人物説明

問田亀鶴 叛乱者に担ぎ出された最後の当主の遺児

大内義隆イメージ画像
間抜けな父です

大内氏ゆかりの人物について書いています。今回は、最後の当主・義隆の息子について、二人目のご紹介です。通常「問田亀鶴」と書かれておりますが、呼び名かからして謎です。毛利家の統治下となって以来、それを快く思わない人々による叛乱が相継ぎました。義隆の遺児であったことから、そのような連中に担ぎ出され、そのせいで毛利家によって討伐されてしまいました。まだ幼かったと推測されますので、当人にどれほどの理解力があったのか不明であり、気の毒なことです。

問田亀鶴とは?

大内氏最後の当主・義隆の遺児です。「問田亀鶴」と書かれていることが多いですが、当然のことながら、姓は「大内」です。生母である、内藤興盛の娘が問田の地に住んでおり、「問田殿」と呼ばれていたことから問田と冠されているのでしょう。

毛利家の防長経略後、その支配を快く思わない者たちによる叛乱が相継ぎました。そのほとんどが、即鎮圧されたと思われ、史書に記されていないものも多々あったかと。そんな中で、義隆の血を引く人物として、叛乱者に利用され担ぎ出されてしまいました。「悪あがき」にすぎない小規模な叛乱が成功するはずもなく、すぐに鎮圧されましたが、今後も火種の元になりかねない亀鶴は毛利家によって殺害されました。系図などによれば、殺害当時わずかに十一歳とあります。「お家再興」という四文字が、正確に理解できていたのかどうか微妙な年齢ですが、本人の意志は不明です。なお、亀鶴を担ぎ出しての叛乱を鎮圧したのは、叔父にあたる内藤隆春でした。何とも残酷な運命の巡り合わせと言えます。

基本データ

生没年 ?~1557(弘治三年、十一歳)
父 大内義隆
母 問田殿(内藤興盛の娘)
幼名(呼称) 問田亀鶴
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』、『大内村誌』)

略年表(生涯)

・大内義隆と側室・問田殿(内藤興盛の娘)との間に生まれる
・義隆の逃避行(1551、天文二十年)には、同道しなかったものと思われ、父の死(同年、大寧寺)後も生存
・弘治三年(1557)十一月、毛利家の支配に対抗した大内旧臣の一部が亀鶴を擁立して、障子ヶ岳に楯籠もる
・叛乱は十一日には鎮圧され、旧臣らは全員戦死。亀鶴は捕らえられ、「即日」殺害されたという

おもな事蹟

出生の謎

義隆の息子「たち」については、不確かなことが多いように思われます。普通に考えて、大寧寺で殺害された「義尊」は系図上跡継息子と確定して差し支えないと考えます。特に新しい論考なども現われてはいないようです。生母が単なる「お気に入り」という身分から、ついには正妻を追い出して後釜に座った女(小槻伊治女、広橋兼秀養女。本によっては『おさい』と名前を明記)ですから、その息子も「正妻」の子として父には大切にされていたかと。それゆえに、当然、家臣の叛乱による父の死によって、跡継である息子も命を奪われました。『大内氏実録』や『新撰大内氏系図』そのほかによりますと、ほかにも義隆には娘があり、父と同じく大寧寺で死んだことになっています。伝承まで領域を広げると、それこそ真偽の程は不明ながら、名前の違うあれこれの息子の墓などが残されていたりするようです。子孫の方まで存在しているケースもあります。非公式ながら、それらの情報が全くのデタラメかどうかは、どなたも明らかにしてくれていないため扱いに困ります。

そんな中、この「問田亀鶴」については、上記二つの書籍と系図にもその存在が明記されています。何より、遺臣の叛乱という事件が起こり、その経緯が毛利方の記録として伝えられていることから、信憑性は明らかと思ってよいでしょう。

ただ、亀鶴なる人物が、本当に義隆の息子だったのかどうかについては、疑問符もあります。叛乱者など、いくらでもニセモノをでっち上げることは可能だったでしょうから。しかし、その可能性は薄いような気がします。叛乱者に担ぎ上げられた亀鶴がホンモノかニセモノかはわかりませんが、それに類した人物が実在したゆえに、担ぎ上げることで(たとえニセモノでも)叛乱の正統性が強調できたものかと。

ただし、わからないのは亀鶴はじめ、そこらに残る遺児伝説の遺児たちの出生についてです。中には、義隆の逃避行に従って義尊同様、殺害された話もあるようですが、こちらは単に、義尊の話が名前を誤って伝えられ、そこここに墓と言われるものが残っているだけかと(個人的見解です)。さもなくば、系図に名前が載っているはずでしょう。それらのいたかいなかったか不明の息子たちと、亀鶴の徹底的な差はなにか。亀鶴が義隆の逃避行に同道していたという資料(≠史料)を見たことがない点です。普通に考えて、同道していたら殺されていたでしょう。つまりは、同道していなかった、と推測するわけです。単純に、母親とともに問田に住んでいたため、置いて行かれた、と思われます。でもこれ、妙じゃないですか? 仮にも当主の息子です。しかも、母親が内藤興盛の娘であれば、身分卑しい女性とは言えません。館内におらず、問田の地に放置されていたのはなにゆえか、と考えるわけです。

むろん、館内にいたけれども、父の逃避行に同道せず、生母を頼ったのかもしれません。誰もそのことについて触れていないので、不明だから何とも言えないのです。でも、館内にいたのであれば、同道するのが自然ですし、そもそも生母とて、主君の息子を産んだのですから、館に迎えられていて良さそうなものです。唯一考えられるのは、表に出せない「隠し子」的存在だった、ということしかありません。母息子ともども、館外にひっそりと暮らしていた、と。そうならば、すべて繋がりますよね。いかにもありそうな話です。それでも、後に叛乱者が担ぎ上げる理由的には十分です。

それではなんで、館外でひっそりと暮らさねばならなかったのか? 理由は二つ考えられます。

一、義隆は色好みでそこら中の女性に手を付けていた。中には身分卑しいとされる人もおり、いちいち認知できずに放置された
二、正妻が嫉妬深く、夫が「手を付けた」他の女性とその落とし胤を絶対に屋敷に入れさせなかった

一は大いに考えられることです。そこら中に、義隆の遺児伝説が残るのも頷けるではないですか。いわゆる「表に出せない」人たちなので、史書などに記述があるはずもありません。正妻の召使い女に手を出したところから分かる通り、義隆はかなり手癖の悪い人物です。身分が高く、風流人を気取っている輩にはよくあることです。ただし、内藤興盛の娘が生母ならば、身分卑しいとはとても申せません。「館内にいなかった」という史料もまたないようですから、「問田に住んでいた」こともあっただけかもしれないですし、もはやどうとも判断できません。それゆえに、二が考えられます。義尊の母、義隆の継室は悪女ですよ。嫉妬深い嫌らしい女であったことは大いに考えられることです。自らとその息子以外、排除したんでしょう。推測ですけど。

生き残ったゆえの悲劇

父親と一緒に大寧寺付近で亡くなっていたならば、少なくとも後に叛乱者に担ぎ上げられる、という出来事はなかったはずです。これも、どこにも書いていないので分からないですが、叛乱者たちは元主の跡継を根絶やしにしようとしたはずです。ただ……。そこら中に落とし胤がいたとしたら、探しきれません。問田殿とその息子については、系図に載っているくらいなので、把握できていただろうかと思えど、そこも本人たちに確認できない以上、不明と言わざるを得ません。叛乱者一味に内藤興盛(問田殿の父)が入っていたこと、叛乱者親玉と興盛の孫・内藤隆世との関係性を考えると(妻の弟)、内藤家の血を引いているがゆえに特別に許されたと見なすこともできなくはありません。それこそ、目立たぬように、ひっそりと暮らしていたのでしょう。にもかかわらず、叛乱者たちが退治された後で、まったく別のところから別の叛乱に巻き込まれるというのは、何とも運が悪いとしか言いようがありません。子どもに罪はないですから、父親を恨めとしか言えませんね。

障子ヶ岳

毛利元就は厳島の合戦に勝利し、大内義長(傀儡)を倒して義隆の仇を討ち(多数意見に従っているのみです。他意はありません)、山口を平定します。義隆死後に政権を担っていた叛乱者親玉には、まったく人望がなく、当主の真似事をしていた「大内義長」も単なる大友宗麟の弟です。毛利元就は、一部叛乱者親玉のシンパ以外には、何ら手こずることなく防長を制圧したかのように見えます。人柄、才覚ともに申し分ないお方なので、当然の成り行きでしょう。しかし、どんなに善い人が統治者になったとしても、異を唱える人間というのは存在するものです。基本は、多くの人々が戦わずして降伏していますから、現地統治の利便性も考慮して(いきなり領土が増えたら人出が足りませんから)、大内旧臣をそのまま登用したりした例も多かったときいています。さりながら、それらの厚遇から漏れてしまった輩にとってはこれほど面白くない話もありません。また、数はすくないといえども、叛乱者側に賛同していた人もいたかもしれません。そのいずれでもなく、単にどさくさに紛れて一旗揚げようだとか、山中鹿之助の真似事をして、「忠義の家臣」を演じようとした輩もいたかもしれません(年代的に、鹿之助さんに先駈けてとなりますが)。そんなわけで、偉大なる元就公に叛旗を翻した人たちも存在しました。のちの大内輝弘など論外ですが(あれは大友宗麟の手先となり、ついでに自らの野望も遂げたいと目論んだ身の程知らずです)、代替わりの興奮さめやらぬ時期にも小さな叛乱がそこここで起きています。

元就は、山口を制圧した後、義長と内藤隆世には成し遂げられなかった高嶺城(だからこの城は大内の城ではなく、毛利家の城なんですよ。誤解している方が多いですが、違いますので)を完成させて、山口の抑えとするように、と市川経好に命じたのち、いったん自国に引き上げました。四月には防府にあった本陣も引き払ったそうです(参照:『大内村誌』)。元就が去った途端、そこここで、残党が活動を始めます(お前ら反抗するなら、面と向かってやれ。智将が去った後、こそこそと何やってんねん? と思うのは執筆者だけでしょうか)。

大内氏の残党はその間隙に乗じて果然蜂起 する動きを見せ、六月には陶氏の中間佐藤宗左衛門尉父子等が突如山口に蜂起したが、市川経好等のために、いち早 く鎮圧された。その後も、大内氏の重臣であった陶・内藤・杉・問田諸氏の遺臣は与党を糾合して防長の各所に、ぞ くぞく蜂起し、その勢威は漸く強大なものとなって、その一部は遂に十一月十日、山口に乱入するに至った。
出典:『大内村誌』

最近、ファクトチェックうるさいので、権威ある書物からそのまま引用しております。この本を信用しない方はおられぬでしょう。

・毛利元就が帰国した
・毛利軍の主力が撤退した

上記二点を以て、身の程知らずの輩どもが途端に騒ぎ出したわけです。まあ、彼らだけを責められないのは、主力がいない隙を突くというのは、超ど素人でも思いつく策ではあります。ただし、それを活かせるのは、元就公並の智将でなければ無理です。だから身の程知らずなんです。

こうしたドサクサの中で、「残党草場越中守・小原加賀守・河越伊豆守等」(『大内村誌』)が、問田亀鶴を旗印としたのです。いちおう、義隆の遺児である亀鶴ですので、正統性は主張できます。ここで、毛利元就に人望なく、大内氏の再興を望む「忠臣」たちの蜂起が広まれば、あるいは……ということもなくはない展開ですが、まったく支持を得ることはできなかったようです。一同は、障子ヶ岳(吉敷郡上宇野令)に楯籠もり、毛利家に一矢報いようとしたわけですが、まったく歯が立ちませんでした。楯籠もったのが十日ですが、なんと次の日十一日には、内藤隆春、杉松千代丸といった人々に攻撃されて壊滅した模様です(『大内氏実録』、『大内村誌』等)。

この敗北により、亀鶴は毛利軍に捕まって殺害されました。『大内村誌』に「即日」とあるだけで、何日のことなのかは不明です。

この後、元就は再び防長に戻って、残党に睨みをきかせ、あらゆる火種は揉み消されました。大内輝弘はちょっと別格で、これらの小規模な叛乱とは切り離して考えなければなりませんが(中には、かなり大がかりなものもあったそうです)。この時、元就が在陣したのが、元叛乱者親玉の本拠地だった富田です。富田と元就との逸話はあれこれありますが、ここでの話題からは逸れますので、触れません。

人物像や評価

十一歳の子どもに業績などなし

タイトル通りです。よほどの神童か、剛の者でもない限り、何もありません。実際、何かが伝えられていたとしても、現状きいたことがありません。恐らくは、父親の逃避行にも放置された日陰の子でしょう。気の毒と言う他ないです。

替えパーツの悲劇

亀鶴の悲劇は父親が、大内義隆だった、という点につきます。子どもは親を選べません。まったくもって、気の毒としかいいようがありません。気付いた方はおられるかもしれませんが、亀鶴を殺害した内藤隆春は、彼の実の叔父です。内藤興盛の娘が母親なのですから。親子兄弟でも争う世の中。叔父が甥を手にかけたくらいで、騒ぐほどのことはないでしょう。しかし、毛利隆元の夫人もまた、内藤興盛の娘ですから、隆元にとっても妻方の甥となります。のちに毛利家を継ぐ輝元から見れば従兄弟でもあります。それでも、不穏な叛乱分子に担ぎ上げられる可能性が排除しきれない限り、生かしておくことはできなかったわけです。裏側には、単なる叛乱の鎮圧という以外に、様々な人々の思いが交錯していたものと思われます。

まとめ 

  1. 大内義隆の息子、とされる
  2. 生母は内藤興盛の娘で、問田に住んでいたため、「問田殿」と呼ばれる。よって、問田亀鶴と書かれていることが多い
  3. 父とともに、大寧寺では亡くならなかった。山口からの逃避行に同道したかどうかについては確たる史料がないものの、山口に隠れ潜んでいたと考えるのが妥当
  4. 山口を制圧した毛利軍の本隊と元就が帰国すると、大内旧臣の叛乱が各所で起こった。そのうちひとつが、障子ヶ岳に楯籠もった一味が起こしたもの。楯籠もった際、一同は義隆の遺児として、亀鶴を擁立した
  5. 叛乱者に担ぎ上げられただけなのか、本人にも家を再興したいという望みがあったのか、史料は語ってはくれていない。十一歳の子どもにどれほどの決断力があったのかは、現代とは年齢感覚も違う中世に、単純に当てはめることはできない
  6. 叛乱はわずか一日にして鎮圧された。叛乱者たちは壊滅し、亀鶴も捕らえられて殺害された。手を下したのは、実の叔父・内藤隆春である

参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』、『大内村誌』

雑感(個人的感想)

正直、こんな子ども、どうでもいいのですが(内藤さんたちも好きじゃないし)、叔父が甥を手にかけるって悲惨ですよね。ここは、創作系の方々の腕の見せ所で、泣く泣く手にかけざるを得なかったのか、何の感慨もなく、機械のように淡々と任務を遂行したのかはまったく不明です。いかようにもご脚色ください。そもそも、そんな細かいことを気にしていたら崩壊するってことでしょう。内藤家は叛乱者につくかどうかってところで、すでに分裂しており、嫡孫の隆世が叛乱者べったりな現状に、興盛も困惑したとかしなかったとか。そもそも、このお方が断固反対と唱えれば、殿さま成敗計画はどうなっていたかわからないって意見もあり、面倒なので見て見ぬふりして表面上叛乱者側っぽくしてたってのが通説。そういう優柔不断やめてくれませんかね? で、隆世は叛乱者親玉の後釜に座って大内義長(絶対に認めないからな。大友晴英やし)と運命をともにしているけれども、隆春のほうはさっさと毛利側ついているという……。これもよくある、どっちに転んでも助かるっていうお家存続計画の一環なのか、単に叛乱者大嫌いだったのか不明。

歴史って、結局、本人に聞かないと分からないことも多いですよね……。だから、タイムマシン必須なんですよ(絶対に発明不可能と分かっているけれども……)。

歴史学では、公家や寺社の日記が「超一級史料」として大切にされます。確かに貴重な記録だけど、観光ガイドとしての執筆者的には、作り話としか思えない内容も含めて、地元の寺社縁起や伝説も同じくらい愛しています。たとえば、北辰降臨や琳聖来朝の大内氏先祖伝説は、観光客に語るなら絶対外せない浪漫。寺社縁起や地元の言い伝えは、研究者の先生方にとっての貴重な「史料」と同じくらい心に響くんです。

幼くして亡くなった気の毒な少年の物語を語るはずが、ちょっと熱くなってしまいました。こういう時ほど、笑顔でいたいから。

最近、これまでの常識が覆されるような新しい「史料」の発見により、陶氏の系図が書き換えられようとしています。彼らを愛する者としてわずかばかり心が痛みました。歴史学の厳しさは尊敬しますが、観光ガイドとしては、「史料」だけでは語り尽くせない、大内氏の誇りをお届けしたいのです。このサイトは、そんな愛と浪漫を伝える場にしたいと願っています。皆さまのお気に入りの山口の物語、ぜひともご教授くださいませ。

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五郎

俺の出生問題のために弁護してくれなくていいよ。叩かれたらどうするの?

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ミル

いや。そうじゃないよ。君の出生問題云々の研究者の先生は別に嫌いではない。ん? 君の出生問題?

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五郎

父上には、兄上以外に子どもがいないらしいから。俺って出生不明じゃないの? 陶入道はどっかから養子に来たってさ。俺は第三の息子のはずだ。

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鶴千代

元就公が活躍する軍記物だけ読んでいればよろしい。公家日記とやらはつまらん。研究者にむかってぶん投げろ。

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五郎

『陰徳太平記』だけは信じないからな。あれはほら吹きすぎる(注:五郎の父が兄を殺害したという逸話が載っている)。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

お前の父上は陶「持長」ではなかろうが。兄も「義清」ではない。別人だ。

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ミル

エンタメ小説家なんて、嘘の山しか書いてないし。名前変えてるところからして、確信犯なだけ、『陰徳太平記』は許せるよ。ま、小説が嘘の山って発想は、そもそも「史料」「史料」……って研究者の考え方なわけ。ぶっちゃけ、アートと思えばなんでもありなんですよ。崇拝していた郷土史の先生が、つまらんエンタメ小説家の小説を推薦してたのには失望した……。誰がいつ、何を言ったかなんて、知るわけないじゃん。登場人物は、当然台詞あるけどさ、あれらみんな「嘘=史実ではない」ですよ。元ネタが『陰徳太平記』だったりすると、何考えてんのやろ、コイツって思ふ。売れてない作家でよかった……。

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

結局史料重視なのか? どっちなのかわからん。

ミル吹き出し用イメージ画像(笑顔)
ミル

「お金重視」。OWNER も漸く専門分野に目覚めてくれたので、後は金儲け一色なり。大富豪になって、タイムマシン買えば、すべての謎は氷解するじゃん。

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五郎

タイムマシンなんかどうでもいい。せっかく21世紀に転生したんだから、来年こそ大和ミュージアム行きたいね。今年は休館中で、悲しかったよ。

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鶴千代

大和が造られたのは、すでに今は昔になっている。昭和史浪漫かも知れん。ま、どうでもいいが。

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宗室・大内氏歴代当主の子ら

歴代当主子女・簡単まとめ(一覧表)。現在、主たる資料として出回っている『新編大内氏系図』から、歴代当主の子女を抜き書きし、系図内の但書をそえて全員掲載しました。一部、『大内氏実録』に項目が立てられている人物の説明文も添付しています。

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大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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