鷲頭氏概略
北辰降臨の地を治めた一族
鷲頭家は十六代当主・盛房の次男・盛安を祖とする分家した一族です。鷲頭庄の地頭職を分け与えられたゆえ、名字の地として、鷲頭と名乗りました。鷲頭庄(=鷲頭荘)は、北辰降臨の地「鷲頭荘青柳浦」で有名です。周防国都濃郡にありました。こちらには、本家本元の妙見社があり、鷲頭家は代々、鷲頭妙見宮を守り仕える役柄を担いました。今も下松市に行けば、鷲頭のお殿さまとして大切に語られています。
盛安⇒親盛⇒尼禅恵と続きますが、出家した尼僧が亡くなるとそこで途絶えます。そのため、二十一代・弘家の次男・長弘が鷲頭家に入りました。
宗家を凌駕する
鷲頭長弘は南北朝期に活躍したことで、その名を知られる有能な人物です。先には後醍醐天皇の倒幕を支持して周防守護に任命され、後醍醐天皇と足利尊氏が袂を分かった後には、終始武家方の武将として活躍します。今度は、尊氏から周防守護を拝領。嫡男・弘員は但馬守に、その弟・弘直はのちに、父の周防守護職を継ぎました。
『萩藩諸家系図』には、「豊富な経済力のもとに大内氏の政治、軍事の中心となっていた」とあります。経済力が豊富だった件については、執筆者の学びが足りておりません。しかし、この時代の鷲頭家が、本家であるはずの、大内弘幸よりも力を持っており、対外的(尊氏から見たら)には大内氏を代表する人物と見なされていたことは確かです。
弘幸さんは穏やかなお人だったのか、このような事態にも鷲頭家と衝突するようなことはありませんでした。しかし、父を継いだ二十四代・弘世は黙っていませんでした。鷲頭家に対抗するため、彼ら「武家方」と対立する「宮方」に与することで、周防守護の地位を得ます。この時代は、南(宮方)北(武家方)それぞれが自らの息のかかった者を守護に任命したため、同時期に二人の守護が誕生するということがあり得たのです。
弘世と鷲頭家当主となっていた弘直とはついに衝突し、正平七年(1351)二月十九日には、鷲頭庄にまで攻め込みます。その後も戦闘は繰り返されたものと思われますが、やがて、鷲頭家は弘世の軍門に降りました。
同族どうしの争いということもあってか、あるいは弘世さんという方が、そこまで冷酷非情なお方ではなかったゆえにか、鷲頭家は滅亡させられるようなことはありませんでした。ただし、かつてのように、本家を凌駕するような勢力ではなくなります。
その後も続いた宗家とのいざこざ
長弘の嫡男だった弘員はなぜ、父の跡を継ぎ、周防守護となることがなかったのでしょうか。兄に代わって守護職を継いだ弘直のその後についてははっきりしません。弘世との合戦で命を落としたことが確認できるのは、鷲頭家に与して弘世に対抗した内藤家の者と、弘直の弟・貞弘だけです。
後に、弘員の子・康弘は安芸国大田庄の代官となります。美作権守、もしくは居住地が安芸国内郡(内郡というのは、郡の名前ではなく、内側にある郡というような意味です)だったことから内美作守などと呼ばれました。康弘は、後に弘世の子・義弘と同じく満弘との内訌が起こった際、満弘方につきます。あわよくば、亡き祖父の時代の勢力を取り戻したいという思いもあったのかも知れません。
しかし、義弘・満弘兄弟の内輪揉めは、幕府の仲介もあり、和解に至ります。幕府は終始、義弘を援助したため、康弘は石見に逃れますが、幕命を帯びた益田氏らに追われ、安芸大田庄に戻り、最後は右田氏に攻められて自刃しました。
二十五代・盛見期には、長弘の四男駿河守盛継の子・弘為が盛見に対抗して、赤間関で討ち取られます。二十八代、教弘期には、弘為の子・弘忠と嫡男・弘貞が、長門深川で誅殺されました。どうやら、事あるごとに反抗的な態度を取ったり、主に睨まれるという悲劇が繰り返されたようです。しかし、大半においては、何事もなく平穏でした。
「萩藩鷲頭氏」は、義弘・満弘内訌に関わった康弘の末裔ということです。あれこれの流れから、傀儡当主を建てる事態となった本家と心中するつもりなど、さらさらなかったのかもしれません。いかなる形で毛利家臣となったかについては不明です。(典拠:『大内氏実録』、『萩藩諸系図』、『大内義弘』(松岡久人))
じつは鷲頭家こそ惣領だった!?
およそ、ほとんどの歴史書の類において、鷲頭長弘が宗家を凌駕するほどの力をもっており、それを苦々しく思っていた弘世が、惣領の地位を奪い返した、とされています。これがいわば「定説」なわけですが、じつは、鷲頭長弘こそ惣領であり、弘世のほうがその地位を奪ったのである、という説が存在します。
実際、惣領という言葉を使わず、同等の力を持った両家の争いとして、「長弘流」と「弘幸流(もしくは弘世流)」(あるいは『流』ではなく『派』だったような気もします。今、典拠を失念しましたので、このご研究を見つけ次第加筆します)という表現を用いていた研究者の先生もおられた記憶があります。
たまたま、『山口県の歴史散歩』というご本に、興味深い一文を見つけましたので、ご報告しておきます。
南北朝時代に大内弘幸・弘世と惣領をめぐってたたかった大内長弘については、通説では弘幸の叔父で、庶家の鷲頭氏をついだと考えられているが、むしろ長弘系のほうが本来の惣領であった可能性が高い。
長弘系の大内氏は大内弘幸・弘世系との抗争中に「鷲頭」と多称されたことはなく、ましてや自称もしていない。当時、長弘系の大内氏が下松にいたという確実な証拠もみつかっていないが、戦いに勝利した大内弘幸・弘世系の大内氏が、自身の正統性を確保するために長弘系の大内氏を鷲頭氏に仮託した、あるいは下松の妙見を奉戴した勢力が長弘系をバックアップした、とも考えられるわけで、なおいっそうの考究が必要である。
出典:『山口県の歴史散歩』52~53ページ
失念した研究者の先生が言及しておられたのは、まさにこれと同じことでした。鎌倉時代までは、「惣領」制が優勢で、一族郎党は皆、惣領の号令に従って動いていました。しかし、やがて、そのような制度は崩れていきます。家督を手にしている者が「惣領」という部分は変らなくとも、力ある者が惣領の地位に就くことが普通となり、それゆえに、惣領の地位をめぐる争いが熾烈を極めたのです。応仁の乱などその典型かもしれません。
なので、大内長弘が「惣領」の地位を乗っ取ったとしても、別段ワルモノ扱いされる筋合いはないと思っていました。それを弘世さんが、取り返したこともまたしかりです。また、「大内」という呼称は、他者が使うもの。本人たちは、「多々良氏」を称していたとも読んだことがあり、鷲頭さんが実力者なので、武家方関係者は彼を「大内」と呼んだのだろうと思っていました。
しかし、北辰が舞い降りた地が下松だと考えた時、本来はそちらが中心だったのではないかという考えがふとよぎったのです。引用文には、長弘が下松にいたという確たる証拠はないとありますが、惣領が居住する下松こそが中心で、それゆえに氏神もそこにあったのでは? と思ったのです。
何度も叛旗を翻したり、主に誅殺されるようなことになったのも、過去の因縁があったればこそかと。もしも、引用に書いてある説の通りだったとしても、弘世さんがワルモノとはなりません。力ある者が家を束ねていく、それが当然だからです。長弘さんが相当の実力者であったことは事実です。しかし、跡を継いだ子には、父ほどの能力はなかったか、あるいは、弘世さんの実力が遙かに勝っていたのでしょう。
ひとつの考え方として、このような見方もたいへん興味深いと思った次第です。
『新撰大内氏系図』全コメント
名前を羅列したところで、繋がりがわかりません。系図にまとめるのは困難ですので、どうにか方法を模索中です。下記の『実録』引用のところに、わかりにくいものの繋がりを記しました。ただし、『新撰大内氏系図』と『実録』には相違点もあることにはご注意ください。それは、『諸系図』も同様です。
盛保 但馬守、鷲頭三郎
親盛 筑前守〈盛安子〉
保弘 吉敷十郎、法名道仲〈盛安子〉
保盛〈盛安子〉
尼禅恵 ⇒ 長弘★
親保 平野〈保弘子〉
保光 鰐石五郎、或保盛子〈保弘子〉
保成 八郎〈保光子〉
某 讃岐坊〈保成子〉
保盛 九郎〈保光子〉
乙法師丸〈保盛子〉
保貞〈保光子〉
保房〈保貞子〉
保武〈保房子〉
保貞〈保武子〉
保家〈保光子〉
保弘〈保光子〉
長弘 大内豊前守、豊前入道、周防守護、実大内弘家二男続尼禅恵遺領★
弘員 二郎五郎、但馬守〈長弘子〉
康弘 美作守、於下松自害〈弘員子〉
弘宗 左馬頭、於長州長福寺自害〈康弘子〉
盛弘 治部少輔、於筑前宗像西郷討死〈弘宗子〉
弘賢 弥五郎、治部少輔〈盛弘子〉
某 総二郎〈弘賢子〉
弘棟 治部少輔〈某・総二郎子〉
弘仲 治部少輔〈弘棟子〉
弘季 治部少輔〈弘仲子〉
弘氏 佐馬介〈弘季子〉
弘孝 三郎〈弘賢子〉
護賢 四郎〈弘賢子〉
弘宗 孫三郎、縫殿允〈盛弘子〉
弘直 美作守、民部大輔、周防守護〈長弘子〉
貞弘 信濃守、散位〈長弘子〉
盛継 駿河守〈長弘子〉
弘為 刑部少輔、版盛見於赤間関戦死〈盛継子〉
弘忠 初盛範、孫三郎、肥前守、治部少輔、長門守護代、文安五年戊辰二月十七日為教弘於長門深川被誅、法名護国寺宗翁宗忠〈弘為子〉
弘貞 孫三郎、兵部少輔、為教弘被誅〈弘忠子〉
盛為〈弘貞子〉
弘永 孫三郎〈弘忠子〉
幸弘 上総介、因有義弘討死聞於山口自害〈盛継子〉
安弘 孫十郎、兵部少輔〈盛継子〉
盛安 或盛弘 孫十郎於筑前深江討死〈安弘子〉
氏弘 彦三郎〈長弘子〉
弘成 弥三郎〈長弘子〉
『萩藩諸家系図』から補足
『新撰大内氏系図』は弘氏以降で途絶えています。どこが、大内氏家臣としての鷲頭家の最後の人かわからないので、『諸系図』から、弘氏さんの続きを載せました。これ以降は、江戸時代らしき年代となります。
盛忠・安右衛門
女 小野氏妻
女 廣瀬氏妻
(以下省略)
『大内氏実録』掲載の鷲頭姓の人々
『実録』に載っている身元不確定の鷲頭さんたちです。中には後世の研究で身元が判明した方もおられます。
鷲頭筑前守父子三人 康暦三年五月二十八日戦死(花栄三代記)
鷲頭道祖千代丸 応永十四年文書
鷲頭式部少輔 大永七年文書
鷲頭玄番 有名衆
鷲頭大和守 有名衆、家中覚書
鷲頭彦太郎 有名衆、家中覚書
鷲頭彦三郎 有名衆、家中覚書
鷲頭民部少輔 家中覚書
有名人(大内氏時代の人限定)
『大内氏実録』に項目を立てられている人々と、『実録』附録系図の記述をまとめておきます。現代は、より研究が進み、古くなっている箇所もあると思われます。あくまで、明治時代の到達点を基準としておまとめになられた書物の記述です。続きは、最新のご研究から拾い集めて補足・修正していく作業が必要です。
始祖・盛保
鷲頭三郎、 但馬権守。十六代・盛房の子で十七代・弘盛の弟。
罪を犯し流刑となったが、治承四年十月八日、天変(天空に起こる異変、日食、星が落ちたり流れたり)による赦免があり、盛保も許されて召還された。子孫は鷲頭と称した。
盛安の子ら:親盛(筑前守)、保弘(吉敷十郎、法名:道仏)、保盛
親盛⇒尼禅恵
保弘⇒親弘、保光(鰐石五郎、あるいは盛安の子)
保光の子ら:保成(八郎)、保盛(九郎)、保貞、保家、保弘
保成⇒某(讃岐坊)、保盛⇒乙法師丸 、保貞⇒保房⇒保武⇒保貞
鷲頭長弘
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大内長弘 終始武家方を助けた実力者
二十一代当主・弘家の子。後醍醐天皇の倒幕からずっと足利尊氏を支持。南北分裂でも武家方につき、家中一の実力者として、幕府から周防守護に任命された。惣領家を凌ぐ勢いだったが、死後にその子・弘直は大内弘世に敗れ、一分家の地位に没落した。
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豊前守となる。二十一代・弘家の子で二十二代・重弘の弟である。高曽父・満盛(宗家十八代)の叔父・盛保の孫、鷲頭尼禅恵の遺跡を継いだ。大内豊前守、鷲頭豊前守
延元元年二月、足利高氏に与して東上。二月七日、摂津兵庫に到着。大友貞宗、厚東武実等とともに官軍・土居、得能と合戦。高氏は敗れて鎮西に逃れた。この時、沿道諸国に大将を留めて後拒(あとぞなえ、後方に備える軍隊)とし、大島兵庫頭が周防の大将になった。 長弘は守護代となる。
長弘の子ら:弘員、弘直(美作守、式部大輔)、貞弘、盛継*(駿河守)、氏弘(彦三郎)、弘成(弥三郎)
鷲頭弘員
但馬権守となる(系図、系譜に二郎五郎の名があるが外に所見なし)。
観応元年十月十日、従姪(いとこの子)弘世は足利氏の命で高越後守師泰の代官・山内彦二郎入道を討った。弘員はその守護代・乙面左近将監を敗走させた。
鷲頭貞弘
古文書に散位とあるが、位階不明。系図、系譜に信濃守とあるがほかに所見なし。
文和元年、弘世が南軍につき、二月十九日に貞弘を攻撃した。貞弘は内藤藤時と合流して、都濃郡鷲頭荘白坂山で弘世と戦った。
弘員⇒康弘(美作守、下松で自害)⇒弘宗(佐馬頭、長門長福寺で自害)⇒盛弘(治部少輔、筑前宗像西郷で討死)⇒弘賢⇒弘棟(治部少輔)⇒弘仲(治部少輔)⇒弘季(治部少輔)⇒弘氏(佐馬介)
鷲頭弘忠
弘為の子。初め盛範、孫三郎、肥前守、治部少輔、長門守護代。
文安五年二月十七日、長門深川で大内教弘に誅殺される。
弘忠の子ら:弘貞(孫三郎、兵部少輔、大内教弘に撃たれた)、弘永(孫三郎)
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内義弘』(松岡久人)、『山口県の歴史散歩』
なんだか、戦死とか誅殺とか、終わりを全うしていないコメントが多いね。
ふうむ。毛利家家臣となってからは落ち着いたようだな。
またそれかよ……。
出る杭は打たれると言うけれど、結局のところ、鷲頭さんたちは討たれても討たれても、それなりの勢力を保ち続けたんだね。弘世さんからの因縁もあるし、何か事あると、当主に目をつけられたのかも。実は本来の宗家は鷲頭家だったというご研究もあるくらい。もしそうなら、それを取り戻したいと思うのも当然となるね。
当主の身内って、替えパーツにもなり得る分、実は危うい存在なんだね。毛利家の時代になれば、それらのいざこざとは無関係となるから、漸く穏やかに普通の家臣になれたんだろうね。