歴代当主たちとかかわりのあった公家の方々は数多い。在京中に交流があった人々、または下向してきた人々の二つに大きく分けられるだろう。これらは、文芸や官職などについて研究なさっている先生方のご著作に特に詳しい。
『実録』にも主だった人たちの名前はあますところなく出てくるのだが、項目を立てて列伝となっている人たちはすべて、大寧寺の殉職者となる。それだけだとボリュームが全く足りないけれども、最初はそこらだけ。あるいは、文人というくくりがいいのかもしれない。
二条尹房
関白尚基の子。
永正五年十二月二十七日、元服、正五位下を授かる。
以後詳細な官職上昇の記録があるけれども、不要なので省略。
侍従、左近衛権中将、中将、権中納言、権大納言、右近衛大将、左近衛大将、左馬寮御監、関白、氏長者、牛車兵杖一坐等宣下、右大臣、太政大臣の上たるべしと宣下、左大臣、万機を内覧せしむべき由宣下
従一位、三宮に准ぜらる
天文五年閏十月二十一日、関白を辞職。天文十三年四月二十七日、備後に下向。
天文十四年、備後に在国したのち、山口に下向した (年月不明)。
天文二十年 八月二十八日、義隆とともに法泉寺に入った。
法性寺、外記三位両人が使者となり、義隆が家督を義尊に譲り隠居することを条件に、内藤興盛に和解を勧めたが、興盛は受け入れなかった。八月二十九日、法泉寺の軍潰走。尹房は上宇野令糸米の覚皇寺に隠れた。杉隆相の兵士が捜索して殺害した。享年五十六歳。
覚皇寺を覚王寺、学王寺とする史料もある。いつ廃されたのか、寺名は字に残っており角香寺と書く。また、亡くなった場所以外に、書物によって逸話も異なる(『実録』)。
二条尹良豊
尹房の子。
※『公卿補任』には憚あって実名を記していない。『異本義隆記』に、伏見院の若宮だったのを、二条が養子とした、とある(『実録』)。
天文十八年十二月二十五日、元服、直に正五位下を授かる。
左近衛少将 ⇒ 中将に進む。
従三位
天文二十年 八月二十八日、父・尹房に従って法泉寺に入る。
八月二十九日、義隆とともに長門国大津郡に逃れ、九月一日大寧寺に入る。
賊が連れ出し捕らえて、翌日に殺した。享年十六歳。
三条公頼
内大臣実香の子。
永正七年三月十三日叙爵、侍従。十月二十三日、正五位下を授かる。
左近衛中将、右近衛中将、権中納言、権大納言、右大将、右大臣、左大臣
天文十二年四月八日、五月在国、十月上洛、天文十四年四月五日、在国 (越州)
天文十五年三月二十五日左大臣辞退、天文十六年正月五日従一位を授かる。
のち山口に下向した(年月不明) 。
天文二十年八月二十九日、 長門国大津郡深川に逃れた。道中で殺害されて亡くなる。
脚色種々あって不明らしい。道端で雑兵にやられたっぽいことは共通。
持明院基規
初名は家親、左衛門督基春の子。義隆の郢曲の師である(詠曲とも) 。
明応四年十二月二十六日、従五位下を授かる。
明応六年七月二十九日、元服、従五位上、侍従。
文亀二年三月十日、基規と改名。
左近衛□将、中将、周防権介、大蔵卿、参議
天文六年正月二十三日、周防に下向。
天文七年三月八日、播磨権守を兼任。
天文十一月二十九日上洛、七月二十二日、右衛門督となる。
天文十一年周防に下向。
天文十二年十二月八日、上洛。
左衛門督、権中納言、正二位
のち山口に下向(年月不明)。
天文二十年八月二十八日、義隆とともに法泉寺に入る。出家して一忍軒と号す。二十九日、長門に逃れ、九月一日大寧寺で賊にとらえられ、翌日殺された。享年六十歳。
小槻伊治
正四位下時元の子。官務従五位上。
伊治の娘は万里小路氏秀房の娘に仕えていた。万里小路氏が義隆の正室となると、義隆は伊治の娘と密通して義尊が生まれた。義隆は万里小路氏を離別し、伊治の娘を広橋兼秀の養女として正妻にした。⇒ 義隆継室広橋氏
伊治は京師から下って山口に住み、外記清三位と儒書を講義することを務めとした。
政変が起こると伊治は地元民に混じって逃れたが、湯田の縄手路で陶隆満の兵士に見つかって殺された(清水寺で討たれた、とも)。
湯田の路傍の塚上に、一本松という松が一株ある。 官務の墓なのではないか、という。
その他
例によって、その他の人は未分類中です。公家ではないけど、その関係者。音楽関係者などの文化交流関係で「遭難」に入っている人たちです。
岡崎氏久
丹後守 (大寧寺牌名:刑部大夫)。二条家諸大夫。
亡くなった場所などは詳細が分からない。『中国治乱記』には討死とする。また氏久の外、紀伊守源光政、近江権守宣川の名前がある。『房顕記』では、義尊、三条殿内衆、大宮司右延以上十三人、「御腹召れ討死」。そのほか、「屋形方成し衆討死」とある(『実録』)。
園 広忠
壱岐守。(有名衆)。
『房顕記』に「天王寺伶人蔦坊、 岡兵部少 輔、又園出□、東儀因幡守、細々下向あり」。園出□がこの壱岐守ではないかと思われる(『実録』)。
伶人:音楽師、太鼓持ちの意味(漢和辞典)。
東儀兼康
因幡守。天王寺の伶人。岡昌歳とともに、管絃の師とし下向して来て、被害に遭った(有名衆)。
亡くなった場所など詳細は不明。
岡 昌歳
兵部丞だった(有名衆、義隆記 ⇒ 兵部。兵部丞の略称。異本義隆記、房顕記 ⇒ 兵部少輔)。
『実録』にはこれ以上のことは何も書いてありませんが、「遭難」に入っている以上、被害者であることは確かでしょう。
参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十三「遭難」より