赤間神宮(下関市阿弥陀寺町)

赤間神宮・太鼓楼

山口県下関市の赤間神宮とは?

源平合戦で二位の尼に抱かれて壇ノ浦に沈んでしまわれた安徳天皇をお祀りする神社です。かつて、亡骸が流れ着いた場所には、阿弥陀寺という寺院が建てられご供養されていましたが、明治時代に寺院と分かたれて安徳社、ついでご鎮座地の名前から赤間宮となりました。赤間神宮とお呼びするようになったのは昭和に入ってからです。その際には大がかりな改築も行なわれましたが、第二次世界戦の戦渦によって焼失してしまいました。現在の社殿はすべて、戦後再建されたものです。安徳天皇御陵のほか、平家一門の供養塔、さらに、琵琶法師で有名な耳なし芳一の像などがあります。

赤間神宮・基本情報

住所 〒750-0003 下関市阿弥陀寺町4-1
御祭神 安徳天皇
最寄り駅 下関駅、赤間神宮前バス停
主な祭典 例祭(十月七日)、先帝祭(五月二・三・四日)、祈年祭(二月十七日)、新嘗祭(十一月二十三日)
社殿 本殿(流造)、祝詞殿、内拝殿、翼殿、神鐉所、回廊、 外拝殿、脇殿、楼門水天門、回廊、宝物殿、社務所
境内神社 日本西門鎮守八幡宮(八幡大神)、紅石稲荷神社(稲荷大神)、七盛神社(平知盛公外七座)、大連神社(天照皇大神他四柱)
主な建物 鳥居、燈籠、狛犬、十三重塔三基、赤間神宮復興之碑、社号碑、太閤石由来記、石幢、 句碑 (自然石・松尾芭蕉・ 高浜虚子・山口誓子・西尾其桃・木下友敬・土井南国城)、 手水舎、太鼓楼(平成御大典記念)、勅額、由緒記、客殿水天閣、会館龍宮殿 、 参拝者休憩所平家茶や
特殊神事 上臈参拝(五月三日)、関門海峡祭(十月七日)、芳一琵琶供養祭 (七月十五日)、雲丹供養祭(十月二十日)、注連縄祭 (十二月十日)
奉納芸能 能楽の夕べ(十月六日)、耳無芳一屋外劇(七月十五日)、 先帝祭上臈道中(五月三日、市指定文化財)
公式サイト https://akama-jingu.com/
(参照:公式サイト、『山口県神社誌』)

赤間神宮・歴史

古くは阿弥陀寺という寺院でした。

寛正五年(1464)、歌僧正徹の弟子正広は山口へ下向。当主教弘やその子・政弘、家臣らと歌会を楽しむと同時に、北九州の大内氏分国へ、歌枕観光の旅に出ます。その際、渡海前に立ち寄った中に阿弥陀寺の名がありました。赤間関に来た人は必ず参詣するような著名寺院だったものと想像できます。

源平合戦の折、この付近は壇ノ浦合戦の舞台となります。平清盛の孫・安徳天皇が祖母・二位の尼(清盛妻)に抱かれて海に身を投げて亡くなられた、という話をご存じない方はおられぬでしょう(別に知らなくても何ら問題はないけど、学校の授業で必ず教わるはず)。よく言われることですが、天皇という方々は位についておられる間は、○○天皇とはお呼びしません。教科書に○○天皇と載っているのは、歴史上の人になってしまわれたからであって、本来は、畏れ多くて実のお名前を口にすることもかなわないお方であるためです。

安徳天皇というお名前は、朝廷が後から贈った「尊号」で、お名前をお贈りすると同時に、御廟所も造って差し上げました(敬語おかしいところあったらすみません)。御廟所は、お亡くなりになった地である長門国、赤間関に建立され、最初は朝廷から遣わされた尼さんが奉仕していましたが、やがて僧侶にかわり、聖衆山無量寿院阿弥陀寺という、浄土宗西山派の寺院となりました。

赤間神宮となったのは、明治維新の神仏分離令で阿弥陀寺が廃され、神社となったのちのこと。御廟所は安徳天皇社となり、明治天皇の御代、所在地の名をとって赤間宮と改称し、新たな社殿が造営されます。明治十三年(1880)、御廟所から安徳天皇の尊像が社殿に移されました。元の御廟所も修理されて安徳天皇阿弥陀陵となり、宮内省の管轄となります。

赤間神宮と命名されたのは、昭和十五年であり、社殿も荘厳なものに改造されました。ところが、第二次世界大戦における本土空襲によって、社殿は全焼してしまいます。安徳天皇尊像や古文書類は別の場所に移されていて無事でした。本殿は二十年の歳月をかけて復興・再建されたのです。

つまり、現在目にすることができる社殿はすべて、戦後再建されたものとなります。皇室ゆかりのお方をお祀りする神宮ゆえ、皇族方のご参拝が多数あります。昭和三十三年(1959)、水天門完成時の昭和天皇御夫妻。三十八年(1963)、平成天皇 (現上皇さま)。五十五年(1985)には、皇太子だった現天皇陛下の御参拝がありました。六十年(1985)、 安徳天皇 八〇〇年式年祭の折には、平家ゆかりの宮島厳島神社が舞楽を奉納したといいます。(以上、参照:『山口県神社誌』)

五郎

やはり「厳島神社」は平清盛の神社という認識なんだな。さすが。こういう交流、感激の一瞬だね。

ミル

そうだね。ミルたちの厳島神社が安徳天皇さまと平家の方々のために舞楽を奉納。感動の涙止まらないよ。

鶴千代

(貴重な世界遺産を、お前らの神社呼ばわりとは……。しかも、毛利元就公ゆかりの厳島神社であることを無視するなど……)

ミル

心の声見えてるからね。別に「元就公」批判してないし、そもそも、赤間神宮話題にしてるんだから、厳島合戦は関係ないでしょ? 

五郎

そうだよお前、空気読めないの? だいたい、厳島神社の創健者は平清盛じゃなくて、佐伯鞍職だからな。神社のことを理解せず、「元就公のご仁徳」だけ繰り返すお前は、心のない「機械」になっちゃうよ。

新介

お願いだから、阿弥陀寺のことを書いてくれる?(←「赤間神宮」という概念がない時代に生きていた童)

赤間神宮・みどころ

水天門

赤間神宮・水天門

楼門。昭和三十三年(1959)に完成。龍宮造りという建築様式は世界でここしかないのだといいます。見ての通り、竜宮城のイメージそのものです!

二位の尼が詠んだ「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」との御歌から来ており、海の中の都におられる安徳天皇ゆかりのものとして建てられました。幼帝は海底に沈んでしまわれても、その御霊は天上世界におられるとのことから、水天皇大神となり、水天門という名前の由来はここから来ています。

ミル

このお歌の出典はどこなの? ミルたち『平家物語』を読んだけれど、「みもすそ川」なんて詠んでいる歌は見付けられなかった。

山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、 まづ東をふしをがみ、 伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉( ッ)て、千尋の底へぞ入り給ふ。  
悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め奉る。 
新版 平家物語 全訳注 全四冊合本版 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.49843-49851). 講談社. Kindle 版.

卜山

「延慶本」の中にある。そなたらが読んでいるのは「覚一本」だ。『平家物語』には多くの異本が存在するのだ。

わずかに八歳の子どもにどこまで理解できるんだろう? って思うけれど、お祖母さまに「どこへ連れて行くの?」と尋ねて「極楽浄土というところです」と教えてもらい、旅立つ前にお祖母さまにいわれた通り、きちんと祖先神に手を合せ、西方浄土に向かって念仏を唱えられました。水中に身を投げても、助けられてしまった人々は何人もいたのに、帝と二位の尼は二度と浮かび上がってくることがなかったのです……。

「悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め」のところでなぜだか毎回、涙が止まりません。安徳帝の御遺体は赤間関に流れ着きましたが、二位の尼のほうは、遙々と平家ゆかりの地・厳島まで流されていったのです。

「惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先多額の 御寄進に加へて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より腸はり御歌の
今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日 畏くも 昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり」(「水天門記」看板説明文)

赤間神宮・水天門扁額

とてもわかりづらい写真になってしまうけれども、こちらの額は創建当時の皇太子さま、現在の天皇陛下の御染筆です。

「神門楼上に関門海峡を見はるかし 黒漆地に金波輝く水天門の御額は 寬仁親王殿下の御染筆をたまわり 平成十七年五月三日御祭神と仰ぐ 安德天皇八百二十年大祭に際して 宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。」(「水天門 掲額の記」看板説明文)

太鼓楼

赤間神宮・太鼓楼

平成二年(1990)に完成した建物。平成天皇の即位御大礼をお祝いして造られたものです。大きな絵馬が可愛らしいですね。

「水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長清原梅義氏は本宮崇敬 会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日旧元旦を期して見事に竣成す 蓋し新帝即位大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡をわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ」(「太鼓楼記」看板説明文)

大安殿

赤間神宮・大安殿

赤間神宮HPの境内案内図から考えて、これは外拝殿だと思います。回廊の奥に内拝殿、祝詞殿、神殿と続きます。これらあわせて全体が「大安殿」のようです。

五郎

なんだか厳島神社みたいだ!

確かに厳島神社に似ています。回廊の向こう、内拝殿が見えます。

赤間神宮・大安殿2

十三重塔

赤間神宮・水天供養塔

幼くして亡くなった安徳天皇に関連して、水難供養の塔があります。「水天供養塔」といわれるものです。この右手奥に小さな社がチラ見えています。『山口県神社誌』の境内図だと、十三重塔の奥にあるのは「七盛神社」ですが、HP の境内案内図だと、その場所には「芳一堂」があることになっています。芳一堂は見ていますので、この建物の前まで行ったはずですが、位置関係が記憶にありません。

ちなみに、「七盛神社」は平知盛はじめ平家の人々を祭神とする社ということですが、HP には「七盛塚」という説明があって、「塚」と「神社」が同じものなのか不明です(HPには神社の説明がないから、おそらく、同じものなのではないか、と推定)。

平家一門の墓

赤間神宮・平家一門の墓

別名「七盛塚」という墓碑は、一つずつ、どれが誰のものかって決まっています。詳細は、神社のホームページに説明があります。まったく見た記憶がないけれど、付近に説明看板があったはずです(大寧寺みたいに)。

なお、なぜ平家一門の方々の墓碑が「七盛塚」と呼ばれているかの理由は、お名前に「盛」の字がつく方が多いため(七人いるから七盛)です。公式ホームページを拝見し、以下の方々の墓碑があると確認しました。教盛、知盛、経盛、資盛、清経、有盛、時子、忠房、盛継、景俊、景経、忠光、家長、教経(順不同敬称略)。

五郎

「盛」がつかない人の墓碑のほうが、多いじゃないか。あれ? そういえば、平教経はなんで「盛」ついてないの? 

ミル

「副将能登守 平教経」。前列左から四番目です。なぜお名前に盛の字がないのか? 清盛公と親しい方々は「盛」の字がございますね。ご兄弟、お子様方など。教経さまはお父上から「教」の字を継いでおられますが、御嫡男ではありませんから、盛の字は兄上「通盛」さまにいったのではないでしょうか。

五郎

(ちゃっかり場所の確認してるよ……)そっか、通盛って人は屋島で亡くなっているから、ここには墓碑がないんだね。あ! 二位の尼の墓碑もここにあったんだね(しんみり)。

ミル

そうね。ご遺体が流れ着いた厳島では、御霊を弔う寺院はすでに廃絶して久しかった。ここでお参りできたんだね。

義豊

(盛の字がつく奴らが多い、ってのは分かったけど、ここには、そういう名前のが六人しか書いてないんだよな。本当に、公式サイトで確認したのかな? したのは事実だけど、書き漏らし? それとも、屋島の通盛って人も数えるから? 源氏の俺とは無関係だけどよ)

芳一堂

赤間神宮・耳なし芳一

じつは、かの有名な耳なし芳一の物語の発祥の地はここなのです。その意味で、絶対に外せない一枚。タクシーの運転手さんから「耳無芳一を見落とさないように」と教わっていたので、きちんと見ることができたものの、ほかのみどころがすべてなおざりになってしましました……。

そもそも、なにゆえにかこの神社内で撮影した写真はほぼすべてが、ピンぼけになっています。

『耳なし法一』とは?

小泉八雲の怪談『耳なし法一』のことです。

安徳天皇阿弥陀寺陵

赤間神宮・安徳天皇阿弥陀寺陵

安徳天皇は赤間神宮にお祀りされていますが、元の御廟所も陵墓として整備されております。阿弥陀寺の名前も、ココに残っていました。

宝物殿

赤間神宮・宝物殿

所蔵している社宝がものスゴい。平家物語長門本(全二〇冊・国指定文化財)、赤間神宮文書 (全十巻一冊・国指定文化財)、紙本金地着色安徳天皇縁起絵図(全八幅・山口県指定文化財)、平家一門画像(全一〇幅)、源平合戦図屏風(一双)、太刀(一把・伝平教経佩用)ほか。これらが戦渦を免れて本当に幸いでした。(参照:説明看板「御神宝類」、『山口県神社誌』。太刀は『山口県神社誌』にだけ掲載)

宝物殿の見学には、拝観料が必要。ただし、わずかに100円。開館時間 9:00~17:00。※拝観料や開館時間は、変更されていることがありますので、必ず事前に最新情報をご確認ください。

「先帝祭」(未見)

『山口県の歴史散歩』で、「赤間神宮最大の神事」(208ページ)として、紹介されています。毎年五月に執り行われます。神社さま公式や、『神社誌』にある「上臈参拝」がクライマックスで、「豪華絢爛な絵巻を思わせる」(同上)道行きが見られるほか、これに合わせて開催される「海峡まつり」では、「源平船合戦」なる壇ノ浦の戦いを再現したイベントもあるようです。

なお、「先帝祭」は赤間神宮さまの例祭という扱いで、毎年五月三日から三日間の日程です。

五郎

赤間神宮がある下関で行なわれる「源平船合戦」なら、やはり平教経の大活躍がメインだろうね。でも、一門が滅亡した合戦の再現ってなんか悲しいね……。

於児丸

将軍さま、悪名極まる平家一門を倒した我ら源氏のご先祖さまが、鎌倉幕府を開いたのです。この合戦絵巻を我らが観戦しない理由はございませんよね。

義材

ふむ。当然であるの。

五郎

(どこまでも空気読めない連中だな……)

赤間神宮(下関市阿弥陀寺町)所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

ご鎮座地 〒750-0003 下関市阿弥陀寺町4-1

アクセス

赤間神宮バス停からすぐ。バス停までは下関駅から10分くらいです。駅から徒歩は少しキツいかもしれません。

参照文献:赤間神宮HP、現地説明看板、『平家物語 全訳本』、『山口県の歴史散歩』、『山口県神社誌』

赤間神宮(下関市阿弥陀寺町)について:まとめ & 感想

赤間神宮(下関市阿弥陀寺町)・まとめ
  1. 安徳天皇をお祀りした神社
  2. 源平合戦の折、壇ノ浦で入水された安徳天皇の亡骸が流れ着いた場所に建てられた阿弥陀寺という寺院が前身
  3. 明治時代に安徳社という神社となり、ご鎮座地から赤間宮となった
  4. 第二次世界大戦で焼失し、昭和に入って再建され、赤間神宮となった
  5. 安徳天皇ゆかりの神社として、平家一門の供養塔がある
  6. 耳なし芳一の物語発祥地で、芳一の像がある
  7. 竜宮城を思わせる神門は水天門といい、世界でもここにしかない建築様式

大内氏の時代には阿弥陀寺と呼ばれる寺院でしたが、赤間が関では名所の一つであったようで、多くの有名人が訪れた記録があります。昭和時代に再建された社殿ゆえ、新しすぎて由緒がないように錯覚してしまいますが、そんなことはけっしてないのです。

とにかく竜宮城みたいな神社さまでして(こんなことを言うと厳かな神社さまに叱られてしまうかもだけど)、水天門が形容しがたい可愛らしさで、萌え萌えてしまいました。恐らくここは、大内氏ゆかりの地じゃないと思いますが(阿弥陀寺とは分かたれているわけで)、なにゆえにか「行きたいところ」にここを入れた状態で観光タクシーをお願いしていました。まあ、何もいわずとも普通に行き先に組み込まれるとは思われますが。

宝物殿がお宝の山みたいですが、時間の関係でスルーするよりほかありませんでした。前の日にとある寺院の石段から滑落してスマートフォンが壊れ、写真を撮ることができなくなっていたので、いつの日にかもう一度、水天門を見に来たいと思います。

こんな方におすすめ
  • 源平合戦について調べていて、ゆかりの地を回っている方(門司にも行きましょう)
  • とにかく「神社巡り大好きの人なんです」な方

オススメ度:(基準についてはコチラ

4

(インチキな子孫伝説から +1 してしまいました。ごめんなさい)

五郎

なんだか、俺らや殿様とはあまり関係がない神社みたいだ。ここ、本当に「関連史跡」なのか? ミルが自己都合で平教経の墓参りしているだけでは?

ミル

あのね、これだけ有名な神社と所在地の殿様たちが無関係なはずはないんだよ。敢えて言わなかったけど、大内、毛利もそれ以前の鎌倉幕府北条氏も、みんな篤く信仰していた、と本に書いてあったよ。豊臣秀吉だのなんだのも参詣に来ている。要するに、支配領国内の寺社で無関係なところなどないということ。

五郎

そんな……。いったい県内にいくら寺や神社があると思ってるんだよ? 回りきれないじゃないか。

ミル

別に全部見れなくたっていいよね。だいたい、勢力範囲県内だけじゃないよ。

おまけ:「赤間神宮のお守り」とその他お守・お札考

赤間神宮お守り

お守りはどこの神社もだいだい同じようなかたち(神社の名前が違うくらい)。でも、最近はあれこれとその神社独特のものが売られており、それらを眺めることも楽しみのひとつ。一時にたくさんの神社のお守りを購入したらダメで、自らの崇敬する神様ひとつに絞ってお守りしてもらうべきなのか、その辺の事情、わからないけど、見るだけで買わないことが多いので、あまり気にしてません。

赤間神宮のお守りはとても可愛らしかったので、つい購入してしまいました。複数もっていて神様どうしがケンカしたらどうしよう、とか思うけど、厳島神社とゆかりあるところだからいいのかな、との思いです。

購入後、三年が経過。よく、「お守の効果は一年間」とか書いてあるのを見かけます。神社さま公式でそのように書いてあるのならまだしも(そのような例もあります)、そうでない場合は一応、神社さまに問い合せてみましょう。記念のためにずっとおいておくのもありだと思うんですよ(個人的な意見です)。特に「古くなり効力がなくなったお守をおいておくと邪気がたまり悪影響が云々」については、科学的根拠はないと思われます。神さまは皆さまを助けてくださる存在であり、悪さをするはずないじゃないですか。その点、個人の方のご意見よりも、神社さま公式のご意見を一つ一つ確認するよりほかないです(個人的には、皆さまの寺社巡り日記など、大好きです)。信仰心などかけらもない友人に聞いてみたところ、「一年経ったら『買い換えろ』ってのは、神社やお寺が商売のために言っていることなので、気に入ったらいつまでも持ってりゃいいし、要らなくなったら処分すればいい。飛行機乗って下関まで返しに行くなどもってのほか」と。寺社さまに対してなんて無礼なことをと思いつつも、お財布的には同感。

で、神さまの種類を揃えろ、という「噂」は無視して、地元の氏神社にお返ししました。でも、何気に気になるので、念のため確認。すると……「お札類の効果は基本一年間。初詣の際に新しい物と交換してください。その際、前年度のお札は古札回収ボックスに」とのご説明。やはり、毎年買わないとダメなんですね……。お守については、もはや聞くまでもない気持ちでしたが、念のため「旅行中に他社のお札やお守を購入しましたが、御社の回収ボックスに入れてもかまわないでしょうか。ネット上には、神さまの種類が同じでないといけないとかありますが」お答え「基本、他社のお札も入れて問題ありません。違う種類の神さまでも大丈夫です。ですが、寺院さまのものは、寺院さまにお返しください」……。

重要

神社さまによって応対が異なる可能性もありますから、必ず、信仰している神社さまや氏神社さまにお問い合わせの上、ご確認ください。

あれこれともはやメンドーなので、毎年必ず訪問する厳島神社以外のお札はもう二度と、買わないことに決めました。お守も然りです(よく考えてみたら、厳島神社に行くのなら、安徳天皇をお祀りする三翁神社が近いので、『巷の噂』に耳を傾けることもできなくはなかったのでした……)。

五郎

ん? 大聖院で購入した三鬼大明神のお守って、寺院さまのものじゃないの? ミルはそれを……

ミル

三鬼大明神は神さまですよ、ははは(ヤバい話は黙ってなさい)。

於児丸

君たち、毎年厳島に行っているのだから、購入元にお返しできるはずでは? 源氏の氏神に無礼なことしないでください。

【履歴】20250727 テーマ変更によるレイアウト調整、赤間神宮公式サイトのリニューアルURL反映、文体の修正、一部加筆&修正

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