三田尻(防府市三田尻)

山口県防府市の三田尻とは?
防府市の三田尻中関港のことです。藩政時代の史跡「御舟倉」「御茶屋」などがみどころです。
江戸時代、参勤交代で江戸に向かわなければならなかった藩主の方々は、萩往還を通り、ここ三田尻から船に乗られました。そこで、三田尻は藩主様が江戸に向かわれる時の海の玄関として整備されたのです。もっとも、港としての三田尻の歴史はさらに古く、すでに藩主の港たりうる性格を備えていたものと思われます。
現在は、埋め立てられて当時の面影はありませんが、御舟倉として堀や水路が残っています。また、藩の公館であった御茶屋もあり、あわせて観光するのがよいと思います。
三田尻・歴史
江戸時代、毛利家は「防長三関」と呼ばれた海の要衝、上関、中関、下関に番所を置いて重要拠点としていました。ことに三田尻は古くから天然の良港として栄えていた場所だったので、水軍の本拠地とされます。
御舟倉が作られ、参勤交代のスタート地点となっていたことからもそれが分かります。
徳山港のところで見たように、毛利家は米・塩・紙の三つの産業を奨励しました。いずれの製品も白いため、これらを『三白』と呼んでいました(さらに蝋も加えて、『四白』と言うことも)。
新田開発、塩田開発が進められると同時に、生産された物資を運ぶための港も整備されます。三田尻もそのようにして整備された港の一つでした。そして、その役割は現代にも引き継がれ、「三田尻中関港」として重要港湾に指定されているのです。
三田尻・主な観光資源
御舟倉
所在地 〒747-0814 防府市三田尻3-3−13
最寄り駅 自力東町バス停下車徒歩10分
御茶屋
住所 〒747-0819 防府市お茶屋町10−21
最寄り駅 三田尻病院前バス停下車
営業時間 9:30~16:30
休館日 12月29日~1月3日、月曜定休(祝日の場合は翌日)
入館料 高校生以上310円(団体250円)、小中学生150円(団体120円)*団体=20名以上
※休館日、入館料については、自治体ホームページ等で最新情報をご確認ください。
三田尻・みどころ
御茶屋、御舟倉跡、塩田跡などの藩政時代の史跡を回ります。
御舟倉跡

御舟倉というのは、「毛利水軍の根拠地」。やや詳しくすると「毛利水軍御船手組の根拠地」とのことで、つまりは毛利家ご当主様の船を入れておくところといった感じでしょうか。造船や修理のための施設も置かれていたようです。慶長十六年(1611)、元々の御舟倉が下松からここに移りました。
周辺には水軍の関係者、船頭や船を造る大工などの居住地も作られ、計画的な町づくりがなされます。藩主外出のための玄関となる場所だから、それにふさわしく、きちんと整備された発展した町だったのでした。ところが、元禄元年(1688)くらいから、周辺の開拓が進んだ結果、埋め立てられて陸地が増えていき、一本の水路だけが海と繋がっているような状態となってしまいます。さらに、明治維新で御舟倉が廃止されたのちは、ますます開発が進みましたので、現在見ることができるのは、堀と水路の遺跡だけとなりました。(参照:説明看板、防府市HP)
萩往還

参勤交代の時に通る道として開かれたルートを「萩往還」といい、萩から三田尻までを結んでいました。江戸まではまだまだ遠いですが、萩往還のゴールはここということに。ここから乗船して海路東を目指したのでしょう。
江戸時代半ばからは陸路を使うようになったというので、御座船もお役御免になったのでしょうか。しかし、のちに高杉晋作が決起した際、この場所から軍艦を奪ったといいます。海路を使わなくなっても御舟倉の整備は怠りなく続いていたわけですね。
もっとも、この時には、「御船倉」は「海軍局」と名前が変わっていました。軍艦というからには、西洋式のすごい船だったのでしょう(根拠なし)。意外なところに維新の足跡が残っていました。
この「萩往還」のプレートはほかの場所にもあるので、実際にお殿様になった気分で、同じ道を歩きながらフルコンプを目指しても楽しいかも。(参照:説明看板、防府市HP)
俺さ、この「萩往還」とかいうの、さっぱりわからない。そもそもさんきんこうたいって何? ひっきりなしにえどってとこに行ってたというか、行かされてた(?)みたいだけど、タヌキの子孫に挨拶にでも行ってたの?
そうね。意味不明だよね。小学生くらいに聞いた知識のように思うけどさ、頻繁に(何年おきとか記憶の彼方)「ご挨拶」に行かされることで往復の旅費として膨大な費用がかかったから、「この野郎」と思って叛乱起こす資金も貯められなかったって。それを狙っていたらしいよ。誰が思いついたか知らないけど、悪魔的な政策だよね。
なんて恥ずかしい連中なんだ。足利の奴らもそんなア×な政策はやってなかった。そこまで、叛かれることを恐れるなんて、よほどの悪政を行なっていた証拠だ。
ま。俺らも、偉い大名たちには、都に住んでもらってたじゃない? 親父が活躍した後くらいから皆、無視して帰国しちゃったけどさ。けど、こいつらのやってたことって、ただの「セレモニー」のふりして、毎年莫大な負担を強いるマジ「悪魔的」政策な。だからこそ、高杉晋作とか活躍して、やつら倒されちゃったじゃないの。傾向の裏に対策あり。毛利って、金かけて東京と山口往復してるフリして、実はひそかに金貯めてたよな。ま、ほかの奴らもだろうけど。金ないと、叛乱資金準備出来ないじゃない?
お願いだから、幕府の悪口は言わないでね。ん? 足利家のことではないの?
彼らの低品質な話題で文字数を稼ぐのはいけません。「萩往還」とは何か? 文化庁に聞いてみましょう。
萩往還
ふりがな : はぎおうかん
種別1 : 史跡
告示番号 : 132
特別区分 : 特別以外
指定年月日 : 1989.09.22(平成1.09.22)
追加年月日 : 2012.09.19(平成24.09.19)
指定基準 : 六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県 : 山口県
所在地(市区町村) : 山口市、萩市、防府市
詳細解説:萩往還は慶長9年(1604)萩城築城後その城下と三田尻(防府)をほぼ直線で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、全長およそ53キロである。昭和56年度以降萩市、旭村、山口市、防府市の四市町村が歴史の道整備事業を実施してきた古道である。
(中略)
三田尻には御茶屋、御船倉、燈台が残る。三田尻御茶屋は承応3年(1654)2代藩主毛利綱広が建設し、藩主の参勤交代、封内巡検、公式賓客の旅館にあてた施設で、安永5年(1776)7代重就により、また嘉永4年(1851)13代敬親により改修されており、文久3年(1863)には三条実美ら7卿の宿舎となっている。
また御船倉は藩主御座船以下関船、早船等大小艦船を囲った場所であり、住吉神社に残る石造燈台は文久3年(1863)に建立されたもので、高さ7メートルに及び海上交通の安全に寄与してきたものである。
萩往還は参勤交代道として、あるいは近世民衆の交通路として、さらには維新の志士たちの交通路として重要な役割をはたしつづけてきた古道である。今回は歴史の道整備事業が終了した箇所を中心として古道およそ9・2キロと茶屋・本陣・一里塚・船倉・燈台等の関連する交通遺跡について史跡の指定を行い、その保存を図ろうとするものである。出典:国指定文化財等データベース(文化庁)より一部省略して引用
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2444
御茶屋

萩往還の途中には、藩主一行が休憩するための「御駕籠建場」や藩の公館「御茶屋」などが建てられていました。ですので、三田尻以外の場所にも「御茶屋」はあったわけで、史跡として復元・保存されている場所はほかにもあるようです。
三田尻の御茶屋は、史跡としての正式名称を「英雲荘(国指定史跡萩往還関連遺跡三田尻御茶屋)」といい、普通「英雲荘」と呼ばれています。承応三年(1654)に、毛利綱広が建設した藩の公館でした。安永五年(1776)、嘉永四年(1851)に改築事業が行なわれますが、安永年間の改築は毛利重就によるもの。「重就の隠居所となる新館の建築で、新館は三田尻御殿」(参照:『山口県の歴史散歩』97ページ)と呼ばれていました。
ということは今、我々が見ている「御茶屋」はつまり、重就の「隠居所」なわけか、と思いますよね(思いました)。ところが、じつは違うんです! なんと、重就が亡くなった後、御殿は「解体され、従来の御茶屋の規模に戻された」(同上)そうです。意味分からん。お茶屋が、ご当主さまの隠居所レベルに立派すぎたら、何か問題があったのでしょうかね?
明治維新の頃、いわゆる七卿った人たち(三条実美などの)がこのお茶屋に入られました。後に、御茶屋は防府市に寄贈されて現在に至ります。ここを隠居所にしていた、毛利重就は長州藩七代藩主で「中興の英主」と呼ばれたお殿様。防府天満宮には銅像も建っていましたよね。その法名が英雲公だったことから、「英雲荘」と名付けられました(正式名称は、前述の通りやたら長いのですが……)。
なお、平成八年~二十三年の保存修理工事により、明治・大正期の建築様式として整備されました。(参照:説明看板、防府市HP)
訪問した日が休館日だったため、御茶屋の中を見ることができなかったのです……。
入りもしなかったのに、記事作るのって、庭園のポリシーに反してないか?
いいの。「周防国衙跡」の石碑を撮影していないし、防府にはまた来ることになるよ。
そうそう。防府は山口からバスで行けるくらい近い。日帰りできる!
三田尻(防府市三田尻)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
御舟倉:〒747-0814 防府市三田尻3-3−13
お茶屋:〒747-0819 防府市お茶屋町10−21
アクセス
防府駅からタクシーを使いました。御舟倉には営業時間がありませんが、御茶屋には開館時間がありますので、休館日も含め、事前に確認をしてからご訪問ください。
参考文献:説明看板、防府市HP、国指定文化財等データベース(文化庁)
三田尻(防府市)について:まとめ&感想
- 古くから開けた港。
- 毛利家はここを水軍の拠点としたので「御舟倉」がある
- 当主の隠居所ともなっていたお茶屋「英雲荘」がある
- 萩往還のゴールであり、参勤交代のスタート地点だった
- 三田尻は現在も重要な港湾となっている
三田尻の海が見たい、と思いタクシーの運転手さんに車を回していただいた次第です。海は心地良かったですが、すべて毛利家の観光資源で上書きされて、大内氏時代のものは見た目「皆無」でした。まあ、こういうところは、観光資源云々よりも、中世にも大切な港だったろうってことで満足です。
思えば、山口は毛利だらけの県であり、山口市は特別なんですね。「大内文化」で町づくりとか頑張ってるのは、山口市だけなのでは? 下松とか北辰降臨の最高の萌えポイントありますけど、やはり、観光地としてはそれだけを売りにしているわけでもないです。近世以降の歴史こそ、現代の我々に通じる、もっと親しみやすいものであるべきです。
防府は国衙所在地ですから、そこここに大内氏の足跡があってしかるべきです。実際あるのです。でもそのいっぽうで「上書き」もすごくて、普通に観光タクシー呼んでいたら、「上書き」ルートですべて完結してしまうほど、みどころ満載の町です。三田尻行ったら、普通に上三つを見て終わりでしょう。ほかに何があるんだ? という感じではあります。海を見ましょう。どれだけ開拓が進んで、中世の面影ゼロでも、すべてを埋め立てるのは不可能である以上、中世の人々も、同じ海を見ていたはずです。
俺、廿日市で耳にした、「毛利が嫌いだから、絶対に山口は通らない」亀井のお殿さまの話が大好き。そっちの御船蔵をみたい。
そうだね。やっぱり廿日市が大好きだよ。
これ以上言ったら、君たちには編集を外れてもらう。ここは広島の観光案内ではないんだよ。
では、喜んで外れさせてもらいます。廿日市の記事に全力投球したいですから。
そう。俺も広島が落ち着くから。代わりに、親戚を推薦するから、雇ってやってな。毛利家の記事を書くために生きてるような奴だから。
お前たちの無礼すぎる記事は読むに堪えん。だが。編集については御免蒙る。タイトルを「毛利庭園」にしたら書いてやる。
話が見えないけど、無礼もいけないし、他家の話もやめて欲しい。これだけ頼んでも無理みたいだけど……。
【初出】 2021年2月14日 15:17、20250723 テーマ変更によるレイアウト調整、国指定文化財等データベースへのリンク追加