス停から歩いたところで、あまり近くないです(10分くらいかかる)。
※この記事は20220918に加筆修正されました。
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五郎とミルの防芸旅日記
山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記。ついでに本拠地・周南の宣伝もしちゃう。
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