於児丸の公方両将記

管領家の庭園日記 最終話

2022年4月7日

細川澄元

大內介義興任管領之事 附江州九里誅伐之事

将軍は高国とともに高雄山に陣を置いておられたが、澄元が没落し、洛中が無為となったので、同年九月朔日に御帰京を遂げられた。法住院殿が亡くなられたので、この上誰もこの代を滅ぼしはしないだろうと、人々は安堵し、喜び合った。

このたびの合戦で望みを叶えることができただけでなく、近年これ以上ないほどの助力を得られたのは皆、大内介の忠功によるものである。 そこで、義興をお呼びになって、管領(代)とし、従三位を授けた。去年の合戦の褒賞であると記されている。

その頃、江州の住人に九里備前守、 山中新左衛というものがいた。三好の一味で、ひょっとすると、先の公方を隠していたかもしれなかった。六角の命令に背き、山中は討死したが、 九里の残党は強力で、容易に滅ぼす方法がなく、六角高頼はどうしたらいいのかとためらっていた。今回定頼は舟岡山で抜群の軍功をあげたので、位はすでに従四位下を授かっていた。主君のご恩に報いるためにも、九里も誅伐しようと思い、密かに将軍に加勢のお願いをして、認められた。

さて、定頼の計略とは、近いうちに定頼は伊勢神宮に参詣するが、九里もその供に連れて行くというものだった。そのほかに、外種村三河守、狛修理進、田中、二階堂などを供とすることに決めた。定頼が備前守の館に入ると、九里は驚き喜んで、あれこれと饗応した。数献の酒をすすめると、定頼も供の人々も酔ってしまい、定頼は九里の膝を枕にして寝たふりをした。かねてより決めてあったことなので、多賀豊後守、吉田永原等が将軍の加勢二千余騎を率いて、九里の館を取り巻いて鬨の声をあげる。定頼は驚いた様子で「これは何事?」と太刀を取り、そのまま九里を切り殺し、数年来の望みを遂げた。

佐々木家の者たちは、それ以来皆、定頼の武勇を恐れ、悉く靡き従ったという。

武衞今河於遠州軍事 附朝倉出身之事

管領(代)大内介義興が京都にいた十二年の間、自己の利益をはかることはなく、五畿近国はしだいに落ち着いていったが、東海西海ではなおも合戦がやむことはなかった。なかでも、遠江国はもとは今川家の分国だったが、途中から武衛家の領地となっていた。今川は度々京都に加勢し忠節が抜きん出ているとして、武衛が衰えると 、遠江国は、また今川に下賜された。

その頃、三河国臥蝶の住人に大河内備中守久綱という者がいた。 もとは吉良の家来だったが、近頃国中で勢力をふるっていた。遠三両国の侍と相親しんで一揆の相談をし、徒党を組み悪事をはたらくことが度々あった。これは先代の源三位入道頼政の次男・源大夫判官兼綱から十一代の子孫である。家紋の丸の中に、二十六葉の菊花をつけていたので、菊一揆と名乗っていた。

そのとき、今川修理大夫氏親は駿州にいた。何とか上洛して、将軍にお仕えし、禁裏にも 参内したいと思ったけれども、尾州は武衛の領国で、敵軍が所々で遮ったから、武衛と今川は度々合戦に及んでいた。大河内貞綱は信濃三河の勢を仲間に引き入れ、尾州武衛の味方をして、遠州を手に入れようとした。

永正十年三月、 氏親は一万の兵を率いて出撃し、笠井庄楞厳寺に陣を置いた。先駆けの軍勢は河を渡り、 大菩薩山に陣取った。武衛次部大輔義達は尾州勢を引き連れ、伊井次郎を仲間に引き入れて、深嶽城に籠もっていた。今川の先手・朝伊奈十郎泰以は一手だけで深嶽山へ押寄せた。事情に明るかったので、一夜討ちで攻撃し、数百騎の敵を討った。尾州勢は打ち負けて、奥山 に引退き、大河内を始めとして散り散りに逃げ去ってしまった。

翌年、甲斐国の守護人武田次郎兄弟が合戦に及び、氏親に加勢を求めてきたので、遠駿勢二千余騎を派遣した。この軍勢は甲州勝山城に楯籠もって合戦となった。同正月から、大河内久綱はこの機に乗じて、信濃尾張三河一族等並びに浪人たちを味方として、武衛を招いて遠州浜松引間城に楯籠もって、天竜川の前後を押領した。

同年五月下旬、氏親は六千余騎で遠州に向けて出発した。洪水が多い時で、天竜川は大海のように溢れていたので、舟を並べた橋を掛けた。船数およそ三百余艘、竹の大縄を掛け渡した。武衛方は打って出て、大河内高橋以下は敵を渡らせまいと矢戦に及んだけれども、今川方は加勢の数が多く、数万の軍兵が一度に押し渡ったから、終に追い込められてしまった。大河内以下は敵わず、五十余町の中に、城を四つ五つ築いて楯籠もり、六月から八 月まで合戦した。

のちには、寄手が阿部山の金堀(彫)で、城内の筒井を悉く掘り崩した。水が一滴もなくなって、勢いは尽き果てた。城兵は終に敵いがたし、と八月十九日落城した。大河内備中守、同弟巨海新右衛門、高橋以下籠城していた兵千余人が討死した。

武衛義達は敵わずに降参してきたので、命を助けてやった。普済寺という寺に入り出家していたのを、そのまま尾州に送った。武衛はこのときから、遠州に望む事がなくなり、以後は今川家と敵対してはならない、とひたすら和睦した。しかし、三州の住人・田弾正少弼、諏訪信濃守以下は、大河内の残党を集めて、なおも 遠州に向かい、度々合戦に及んだ。

三州の堺船方山城代・多末又三郎という者は今川方であったが、彼の一揆等が押寄せて、忽に攻め落とし、多末又三郎は討死した。掛河城主・朝伊奈備中守泰以が軍兵を率いて来て、また舟方 山城を攻め落とした。

このように、尾州遠州は合戦あいまもなく月日が過ぎた。その頃、武衛の被官に朝倉弾正左衛門教景という者があり、これは越前国守護代だったが、去る頃より、日本六十余州の国人、大名守護の数に入った。この同類は二三人おり、 宇都宮被官の芳賀、結城被官の多賀谷、千葉被官の原、武衛被官の朝倉等である。度々の忠勤によって、いっしょに六十六人の数に入った。しかし、京童はなお、合子はりと笑ったということだ。

凡下の者にも果報の時節がやってきたのだろうか。管領(代)大内介義興の推薦で、朝倉敷景に白傘袋鞍覆御免あり、あまつさえ、のちには、御相伴衆に加わった。たいそう繁盛したものである。

大內介歸國之事 附四國勢攻上之事

かくして洛中は無為に治り、公方も御安座していらっしゃるので、今は当代も安心である、と永正十五年八月二十三日、大内左京大夫義興は京都で政務を執ることを辞退して、本国に下向した。そのあとは、細川高国が左京大夫となり、管領執事の職についた。義興の忠功は喩えようもないほどで、ああ、文武に秀でた良将かな、と世間は賛美したのだった。

義興が帰国し、洛中には暫くの間、軍勢がいなくなったことは、諸国に隠すことができなかったから、永正十六年冬、四国にいた細川前右京大夫澄元、同執事三好筑前守はよき時節だと思ったのだろう、所々に連絡して兵を集めた。時を移さず、千余人が馳せ集ったので、播州へ押渡り、赤松 を味方にして出発した。池田故筑後守の子息・池田三郎五郎は時を得たと駆けつけ、今度は某が摂津国口の先陣を仕ろうと、 有馬郡の田中という所へ出向いて、人数を揃えた。

これを聞いて高国方の川原林対馬守正賴、池田民部丞、塩川孫太郎は相談し、同十月二十二日、夜討をしかけた。しかし、敵の中に裏切り者が出て、このことを告げたので、三郎五郎は用心して静かに待っていたが、案の定、しかけてきた。池田は待ち構えて競って押し寄せ、激しく切って回ったので、寄手三十余人は忽に討ち取られ、這々の体で引き退いた。その日、池田が討ち取った首を阿波国へ届け、合戦の次第を一々申し伝えると、澄元は大いに悦んだ。

池田三郎五郎は摂津豊嶋郡一円を賜り、弾正忠となったので、池田弾正と呼ばれる。誠に父子二代で忠功が抜群の者であった、と伝わる。

攝州所々合戰之事 附若槻伊豆守最期鮮世之事

前右京大夫澄元は四国勢を集め、播州の赤松はこれに与し、大軍は既に摂州兵庫に到着した。管領高国の被官・河原林対馬守はこれを支え防ぐために、越水城に楯籠もった。澄元の軍兵等はまずはこれを攻撃しようと、一万余騎で取り囲んだ。

大将澄元の本陣は神呪寺の南、鏡ノ尾山に置かれた。 三好筑前守、海部、久禾、河村、香河、 安富、この者たちは広田、中村、西宮辺りに陣取りした。入れ替り入れ替り、毎日攻撃した。城内には精兵があまたおり、その中の一宮三郎宗是という者は弓の名手だった。毎回一本の矢で二三人を射落としたから、居合わせた人は皆、恐れおののいた。寄手もひるんでしまい、城も容易に落ちないと髙国に伝えると、一宮は長いこと勘気を蒙っていたのだが、今回の忠功で勘気も許され、さらに本領安堵された上、加増の所領まで下賜された。

さて、高国は丹波、山城、摂州の味方を集め、同十一月十一日に都を立って、同十二月六日池田 城に着いた。越水城を後詰し、その軍兵等は、小屋野間九十九町、高木、河原林、武庫、守部、水堂、浜田、新田、武庫河方面に上から下まで透間もなく陣取った。明けて永正十七年正月十日、高国は二万余騎で押寄せた。諸ロを分散して、一手ずつが各々戦った。

まず、高国の先陣・丹波国守護代内藤備前守貞正が一番にかかり、阿波勢と斬り結んだ。阿波勢は百余人が討たれたけれども、 内藤は終に打ち負け、二百余人が討死して、そのまま引き退いた。二番は高国方摂津国住人・伊丹兵庫助国扶と名乗って中村口へ切りかかり、木戸内まで攻入った。誠に一騎当千の者と見えたが、これも討ち負けて引き返す。阿波勢は勝利して、討取った首五十余を、さらした。

越水城内は後詰と競って、追手の木戸ロを押開き、当国大嶋の住人・雀部與次郎、同弟次郎太郎と名乗ってさっと出た。澄元方からは田井蔵人と名乗り、切りかかって互いに戦う。蔵人は討たれ、雀部兄弟は深手を負い、城中に入ったが、 二三日過ぎて亡くなった。上下これを惜しまない者はなかった。

城内は兵糧が尽き、勢力も乏しくなったので、同二月三日、対馬守は阿部蔵人と相談し、城を明けて退いた。ともに城に籠っていた若槻伊豆守長澄は「我が身は老い果てて残された命は短い。何のためにこの城を離れて去る必要があろうか」と城に籠もって自害した。先代源三位頼政最期の昔とひきあわせたのだろうか、扇子を置いてきちんと座り、辞世の和歌を詠んでから尋常に腹を切った。

 花さかぬ今の憂身も古へも 身のなる果は替らさりける 長澄

若槻の行動に、人々は感激して涙を流した。

こうして、高国は諸方の戦に打ち負け、池田、伊丹、久々知、長洲、尾崎の辺りに陣所を替えた。同十六日、澄元方の者たちは、悦び勇んで、三好之長は難波庄に陣取り、一万余騎の兵を率いて、尾崎、長洲へ襲いかかり、競い合って攻撃した。大物庄の北横堤で高国方の香西與四郎が名乗って切って出ると、阿波勢からは三好孫四郎と名乗って進み出て、香西と斬り合った。仲間も加えず激しく切り合い、敵味方ともに後方に退いて終わった

高国 はこの日の戦にも負けて、城内に入った。いずれにせよ敵うまいと思われたので、その夜のうちに逃げ出して、京都を目指して引き返した。四国勢は逃げるのを追って、ひたすら攻めに攻めたので、高国は京にも入れず、江州へ落ちて行ったが、将軍はなおも京都に留まっていらっしゃった。

毎年正月十日まで、当国では西宮大明神の斎籠という事があった。この場所の民は、この日の食物を前もって用意しておき、物音もたてず、旅人も入れず、戸を閉めて物忌み斎籠し、物も謂わないのである。他所の人がこのことを知りながら、 わざと物を言わせようとして、西宮の人の門や戸を敲き、詞をかけたりなどすれば、その人は必ず神罰を蒙るという。

こういう霊異の日に髙国は戦を始めたため、神罰で合戦に敗れたのだ、と人々は語り合った。

ここに、同国伊丹城に籠もっていた伊丹但馬守、野間豊前守両人が言うには、我々はこの城を数年骨折って築いたのに、今更敵のために焼捨てられるのは無念である。またむやみに城を明けて落ちていくのもふがいない。つまるところ、自害して心穏やかに死後の世界へ行こう、と城には火をかけ、両人は煙の中で枕を並べ、腹を切って死んでしまった。

三好筑前守之長降參自害之事

同二月廿七日、三好之長は京都に攻め上った。その権勢は辺りを震わせ、並ぶものがなかった。同三月十六 日、前右京大夫細川澄元は神咒寺を陣払いして、伊丹に移ったので、摂津国から京都まで軍兵が巷に充ち満ちた。

さて、三好之長は去年、阿波国高津というところで、一方の主君とも仰いで来た細川淡路守成春を討った。これは敵ではあるものの主筋の人である。之長の放逸(勝手気まま)な行動なので、将来を任せておいては安心できない、と危ぶむ人が多かったが、案の定、今回、京都を難なく落としたけれども、味方になる者もなく、その上、今まで味方だった者も之長の驕りを嫌って敵となり、思い知らせてやろうと考える者が多かった。

将軍も高国も江州に落ち集って、佐々木定頼を頼った。江州衆は味方に参上して、朽木民部少輔、蒲生右兵衛大夫、三上、永原の佐々木勢は言うに及ばず、越前の朝倉勢、美濃の土岐勢、丸毛、斎藤利綱の軍兵たちも各々駆けつけて、ほどなく大軍になったので、定頼を先陣の大将とし、総勢三万余 騎を率い、将軍も高国も同年五月三日、京都東 山白河表にへ攻め上った。

三好筑前守之長は四国勢五 千余騎を率い、二條三條四條高倉へ馬を走らせ、防ぎ戦ったが 敵軍が群れをなしているので敵わないと思ったのか、その頃之長が両腕のように思っていた香河、安富、久米、河村は一度に降參し、高国方になってしまった。之長はしだいに勢いがなくなって、合戦することが難しくなり、陣を退けて、同五月五日、比丘尼寺曇花院殿へ逃げ込み、ひそかに隠れていた。

細川澄元は伊丹庄に陣を置いていたが、京都がすっかり攻め落とされたと聞き、当庄を敵に取り囲まれたら敵うとも思えないので、早々に四国に逃げようと、同七日の早朝に生瀬ロに向かって落ちて行った。

摂州高国方の河原林対馬守は泉州堺の港にいたが、これを聞いて早船で海を渡り、澄元を追いかけた。道で容易ならぬことになりそうだったが、澄元の馬廻たちが所々で防矢を射て討死にする間に、澄元は無事に播州へ落着いた。

三好之長父子はまだ墨花院にいた。その夜逃げるなら逃げるべきだったのに、運命が尽きたのだろうか、曇花院殿から逃げずとどまっていたのだった。このことはすぐに敵方に洩れ聞こえ、高国方の軍兵等が曇花院殿を幾重にも取り囲んだ。かくして、之長は今度は気力をなくし助かりたいと考えたのか、降参する旨、頻りに詫言を言った。高国はそれならばまずは対面しよう、と之長の子息芥河次郎長光、同孫四郎長則を先にこの寺から出し、同十日に高国と対談したので、上京の安達の宿所へ入れて置いた。

さて、之長の一命は助けられるはずだったが、故細河淡路守成春の子・淡路彦四郎という人が、之長は父の敵である、としきりに高国に訴えて、その身柄を引き渡して殺させて欲しいと望んだ。髙国は終には申し出を受け入れた。そのとき之長は百万近くの寺にいたのだが、彦四郎の軍兵たちがひたひたと押し寄せて取り巻き、自害するにも間に合わないよう攻め込んだので、之長 は力及ばず、終にはこの寺の中で腹掻き切って死んだ。法名を希雲居士といった。同苗新四郎という者が 之長の介錯をして、ともに腹を切って死んだ。

この日は亡くなった淡路守成春の一周忌にあたっていたが、之長がこうして亡んだのは天罰の報いが忽に来たのだということだ。

彦次郎から之長の子・芥河太郎と孫四郎の身柄も引き渡して、誅殺させてほしいと申し出があった。これは降伏したのを預け置いた者だから、殺すのはいかがなものか、と髙国の許しはなかったのだが、同月十二日、彦四郎の軍兵たちは彼の兄弟の宿所を取り囲んだ。芥河次郎と孫四郎はこれを見て、また父・之長が腹を切って亡くなったときき、それならば誰の為に命を惜しむ必要があろうか、腹を切って父上の後を追おう、と最後の盃を酌み交わし、沐浴して経文を読み、心閑かに兄弟一緒に腹を切って亡くなった。惜しまぬ者はいなかった。

高頼澄元卒去之事 附高國政務之事

同年五月九日、将軍源義稙卿は江州観音寺城をおたちになり、終には御入洛なさって、もとのように天下の政務を執り行われた。当国の守護・佐々木六角大膳大夫高頼は隠居の身だったが、何を思ったかお供しようと上洛した。この人は去る永正十五年七月九日に嫡子・近綱が早世して、その嗣子もなかったのを深く嘆いていた。

高頼の次男・弾正少弼定頼が武勇も優れ、度々軍功もあげていたから、将軍も髙国も近年江州に落着いて、この人の権勢を頼った。武士の面目といい、また当家の再興といい、高頼は大いに喜び、老後の憂いも忘れ様々にもてなしたのだった。

今回は老後の上洛なので、再び会えるかどうかは予測できない、と将軍にも最後の暇乞いを申し上げ、同 八月に帰国したが、ほどなく同月二十一日、病の煩いもなく死去した。法名を龍光院花 山椿居士といった。将軍も髙国も深く追悼して、百首の和歌をお詠みになり、はなむけに供えた。

さて、細川澄元は京から落ちて播磨に下り、それから 四国に渡って、故義澄の御子・阿波御所を補佐し、 今一度上洛して高国を滅ぼし、三好之長の恨みを晴らそうとの志があったが、同年の夏頃から病気がしだいにひどくなり、六月十日、阿波国で死去した。法名は眞乗 院、生年二十五歳と伝わる。

三好が討たれ澄元が死んだ後、管領高国は政務すべて執行し、その一門は子孫まで繁栄し、権勢は万人を超過した。高国はもとから 文武にすぐれた者であり、その頃、和歌の道に心を寄せていた。伊勢国司北畠左中将材親卿は高国の聟で歌人なので、この人と相談して六百番歌合を興行した。武芸にも心がけ、射礼の法を中興し、子息・六郎冠者植国に申しつけ、上の馬場で犬追物を執り行った。そのとき、小笠原備前守、波々伯部源次郎、伴出羽守等がその役を勤めた。理非分明で、政道は正しく執り行われたので、諸将は彼の家風を望み、万民おしなべて管領を慕ったので、高国の権勢は日を追うごとに盛んになった。

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ミル

思うに無理やりヘンテコなイマドキ語などに変換せずとも、自分自身で意味が分かればそれでいいと思うの……。これ、万人に分るように綺麗な言語に修正するの、どんだけたいへんか……。およそ不可能だと思ふ。

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新介

気にしなくていいよ。いちおう、最後までやり遂げたんだから。どうせ誰ひとり読んでないと思うし。

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於児丸

(新介さまって平然と恐ろしいことを言っちゃう人だったんだ。恐らくご本人は気が付いていないと思われますが)。

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五郎

なんだか細川高国とかいうやつがイイトコ取りじゃないか。でも、無様な負け戦のことも大量に書かれていて本当は恥ずかしい奴だな。そのいっぽうで、先代様だけは、かけらも恥ずかしいことが書かれていなかった。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
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-於児丸の公方両将記