山口県山口市鋳銭司の黒山八幡宮とは?
律令国家体制の時代、造幣局にあたる「鋳銭司」という役所を鎮護する神として「黒山神」という鋳銭にまつわる神様をお祀りしたのが起源です。当時は「黒山宮」と呼ばれていました。
たいへんに由緒ある神社で、平安時代に編纂された『日本三代実録』という歴史書の貞観十五年(873)の記録に、従五位下の神階を授かったことが書かれています。
鋳銭司が廃止されたのち、鎌倉時代に宇佐神宮から八幡神を勧請して、黒山八幡宮となりました。
(※弘仁七年(816)に宇佐神宮を勧請して相殿としていた、という説もあるようです)。
黒山八幡宮・基本情報
ご鎮座地 〒747-1221 山口市鋳銭司 4009
御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
配祀神 黒山神、三女神
社殿 本殿、弊殿、拝殿、楼門、御饌所
主な建物 鳥居、灯籠、狛犬、手水舎、鐘楼、清桶、句碑、神徳碑、忠霊碑ほか
主な祭典 例祭(九月十五日)、祈年祭(四月五日)、新嘗祭(十二月十五日)
奉納行事 腰輪踊り、代神楽
特殊神事 浜殿の行事
ホームページ https://www.kuroyama-hachimangu.com/
(参照:『山口県神社誌』)
黒山八幡宮・歴史
黒山宮と黒山神
一見すると、応神天皇、仲哀天王、神功皇后がご祭神となっているごく普通の八幡宮です。配祀神に三女神がおられるのも普通です。ですけど、黒山神という初めてお名前を拝見する神様も配祀されています。じつはこちらの、黒山神さまをお祀りしたことがこの神社さまの起源でして、最初はお名前も黒山宮と申し上げました。
ご由緒看板の説明文によりますと、黒山神というのは「鋳銭に関連した神」で、周防国に鋳銭司が置かれた時に、河内国から勧請されたそうです。
『神様事典』にはじつに多くの神様が載っており、どんなところにも色々な神様がおいでになるのだなぁといつも驚いていますが、さすがに鋳銭の神様は載っておらずガッカリでした。それだけ珍しい神様ということになりますね。鋳銭司は周防国にしかなかったわけではないため、ほかの国の鋳銭司にも同様の神様がおられたのか、ここだけが特別であったのか、とても気になります。
だって、「勧請された」ということは、元々はほかの所におられた神様ということになります。河内国にも鋳銭司は置かれていたので、そこから来たということは、全国の鋳銭司にすべて同名の神様がお祀りされていたのではなかろうかと考えても不思議ではないですよね。ですが、御由緒看板によれば、「黒山神が祀られているのは、日本でこの神社のみで」ということです。ほかのところの神様は銭鋳司の廃止とともにいなくなってしまわれたのか、あるいは、最初からこの神社さまにしかおられない特別な神様であったのか、ホント気になりますよね。
黒山宮から八幡宮へ
10世紀、教科書にも載っている承平天慶の乱が起ります。東では平将門、西では藤原純友が叛乱を起こしたというアレです。平将門は地域的に無関係なので無視しますが、藤原純友のほうは関係大ありです。なにせ、お隣伊予国から悪さを始め、その違法行為は広く西国に及んだからです。『陶村史』によれば、平将門は歴とした平氏だけれども、藤原純友のほうは諸説あり、藤原氏とは無関係という考え方もあるといいます。単なる伊予国の土豪にすぎず、藤原氏に取り入って養子にしてもらったのだとか。受験参考書・石川先生の講義では、武士化した藤原氏で、摂関家の系図に連なるような人ではなかったときいたような。要するに、素性も不明のゴロツキみたいに思いますが、一応、伊予国の国司だったんですよね、元々は。ですけど、叛乱を起こした後の略奪行為は単なる泥棒、海賊の親玉みたいなものですので、あまりマナーがいい印象は受けません。
じゃあ、平将門のほうはよかったのかと聞かれたらもっと分りませんけど。でも国王みたいになろうと企んでいたわけなので、いちおうは政務を執る能力値とか、将来のビジョンとかあったのでは? 藤原純友には何ひとつなかったかどうかなんて知るわけもないですけど、略奪や放火をされたという記録がたくさん残っていますから、被害者からしたら嫌なイメージしかわかない上、ただの盗賊にしか見えませんよ。
大宰府のほうまで行ってしまっているのですから、その道中にある周防国も当然、放火や略奪行為の被害を受けています。ことに、鋳銭司は「お金を造っている役所」ですから、泥棒たちが放置しておくはずがないですよね。倉庫(?)にどのくらいのお金がストックされていたか知りませんけれど、全部持って行かれた上、役所は焼き尽くされて、跡形もなくなったようです……。
『陶村史』によれば藤原純友の狼藉により、鋳銭司が焼失したのは天慶二年(940)のことです。『山口県神社誌』は、この年を以て鋳銭司は廃止されたので、黒山宮はこれ以後、黒山八幡宮となったとしています。そりゃ、鋳銭司を守るための神社だったのですから、守るべき役所が焼失してしまったら、存在意義を失ってしまいますよね。実際、現在は黒山八幡宮として、応神天皇とそのご両親をお祀りする八幡宮となっており、黒山神のほうが配祀となっています。
けれども、『陶村史』の巻末年表には、「九五八 天德二 周防鋳銭司で乾元大宝鋳造」と書いてありますので、純友に焼払われた後も、鋳銭司は再建され、もう一仕事していたように思われます。
鋳銭司については、鋳銭司跡のところで触れたいと思いますので、これ以上の深入りはしません。
御由緒看板によれば、鎌倉時代に宇佐から神様が勧請されて八幡宮となった、とあります。
創建年代と御祭神の謎
鋳銭に関係する神様「黒山神」をお祀りし、かつては「黒山宮」と呼ばれていた黒山八幡宮さまですが、御祭神が鋳銭の神様から八幡神に変わり、お名前も「黒川八幡宮」となりました。山口県神社庁さまから出ている『山口県神社誌』は県内で神社巡りをする方必携の貴重なご本ですが、そちらには、現在の黒山八幡宮さまの御祭神について、御祭神が応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱。配祀神が黒山神、三女神となっております。八幡宮と言ったら応神天皇ですから、ごく普通の記述です。
けれども、黒山八幡宮さまの現地御由緒看板には黒山神と八幡神(応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神)の五柱が祀られている、と書かれています。鋳銭司(役所)が廃止され、黒山神の鋳銭に関わる神としての役割が薄れ、社名も八幡宮となったとはいえ、やはり、創建当初からそこにいらした黒山神さまを大切になさっておられるのだなぁ、と思った次第です。ですけど、このように書かれていると、神社庁さまのご本にあるように、黒山神さまは配祀神なのか、御由緒看板からはわかりません。何となくですが、黒山神さまと応神天皇以下の八幡宮系神様方とが同列になっているように読めるからです。
でも、お名前が黒山「八幡宮」となっていること、神社庁さまのご本に誤りはないであろうことを考えると、やはり、黒山神さまは現在、三女神とともに配祀神となっているのでしょうかね。そうなると、俄然気になるのが、なにゆえに、八幡宮になったのだろう? という点なのです。別に鋳銭司がなくなってしまっても、ずっと黒山神さまの神社でよかったんでは? と思えなくもないからです。それに、八幡神の神様方だって、いきなり空から降って来たりはしないので(何気にそういうケースもあるからややこしいのですが……)、近場の○○八幡宮などから勧請されたのだろうと考えるのが普通です。実際に、御由緒看板にも、鎌倉時代に大分の宇佐神宮から八幡神が勧請されて八幡宮になった、と書かれています。
だったら、何も問題ないじゃないかと思いますけど、細かいところが気になって仕方ないんですよね。『山口県神社誌』によれば、黒山宮の創建は飛鳥時代の朱鳥八年(694)に鋳銭司鎮護のために黒山神を祀ったことに始まるとされています。でもって、弘仁七年(816)に宇佐神宮を勧請し相殿とした、と。その後天慶三年(940)に鋳銭司が廃止されたことから「黒山宮」から「黒山八幡宮」になった、と。
黒山八幡宮さまの御由緒看板とかなり違っておりますよね。だって、鎌倉時代に宇佐神宮を勧請して八幡宮となった、というのですから。このような場合、神社さまオリジナルのご由緒看板のほうが正しいとみなし、『神社誌』にもたまには間違った情報が掲載されるケースはまったくゼロとはいえないのだろう、と考えるしかありません。だって、神社さまご本人の意見ほど正しいものはないのですから。ですけど、引っかかっているのは、この「弘仁七年」という年代なのです。後述しますが、ご鎮座千年の式年大祭が行なわれた時、まだ江戸時代の出来事とはなりますが、氏子の方々が造り奉納した亀趺に「弘仁七年、黒山に神が降りた」と書かれているのですよ。弘仁は平安時代の年号ですので、『神社誌』にある飛鳥時代創建はさすがに曖昧だとしても、この年代にはすでに鋳銭司は稼働していたはずです。なので、とっくに黒山神さまはその鎮護としてましましておられたはずなので、そこへ新たに神様が降りてこられた、というのは、恐らくは八幡神さまのことを言っているのではないでしょうか。この式年大祭が行なわれた時、すでに黒山八幡宮は八幡宮になって久しかったわけで、人々がその由来として、八幡神が降りてきたのは弘仁七年だった、と石碑に刻んだとしてもごく普通のことです。神社庁にあるその年に八幡神を勧請していた、という説とも合致します。
ただ、この弘仁七年段階ではまだ鋳銭司がその役割を果たしていましたし、黒山宮が八幡宮に変ったのは、鋳銭司が廃止されたのちのことである、という点では神社庁の本も、由緒看板も同じです。
これもほかの由緒ある神社さま同様、古すぎてわからない、と言ってしまえばそれまでですが、創建年代は神社庁いうところの、飛鳥時代なのか、八幡神を勧請したのは、鎌倉時代なのか、それとも弘仁七年なのか、謎すぎてわかりません。いずれにしても、弘仁七年の時点で八幡宮にチェンジしたとは考えにくいので、しばらくの間、相殿としてともにあったのかどうか、というところです。
平安時代末と鎌倉時代の初めは近接していますので、はっきり何年と言える決定打のような史料がないのなら、この辺り誤差の範囲ではありますが。神社庁さまのご本は発行年代がやや古くなってしまっていることだけが唯一の惜しまれる点ですので、神社さまにある真新しい御由緒看板にある最新のご説が反映されていない可能性はあります。けど、文字綴る身としては、どっちかに決められないと、とても気持ち悪いです……。
黒山八幡宮・みどころ
『山口県神社誌』によると、「安土桃山時代の天正六年、藤原元輔が祈願成就により当社を再建した」と書かれているので、あるいは一時期衰頽したのかもしれません。現在の社殿は江戸時代に建立されたものだと御由緒看板にもあります。『神社誌』によれば、「寛永一四年(一六三七)、修復が行なわれて今日に至る」とあります。けれども、同じ『神社誌』に引用されている『鋳銭司村』という文章の一節では、元輔の再建は、大永二年(1522)建立の社を「さらに大きくつくりかえ」たとありますので、そうならば別に廃れていたわけではないことになります(それよりも、大永二年建立の社って、凌雲寺さまの時代に建立したってことじゃん!? 造り替えないで欲しかったかも……涙)。
いずれにせよ、かつて黒山宮であったときのお姿ではないということです。もしかしたら、またぞろ大内輝弘が燃やしたのかもしれません……(未確認)。まあ、律令制時代からそのままの姿で残っていたら重要文化財となること確実ですので(そのくらいレアなケース)、あれこれ再建や修復を経て現在に伝えられていることが貴重です。
社殿は例によってこの地方独特の楼拝殿造りでして、たいへんに荘厳なものです。
社号碑
とにかく、規模が大きくて立派な神社さまですが、社号碑もご覧の通り。参道の先、遙かに鳥居や社殿のお姿が見えていますね。
参道
真っ直ぐ続く参道の両脇にたくさんの灯籠が並んでいます。たまには検索需要に寄り添うサイトのフリをして、「駐車場完備」である証拠写真を載せます。
鳥居
鳥居もとっても立派です。『山口県神社誌』によると「鳥居(石造・安政三年)」とあるので、年代モノと言ってかまわないでしょう。ほかにも文化年間の石灯籠があるようですが、これだけたくさんあると、どれのことなのかわからないですね……「大灯籠」ってあるけど。
御神木
一瞬手水舎かと無礼な勘違いをしてしまったのですが、よく見たら御神木でした。
「境内の鐘撞堂の前に聳えていた御神木です
樹齢数百年の堂々たる大樹でしたが 平成三年九月二十七日 山口県を襲った台風十九号によって倒壊しました
神社の守護神としてその一部を永遠に保存します」
(宮司さまによるご案内看板説明文)
鐘撞堂
上の「御神木」が鐘撞堂の前にあったというご説明から、神社に鐘撞堂って、やっぱり神仏習合してたよね、と思った次第ですが、ちょっと意味合いが違いました。この鐘撞堂がここにある理由については、説明看板に詳細に記されております。
江戸時代の初め頃、ため池が造られ農業用水が確保されたのを契機に、人口が増えたため、時を告げる鐘の音が村中隅々に行き渡るようにと、鐘撞堂を造り、一元寺(現両足寺)にあった鐘をこちらに移したそうです。ただし、鐘本体は戦時中に供出されてしまい、現在は失われています(参照:説明看板)。
鎮座千弐百年記念碑
御由緒看板によれば、平成二十七年に「鎮座千弐百年」の式年大祭が執り行われたそうです。立派な記念碑がありました。千二百年ってまさに悠久の歴史ですね……。
亀趺
上の「鎮座千弐百年」を遡ること二百年前、「鎮座千年」の大祭が行なわれました。いまだ江戸時代、文化十二年(1815)のことです。この亀趺(案内版では『亀石』となっています。『亀趺』ともいうとの但書も)はその時に、氏子の方々が寄進したものです。「陶地区の氏子(糸根 馬場 中河原)」の人たちによって寄進されたそうです。例によってまったく読めませんが「弘仁七年(八一六) 神 黒山ニ降リル」「黒山八幡神ハ鋳銭司村ノ奉祀スル所ナリ」と書いてあるそうです(参照:説明看板)。
黒山八幡宮は陶地域にも多くの氏子を抱えた、地域の氏神であったことがわかります(ただし、現在は鋳銭司のみで、陶地域の人は含まれません)。
社殿
ご覧のとおり、とても立派な拝殿です。お参りをすませた後、例によって横からも拝見しましょう。
黒山八幡宮(山口市鋳銭司)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒747-1221 山口市鋳銭司 4009
アクセス
最寄り駅は山陽本線「四辻駅」です。それだけは確かなのですが、マップを見ても道路がどうなっているのか分らない……。小郡道路(国道2号のバイパス)がばーんと通っているのですが、コレ、上を渡ったり、下を潜ったりできるところがどこにあるのか、地図からだと不明(航空写真にしてもダメ)。確かに参詣して来ているのだからして、なにゆえに、行き方をご説明できないのか、自ら理解に苦しむ。
ちなみに、四辻駅 ⇒ 春日神社御旅所 ⇒ 艫綱の森 ⇒ 陶窯跡 ⇒ 日吉神社 ⇒ 正護寺 ⇒ 寄舟神社 ⇒ 春日神社 ⇒ 鋳銭司跡 ⇒ 黒山八幡宮 ⇒ 顕孝院 ⇒ 四辻駅(戻り)というルートを使いました。これだと、陶窯跡から戻って来るときは、行きとは反対側を通っていたので怖い道路横断はありませんでした。「が」そうならば、最後はやはりどこかで渡らねば駅に戻れないはずで(多分、行きとは違う踏切を渡ったような?)。
でもこれやっていると、いや、私は黒山八幡宮さまに行きたいのです! という方に最短ルートをお伝えするどころか、何時間も歩いていただくことになりますので、皆さまは Googlemap のナビゲーション機能を使ってください。駅から見える(地図)ほど近いし、帰りはナビで難なく駅まで戻れたので、問題はないはずです。
ご訪問した場所も、大量に見落としているし、加えてそもそも行くことじたい抜けてしまった場所もあるため、次回は「道路の横断方法」を研究してご報告したいと思います。
参考文献:『陶村史』、『山口県神社誌』、現地案内看板
黒山八幡宮(山口市鋳銭司)について:まとめ & 感想
黒山八幡宮(山口市鋳銭司)・まとめ
- 鋳銭司にある八幡宮。もとは鋳銭司(役所名)にちなみ、鋳銭の神様「黒山神」をお祀りする神社であり、黒山宮といった。
- 鋳銭司(役所名)を鎮護する神様として、神階も授かっていた格式ある神社で、『三代実録』にも登場しているという、長い長い歴史がある
- 鋳銭にまつわる「黒山神」をお祀りしている神社は全国でも唯一この黒山八幡宮だけであるという貴重な存在
- 鋳銭司(役所名)が廃止されると、鋳銭司を守護するという役割はなくなったが、鎌倉時代に、宇佐神宮から八幡神を勧請し、黒山八幡宮となった(御由緒看板は鎌倉時代に勧請、とあるが、江戸時代に氏子によって寄進された亀趺には弘仁七年に神様が黒山に降りたった、とあり、『山口県神社誌』にも同じ年に宇佐から勧請して、相殿となっていた、とする)。
- 社殿は江戸時代に再建されたものとなるが、山口地方独特の建築様式を用いた荘厳なもの
- 平成二十七年に、鎮座千二百年の式年大祭が執り行われたというから、どれほど長い歴史を刻んできたかがわかる
- 鋳銭司はもちろん、陶地区の人々からも深く信仰されていた立派な八幡宮である(現在は鋳銭司地区のみ)
長い参道の先に現われる立派な社殿がみごとな八幡様。あまりに古すぎて由緒がはっきりしないというのは、長い歴史のある神社さまの定番ですが、この黒山八幡宮さまは、鋳銭司(役所名)にちなんで鋳銭に関係する神様「黒山神」を祀っていたという曰くがあり、鋳銭司の歴史を紐解けば神社の歴史も明らかになるという強みがあります。
さらには、『日本三代実録』にも神階を授かっていた記録が残るなど、凄まじい由緒です。しばらく本を開いていないから完全に忘れてしまいましたが、周防国内で神階を授かっていた神社はごくわずかであり、それこそ、玉祖神社とか、出雲神社のような一宮、二宮レベルの話です。その時に、何だろ? 見かけない神社も載っているが……と感じた神社が一つ二つあったんですが、コチラだったかもしれません。無知って恐ろしい。
しかし、鋳銭に関わる神が唯一ここにだけしか存在しない、というのは意外ですね。だって、お金ですよ。たくさん造りたいし、無事に完成させたいと思うから、大量にいてもよさげなのに。お金を造ることと使うことは別物で、個人が手を染めたら捕まってしまう案件ですから、造幣局以外には必要のない神様だからなんでしょうかね。色々と学べて楽しい一時でした。
しかし、何と言うことか、大永年間建立の神社が拡張工事で失われたとは。まあ、この神社さまを歴代当主さまのどなたかが建立した(鋳銭司の時代からあったのですから、それとても再建ってことになりますが)と聞いたことはないので、分家か家臣の誰かでしょうか? うーーん。謎多き神社さまです、本当に。
あれこれの建物の傍に、宮司さまの説明看板がついていて、とても分りやすく、細やかな心遣いを感じました。どうということもないことでも、訪れる人に優しい神社さまとの出逢いは嬉しいものです。自治体や教育委員会の真新しい説明看板も勉強になりますが、shy な観光客にはあれこれ説明してくださっている寺社さまほどありがたいところはないのです。
ちなみに……鋳銭司跡もついでに見学しようと思っておられる方は……いえ、跡地のところで書きます。
こんな方におすすめ
- 由緒正しい古社が好きなすべての方に
- 荘厳な雰囲気の神社が好きな人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
前に八幡宮がない町なんかないだろう、みたいなことを書いちゃったんだけど……じつは、「陶」には八幡宮がないんだよね。
え!? そんなはずないよな? 『陶村史』にも八幡宮って出てくるぞ。
それはね、「八幡宮が一社もない」(『陶村史』)というフレーズと、春日神社が鋳銭司の黒山八幡宮と一緒に、鋳銭司の鎮守に定められたって話のところに「八幡宮」って出てくるだけなんだよ。
そうだったのか……。俺たち陶と鋳銭司、一緒に回ってたからココも陶だと思ってた。いいじゃん、近いんだし。普通どこにでもあるものが「ない」というのも、陶が特別だってことさ。