人物説明

白井氏 桓武平氏千葉氏の庶流・瀬戸内の警固衆

2025年1月16日

隆房・普段着
俺の偏諱を賜っておきながら。許さん。

白井氏概説

起源は桓武平氏・千葉氏庶流

白井氏の起源は、桓武平氏・千葉氏です。千葉上総介忠常の後胤・越中守義胤という人が、下総国白井荘を領有し、彼の地を名字の地としたことが始まりです。で、千葉さんとはどういうお方なのかわかりませんので、権威ある日本史事典から必要部分を要約してみました。

千葉氏
・古代末~中世の下総国の豪族。 桓武平氏良文流
・所領千葉荘(現、千葉市周辺)が名字の地である
・良文の子孫常胤は下総権介に任じられ、以後代々千葉介を称した
・常胤は、鎌倉幕府創設に尽力した功により下総国守護に任じられ、陸奥・薩摩・肥前など諸国に所領を得、子孫は九州をはじめ各地に分散
・豊臣秀吉の小田原攻めにより所領を没収され、嫡流(宗家)は断絶
・一族は肥前千葉氏、相馬・武石・大須賀・国分 ・東など諸氏
出典:山川出版社『日本史広事典』より要約

こんな遠くにいらしては、大内氏とは何ら関係もないということになってしまいます。義胤の子・加賀守胤時が、西国にやって来て安芸国沼田、砂田、周防国熊毛の地を所領としたといいます。これらは、『萩藩諸家系図』にご紹介がある事項ですが、順序としては、安芸や周防の地を得たことで、そこに移り住んだものかと。いきなり無関係な地にやって来て、そこで領地開拓はあり得ないですからね。むろん、移り住んだ後に、実力で所領を増やしたことも考えられるわけですが、それについては詳細が書かれていないため、現在のところ保留します。

白井氏の祖は、「千葉上総介忠常の後胤・越中守義胤」ということなのですが、『事典』の略系図をさらに略したものによれば、以下のような流れです(いちばん最初の人はいじっていません)。どこに忠常なんて人いるのでしょうか。

常将―常長(常永)―常時―常澄【上総】―広常
          常兼―常重―常胤―胤正―成胤―胤綱―時胤―頼胤―宗胤―胤貞【肥前千葉】
                   師常[相馬]
                   胤盛[武石]
                   胤信[大須賀]
                   胤通[国分]
                   胤頼[東]

※ブラウザによって表記がズレてしまいますので、ご説明しておくと、常胤の子が、胤正、師常、胤盛、胤信、胤通、胤頼と横に展開しております。なお、それぞれ分家したようなところで以下は省略しております。また、参照しているのが、そもそも「略系図」ですので、まるで網羅されていません。

武石以下の地名がどこなのかもわかりませんが、一番可能性が高そうなのは、【肥前千葉】辺りのような気がします。西なので。ここで、『萩藩諸家系図』を紐解くと、なんと、先頭の「常将」の一代前が忠常なんです。推測通り、白井氏は肥前千葉に続く流れから出ています。

ただし、宗忠の次が、定胤となっており前後反転しています。その定胤と胤定が同一人物かはさておき、宗胤以降が、つぎのように続きます。

宗胤―定胤―吉胤―武胤―白井義胤

この義胤さんの子・胤時さんが西国入りしたということです。繋がりましたね。

安芸守護・武田氏の配下となり、府中城(安芸郡天竜山)を居城としていたといいます。明応年間に、武田元信が所領譲渡を認めた文書などから、白井氏は仁保島を拠点にした警固衆であったらしきことが分かります。この点は、極めて重要です。のちに大内氏の配下となってからも、海上での活躍がとても多いからです。要するに、海賊大将的な方々であったとお見受けします。

安芸武田配下から大内氏へ鞍替え

白井氏の方々が、安芸武田氏から大内氏の配下にかわった時期は、大永年間とみられています。義興―義隆、さらには叛乱家臣の政権、毛利氏と次々と主をかえていく方々なのですが、常に条件として加増を望んでおられます。逆に言うと、加増についての条件さえ認めてくれるのなら、どの勢力にでも属します、というふうにも見えてしまいます。その辺りが、いわゆる忠義の家臣といわれるような方々とはちょっと趣を異にしています。要するに、「よりお得」なほうにすぐに流れて行ってしまうのかよ、と見えてしまうんですね。

しかし、よりお得なほうに流れて行くのは、現代に至るまで極めて当たり前の行為です。その意味では、実利を重んじる先進的な方々であり、機を見るに敏だったとも言えます。当然のことながら、毎回毎回よりお得な条件を提示しても受け入れられてきたということは、白井氏の力がそれほど必要とされていたからです。そのくらい、強い力を持った、優秀な方々であったわけです。

さきほど、仁保島の件を述べました。白井氏はこの島を中心として活躍する警固衆です。安芸国の制海権を握るためには、周辺勢力からすれば、ぜひとも味方に付けたい人々だったと言えます。

『萩藩諸家系図』からこの辺りの流れを整理してみます。

一、大永年間、大内義興に「防州三百貫足、幷佐東内所々」を要求、条件が受け入れられたため、大内氏配下となる。義興から白井氏に「熊毛郡小周防三〇〇石、安芸国佐東郡北庄三〇〇貫、同郡牛田七五貫」の地が宛がわれた 
二、享禄二年(1529)、義隆から「玖珂郡楊井庄」ほかの地が宛がわれる
三、天文二十年(1551)、叛乱家臣から「安芸国府中の加増」を条件に誘われて応じる
四、天文二十二年十月、大内義長から「加恩」として熊毛郡小周防の高尾村を宛行われた

義興・義隆期は、尼子氏の台頭などで、西国は不穏な空気に包まれていました。白井氏に味方になってもらえるのであれば、加増要求を受け入れることも厭わなかったものと思われます。義隆期になって、さらなる加増が行なわれたのも、引き続き味方として活躍してもらう必要があったためです。もちろん、白井氏がそれに見合うだけの功績をあげたからこそです。

いっぽう、義興・義隆父子のために力を尽していたにもかかわらず、叛乱家臣からの誘いにも応じます。条件に「加増」が入っていますからねぇ。どれだけ領地が増えたのでしょうか。しかし、その後の大内(陶)と毛利家との諍いで、毛利軍が電光石火の早業で大内(陶)方所領を奪い去った際、白井氏の仁保島ほかの地も毛利家の手に落ちてしまいます。せっかく増やしてきた所領が失われてしまい、意気消沈というよりも、大内氏に対して不満を抱いたようです。大内義長は奪われた土地にかわる代替地を宛行ました。

叛乱家臣政権から毛利家に降伏

厳島の合戦でも大内(陶)方に従い、毛利家を攻撃していましたが、やがて小早川隆景に降ったようです。この時、「加増」があったのかどうかについては書かれていませんが、これまでの流れからみても、義理堅い人とは思えませんから、勝ち目がないと悟ったら即降伏したのでしょう。下手をすると加増どころか、命にかかわりますからね。その後は毛利家臣として仕えました。

『萩藩諸家系図』に見る白井氏

義胤 大和守、越中守、従是改千葉以在名号白井
胤時 加賀守、此代初西国江下ル
治胤 筑後守
忠胤 縫殿助
親胤 式部大輔、加賀守
光胤 弥四郎、八郎兵衛、縫殿助、越中守
膳胤 新介、又右衛門、越中守、母不知、死去年月日齡不知、妻熊谷但馬守宗直(ママ)
房胤 弥四郎、縫殿助、初則胤、母熊谷宗直女、死去年月日齡不知、妻熊谷二郎三郎元直女
賢胤 助四郎、縫殿助、越中守、母熊谷宗直女、死去年月日齡不知、妻乃美備前守賢勝女
晴胤 長介、彦四郎、縫殿助、母乃美備前守賢勝女、天正十五年十七日(ママ)日向国高城討死四十一歳、妻江良弾正中女
(以下略)
基本的に、兄弟間の展開はなく、縦一列に並んでいる系図です。順番に書いただけです。

白井氏有名人(大内氏時代限定)

白井氏については、『大内氏実録』にも取り上げられています。唯一白井房胤が「帰順」に載っているだけですが。ボリュームは足りませんが、ほかの方についても拾い上げてみます。★は『実録』に伝がある人です。

白井胤時

その先祖は、下総国の豪族・千葉氏。 義胤代に、下総国白井荘を領有し、白井と称した。続く、胤時代、西国に下向。安芸国沼田、砂田、周防国熊毛の地を領有したといわれる。安芸守護・武田氏の配下となり、安芸郡天竜山・府中城に居城した。

白井光胤

明応四年(1495)、光胤は、武田元信により、白井加賀守親胤から「安芸国仁保嶋海上諸公事、同飯山後浦悉く大河迄、幷に府中散在分古市村」の所領譲与を認められた。『萩藩諸家系図』の解説によれば、「海上諸公 事」=通行料徴収権のようなもので、白井氏が仁保嶋を拠点とする警固衆であったことがわかるという。

さて、系図によれば、家督は光胤から、膳胤に動いている。光胤と膳胤との関係は家督が動いたということ以外には、系図からは何も証明できない。父子、兄弟あるいは養子であっても、家督が動いた順番に繋がって行くので、但書がない限りは絶対に父子間の相続であるなどという保証はできないためである。『大内氏実録』には、光胤と膳胤は父子関係であり、光胤・膳胤父子の時に大内氏の配下となった、と明記されている。

白井氏が、大内氏に帰属したのは、光胤のつぎの膳胤ということになっている。大永年間のことで、当主は義興だった。けれども、享禄二年(1529)、義隆は、玖珂郡楊井庄ほかの地を光胤に給付している。光胤は家督を譲って後楽隠居でもしており、白井氏にさらなる協力関係維持を望んだ大内氏が、当主の父親にも所領を与えたという意味なのか、あるいは、膳胤が早世するなどして、光胤が家を取り仕切っていたのか。その辺りの事情は、系図からは分からない。そもそも、膳胤が義興に加増を願い出た時点で、まだ跡継という身分だったとも考えられなくはない。

白井膳胤

大永年間、白井氏は安芸武田の配下を離れ、大内氏についた。この時、「防州三百貫足、幷佐東内所々」の所領を条件にあげた。白井氏を味方につけたい義興は、この条件を受け入れ、熊毛郡小周防三〇〇石、安芸国佐東郡北庄三〇〇貫、同郡牛田七五貫の地を膳胤に給付した。

白井房胤★

膳胤の子。

『大内氏実録』に以下のように書かれており、非常に混乱する。

「『系譜』では、賢胤を房胤の子としているが、全くの誤り。『閥閲禄』で房胤は賢胤の始名だとしているのが正しい。天文二十二年二月十三日の義長の袖判状に、『当知行事、 任去天文七年十二月廿二日龍福寺殿証判之旨、白井縫殿助賢胤可全領知之状如件』とあり、天文七年十二月廿二日の義隆の袖判状に、 『親父縫殿助膳胤所帯事、任与奪之旨、白井弥四郎房胤相続領掌不可有相違之状如件」とある。しかし、房胤を膳胤の孫とするは間違いで、系譜で子としているのがただしい。』

より最新の研究成果が反映されている『萩藩諸家系図』を拝見していれば、このような混乱は起こらない。房胤、賢胤は同母兄弟であり、房胤の初名は則胤が正しい(と思う)。房胤と賢胤についての系図の但書は確かに極めてよく似ている。しかし、妻が違う。ただし、近藤先生が問題としているのは、賢胤と房胤の親子関係であるから、房胤が膳胤の子であるという点では間違ったご指摘ではない。

ただし、房胤と賢胤が同一人物であったというお考えは捨てきれなかったご様子で、「伝」にも房胤から賢胤へと改名したのだ、とある。そこには、房胤となる前は則胤だった。幼名は弥四郎もしくは助四郎とまで書いて両者をまとめてしまっている。近藤先生のご説では、房胤の改名は、先には陶興房の房の字を、のちには晴賢の賢の字をもらったのだとする。あり得ぬ話ではないのだが。すると、『萩藩諸家系図』にも、この部分についてのご指摘があった。

大内氏実録によると房胤は晴賢の偏名を請い賢胤と改めたとする。房胤と賢胤を父子とするは誤りであるとし、その根拠として、天文二十二年二月十三日の大内義長の袖判状に「当知行事、任去天文七年十二月二十二日竜福寺殿証判之旨白井縫殿助賢胤可全領知之状如件」とあり、天文七年十二月二十二日の義隆の袖判状に「親父縫殿助膳胤所帯事、任与奪之旨白井弥四郎房胤相続領掌不可有相違之状如件」とあるをあげている。しかし、白井系図では房胤の妻を熊谷二郎三郎元直の女とし、賢胤の妻は乃美備前守賢勝の女としているが、熊谷氏、浦氏系図もそのとおりであり、系図上は房胤、賢胤は全く別人であるこ と明らかにして、不審という他ない。
出典:『萩藩諸家系図』

やはり、奥方が違う点に言及しておられる! さらに、他家の系図からも二人が別人であることの確認が取れると。最近このようなことが多すぎて、『実録』しか読まないで語っていたことが恥ずかし過ぎる事態になっている。こうなると、もはや、『実録』の記事をそのまま載せることは憚られるが、明治時代時点での到達点として明らかに否定されていない部分についてのみ、参照する。およそ以下のように書かれている。

「幼名:弥四郎。初名則胤、房胤と改名。縫殿助、越中守。母は 熊谷宗直の娘。

大永四年六月二十四日に陶興房が加冠し、一字を契約して 房胤と名づけた。

天文七年十二月二十二日父の譲をうけ、「所帯相続領掌すべき」という義隆の証状を賜った。のち父名を継いで縫殿助となる(九年二月より前)。

天文九年、義隆は安芸を攻撃した。房胤は二月十四日、二十二日佐東の川口で戦い、敵首九および船一隻を奪った。

天文九年八月、小原隆言に従い伊予で戦った。十年六月十八日~七月二十六日まで、再び隆言に従って伊予に滞在し、所々で戦った。

天文十年五月十三日、毛利元就に従い、武田氏の佐東金山城を攻めた。

天文十一 年秋、義隆は安芸より出雲に入り尼子氏を撃つ。房胤は冷泉隆豊に従い、九月五日大根島で戦い、敵首四を奪った。

天文十二年六月六日、周防国玖珂郡新荘に二十石、豊前国築城郡に弘末名十石の地を賜った。

天文十五年、隆豊に従い、二月十六日、伊予の平智島で戦い、八月六日、十五日、中途表で戦った。天文十六年五月八日、また中途表で 戦った。

天文二十年秋、陶隆房は叛こうとして房胤を誘い、八月十三日、宮川甲斐守を使者とし、安芸国安南郡府中七十五貫文の地を加増するとして誘った。房胤はこれに与みした。

天文二十年八月二十八日、隆房は兵を挙げて山口を襲い、義隆父子を弑し名を晴賢と改めた。房胤は更に晴賢にその偏名を求め、房胤を賢胤とした(改名は二十二年二月二十六日より以前))。
※注・この部分は現在では否定されている。

天文二十二年、越中守となることを望み、二月二十六日、義長は推挙状を与えた。

天文二十二年七月、毛利氏に従い備後で戦った。

天文二十三年正月、義長は使者を派遣し、石見の吉見正頼を撃つことを伝え、軍勢を出すことを求めた。賢胤はこれに応じ、長州阿武郡に出て、陶兵とともに吉見の支城嘉年の勝山を攻めてこれを落とし、進んで正頼の居城三本松を囲んだ。

天文二十三年四月十八日、喜汁表で戦い三か所の傷を負った。

天文二十三年九月、正頼は嫡男を質とし和睦を求めた。 義長、晴賢はこれに先立ち毛利氏が兵を挙げ、既に玖珂郡に進入する勢いがあったことから、正頼の願い出を幸いとして聞き入れ、義長はその質を収めて山口に還り、晴賢は玖珂郡岩国に出た。賢胤は晴賢に従った。

天文二十三年十月、本国が乱れていたから、熊毛郡小周防の高尾村を所領として賜ることを望み、また義興が芸州安芸郡の内三百貫、佐東郡山本三百貫を与えるとの大永七年の約諾書を捧げて、 証判を求めた。 十月十一日高尾村を賜る。警固奉行を命じられたので辞退したが、許されなかった。これより安芸で戦った。

弘治二年十月二十三日、安芸郡に四百二十二貫五百文の地を領治する証状を賜った。ついで小早川氏に降った。子孫は今に続いている。」

念のため『萩藩諸家系図』での記述との異同や抜け落ちなどを確認しておくと、以下の通り。

・天文八年(1539)冬、武田氏の川内海賊衆を討ち取る
・天文十年、小原中務丞隆言の指揮下で三嶋甘崎、岡村、能島、印之島(=因島)などの攻撃に参加
・天文十五年、冷泉隆豊の指揮下で伊予国平智島、中途島で戦う
・天文二十三年十月、白井氏の 本拠佐東郡北庄、牛田の地を知行することができなくなったので、その代わりに加恩として熊毛郡小周防の高尾村が宛行われる。

『萩藩諸家系図』には以下のようにある。
「この頃白井氏は毛利軍の攻勢によって安芸仁保島の本拠を追われ、大内氏譜代の宇賀島海賊衆と合体していたようであるが、賢胤(?)は警固衆に対する大内氏の扱いに不満があって、急に宇賀島を引きあげ、大内氏の奉行衆があわててこれを宥めるという事件が起きている」
『実録』にある「本国が乱れていたから」に対応すると思われる。
※じつは晴賢らに与して以降、『萩藩諸家系図』での記述は、房胤から賢胤になっている。代替わりしたのだろうか? 何となく、近藤先生のご説にも一理あるような気がしてきた……。

さて、『実録』には、厳島合戦での房胤の活躍について全く触れられていない。領地をもらったあと、小早川家に降ったとあるだけなので、領地くれたのは、またしても小早川さんなのか、と思ってしまう。以下は、『萩藩諸家系図』にしか書かれていないことになる。

・弘治元年(1555)正月一日、草津白下で毛利方軍船一艘を切り取り、二日には佐東河内尾長を攻撃して、村に放火、十八日、佐東浦河口で敵船を切り取る
・三月十九日、晴賢に与している安芸国矢野保木城主野間隆実を援護するため、呉浦で毛利船を切り取り、三月三十一日には仁保島および海田を襲撃
・九月二十一日、大内(陶)軍は警固船一千余艘で厳島へ渡海。白井氏は輸送船団(=大島海賊)とは別行動をとる。七月七日には巌島の宮ノ城を攻め、八月二十一日には倉橋島を攻めた(つまり、本隊到着前の話と思われる)。
・やがて、白井氏は小早川隆景に降り、毛利氏に仕えた。

参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』、『日本史広事典』

雑感

何やら、釈然としませんが。「やがて、小早川隆景に降り、毛利氏に仕えた」そうなのでしょうが、詳細は不明。ただ、『萩藩諸家系図』に書かれている、「警固衆に対する大内氏の扱いに不満があって」云々から、何となく伏線があったように思えます。

海賊というのは、実に利益を重んじる集団です。総大将が船を求めて彷徨った時、この方たちはどこで何をしていたのでしょうか。戦いに利がないと知った瞬間に、即脱落したと思います。小早川隆景ほどの智の人が、それを見落とすはずはありません。加増があったかどうかは知りませんが、いの一番に降った組でしょう。それを証拠に、『大内氏実録』でも「帰順」の巻に入っています。「叛逆」ではなく。叛乱者に与していたというのに。降ればそれでいいの? 

「加増」「加増」うるさいし、どれだけ自己アピールしているのでしょうか。そのくらい、瀬戸内海の制海権が重要だった、ということです。皆さま村上水軍しか知らなかったりしますが、海賊大将だらけです。静かで穏やかな海を見ていると、中世の海賊だらけの瀬戸内海などとうてい想像できませんが。

もちろん、海賊にも忠義の海賊はいました。ただ、殲滅されてしまっていますから、調べるのは困難を極めると思います。白井さんたちが、それなり分かるのは、毛利家に仕えたから、です。裏切り者ーとか言い始めれば、素直に最初から安芸武田一筋に生きろよってなっちゃいますけどね。

ただ、味方になってくれている間は、それなり真剣に戦ってくれてますから、なんともです。「加増」効果が切れたりすると、新しい主を探すのでしょうかね。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

父上から「房」の字をもらっておきながら(怒)。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

海賊ってそういうものだよ。彼らは実利を重んじるの。イマドキ風なところがあるよね。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

育ちの良い俺に、海賊の心理なんか分かるもんか。こいつら、東国者じゃないか。ろくな連中いない。ミルは平家の……ええっ、親戚じゃないの!?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

それは、君の先祖が百済の王子さまって話と同じくらい夢幻の世界だから。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

俺? ただの厳島の海が好きな少年だよ。海賊ではなく、宮島フェリーの船長さんになりたいな♪

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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