
厳島神社にせよ、宗像大社にせよ、神官たちは武家化していました。現代の古式ゆかしい神職さま方を想像してはいけません。皆、武装して領地のためには戦い、強い勢力には従属して、領地およびお仕えする神社を守ったのです。大内氏の勢力が九州にもおよぶにいたり、宗像大社の神官たちとも交流が深くなりました。そんな関係についておさらいしておきたいと思います。
なお、本記事はあくまで、大内氏との関係についてフォーカスしたものであり、宗像大社、および、その大宮司家について詳説するものではありません。
宗像宗氏概説
神官にして武家(地方領主)
宗像氏は、その名の通り、宗像大社の神官を務めていた家柄です。元は、宗像郡の郡司にすぎませんでしたが、978年に、氏能が初代大宮司に任命されて以来、代々大宮司を歴任することになります。初期には官府により任命されていましたが、12世紀以降は宗家が継ぐかたちとなりました。
同時期の他の神官たち同様、鎌倉幕府に仕える御家人として、神官にして地方領主という性格をもつようになります。こうなるともう、神官というより武家です。時代が移り、やがては大内氏に従属することになりました。
なお、南北朝期には、宗像氏も宮方と武家方に分裂。一時期は南朝に与する一類が大宮司となった時期もありました。しかし、終始一貫して武家方についた宗像氏俊は、今川了俊の九州平定に協力。その努力が実って所領と大宮司職を安堵され子孫繁栄することになりました。
ところで、大宮司という職名ですが、すべての神社にこのような職があるわけではないそうです。単に呼び方の違いでしょうが。意味的には宮司の長官といったところです。
宗像氏の断絶
16世紀末頃、跡継がないままに当主が病死し、宗像氏は断絶してしまいます。その後、近世になって、庶流の一族だった深田千秋家によって復興されました。
『新撰大内氏系図』に見る大内氏との関係
由緒ある大神社の神官一族と結びついておくことは、そのご鎮座地をおさめるにあたっても実に好都合です。そうでなくとも、大宮司家も武家化してしまっておりましたので、大内氏とはたびたび婚姻関係を結び、その繋がりを保持しておりました。両者の結びつきは、お互いに利益が一致したものであったゆえにかと。
初期の頃においては、大内宗家との婚姻がメインでしたが、のちには陶氏との結びつきが強くなっていったもようです。
今、『新撰大内氏系図』に載っている両家の婚姻関係について、拾い出してみると以下の通りです。
二十四代弘世の娘 深田殿、徳隠尼、宗像大宮司氏重妻、氏経氏信母、華山春光大姉
二十六代盛見の娘 宗像大宮司氏郷妻、氏定氏国等母
三十代政弘娘 宗像大宮司氏国妻
陶弘護娘 宗像大宮司氏定妻興氏母親
陶武護娘 宗像大宮司氏定妻興氏母、恐誤欤※
陶興房娘 宗像大宮司興氏妻
※陶武護は弘護の子ですが、それぞれの娘の嫁ぎ先が、まったく同じ「宗像大宮司氏定妻興氏母」となっています。妻でしたら、複数人娶ることが可能ですが、母親はひとりしかありえません。系図にある通り誤った記入でしょう。
『大内氏実録』による補足
『新撰大内氏系図』には載っていないものの、『大内氏実録』本文中にあった婚姻関係は以下の通りです。
問田弘胤娘 宗像大宮司左衛門佐氏続妻
ところで、『日本史広事典』には「室町時代には大内氏に属して黒川氏を名乗ったこともある」と書かれております。このことは、当然、『実録』内に詳しく書かれております。伝が立てられている黒川隆尚、黒川隆像のふたりの本文中に、系図には明記されていなかった、さらなる婚姻関係や、大内氏を助けての武働きについて、先祖まで遡って記されています。両黒川氏については、黒川氏項目に譲るとし、それら婚姻関係について抜き出しておきます。
なにゆえ、系図には書かれていないのだろう? という点ですが、上記引用からもわかるとおり○○、○○「等」母とある場合、「等」以下は省略されていますから、その中に入っていた可能性もいちおうあります。
宗像政氏 のちに正氏と改名。政弘の外孫。のみならず、曾祖父・氏顕は弘世の外孫
有名人(大内氏との関わりを中心に)
これら宗像両氏は、ともに大内義隆期の人で、義隆に気に入られ「多々良氏」を拝領しています。その際、「黒川氏」と名乗ったので、詳細は黒川氏のところに記述します。重複する部分もありますが、なにぶん記事ボリュームがまったくたりませんので。⇒ 関連記事:黒川氏
宗像正氏
筑前国宗像大宮司宗像左衛門尉氏佐の嫡男で、母は大内政弘の娘。初名は政氏といった。刑部少輔となる。
永正五年正月、従弟・興氏の譲りをうけて大宮司となる。二十年在職したのち、大永七年、弟・氏続に大宮司を譲り山口に出仕。曾祖父・氏顕は弘世の外孫、同母兄・氏経は義弘に従い九州で戦った。その子・氏経は教弘に従い赤松満祐を討伐。祖父・氏郷は少弐と戦い、陶弘護とともに、大内教幸を討伐した。伯父・氏定は持盛の外孫。この人も少弐および教幸と戦った。養父・興氏は陶武護(ママ)の外孫で、義興に仕え、少弐と戦い、船岡山の合戦でも手柄を立てた。
宗像氏男
筑前国宗像大宮司左衛門尉氏続の嫡男にして、母は問田大蔵少輔弘胤の娘。天文三年十月二日、従五位下に叙し近江権守に任ず。姓氏を多々良朝臣と改め黒川と称した。天文五年、伯父正氏の養子となり大宮司となった。
参照文献:『日本史広事典』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』
雑感
というか言い訳
なんとも中途半端、かつ、系図には出ていない名前が『実録』本文には続出。これは、大内氏の系図だけで、宗像氏について知ろうというあまりのずうずうしさにこうなっております。当然ながら、宗像氏について書かれたものを調査すべきですが、時間に限りもありますし、現状はこんな感じです。
本は大枚はたいて買っているので、そのうち中身がマシになる可能性はゼロではありません。なお、こちらに名前を挙げた宗像さんたちは、最後の殿さまお気に入りとなって、多々良氏を与えられております。よって、その名乗り「黒川」から、黒川氏として、再登場願っております。そちらも合せてご参照いただければと存じます。

廿日市の先生がさ、不思議だよね、厳島神社の御祭神って宗像大社と同じでしょ、とかおっしゃって、目茶可愛いの。

先生って、山城愛が深すぎて、神社とか一切興味ないよね。俺も神さまとかさっぱりだけど。

そういえばだけどさ、通院していた病院の先生が、身内が九州にすんでいて沖ノ島とかに近くて、今度そこらに会いに行く云々というから、ふはぁ、宗像大社に行けますね。羨ましいと言ったら、「???????」って。知らない人は、本当に知らないよね。

(お前らとて、つい最近まで知らなかっただろうに。さて、九州の勢力ということは、再興後も毛利家には関心ないであろうなぁ。天下人になっておられたら……惜しいことだ)
この記事は 20250113 に大幅に加筆・修正されました。
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