関連史跡案内

八坂神社(山口市陶)

2023年12月15日

八坂神社(陶)全景

山口県山口市陶の八坂神社とは?

山口市陶にある春日神社の境内社です。元々同社の摂社になっていたものが、明治時代に現在地に遷されました。明徳期に大内義弘が、京都の祇園社を岩砂山に勧請したのが始まりです。続く盛見代にも祈願や神事、寄進を行なうなど、たいへん重んじられていました。

毛利氏の時代となり、大内輝弘の反乱によって社殿は全焼してしまいます。それでも、きちんと再建されて、その後も地域の祈祷所となっていました。当時の姿を偲ぶことができないのは惜しまれますが、境内社となった現在も山口市内の八坂神社同様、ここでも祇園祭と呼ばれる例祭が行なわれています。

重要

こちらでご案内しているのは、山口市陶にある、春日神社の境内社になっている八坂神社です。山口市街・築山館跡地にある鷺舞で著名な八坂神社とは別の神社ですので、ご注意くださいませ。
築山跡にある八坂神社についてのご案内はコチラです。⇒ 関連記事:八坂神社(山口市上竪小路)

八坂神社(山口市陶)・基本情報

ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶 1339
御祭神 素盞嗚命、奇稲田姫命
主な建物 社殿、鳥居、灯籠、石碑
主な祭典 例祭(旧六月七日より十五日まで)
(参照:『陶村史』、ご鎮座地は、主な建物は目視)

八坂神社(陶)・歴史

明徳年間に、大内義弘が岩砂山に、京都の祇園社を勧請したのが起源となります。祇園祭りの鷺舞で有名な、山口市築山館跡にある八坂神社は父・弘世が応永年間にやはり、祇園社から勧請したものです。祇園社は現在、八坂神社と改名されており、総本社の改名とともに、各地の祇園社も八坂神社となりました。つまりは、こちらもそれ以前は祇園社だったということです。

神仏習合していた時代、祇園社の祭神は牛頭天王という異国由来の神さまでした。牛頭天王はそもそも素戔嗚尊と習合していたため、牛頭天王=素戔嗚尊として差し支えない部分もあるのですが、そうとはいえない部分もまたあり、なかなかに複雑ですので、それについては場を改めます(牛頭天王についての記事はリライト中です)。

『陶村史』には、総本社である八坂神社の由来についてわかりやすく、完結にまとめられています。そして、素戔嗚尊が新羅に渡ったという『日本書紀』の記述や、牛頭というのが朝鮮の地名であることなどから、いずれにせよ朝鮮半島とゆかり深く、それゆえに、先祖が朝鮮半島から渡って来たとされる大内氏には深く信仰されていたのかもしれない、というようなことが書かれております。同様のご意見は他の書物でも目にした記憶があります。今それがどの本だったのかを忘れてしまいましたが、思い出し次第、典拠に加えておきたいと思います。

明徳年間、各地で疫病が大流行しました。周防国も例外ではありません。そこで、義弘はこの神社を建立して、「七日間祈願」を行ないました。すると、疫病の流行はおさまったといいます。さらに、応永年間には、やはり全国で害虫による被害が多発しました。害虫っていうと、台所に出るアレを想像したりしますが、違います。農作物を栽培するにあたり、害虫駆除対策の方法あれこれが現在のようには発達していなかった時代のことです。害虫被害といったら、稲作にダメージを与えるもので、お米が主食だった(今もそうなんだろうけど)のですから、稲がダメになってしまうということは大問題です。ゆえに、今度は義弘の弟・盛見が「七日間祈願」を執り行いました。すると、害虫被害もピタリとおさまりました。

疫病も害虫も、様々な重大被害をかくも霊験あらたかにおさめてくださった陶の祇園社に感謝した盛見は、神事を行ったり、神田の寄進などをして、謝意を表わしたそうです。

牛頭天王はもともと疫病神であったことから、恐ろしい疫病が流行すると、その発生元である疫病神にお祈りして、どうか病の流行をおさめてください、と祈祷するのが常でした。それを繰り返しているうちに、やがて疫病神がまったく真逆の防疫神となってしまったのです。よって、疫病が流行したら祇園社で、牛頭天王に祈祷するというパターンが生まれました。義弘や盛見が祇園社を選んで祈祷したことの意味はここにあります。ついでに、疫病同様厄介かつ重大事態である害虫被害についてもあわせて守ってくれたらしきことがわかりますね。

毛利氏の時代となっても、祈祷所として大切にされていたようです。(『陶村史』)

ところが……例によって例のごとく、何でも燃やしてしまう大内輝弘の乱によって、社殿は焼失してしまいました。当然、きちんと再建され、その後も修繕や再建を繰り返しつつ、明治時代まで存続していました。明治時代になり、祇園社は八坂神社と名を改め、かつ春日神社と合併されて、現在のような春日神社の境内社となりました。⇒ 関連記事:春日神社

八坂神社(陶)・みどころ

春日神社の摂社として、境内神社になっておりますが、元々は前述のような大内氏とゆかりの深い神社でした。大内輝弘に燃やされるまでは、相当に大規模な社殿だったものと考えられています。

なお、当社でも祇園祭りが行なわれており「九日祇園」ともいわれ、九日間に渡って繰り広げられます。もちろん、大内氏の時代から続くものです。その際には、春日神社の御旅所を使っているそうです(参照:『陶村史』)。

鳥居

八坂神社(陶)・鳥居小ぢんまりとしているゆえ、鳥居だけにフォーカスしても全景が納まってしまいました。しかし、境内社というのは小さなお社であることが多いことを考えると、普通に独立した神社にしか見えません。

社殿

八坂神社(陶)・社殿ご覧のように、境内社にしては大きくて立派な社殿です。再建物とはいえ、かなりの年代モノのように見えます。「拝殿には昭和四十七年、神社の由来を記した市教育委員会の説明板が掲げられた」(『陶村史』)とあり、向かって右側に現在もその説明板が残っているのが見えます。

しかし、事前に知らなかったゆえ、近づいて熟読するということができませんでした(帰宅して本を読んで知り、慌てて写真を見たけど小さすぎて読めなかった……)。これも次回の宿題ですね。八坂神社(陶)・社殿(脇から見た図)脇からも失礼いたします。こんな風に、拝殿の背後には、きちんとご本殿が隠されています。小ぶりながら、奥行きがあり、しっかりとした造りなのです。焼失前のお姿がどれほど立派だったのか、ぜひとも拝見したかったのに、残念でなりません。

石碑

八坂神社(陶)・記念碑ちょっと変わったかたちの石碑がありました。『陶村史』によれば、八坂神社を現在地に遷す際、記念碑や句碑など諸々もきちんと一緒に運んできたそうです。これが、記念碑なのか、句碑なのか、文字が不鮮明でわかりません。

なんとなくですが、句碑であるように思えます。記念碑の場合、わりと文字が鮮明なケースが多いこと、かたちがユニークなことなどから想像してですが。配置的には、鳥居のすぐ後ろ、灯籠の隣となりますので、八坂神社に属するものであることは確かです。

八坂神社(山口市陶)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶 1339
※Googlemap にあった「春日神社」の MAP と住所です。当社は春日神社の境内社となります。

アクセス

最寄り駅は四辻です。ただし、陶と鋳銭司の寺社や史跡をぐるっと一周して来たので、道順は整理中です。

参考文献:『陶村史』

八坂神社(山口市陶)について:まとめ & 感想

八坂神社(山口市陶)・まとめ

  1. 明徳年間に、大内義弘が京都祇園社から勧請したのが起源。
  2. 元々のご鎮座地は岩砂山だった
  3. 明徳年間、諸国に疫病が流行した際、義弘は当社において七日間祈祷を行った
  4. 続く応永年間、害虫の被害に見舞われた時、大内盛見はやはりこの神社で、七日間祈祷を行う
  5. 明徳、応永の疫病、虫害ともに、祈祷により鎮まったことから、祇園社の威光は高まり、大内氏に大切にされた
  6. 大内輝弘の反乱により、社殿は焼失したが、毛利氏の時代になっても引き続き地域の祈祷所として大切に扱われたらしい(再建してもらえた)
  7. 明治時代となり、総本社とともに八坂神社と改名。そのご現在地である、春日神社の境内に遷された
  8. 山口市街にある八坂神社同様、祇園祭が行われており、九日にも渡って続くため「九日祇園」という
  9. 祭の際には、春日神社の御旅所を使っている

『陶村史』はとても優れた郷土史であり、学ぶところ甚大です。しかし、発行年代が古いため、現在では失われたものがまだ存在していたり、現在とは異なる説が載っている可能性はあります。そうだとしても一見の価値どころか、座右に置くべき貴重なご本です。残念ながら、現在は手に入らないので、古書店で探しました。どういうわけか、元の持ち主の方は、正護寺の部分をマーカーペンだらけになさっておられ、よほどの思い入れがおありだったのだろうな、と開くたびに思います(目立つんだもん)。

その『陶村史』が、現在は春日神社の一境内社となっている八坂神社、かつての祇園社をわざわざ一項目立てて解説しておられます。だからというわけではありませんが、ココでも、春日神社とは別扱いとしました。だって、大内義弘、盛見兄弟が、それぞれここで祈祷をしたとか、それだけでも大ニュースですよ。現在は摂関家の氏社の境内社扱いとなっていようが、そんなことは関係ありません。

境内社なのに、どデカい社殿が建っていたり、ものすごい由緒をもっているという例は珍しくないため、特に驚くことでもありません。それよりも、山口市街に立派な祇園社があったのに、なにゆえ陶に来て祈祷したんだろうか、という点が気になっています。疫病や虫害が、市街ではさほどではなく、陶の地が被害甚大だったからなのでしょうか。それとも、両祇園社ともに、祈祷は行われたという意味なのでしょうか。

正護寺にある「ボウ虫墳」という謎の供養塔。アレ、未だに意味がわかりません。陶の地でかつて起こった大規模な虫害と、何らかのかかわりがあるように思えてなりません。大量の虫が死んだのを供養して建てられたということでしたが、祈祷の結果虫がバタバタと倒れ、害はおさまった。しかし、虫も気の毒なので供養した、そんな風に考えてしまいました。まるで見当違いだったら、笑われちゃいますけど。

こんな方におすすめ

  • 祇園信仰の方
  • 神社巡りが好きなすべての方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

なんで、ご先祖さまの建てた神社が摂関家の神社の摂社なんだろう?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(ソコ、わかんなくて困ってるから、黙っててくれないかな……)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

しかし、大内輝弘ってなんで、あれもこれも燃やすんだろ? どんだけ燃やせば気が済むんだろ? お家再興とか口先だけでさ、文化財燃やして自滅しただけじゃないか。特に陶での被害が甚大と思うのは気のせいかな?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

いや、市内でも燃やしてるよ(今は市町村合併して、どこもかも市内だけど)。燃やしたのか、燃えたのか知らないけどね。

畠山尚順アイコン(卜山)
卜山

合戦に巻き込まれて失われた文化財は数えきれない。京都も奈良も、いにしえから続く寺社は「建築物」的にはほとんど残されていなかったりする。しかし、それが見事に再建されて現在に受け継がれていることを以てよしとすべきだろう。建物はなくなっても、信仰は受け継がれている。

宗景アイコン
宗景法師

上手く躱してくれたな。礼を言う。燃やした人物に思い入れがある者が目にしたら、この空間が燃やされる危険がある。彼らは無防備すぎて見ちゃおれん。

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます
※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-関連史跡案内