人物説明

冷泉隆豊 大内氏最後の忠臣・主に殉じて壮絶な戦死

大内義隆イメージ画像
「国難」の犠牲者・三十一代当主

大内氏最後の当主・義隆は家臣の叛乱に遭って追い詰められ、長門深川大寧寺で亡くなります。最後まで付き従った人々はわずかばかり。大国の主にしては、悲惨すぎる最期でした。

冷泉隆豊は、そんな義隆に最後の最後まで付き従い、その死を見届けた忠義の家臣として有名です。恐らく、多少なりともこの家に関心を抱く人の中で、その名前を知らない人はおられぬのでは?

今回はこの忠義の家臣の生涯について駆け足で見ておきましょう。

冷泉隆豊とは?

大内義隆の家臣です。冷泉氏は二十四代当主・弘世の子・弘正を始祖としており、庶家ながら多々良氏の一門です。明徳の乱で戦死した始祖・弘正をはじめ、応仁の乱で活躍した弘豊など、武勇に優れた人を輩出してきた家柄です。隆豊もその血を受け継いだ豪の者でした。

主・義隆が叛乱家臣たちによって死に至らしめられた際、最後まで付き従い、主の死を見届けて壮絶な戦死を遂げたことで知られています。

冷泉隆豊・基本データ

生没年 ?~15520901(三十九歳)
父 冷泉興豊
妻 平賀弘保(※興貞)女
子 元豊、元満
呼称 五郎、大夫判官(初名は隆祐)
官職等 左衛門尉、検非違使、従五位下、従五位上、御供衆
法名 東泉寺殿鳳仙道麒居士(※洞泉寺)
墓所 大寧寺に供養塔
(典拠:『新撰大内氏系図』、※『大内氏実録』)

五分で知りたい人用まとめ

冷泉隆豊・まとめ

  1. 冷泉家は弘世の子・弘正から分出した庶流の一門
  2. 代々勇猛な人が多かった家系にあって、「国難」で当主に殉じたことから、全国で有名となっている
  3. 大内家中での地位は、重臣にして、水軍の将。ことに、伊予方面で度々戦っている
  4. 義興、義隆二代に仕えた忠臣として知られ、『大内氏実録』では「義の人」と記している
  5. 陶らが叛乱を起こすに至った前兆として、武断派と文治派の対立があったが、陶らと意見を異にする隆豊は主君の側(文治派)だった
  6. 月山富田城攻めについての評議では、「遠征すべきではない」と主張するも、武断派の意見が採用されてしまい、受け入れられなかった。合戦には従軍し、大敗北の中無事に帰還した
  7. 出雲遠征の失敗から、主君・義隆はやる気を失い、雅な世界に没頭するようになる。家中ではなおも、武断派と文治派の対立が続き、一触即発の危機に陥るも無関心。隆豊はそんな主に意見し、陶らの動きに注意していたが、度重なる進言は無視される
  8. 隆豊が案じていた通り、陶らは叛乱を実行に移す。隆豊は陶と内藤、杉らとが手を結んでいる危険性を指摘するも、義隆は信じようとしなかった。結果、何の備えもないまま、陶、内藤、杉らの合流を許してしまう
  9. かくなる上は、館の中で潔く命を絶つことを進言した隆豊だったが、これも聞き入れられず。法泉寺、大寧寺と続く逃避行に付き合わされる
  10. 長門から船で逃れるという一縷の望みも絶たれ、義隆は漸く運命を受け入れた。隆豊は主の最期を看取ったのち、叛乱軍相手に立ち回りをした後、壮絶に亡くなった
  11. 大寧寺には、隆豊が臓物を投げつけたとされる経堂跡や主従の墓、墓碑などがある
  12. 隆豊には男児が二人おり、妻の実家(平賀氏)に身を寄せて無事に成人。毛利家の家臣となって、子孫は繁栄した

義理堅い水軍の将

海賊大将

敬愛する郷土史研究の先生・森本繁先生のご著作『厳島合戦記』では、冷泉隆豊について以下のように記しておられます。

彼(隆豊)は筑前・豊前に知行を持つ大内家の重臣で、 水軍の将として伊予海域にたびたび勇名を馳せた海賊武将である。
出典:『厳島合戦記』

『厳島合戦記』はやや古い年代のご本となりますが、厳島合戦について知るのに最も優れた本の一冊だと信じて止みません。なぜ、厳島合戦について記した本に冷泉隆豊が登場するのか。それは、このような本はだいたいにおいて、大内義隆が叛乱家臣らに倒された時点から書き起こされることが普通だからです。

要は、義隆を死に至らしめた張本人たちの親玉(=陶)と毛利元就との関係から書き始める必要があるので、遡って月山富田城での敗戦やそれに先立つ尼子家の吉田郡山侵攻を救援した物語なども外せないのです。

瀬戸内の海賊研究の権威である森本先生のご著作に、「海賊大将」と書いてあるのが気に入ったので、引用させていただきました。『大内氏実録』の隆豊該当箇所を見ると、いきなり伊予で合戦とか、警固船の将とか何たら島とか出て来ますので、この一文があると、すべてがすとんと落ちるのです。

「義の人」

『実録』では隆豊について以下のように記しています。

「隆豊は義の人である。勇敢なうえ、和歌にもすぐれていた。義興、義隆二代に仕えた。」

ただし、記述はさほど多くなく、これだけで理解するのは極めて困難です。ほとんど年表が載っているだけといった感じです。以下の如くです。

「大永七年(1527)、十五歳の時、安芸国仁保島、国府城等で戦った。
天文十一年(1542)、義隆の出雲遠征に従う。
天文十二年(1543)、 警固船の将として、伊予で合戦(十五年、十六年にも伊予で戦っている)。」

やたら伊予に出没しておりますので、冒頭に載せた森本先生の「伊予海域にたびたび勇名を馳せた」と合致します。残念なのは、具体的に何をしたのか不明なことです。これだと対戦相手が誰なのかも不明です。

この後はもう、「国難」に雪崩れ込んで行きますので、重臣にして海賊大将として活躍した、ということでよろしいかと。

「国難」起こる

大内氏の当主だった義隆は、陶らをリーダーとする叛乱家臣たちの襲撃によって、山口の守護館から逃げ出します。逃れ逃れて、長門国に至ります。最初の目的は、海路を使い、九州に逃れ彼の地の軍勢を率いて応戦するか、もしくは石見にいる姉婿・吉見正頼を頼ろうとした模様です。しかし、波風激しく、どうやっても船は押し戻されてしまいます。ことここに至り、今はこうと悟った義隆は付近にあった名刹・大寧寺に入り出家した後、自ら命を絶ちました。

主君に刃を向けるなどもってのほか、という古い考え方がまだまだ主流だった時代の研究者、近藤清石先生は自らの著書『大内氏実録』の中でこれら一連の事件を「国難」と記述しておられます。現在の研究では、叛乱家臣たちを悪し様にいうだけの古い考えは改められておりますし、主君に刃を向けることなどいつの世にも普通にありました。

常に同じ事例で申し訳ありませんが、明智光秀を悪し様に言う人などあまりいないのと同じことです。ただし、同じ主に叛くといっても様々な事情があります。明智光秀の場合、主は寺院を焼討ちするだとか、神仏をも畏れぬことを平然と行なったようです(まったく関心ないですが、それでも知っているくらい有名ですね)。自らの意に従わぬ勢力に対しては容赦なく、犠牲者は数知れないと思います。

そう考えた時、こちらの主さまは、神仏をも畏れぬどころか、極めて信心深いお方。文芸への情熱も深く、常に学びの意識を忘れず、広く深く探求されました。その分、戦はなおざりになりましたが、そもそも向いていなかったようですし、おかげで残忍なことは何一つしておりません。

人が善すぎるのか、叛乱者たちの企みの噂が流れても信じようとせず、そのせいで十分な備えもしませんでした。そもそも、「企みの噂」の時点で、首謀者を処断することも当主ならば可能です。しかし、そんなことはしませんでした。あらゆる面において、明智さんのケースとは異なっております。そう考えた時、叛乱者の名誉回復はいかがなものかと思う時があります。

いっぽうで、人が善すぎるというのは、時に愚鈍扱いされてしまうこともあります。人を疑うということをしないというのは、乱世においては危険すぎます。育ちがよすぎて、危機管理能力に欠けていた点は紛れもない事実です。

武断派と文治派

事態が最悪の結末を迎えるまでには、あれこれの「兆し」がありました。叛乱が起きるに至った理由は、陶らの意見と殿さまとの意見が異なっていたことが大きいです。まるで正反対だったと言ってもかまいません。これまた古い分け方かもしれませんが、それは武断派と文治派との対立に集約できます。

武断派は軍事優先、文治派はそうではない人くらいな認識でよいと思います(詳細はほかでやります)。すでに戦国時代に片足を突っ込んでいますから(織田出て来てから戦国と認識してます)、軍事面を優先しないと国(家)が立ち行かなくなるという意見があったわけです。しかし、殿さまは相変わらず雅な世界にどっぷりと浸かっています。しかも、相良武任などという、政治力に長けた家臣にすべて任せて自らは貴族ごっこ。

いきなり殿さまに刃を……という発想にはなりませんから、最初は相良が槍玉にあげられます。しかし、相良はじめ、文治派の頂点に立つのはほかならぬ殿さまご本人ですので、相良が武断派の連中に忌み嫌われており、何度も一触即発となった時点で何かに気付くべきでした。しかし、気付いていない。

ここでの主人公・冷泉隆豊はどうだったか、というと当然、これらの緊急事態に気付いていました。そもそも、隆豊は武勇の人だから武断派だよね? と思われた方は勘違いです。確かに、武人系の人が武断派のリーダーになるケースが多いと思われますが、別に武装組織ではないですので。あくまで、軍事優先かそうでないか、です。ですので、柔な政治家でも、軍事力増強しないとマズいと思えば、武断派に入っているかもです。逆もまたありです。本来ならば、殿さま含めて皆さま「武家」ですので、武芸に秀でているのが当然なんですけどね。

「義の人」隆豊は、どこまでも主君に忠実ですから、当然のごとく、主と同じ主張です。尼子氏の月山富田城を攻めようとなった時、珍しくも殿さまは武断派の意見を取り入れて積極策を支持してしまいました。しかし、隆豊はこれに反対しています。

その理由は安芸や石見など進軍経路にあたる地域がまだ不安定なのに、遠い出雲まで遠征するなど危険極まりないという至極もっともなもの。兵糧の問題、万が一の際の退路の問題などを考えれば、なるほど筋が通っています。けれども、この貴重な意見が採り上げられることはありませんでした。結果は、隆豊の予言通り、惨敗に終わりました。

出雲大敗後の頽廃ムード

月山富田城攻めの敗北に際し、義隆は溺愛していた養子の晴持を失いました。それも、逃走中に彼が乗った船が転覆して溺死するという何とも悲劇的な亡くなり方です。これをきっかけにやる気をなくし、以後は下向公家たちとの雅な宴に没頭するだけとなります。親しい身内の死が、様々な精神的ダメージをもたらすことは、とても理解できます。心優しい人はこれも義隆という人の人柄であり、気の毒だと同情します。医学が発達した現在ゆえに、説明できる部分もあるいはあるかも知れません。しかし、当時はそんな思想はありませんでした。

『平家物語』に東国の武士は親の屍を乗り越えて戦をする云々と聞いて、総大将・維盛以下、穏やかな西国の人々(というより都の人ですが)は震え上がるというくだりがあります。義隆の時代には、東西の格差などなくなっていたと思いますが、このお方にはそんな野蛮な考えはなかったのでしょう。何かに没頭すると辛いことや悲しいことをちょっとの間忘れる瞬間があります。没頭する度合いが強ければ強いほど、その傾向は強いかと。

平和な時代ならそれも可能ですが、倒すべき敵国がある状態でこの事態はかなりマズいです。武断派主導で、強引に出雲遠征を行なったせいでこうなってしまった、ということで家中は文治派優位のようなことになります。元々、軍事は重視していない人たちですから、殿さまが遊興に耽っていたところで苦情は出ません。

しかし、武断派からした面白くありません。遠征に失敗したことには様々な要因があり、一度敗北したからといって、一生放置するわけにもいかないのです。原因究明と再挑戦が必要ですよね。ところが、殿さまにはそんな気持ちはさらさらない模様。このままではいけないという切迫感が彼らを主の交代劇という企てに駆り立てることになったようです。

見え見えの計画

事の顛末を知っている我々の視点から物事を見てしまうと、あれもこれも怪しかったのに、なぜ気付かなかったんだろうか? となってしまいますが、意外と当事者には気付かないものかもしれません。宴会やら勉強会に没頭していたら、巷の噂も耳には入りませんよね。

武断派代表・陶と文治派代表・相良(じつは当主こそが本来の代表者)の仲が険悪となり、今にも相良を亡き者にしようとしているというような噂が流れます。義隆は陶に詰問使を送って、事の次第を確かめようとしました。ひそかに人員を集めているとか、武器を準備しているといった不穏な話の真偽を確かめようとしたようです。しかし、相手はあれこれと理由をつけて言い逃れをした上、しばらく領地へ帰りたいと休暇届を寄越す始末。

何やら企んでいると思しき人物を、自らの領地に帰してしまえば、目の届かない安全な場所に移ってしまいます。いかなる謀をするかもわかりません。『陰徳太平記』曰くにはなりますが、隆豊は陶が休暇の挨拶に守護館に来るであろう機会を狙って、刺し違える覚悟までしました。ところが、暇乞いに際して、陶方は配下の将兵を伴って現われます。その数二百人を越えていたといいますから、凄まじいものです。単に「暇乞い」の挨拶に来たという認識の義隆は隆豊の覚悟など知るよしもなく、まったくの無防備です。これでは、たとえ張本人を倒せたとして、大勢の配下によって主(陶)の仇討ちとして、殿さまに危害が加えられる可能性もあります。かなり脚色されているとは思いますが、敵も然る者ですね。

自領に戻った後、陶と配下たちが主君に対して刃を向ける計画を練ったことは史実通りです。この間にも隆豊は、彼らの城を攻めるよう進言するなどして、何とか事前に「企み」を阻止しようと力を尽しますが、主がそれらの意見を聞き入れることはありませんでした。

天文二十年(1551)八月。遂に、叛乱者一味は山口に侵攻して来ます。事ここに至っても、義隆はまだ重大性に気付きません。叛乱者一味の中には、じつは内藤、杉といった重臣も加わっていました。これだけでも大物揃いですから、ほかにもどれだけの人々が内通していたのかわかりません。隆豊以下、「絶対に裏切らない」面々は在山口の家臣らを召し出し、叛乱者を迎え撃つべしと説きます。特に、内藤、杉両名はあるいは一味に加わっている可能性もあるから、万が一そうであれば、合流する前に処断しなくてはと意見しましたが、義隆は煮え切らない様子。彼ら二人が裏切ることは「決してない」というのです。

主君の「信頼」も空しく、義隆から内藤・杉へ宛てた出陣要請は無視されてしまいます。ここで、やはり叛乱者に同調していることが知れたのですから、両者を討伐すべきとなりますが、これまた「合流する前に討伐」という隆豊らの意見は採用されませんでした。

ここまで来ると、単に人が善いのか愚鈍なのか、本当にわかりません。内藤・杉が殿さまの「信頼」に値する人物ならば、真っ先に駆けつけてしかるべきです。信頼に値しないどころか、敵方だと分かったのですから、恩情をかけている場合ではないと思うのですが。

逃亡か死か

叛乱者の到来を無防備なまま受け入れてしまった時点で、すべては終わっています。隆豊はじめ、わずかばかりの「絶対に裏切らない」忠臣以外は、どちらに転ぶか不明です。形勢不利と見える主と心中しようなどと考える人はそう多くないに決まっています。

弘世の山口開府以来、何者にも侵攻された経験がない山口の守護館は、防御施設とするには絶望的でした。しかし、こうなったらもう最後ですので、せめて大国の主らしく、自らの居館にて潔く終わりを全うして欲しいというのが隆豊の意見でした。

ところが、忠臣たちの中には、まずは法泉寺に逃れたらどうだろう。何のかんの言っても敵は大軍ではないだろうと言った人がいました。これまた結果を知っている我々から見たら愚かしいだけですが、義隆は寵愛していた家臣らが何とか生き延びたい一心で「逃げましょう」と説得した言葉に同調してしまいます。

これまた、隆豊の意見は無視されたわけです。陶に始まり、内藤、杉と誰のことも疑わなかった人の善さはまあいいとして、忠義の家臣の意見より、容姿端麗というだけで寵愛していた小人の意見を採用するとは。これもまた、頽廃ムードの中にいた人ゆえにでしょうか。

主君の逃亡劇と隆豊の活躍

法泉寺

「八月二十八日、義隆が法泉寺に逃れるのに従う」(『実録』)

隆豊は義隆が守護館で潔く終わりを全う出来るように、館の守りを固めていました。しかし、どういう経緯か、法泉寺へ逃れるというので、慌ててその後を追います。この時点で、最初は六千ほどいたという付き従う兵士らは半減しました。義隆の逃亡を見苦しいと思い、嫌気がさしたのかも知れません。

今度は法泉寺の守りを固めていた隆豊でした(『実録』に黒川隆像、佐波隆連、江口五郎等と嶽山を守ったとあり)が、二十九日、義隆から寺内に招かれて御前に参上しました。守護館から逃れでた時点で半数になっていた味方の兵士ですが、それでも三千はいたはず。しかし、この時点でなんと五百人ほどにまで激減していました。戦闘行為があったからではなく、寝返って逃げて行ったのです。

対する叛乱軍のほうは、陶、内藤、杉らが合流して五千人ほどだったとか。十倍ですね。さすがの義隆ももはやこれまでと悟ったでしょう。数の上では圧倒している敵軍でしたが、さすがに直接主に手を下す者はなく、最期の場所が守護館ではなく、祖父の菩提寺になりはしましたが、ここで自ら区切りをつけるほかない状態となりました。

しかし、なおも身辺に侍っていた例の寵臣たちは、死に場所が代わったなどという事実を受け入れられません。さらなる逃亡を勧め、義隆を説得します。わずかに五百人で再起をはかろうなんて無理としか思えませんが、何と義隆はまたもや彼らの意見を受け入れ、裏道から逃げ出しました。

隆豊は法泉寺に残り、殿をつとめたとされています。同じく、陶隆康父子なども追ってくる敵を食い止めました。隆康父子は戦死しましたが、隆豊は落ち延びます。ここで全員亡くなってしまったら、義隆を守る人がいなくなってしまいますから、暗黙のうちに役割分担がなされたのかもしれません。

長門国まで逃れた義隆が船に乗って姉婿・吉見正頼を頼ろうとしたのに、どうやっても船が風波に吹き戻されてしまったというのは、天命だったのでしょうか。もしも、無事に石見まで逃れられたとして、その後の展開はどうなったのでしょう。このところ、いつも気になるのです。

逃避行

山口から長門までかなりの距離があります。しかも船を出そうとしたところからして、海岸まで逃れたわけで。端まで行ってますよね。義隆始め、その取り巻きだった公家たちなど、やんごとなきお方ばかり。どれほど辛い逃避行だったかは『大内義隆記』などに詳しいですが、哀れというよりみっともないだけです。隆豊の意見を聞き入れて、守護館で一戦交えた後、潔く散っていればよかったのに。

道中で隆豊が何かの行動を起こしたのか否かはわかりません。ただ、終始行動を共にしていたという事実があるだけです。彼ら武人たちにとっては、道行きも何ということもなかったでしょうが。途中で放り出すわけにもいかず、常に主の選択に従って来たゆえにこうなったわけですが、心中穏やかならぬものはなかったのでしょうか。本当に、どう考えてもみっともないですから。

大寧寺

船で逃れるという計画が失敗し、漸く万策尽きたと悟った義隆は、長門の名刹・大寧寺に入ります。結局、ここが最期の地となりました。無駄な逃避行に駆り立てた寵臣二名はいつの間にか姿を消しており、自らの保身のためだったのかとわかりますが、既に悟りを開いた義隆にはもうどうでもいいことでしょう。

叛乱軍は大寧寺に到着しましたが、主従は最後の最後に落ち着いて食事をすませ、辞世の句を詠む余裕もあったようです。その辺はほかでも書いた気がしますし、何度も繰り返す必要はないでしょう。

冷泉隆豊が主君の死を見届けた後、叛乱軍を相手に鬼神の如き活躍を見せて、華々しく散った一部始終は『陰徳太平記』などに詳しいのですが、近藤先生に俗書と書かれていますので、敢えて書かないでおきます。恐らく『大内義隆記』などにも同様の記述があるゆえにか、『実録』にもそのエッセンスは載っています。およそ以下のような内容です。

「九月一日、義隆は大寧寺で自殺し、隆豊が介錯した。

隆豊は方丈に火を放ち、岡部隆景、天野隆良、黒川隆像、禰宜右延らと棟木が焼け落るまで義隆の骸をかくしていた。それから、経堂に上り、賊兵を招きよせて弓で射た。矢が尽きると、敵中にかけ入り、向かってくる敵六人を斬り伏せた。十人を傷つけたが自身も傷を負ったので、経堂に戻り、一切経の表紙に

 見よや立つ煙も雲も半空にさそひし風のすえも残らず

と血でかきつけた。

隆豊は腹を十字に割き切って、焔の中に飛びこんで死んだ。享年三十九歳であった。」

正直、『陰徳太平記』の記述のほうが、臨場感があって楽しめます。なお、ここに書かれている経堂の跡地は、今も大寧寺に看板が立っています。

『実録』収録の逸話

隆豊辞世の句あれこれ

隆豊が最後に書き残した和歌について、『中国治乱記』『大内義隆記』『同異本』等々で少しずつその逸話が違っています。

『中国治乱記』⇒ 「身を立し雲も烟も半天に哀 れうき世の夢も残らす」という和歌を経堂の扉に書き、その下に多々良朝臣隆豊と記す。
『義隆記』⇒ 一同が御前に伺候し、義隆から順番に歌を詠んだけれども、「煙とやなりけん聞えず候」。隆豊は義隆の歌を見て、と前書きしてから「見よやたつ煙も雲も半天にさそひし風のをとも残らす」と詠み、一切経の表紙に血で記した。
『同異本』⇒ 隆豊の歌を「見よやたつ煙も雲も半天にさそひし風の末も残らず」とする。

近藤先生は、陶も残らず滅んでしまうだろう、と詠んだであろうと思われる、と『異本義隆記』の歌を採用。いっぽうで、血で書き記した、とあることについては、硯と料紙をそばに置き、御前で詠んでいる席において、血で書くはずはない。隆豊の歌は「最後の血戦」をしてからの歌であろう、として『中国治乱記』の説が正しいとしておられます。要するに、『実録』に書かれている記述は、これらの書物から取捨選択し、近藤先生がもっとも筋が通った内容にまとめなおしたものなのです。

軍記物ごとに記述が異なるケースは多々あれど、どれからどれを採用しとか、並大抵の作業ではありません。あるいは、ほかの先生方ならば、またこれとは違ったご意見を呈しておられる可能性もございます。

冷泉氏の偃月刀

『実録』には、冷泉家に伝えられる偃月刀について、だいたい以下のような記述があります。

「冷泉氏には偃月刀が伝えられている。刃の長さ一尺八寸、刃もとに樋があり、樋から上は所謂長刀おとしで刃がついている。「備前国住長船与三左衛門尉祐定、永正十八年正月日」との銘がある。これに隆豊介錯云々のことを金字(金泥で書いた文字)で書き記している。
永正十八年は隆豊九歳なので、隆豊が作らせた物でないことは無論である。父・興豊の持ち物が隆豊に伝えられたのだろう。しかし、この刀が通常のものではなく、隆豊が最後に持っていた物だとしたら、義弘の小林の長刀の類で、『義隆記』などに長刀のことが書かれているはずなのに、まったくふれられていない。」

『義隆記』などにまったく触れられていないことよりも、この刀が本当に、義隆を介錯したものであるのなら、なにゆえ、今に至るまで伝えられているのでしょうか。そのことのほうが気になりました。主の死に際して、家宝と思われる刀を形見の品として持ち帰った家臣がいたのか、それとも、叛乱軍の誰かが手に入れた物が後に冷泉家に返されたのか。後者は考えにくいですよね。

その後の冷泉氏

隆豊の子ら

意外にも、隆豊の子孫は毛利家に仕え、子孫はその後も繁栄しました。親義隆派の人々には、この後、叛乱軍による粛清の嵐が待ち受けていました。しかし、子女が幼かったなどの理由で、父や兄とともに義隆の逃避行に従軍していなかった場合、どこかに身を隠して、ほとぼりが冷めるのを待っていた例は少なくありません。

やがて、叛乱軍の政権は毛利家によって倒されますので、その時点まで無事に身を隠し通していれば、寿命を全う出来ました。厳島の合戦に勝利し、叛乱軍の残党を始末しながら、防長の地に入った毛利軍です。元叛乱軍に抵抗し、主と運命を共にした人の遺児ともなれば、手厚く取り立ててくれそうです。

隆豊の子も幼かったので、妻の実家に身を寄せて嵐が過ぎ去るのを待ちました。四郎、五郎という二人の男児がおり、やがて毛利家に仕えることになりました。

隆豊も元は大内氏の一門です。つまりは、多々良氏の一類が、その後も脈々と続いていった、ということになります。

菩提寺その他

『実録』によれば、隆豊の菩提所は、「吉敷郡古熊・洞泉寺」とのことです(何気に岩国の吉川家菩提寺と同じ寺号ですが、場所も違います)。現在も続いているのか、調べたいと思います。『実録』では、隆豊の法名が「洞泉寺鳳仙道麒」ですので、こちらの寺院に関係していることは間違いないでしょう(ただし、『新撰大内氏系図』によれば、法名は「洞」泉寺ではなく、「東」泉寺です)。実際に葬られているのか(ご遺体燃えてしまっているはずですから)、墓所があるのか、などは今のところ未調査です。

ですが、大寧寺には義隆主従の墓碑がすべてあります。法泉寺で亡くなった陶隆康父子や、何とびっくり相良武任のものまで。よく分からない方は、大寧寺にご参詣なさるか、もしくは山口の龍福寺にも供養塔があります。

参照文献:『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『厳島合戦記』(森本繁)

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冷泉氏 始祖は弘世の子・忠義の臣輩出の家

弘世の子・弘正から分出。歴代は、明徳の乱、応仁の乱などで活躍した猛将ぞろい。国難に際し、主君・義隆に殉じた隆豊が最も有名。

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五郎

海賊大将か。いいなぁ。でも俺、海賊じゃなくて、海自に入りたい。早く呉に行きたい!

鶴千代吹き出し用イメージ画像(涙)
鶴千代

……。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

何だよ、お前。今日は毛利家のコスプレじゃないの?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そっとしておいてあげようね。お父上のことを思い出してるんだよ。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

ん? まさか、殿さまを助けた家臣の遺児って……。あいつも毛利家に拾われるまで、身を隠していたってこと?

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

拾われたのではない。自ら仕官したのだ。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

あ、そう。陶隆康とかいう人の遺児かと思っちゃったじゃないか。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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