大内氏歴代当主の世代順について、このサイトでは一貫して「新撰大内氏系図」を使っております。これは、大内氏研究の権威であらせられる先生方が、残された同氏の系図類を様々な史料で確認しつつ、基本は大内氏当主の自己申告に基づいて整理なさったものです。あくまで「自己申告」ですから、歴代当主にも漏れと抜けがあります。ナニソレ、どういうこと!? とお思いになる方は多いであろうかと。
守護家の当主が誰であるかを承認してくれる、権威認定機関としての幕府によって家督を認められたのに、大内氏内部で認められなかったケースがあるということです。要するに、兄弟相争うなどして、幕府認定者が追い落とされてしまったわけ。そうなると、幕府の記録には載ったとしても、大内氏内部の記録には載りません。追い落とした側(勝利した側)によって抹殺されてしまうからです。
幕府が認めていた側を正統ととれば、家督の簒奪となります。しかし、幕府の認定が「家」の総意に合わないものであったならば、都合のいい人物を後釜に据えられて迷惑となります。兄弟たちが自発的に血で血を洗う闘争の末、勝利者から当主として承認して欲しいと訴え出た場合もありますし、その辺りの諸事情は様々です。今回は、こうした「兄弟同士の闘争」の末、幕府に承認されたのに家督を維持できなかった人物、大内弘茂にスポットをあてたいと思います。
大内弘茂とは?
二十四代当主・弘世の子で、義弘、盛見などの歴代当主の弟にあたる人です。兄・義弘がのちに「応永の乱」と呼ばれる将軍・義満に対する叛乱を起こした際、兄に付き従って東上し、幕府軍と戦いました。義弘の叛乱は失敗に終わり、義弘はじめ多くの将兵が犠牲となったのは周知のごとくです(受験参考書でも、要暗記項目となっております)。
義弘の戦死を以て、叛乱は幕府方の勝利となり終結したわけですが、その時点で弘茂は存命していました。叛乱軍が築いた砦のうち、弘茂が楯籠もっていた東側の砦は守りに固い地形で容易に落とせなかったゆえにです。兄の戦死を知った弘茂は自らも命を絶とうとしたといわれていますが、家臣に諭されて思い止まり、幕府方に降伏します。幕府は義弘が治めていた防長二ヶ国以外の地をすべて没収した上で、弘茂の命と大内氏の存続を許しました。
義弘は出陣するにあたり、弟・盛見を国許に残し、後のことを託していました。幕府は弘茂に盛見の討伐を命じて帰国させます。幕府としては、降伏してきた弘茂の命を助け、大幅に削られたとはいえ大内氏の家督も認めたわけです。このことから、弘茂を義弘に継ぐ当主として数えているご研究もあります(『大内氏実録』など)。
実の兄を討伐しなければ家督を継げないという悲惨な状況に追い込まれた弘茂でしたが、兄・盛見も一歩も譲らず、両者は合戦に及び盛見が勝利します。幕府はなおも、盛見を当主とは認めたがらず嫌がらせは続きましたが、最終的には幕府の後援を受けた血縁者は誰ひとり盛見を倒すことができませんでした。結局は諦めた幕府が盛見の家督を承認するかたちで内訌は終結します。当然のことながら、弘茂の家督は大内氏の系図では認められず、「弘世ー義弘ー盛見」となり、弘茂は数に入っておりません。
大内弘茂・基本データ
生没年 ?~応永八年(1401).12.29
父 大内弘世
幼名、通称 新介
官位等 周防・長門守護(暫定※)
法名 眞休院殿日庵浄永大禅定門
(出典:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、※『大内文化研究要覧』)
五分で知りたい方用まとめ
大内弘茂・まとめ
- 大内弘世の子で、義弘、盛見の弟
- 応永の乱に際して、兄・義弘とともに東上し、幕府軍と戦ったことで知られている
- 義弘が戦死し叛乱が鎮圧された際、弘茂が楯籠もる砦は堅固な要塞だったため、まだ存命していた
- 兄の死を知って、後を追おうとした弘茂を家臣の平井道助が説得。幕府に降伏させた
- 幕府は降伏した弘茂を許し、大内氏の支配領国を防長二ヶ国だけ残して没収。弘茂を二ヶ国の守護とするとともに、義弘から留守分国を任されていた兄・盛見の討伐を命じた
- 弘茂の帰国で、いったん豊後に逃れた盛見だったが、その後長府に帰国。両者は戈を交えることに。兄弟間の争いは盛見の勝利で終結
- 長府下山での合戦で敗れた弘茂は戦死。最終的に、義弘の後継者の地位は盛見に決まる
- 弘茂の墓所があったと思われる寺院については記録も失われ、いずこに埋葬されているかも不明となっている
「応永の乱」勃発
大内義弘が、将軍家に物申すという形で叛乱を起こしたのが「応永の乱」です。当時の将軍は三代・義満、室町幕府が最も輝いていた時代。大内氏の勢力がどれほど肥大化していたとしても、幕府に楯突いて敵うはずがありません。そうと分かっていて(分かっていなかったのかも知れないですが、恐らくは分かっていたと思います)なぜ、勝つ見込みのない戦に赴いたのか、ここは極めて難解です。深く考えなければ、足利義満の有力守護弾圧政策に引っ掛かって始末された、という参考書通りの記述で問題ありません。ちなみに、「応永の乱」という呼び方は、単にこの事件が応永年間に起きたゆえにつけられた後世の命名です。
弘茂、兄と共に東上
義弘はこの戦に赴くにあたり、弟・盛見に留守分国を任せます。いっぽう、もう一人の弟・弘茂は共に東上する軍勢に伴って行きました。将軍がいるのは都なので、上洛ではないのか、と不審に思われたかも知れません。しかし、義弘は「上洛せよ」という義満将軍の下知に逆らい、都へは上らず守護領国の一つだった和泉国堺に留まりました。ゆえに、上洛ではなく、東上なんです。
義満は絶海中津という義弘とも交流のあった五山僧を使者として、なおも上洛を促しますが、義弘は最後まで否を貫きました。将軍からの上洛命令は無視し、勝手に都付近に大軍を率いて来ている時点でもう、叛乱者確定です。後は「討伐される」のみとなります。
この辺り、将軍の命に従い、取り敢えず面会してみたらどうかという家臣の意見もあった模様です。しかし、義弘自身が頑なでした。「一戦交える」という意見のほうに大賛成し、戦の支度を始めます。
堺に要塞を築く
堺にでんと構えて動かなかった義弘は、家臣らの意見も取り入れつつ、防御施設を建設します。将軍から叛乱者扱いをされ、幕府軍と戦闘ということになれば、受けて立たねばなりません。戦って何時如何なる時も似たようなものだと思いますが、先ずは自らの陣地構築ですよね。
いわば突貫工事のようなもので時間も人出も限られた中ではありましたが、東西南北に砦を築き、来たるべき合戦に備えました。詳細は応永の乱についてで記すことにするため、ここでは省きますが、わずかな期間でなかなかに堅固な要塞が完成したらしく、義弘もご満悦だった模様です。実際、幕府軍は、義弘が勇猛果敢な将であることとこれらの砦群が堅固であったことから攻めあぐねたようです。
しかし、どうあがいたところで、幕府軍の大軍に敵うはずはありません。敵軍は砦に火を放ち焼払うことで、堅固な要塞を無効化する案に辿り着きます。誰も消火活動をしなかったので、叛乱が鎮圧された後も火災が止まず、一万軒もの家屋が燃えてしまったと言いますから(『大内氏実録』)とんでもないことです。
さすがの義弘も、砦は炎に包まれ、多くの配下を失った中で最後は力尽きて果てます。
地の利を得た要害・東砦
義弘や配下の忠臣たちが倒れて逝った中で、一人弘茂の砦だけは持ち堪えていました。なぜなら、「水田に臨む要害の地」にある守りに固い砦だったためです。むろん、最後に残った砦ということで敵軍の集中攻撃の対象となり、すぐに風前の灯火となりましたが。この時には、兄・義弘戦死の報が届いていましたので、弘茂ももはやこれまでと、兄の後を追おうとします。
ところが、同じ砦にいた平井道助という家臣がそれを思い止まらせました。『大内氏実録』などでは、大内氏が滅亡せずに残されたのは平井のお陰のようなことを書いていたような記憶があり、功績甚大としています。しかし、執筆者的には「なんで?」としか思えません。結果論ではありますが、留守分国を守っていた盛見が義弘の家督を継いでいますので家がなくなるなんてことはなかったですし、兄の壮絶な戦死の陰でこの人一人助かるって何となく……。
弘茂降伏と大内氏家督安堵
降伏したら命は助ける、それまでの地位や身分もそのまま……と言われ、臣従する。普通にあることですが、こと、応永の乱に関しては、将軍家からそのような申し状があったという話は聞いたことがないような。弘茂本人には当初、そんな気はなかったわけですし。それこそ、平井という人が奔走したお陰ではないでしょうか。何となく後味が悪い終わり方です。
将軍家の「恩情」
大内氏は名門であるし、ここで潰してしまうのも心許ないから、許してやろう。しかし、義弘が大量の分国を支配していたのは多すぎるから、根幹地である周防長門両国のみとする。というようなことが、幕府から提示された内容でした。さらに、現在留守分国を預かっている盛見を討伐するように、という命令も下されました。
領国が削られるのは理解できますが、盛見さんが討伐対象となったのはなぜなんでしょうか。遠く離れた場所にあっても、気持ち的に、将軍家とは絶対和解しない。徹底抗戦だ! とでも旗印を明確にしていたのですかね。理由はどうあれ、兄弟相争えば大内氏の勢力はさらに削れますから、願ったり叶ったりではあります。
二ヶ国に減らされたとはいえ領国も守られ、自らの命も助かりはしたものの、国許の兄を討伐しろといわれて弘茂さんはどう思ったのでしょうか。どなたも書いてくれていないので、不明です。というよりも、本人に聞くことは不可能なので、誰にもわかるはずがないですが。
幻の「家督」
この時点で、弘茂は義弘の後を継いだと見なされております。『大内氏実録』などでは、この人を「義弘ー盛見」と続いた家督継承の間に挟み込み、当主として数えております。確かに、幕府から所領を認められ、盛見討伐の命令も下っている時点で当主扱いされているととれます。
ここですんなりと、弘茂が盛見を討伐することに成功していれば、それこそ幕府の思い通りの人事となったのです。しかし、どうやら考えが甘かったようです。
義弘戦死、弘茂帰国などの報がもたらされた後、盛見はいったん豊後に逃れます。討伐対象にされた場合、弘茂には幕府の命を受けた他家の援軍がつくこともありますし、戦うにも準備が必要でしょう。九州において、態勢を整えたものと思われます。
それを証拠に、弘茂は帰国した盛見の敵ではありませんでした。応永の乱が起こったのが、応永六年、盛見が弘茂に勝利したのが、応永八年ですので、二年間ほどの間、両者は争っていたことになります。
幕府が認めてくれた当主の座は、こうして、弘茂の手の内から離れていったのでした。
弘茂の死
長府での合戦
弘茂と盛見の合戦について、詳しいことはわかりません。『大内氏実録』だけを見ておりますが、盛見は豊後から長府に帰国。「四天王寺山の毘沙門堂」で弘茂と戦ったとあります。応永八年冬十二月二十六日のことです。弘茂はこの合戦に敗れます。
ついで、十二月二十九日、下山(豊浦郡江良村)で再び合戦があり、弘茂はこの際に戦死した模様です。
両者の合戦が、この二回だけとは思えませんが、現状手許で確認できたのはこれだけです。
菩提寺の行方
法名が「眞休院殿日庵浄永大禅定門」(参照:『大内文化研究要覧』)となっているので、真休院なる寺院に埋葬されたと思われますが、『大内氏実録』には、「真休院旧址不明」と書かれています。「阿武郡萩天樹院」に、「真休院住持職事」という文書があったようですが、天樹院は廃寺となってしまい、その文書の行方もわからないとか。
残念ながら、墓所の特定は難しいのかと思われます。『大内文化研究要覧』でも、墓所の欄は空欄となっておりました。
雑感
常に思いますが、この家の歴史を語る際、兄弟相争う話を何度話題にしなくてはならないのでしょうか。ほとほと嫌気がさしてきました。世に二つの太陽は並び立たぬゆえ、互いに家督を欲すれば、争いは避けられません。しかし、こうも毎度毎度起こっていると、大人しく次男、三男やってられないのか!? と思うことがあります。
ただし、この弘茂という人については、応永の乱に参陣して生き残ったという稀有な経歴があります。普通に考えれば、幕府に楯突いた人物の関係者が許されるとは到底思えません。しかも本人は、兄・義弘討死の報をきいて、その後を追おうとしていたのです。それを、家臣の説得で思い止まり、降伏する!? 理解しがたい流れ。しかも、それが許されるという……。
応永の乱を、足利義満の有力守護弾圧政策の一環ととらえれば、義弘が敗死した段階で目的は達成できています。大内氏に先んじて、弾圧対象となった山名氏なども家が滅びる事態にはなっていません。要は巨大化しすぎた守護たちの勢力を、危機感を覚えぬほどに削ぎ落とせば満足だったものかと。その後、山名氏や大内氏がまたしても巨大化していったのは(山名氏については、応仁の乱の頃を言ってます)皮肉なことですが。
学者が扱う史料とやらには、淡々と5W1H の典拠が載っているだけです。最近は、一般向けに書き下されたご本の中で、当人たちの裏側の思いについても触れてくださる先生方もおられます。しかし、どれだけ権威ある先生方のお言葉であっても、それは推測でしかありません。本人が日記でも書いており、そこに自らの思いを綴ったものが史料になっていたりすれば別ですが。
共に戦っていた兄・義弘さんが己より先に亡くなったと知り、弘茂さんは後を追おうとした。それなのに、期せずして、自らは生き残ることになってしまった。しかも、命は助かったものの、もうひとりの兄・盛見さんを討伐しろという非情な命令が下る……。本人の心情はいかばかりだったのかと考えると、察するに余りあります。もちろん、これは先生方どころか、素人の適当な推論に過ぎません。どこにも、本人はこう考えていた、という史料はありませんから。ひょっとしたら、運良く生き残れた上に、領国が減らされたものの当主になれる! と考えなかったという証拠はありません。ですが、上からの命令ゆえ仕方ないと、涙に濡れての帰国であったとしたら、本当にとんでもない悲劇です。それは、倒した側の盛見さんについても言えます。
本人たちが家督を巡って争う中に、幕府という公権力が意見してきたという状況が挟まっているため、この争いに関してはほかの同様な争いにも増して悲哀が漂う気がします。「家督」という言葉の魔力に取り憑かれて、血を分けた兄弟であろうとも争うという例は数知れません。むしろ、この時代においては普通のことだったかと。しかし、第三者に命じられて親族を討伐させられるというのは、現代人の思想では到底理解できません。当事者同士の心の中までは推し量ることは不可能ですが、何となく相争った二人ともが、辛い思いを抱えていたのではないかと同情してしまいました。
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』
悪いのは「幕府の偉いやつ」ってことだな。弘茂という人が勝利していたら、その後も「当主にしてもらった御恩」という要らぬ配慮をさせられ続けただろう。そこが狙いだったのかも知れない。それより、応永の乱を起こした先祖についての文章が出来上がっていないので、ここはどこにも繋げない記事になってるね。ミルはいったい、何をしているんだろうか。「緑髪将軍」のせいで、足利家にも媚びを売っているから、義弘公の記事が書けないんだろうね。