大内氏滅亡後、毛利家に仕官した方々を書き出しています。宗家の滅亡と運命をともにした方、新たな主に仕える道を選んだ方、皆さまそれぞれです。毛利家の家臣についてまとめたご著作などを参照としているため、滅亡した方々については捜査が難航しております。そんな中、系図の見直しにより、あっと驚く「繋がり」に気付くことがあります。今回ご紹介する柿並家も、そんなルーツをもつ一族の方々です。
柿並氏概略
何とびっくりルーツはあの人
応仁の乱の際、当主・政弘の留守分国で叛乱を起こした伯父・教幸の子孫です。教幸の子どもたちのうち、兄二人は亡くなっておりますが、末息子・千代丸だけは難を逃れたのです。隠れ潜んでいた場所が長門国阿武郡川上柿並谷であったことから、長じて「柿並」と名乗りました。
この柿並さんですが、叛乱家臣親玉配下として活躍しておられます。それゆえに、名前に見覚えがありました。しかし、まさか教幸の子孫とは夢にも思いませんでした。要するに、歴とした「多々良氏」なのです。「配下」と書きましたが、『大内氏実録』で、近藤清石先生が陶家人という扱いになさっているためです。これよりずっと新しい研究成果となる『萩藩諸家系図』にも、陶の配下として戦ったことには触れられていますが、「家人」とは書かれていません。この問題は保留としておきます。どこかに最新研究があるのでしょうが、現状お目にかかれておりません。
叛乱家臣の「家人」だったのか、宗家に仕えていたのか
そもそもの問題として、教幸の忘れ形見が無事に成長した後、どのような経緯で叛乱者配下として活躍することになったのか、それまでの経緯が全く不明です。系図には「興」や「隆」の字がついた名前があることから、宗家に仕えていたようにも見えます(『興』の字は『隆』の字の息子として登場しているため、義興とは無関係と思われますが)。
義隆期に叛乱が起き、その後の大内氏の運命は大きく変りました。叛乱者に与力した人、我関せずを貫いた人、主に殉じた人と対応はさまざまでした。表立って叛乱者に協力はしなかった人の中でも、毛利家に対する思いはそれぞれだったと思われます。たとえ借り物でも「大内」と名乗っていた人を主と考え、それに殉じた人もいたでしょう。反対に、そんな事態を受け入れがたく思っていた人は、そそくさと毛利家に鞍替えしたかもしれません。何の義理もないわけで。
初代柿並さんが叛乱を起こして敗れ去ったお父上と別れて、無事に成人した頃は、まだそんな混乱期まではやや時間があったと思われます。元叛乱者の息子は、どうやって再び元の家に戻ったのでしょうか。何のお咎めもなし、という状況になるまでは隠れ潜んでいたはずなので、お名前が現われる頃には再度出仕することも可能になっていたのではないかと。あくまで想像ですが。
系図は途切れることなく続いていますが、表舞台に出て来たのは厳島の合戦直前の「折敷畑の戦い」が最初です。宮川甲斐守の配下として戦死した物語が有名であり、ちょっと見かけぬ名字でもあったことから(じつは大勢おられるようですが、身辺にはどなたもおらず。地域差でしょうか)、記憶が鮮明だったのです。
その後、厳島合戦にも従軍。軍記物曰くとはなりますが、敵を欺き総大将の御印を隠すために、自らの首級を使うよう言い残して自刃するという。これまた強烈な印象を残す役どころでした。
毛利家に仕えた経緯も不明
初代柿並さんとして登場する弘慶の嫡男・小平太隆幸が折敷畑で戦死なさった方。隆幸の子・隆正が、厳島合戦で亡くなった方です。その子・幸慶が、毛利輝元に仕えたということです。祖父、父と大内(陶)方として活躍しているのに、どのような縁を頼って毛利家に仕官したのかは、今のところ不明です。
ぼんやりと想像するに、「隆」の字がついている祖父と父は義隆期の人。でもって叛乱者に味方した。経緯不明ながら、毛利家の家督が元就から輝元に移った時期までは浪人し、その後拾われたのでしょうか。家を興した弘慶もそのようにして、父が叛乱者となった身分を生き延びたのですから。しかし、折敷畑で亡くなった人が、弘慶の嫡男であるということは、政弘期に起こった叛乱から当主が三代動く(義興⇒義隆⇒義長)までの期間動向不明となりますよね。面倒なので計算しませんが、かくも長きに渡って逼塞しておられたのでしょうか。系図だけだと、本当に何もわかりませんね。
『新撰大内氏系図』全コメント
教幸 孫太郎、左京大夫、掃部頭、入道南栄道頓、文明四年正月廿五日自殺於豊前国馬岳、法名広沢寺南栄道頓大禅定門
女子 南昌寺理尊
師子丸 於防州花宮山自害
加嘉丸 父倶生害馬岳
弘慶 佐渡守、入道柿阿、文明三年父兄自殺之時非難於長門国阿武郡川上柿並谷因地名称柿並
隆幸 四郎三郎、小平太、弘治元年九月十五日於安芸国折敷畑討死
興幸 高名、二郎
正幸 孫二郎
元勝 宮寿丸、孫二郎、養子
隆正 佐渡守、入道、弘治元年十月一日安芸国厳島自害三十三歳
幸慶 佐渡守
隆幸⇒興幸⇒正幸⇒元勝
隆幸⇒隆正⇒幸慶
『萩藩諸家系図』による補足
加嘉丸 父倶生害馬岳 母 鷲頭弘忠女、文明二年二月六日於周防国花宮山生害、十四歳
獅子丸(師子丸) 母 同、同與生害、十二歳
弘慶 千代丸、八郎、佐渡守、入道法橋柿阿、母 同、大永七年六月二十八日死、六十七歳、妻不知
隆幸 (死亡時)歳不知
元勝 家断絶
大内氏時代の部分については、『新勅大内氏系図』とほぼ同じです。師子丸と獅子丸は同一人物と思われますが、どちらが正しいのかは不明です。
また、隆幸以降、興幸・隆正兄弟は二流にわかれたと見えますが、高名と名乗ったと思しき興幸の一類は「家断絶」と明記されています。
省略しておりますが、毛利家仕官後の系図も続いております。『大内氏系図』の最後の人が、毛利家に仕えたのです。
『大内氏実録』記載の柿並氏の人々
『大内氏実録』では、巻第三十「陶晴賢家人」の中に、「柿並佐渡守」の伝が書かれています。近藤先生は、ご自身で、柿並氏を陶家「家人」にしてしまった上で、以下のように記しておられます。
「系譜では隆正。房顕記に陶内柿並佐渡入道、言延覚書に陶殿内柿並とあり、晴賢家人であることは疑いがない。「隆」字は義隆の偏名なので、隆正と名乗るはずがない。晴賢家人ならば、晴賢初名隆房の 「房」字を名前として、伊香賀房明、江良房栄、野上房忠等……のようになっているはずである。」
それゆえ、「名前不明」と明記されています。
『棚守房顕覚書』や『言延覚書』に、「陶内」とあることを典拠としておられるので、信憑性はありそうです。でも、後に柿並家の方々ご自身が提出した系図に「隆正」とあることから、事実そのようなお名前だったのではないでしょうか。雰囲気的に家来になっていたように思えますが、『覚書』にも間違えはあるかもですし、弘中隆兼のように、昔の名前で出ている同僚もいたわけで。
もしくは、例によって例のごとく、柿並家は毛利家臣として続いたゆえに、「房」の字がついた名前に改名した事実を隠蔽したこともあり得ます。ほかにも、「興」「隆」の文字がついた方がおられますので、当主さまたちに直接仕えていた人たちだった可能性もあります。
近藤先生が『実録』に書いてくださっている逸話からは、いかにも忠義の家臣に見えますが。『萩藩諸家系図』には陶家人だったことを示す文言はまったくありません。隠蔽したのか、それが事実なのか、どなたも気にしておられないので不明です。
『大内文化研究要覧』による補足
『新撰大内氏系図』はその時点までに伝えられていた諸系図をまとめた労作ですが、この系図にすら漏れ・欠けや誤りもあることが、最新の研究から明らかにされるケースが多々あります。そろそろどなたかが、改訂版をお作りになる時期が来ているような。
『萩藩諸家系図』からも、『大内氏実録』からも、『新撰大内氏系図』からも抜け落ちている、というよりも誤っている部分として、以下の点が挙げられます。
教幸の子加嘉丸は宇佐の山奥に落ちのびたと言われ、現宇佐市麻生の「山口家」の祖となり子孫相伝えている。
出典:『大内文化研究要覧』17ページ
同じご本の系図・教幸部分にも、「宇佐山口家・牛久山口家はこの子孫という」と書かれています。現在も続くご子孫がおられるのにもかかわらず、亡くなったなどと軽く書いてしまってはたいへんですので、補足しておきます。ただし、この項目では、あくまで、柿並家を取り扱っておりますので、山口家の皆さまとは別系統です。
有名人(大内氏時代の人限定)
★は『大内氏実録』に伝が立てられている人。そのほかは、『萩藩諸家系図』を参照しました。
柿並弘慶
大内掃部頭教幸の子。応仁の乱の際、父・教幸は当主・政弘(教幸の甥)の留守中に挙兵し、家督の簒奪を目指した(文明二年、1470)。けれども、留守を任されていた陶弘護がこれを迎え撃ち、教幸は九州に逃れ豊前国・馬岳で亡くなった(文明四年正月二十五日)。
教幸には、加嘉丸、獅子丸(『新撰大内氏系図』では師子丸)、千代丸という息子たちがいた。このうち、加嘉丸と獅子丸は文明二年時点で亡くなり、千代丸だけが難を逃れた。長門国阿武郡川上柿並谷に隠れ潜み、無事に成人すると、その地を名として、杮並佐渡守弘慶となった。
柿並隆幸
弘慶の嫡男。天文二十三年(1554))、大内(陶)対毛利が折敷畑山を舞台に激突。大内(陶)方の総大将・宮川甲斐守の配下として、勇敢に戦い討ち取られた中に、「柿並小平太」として出てくるのがこの人である。毛利方の圧勝に終わった戦闘で、大内方として活躍した人として軍記物などに頻出。さまざまな脚色がなされ、哀れを誘うが、系図には淡々と「弘治元年九月十五日於安芸国折敷畑討死」と記されているのみ。
柿並隆正★
隆幸の子。弘治元年(1555))十月一日、厳島合戦に従軍し討死。
『大内氏実録』に「晴賢家人・柿並佐渡守」として伝が立てられている。内容はおよそ、以下の通り。
「義隆が長門に逃れた時、佐渡守は足軽を率いてこれを追い、大寧寺で義隆父子を殺害。
厳島合戦で殉死。
死に臨み、新里の脇弥左衛門尉に、己の首を斬って晴賢の首として敵を欺くように、と託した。
弥左衛門尉は言われた通り、佐渡入道の首を氈(けむしろ、かも)に包み、晴賢の首である、と毛利兵・児玉就方に差し出した。就方はそれを受け取って、弥左衛門尉を斬った。」
主の首級を隠そうと懸命に策を授けるあたり、いかにも忠義の臣であり、涙を誘う。ところが、近藤清石先生は、陶家臣である佐渡守が陶らの叛乱によって倒された義隆の「隆」の字を名乗っていることに疑問を呈しておられる。その後の『萩藩諸家系図』には、佐渡守=隆幸と、何の疑いもなく書いておられる。こちらには、「陶家人」という表記はないため、「隆」の字に対するこだわりもないものかと。
『系図』が誤っているのか、近藤先生が深掘りしすぎておいでなのかについては不明。
柿並幸慶
隆正の子。毛利輝元に仕えた。毛利家臣となった経緯は不明。子孫はその後も続いた。
(以下省略)
参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』
雑感
忘れるほど前に書いた「晴賢家人」をリライトしつつ、『新撰大内氏系図』に名前のある方々をすべてウエブ上に書き写す作業を実行中です。こんなことをするより、最新の研究をお読みするほうが、ずっとためになるであろうと思いつつ、途中で投げ出すのが気持ち悪いのです。
柿並さんのストーリーは折敷畑のも厳島のも、いずれも感動的です。今どの軍記物にどう書いてあったとか忘れましたが。そのうち余裕ができたらまとめたいです。
それだけに、いきなり毛利家に仕えているのも謎です。家名存続のためと考えればなんでもありなのですが、柿並佐渡守の逸話は衝撃でしたから。そんな人の子孫でも毛利家に仕えてしまうのだな、と。こういうことを数えだしたら、日本全国どれだけ同様な例があるか数知れず、それこそ崩壊しますけども。
これも一種の陶入道の身代わりだよね? そうまでして守ろうとしたのに、毛利家に見つけられてしまったなんて。なんだか切ない。
何を言うか。元就公のおかげで、今も洞雲寺できちんと供養されているのだ。さもなくば、カラスの餌食になっていたかもしれん。
お前さ、「カラス」とかよく言えたね。「おがらすさま」と言わなければ、厳島には上陸させないからな。寛大な俺だから聞かなかったことにするけど。
(しまった……。元就公を導いたのは鹿だったゆえ、カラ……)
心の声、見えてるからね。もう一回言ったら、出禁にするよ。