人物説明

大内満弘 父に代わって兄・義弘と戦う(康暦の内訌)

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反対意見を唱えるのには意義がある。by : 五郎

大内氏が室町幕府に帰順し、中国地方は北朝優勢となります。残るは九州だけ。最初のうちこそ幕府に協力的だった弘世は、やがて自らの領土拡大にシフト。味方勢力の留守分国に手を出す有り様に、見て見ぬふりはできない幕府は弘世の石見守護を没収。面白くない弘世は、南朝に鞍替えしようと考えるほど憤懣やるかたなし。

一方で、嫡男の義弘は父とは裏腹に、九州探題を助けて大活躍。父と子の間には微妙な温度差が。ついには、内訌にまで発展する事態に。

今回は、父・弘世に代わり、兄・義弘と戦った弟・満弘の数奇な運命について見てみたいと思います。

大内満弘とは?

大内氏二十四代当主・弘世の子で、二十五代・義弘の弟です。兄とともに、九州探題・今川了俊を助けて九州平定に力を貸したことで知られています。九州平定や幕府との関係について、父・弘世と兄・義弘の意見は食い違っていました。弘世は過度に幕府のために尽すことを嫌い、自らの領国拡大に専念しようとしたことで、幕府の怒りを買います。結果、石見守護職を取り上げられることに。あわや、再度宮方に転向かと思われるほど立腹した模様です。

家中には弘世同様、幕府に臣従するのを快く思わない者が多く、幕府の体制は固まってきたのだから、大人しくしたがっていたほうが無難とする義弘とは意見を異にしていました。やがて意見の対立から家中を二分する内訌にまで発展。満弘は父・弘世に代わって、義弘と対立する勢力を率いることになります。幕府の介入で、戦闘は義弘派優位に終結。満弘も咎めなく、石見守護を得ることで和解します。

上洛した兄に代わり、九州の南朝残党討伐に向かった満弘は、筑前で戦死しました。

大内満弘・基本データ

生没年 ?~1397
父 弘世
兄 義弘
幼名 三郎
官職等 伊予守、豊前守護代
法名 雲泉院心満月峯
(典拠:『大内文化研究要覧』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』)

五分で知りたい人用まとめ

大内満弘・まとめ

  1. 大内弘世の子で、義弘の弟、盛見の兄
  2. 九州探題・今川了俊を助け、兄・義弘と共に九州平定で活躍
  3. 幕府との関わり方について、父・弘世と兄・義弘の間で意見の食い違いが生じた。幕府に忠実であるべきと主張する義弘に対し、弘世は幕府には非協力的で、自らの領国を増やすことに専念した。これらの相反する二つの考え方により、家中は二つに分裂。満弘は父・弘世に代わり、義弘の意見に反対して兵を挙げた(康暦の内訌)
  4. 内輪揉めは、傍流の一門などを含む弘世に同調する家臣が多く満弘に賛同し、長門、安芸、石見など広範囲に展開し、義弘は苦戦した
  5. 幕府に忠実であれという義弘には幕命を受けた勢力が加勢。満弘は次第に追い詰められたが、姻戚関係にある石見の益田氏などの力を借りて奮戦。最後は幕府が仲介に入って両者を和解させた
  6. 満弘は何ら処罰されることもなく、石見守護職を与えられるなどして懐柔されたが、父・弘世はこの結末を知ることなく他界。以後、幕府に従うという義弘の意見が大内氏の意見となった
  7. 将軍・義満の忠実な家臣として尽した義弘は、幕府のために活躍し、多くの恩賞を得た。しかし、肥大化した勢力を危険視する義満の有力守護弾圧政策の犠牲となり、後に「応永の乱」と呼ばれる叛乱を起こした末に亡くなる
  8. 満弘は、兄が叛乱を起こした二年前、幕府の命で弟・盛見とともに九州の南朝残党を討伐に向かった際、筑前で戦死

当主と嫡男の対立で家臣も真っ二つ

九州探題支援

南北分裂の末期、武家方諸勢力は、九州探題を助けて南朝勢力の息の根を止めるために駆り出されます。海を挟んで九州に臨む大内氏も例外ではありません。ことに、あまりアテにならない他家の軍勢とは異なり、強力な軍事力を持つ当家の活躍が大いに期待されるのは当然です。

血気盛んな宮方の勢いに押されて、這々の体で逃げ帰るしかなかった歴代の探題たちに付き合わされていた北朝帰順後の大内氏でしたが、今川了俊という文武の将が着任すると鮮やかな手並みで大宰府を陥落させます。大宰府は九州の中心ですから、先ずは大仕事を成し遂げたわけです。ところが、それを見届けた大内弘世はそそくさと撤退してしまいました。驚いたのは探題さまです。確かに大宰府を落とすことは大きな課題でしたが、それだけで九州平定が成し遂げられるはずはありません。単に、最大の拠点を落とした、というだけです。いつまた奪還されるかも知れません。案の定、大内軍が去った途端に、探題は苦境に立たされることになります。

了俊は弟・仲秋の娘を義弘に娶せていました。当然のことながら、九州での任務をしっかりやり遂げられるように、大内氏との間に友好関係を結んでおこう、との思いからでしょう。けれども、弘世には探題を助けて面倒な九州のことに付き合わされる気はさらさらなかったと見えます。それを証拠に、帰国後は東へ向きを変え、安芸国に侵攻し始めました。

ここで、弘世・義弘父子の間には、微妙な温度差があったようです。義弘のほうは九州へ向かい、再び探題を助ける道を選んだのです。

この時、満弘も兄とともに、豊後に渡海。婚姻関係にあった大友親世も味方に引き入れ、肥前に釘付けとなり動けずにいた探題と合流し、宮方の主力・菊池氏などに大打撃を与えます。淡々と書いておりますが、そこに至る道は苦難の連続でした。義弘はもちろん、満弘もよく兄を助け、活躍したことでしょう。

幕命に背いた父

いっぽう、大内弘世が最後まで今川了俊を助けずに帰国してしまったことは、かなりの大事になってしまいました。幕府からの探題を助けよ、という命令を蹴って勝手な行動をしてしまったわけなので、けしからんということで、石見守護職を没収されてしまいます。ただし、義弘が引き続き活躍を続けたことで、石見守護は父から子へと移されただけでした。

ところが、弘世が侵攻した先にはかなり問題があり、幕府首脳部から疑いの目を向けられてしまいます。安芸国の国人・毛利元春(なんだか聞いたことある名前だけど当然別人)は、探題に付き従って九州にいました。弘世はその留守を狙って元春の領地に侵入したのです。まだ南朝が健在である以上、各家ごとに両派に分かれて争っているケースは数えきれません。毛利元春のところもそうで、南朝のシンパであったかどうかは別として、元春と対立関係にある身内の人々が存在していました。弘世は彼らの手引きで留守国に侵入したのです。

幕府からしたら、元春は探題に属して戦っている最中の味方勢力。その留守に侵入するなどもってのほかだということになります。この件について、幕府内部にはさまざまな憶測が飛び交ったようです。毛利元春の身内らが南朝に内通しているだとか、弘世その人までじつは南朝に寝返ったのではないかと疑う意見すらありました。実際、弘世は再び南朝に与しようとすら考えていた模様で、管領に説き伏せられて何とか思い止まったと年表に書かれていました(永和二年、1376、参照:『大内文化研究要覧』)。

「二つの意見」

松岡久人先生がおまとめになった義弘の伝記『大内義弘』によれば、この頃の大内氏内部には大内氏が進むべき道(取るべき『路線』)について「二つの意見」があって、それぞれ対立していたといいます。およそ以下のようなものです。

一、南北朝のゴタゴタはそう簡単には終結しない。幕府に付き合って、いつ終わるかもわからない九州での戦闘に参加しても、疲弊するだけである。ムダな努力をして戦力を消耗させるよりも、この機会に自らの勢力拡大をはかるべきである。

一、幕府による天下統一はそう遠くないと思われる。今のうちからきちんと協力し、良好な関係を築いておいたほうが将来のためになる。

一つ目の考え方に基づいて動いていたのが弘世であり、二つ目に従って幕府のために尽くしたのが義弘だったとなります。

普通に考えて、幕府の言いなりに働かされるのは面白くないし、領土だって拡張したい。その意味で弘世の「行き方」に賛同する向きは多かったようです。しかしながら、弘世が鷲頭家との争いに勝ち、なかば世襲のように周防・長門の守護職を安堵されたのは誰のおかげでしょうか? 鷲頭家を倒したのは確かに弘世ですが、自らの手で幕府を開いたのではない限り、守護職など権力者の言うがままにいつ失われるかも知れないものです。家そのものが滅ぼされる可能性すらあります。

幕府なんて邪魔だし、好き勝手にしたいのにと思うのは当然ですが、大切な守護職は彼らのおかげで安堵されています。嫌われたらすべてを失う可能性もあるという意味では、「反抗してはならない」相手なのです。それでもなお、我が道を行きたいのであれば、征西府に加勢してそちらで守護職を安堵してもらう。あわよくば、彼らに天下を取らせ、自らを征夷大将軍にしてもらう、そのくらいの気概がなければ。

再度、南朝に鞍替えすることも、一応は考えたようです(年表)。しかし、征西府そのものがもうダメであることは目に見えているので、好むと好まざるとにかかわらず、幕府権力に逆らうことは得策とは言い難いような。ドサクサに紛れて、ちょいと領土を拡張しても見許しにされるためには、まずは全身全霊かけて探題を助けなければ。それに、武家方勢力の領地を掠め取ったらダメで、目を付けるなら南朝側の領地にしないと。あれこれメンドーで、確かに嫌になりますね。それゆえにか、幕府なんて、探題なんてどうでもいい。我が道を行くべし、という弘世の意見に賛同した家臣たちは相当数にのぼったようです。なおも幕府に忠義を貫く義弘の一派と、やがては、家中を二分する争いにまで発展する事態となってしまいました。

父に代わって兄に宣戦布告

単なる意見の相違は武力衝突にまで発展し、それはかなり大がかりなものとなります。ただし、弘世と義弘という親子間の戦闘ではなく、義弘と弟・満弘との争いとして勃発しました。おそらく満弘は父の代理であり、それゆえに、多数の家臣、軍勢を導入できたのでしょう。義弘は弟との戦闘に苦心することになります。結論からいうと、義弘が勝利を収め、ここで満弘に代替わりするという事態にはなりませんでした。

そもそも、満弘は兄を助けて探題の九州平定を手伝っていました。親子はもちろん、兄弟間にも憎悪のような感情はなかったものと思われます。しかし、家中が二つに割れているという状態は好ましくありませんから、いずれはどちらか一方にまとめねばなりません。満弘が兄と意見を異にする勢力を率いて立ったのは、父の代理だとしても、本人にも「我が道を行く」という意見に賛同する思いがなければ引き受けられない任務です。だとしたら、九州で探題の支援に徹していた時も心中穏やかならぬものがあったのでしょうか。

真相はどうあれ、武人たるもの戦闘を開始したら、後は勝利を求めて命を懸けるのみです。現当主である父・弘世の後ろ盾があったゆえにか、当初、戦いは満弘有利に経過し、義弘は苦戦を強いられることになります。

長門・栄山

義弘・満弘兄弟の内訌がいつ勃発したのか、正確なところは不明なようです。しかし、「長門・栄山の戦い」については記録があります。康暦二年(1380)五月十日だそうです。満弘は合戦に勝利し、栄山を占拠。義弘の主立った家臣二十数名を討ち取ります。

この地での戦いは五ヶ月という長期間に渡りましたが、最終的には義弘の勝利に終わり、栄山は陥落しました。

安芸

長門と安芸の戦いは、時を同じくして起こりました。同時に二箇所で火蓋が切って落とされれば、一箇所に集中できません。安芸国には弘世がちょっかいを出していたくらいですから、多くの軍勢も集められました。けれども、満弘方の予想に反して、こちらは大敗北となり、壊滅してしまいます。それはなぜか?

我が道を行こうとした弘世に対し、義弘は幕府に忠義を尽す道を選びました。幕府としては、自らに与する義弘を援助する必要があります。幕府からの援軍について、満弘方は考慮しなかったのでしょうか。やはり公儀を敵に回すのは無理があったようです。

石見

石見の豪族・益田氏は、最初、幕命に応じて、義弘を助けていました。しかし、中途で、軍勢を引返してしまいます。益田氏当主・兼見の娘は満弘に嫁いでおり、孫娘は満弘の子・満世に嫁いでいました。長門・安芸で敗れた満弘が兼見を頼り、婚姻関係の縁から満弘方に転じたのでしょう。幕府は石見勢にも義弘援助を命じていましたが、益田氏のみならず、福屋氏も満弘方についたため、義弘方はここでも苦戦を強いられます。

幕府の調停と「円満」解決

戦いの終結

内戦状態は周防・長門・石見・安芸を舞台に一年余も続きました。しかし、九州から帰国していた義弘の機敏な行動によって、満弘方は勝利を手にすることができませんでした。本来ならば、兄弟同士の争いは家督をめぐってだったりするはずで、どちらかが倒されるまで続くのが普通。しかし、この争いは、兄弟ともに平穏無事なまま終結するという、稀有な事例となりました。

多くの家臣が犠牲となったこの揉め事の意義とはいったいなんだったのでしょうか。家中の意見分裂をまとめた、という一点に尽きます。いわゆる一門といわれる傍流の家臣たちから、多数の戦死者が出ました。本来ならば、最も親しい人たちのはずなのに。つまりは、そのような方々の多くが、弘世さん同様、「我が道を行きたい!」と思っていたということでしょう。幕府の援助がなかったら、義弘の身も危うかったかも知れません。そのくらい、状況は深刻だったのです。結果として、義弘が勝利し、家としての意見が幕府の意向に従う方向に決定されました。

和解

のちに何度も同じような例を目にすることになるけれど、家中に不満分子が現われ、何らかのほころびができた時、そこにつけ込んでその勢力をとことん弱体化させるのが、幕府や管領たちの常套手段。この時点では、安定期にはほど遠く、大内氏による援助を必要としていた幕府にとって、幕臣としての道を選択した義弘を助けることは緊急課題でもありました。兄弟は幕府の斡旋によって和解したのです。

満弘にもお咎めがないどころか、石見守護をもらうことで円満に兄と和解したことになっています。親戚筋の益田家もそれまでの権益をすべて保護してもらうことができました。

二人の父・弘世さんは、この内戦の終結を待たずして亡くなっています。義弘・満弘兄弟の争いは、大内氏が「将来進むべき道」を決定づけました。しかし、満弘の思いが父と同じだったとするならば、この終結は望んだ結果とは異なるものとなります。内訌前と内訌後、兄弟間には果たして、何のわだかまりもなかったと言えるでしょうか。父の望みを叶えられなかったことは、満弘にとって無念であったかもしれません。石見守護を与えられただけで、気分よくなれるものでしょうか。

無念の戦死

兄・義弘とともに、九州平定のために尽力し、後には父の意見を代弁して兄と戈を交えるまでになった大内満弘。石見守護職を認められたとはいえ、「我が道を行きたい」という父の遺志を継ぐことは叶わず、引き続き幕府のために働かされる道を歩まされます。

九州平定を成し遂げた今川了俊は探題の職を解かれて帰国。忠実なる幕臣となった兄・義弘は西国に下向した将軍・義満の船に便乗して都の人となります。「平定」されたはずの九州にはなおも、南朝残党が生き残っており、そこここに火種を撒き散らしていました。上洛中の義弘は、将軍から下された凶徒退治の命を、留守分国の弟たちに任せます。

満弘と盛見の兄弟は、五千の兵を率いて頑強な敵に立ち向かいました。勝利を得ることはできぬまま、満弘は筑前・八田にて、無念の戦死を遂げました。時に、応永四年(1397)のことです。

翌年、義弘は周防に帰国し、自ら凶徒を討伐します。ところが、幕府に対して忠実な人であり続けた義弘は、将軍からの恩賞が山となり、その勢力侮れぬものと見なされるに至ります。やがて、将軍・義満の有力守護弾圧政策の犠牲となった義弘は、後に応永の乱と呼ばれることになる叛乱を起こし、自らが幕府に討伐されてしまいます。満弘の死から二年後。応永六年(1399)のことでした。

我が道を行くか、幕府に対して従順であるか、いずれかの道を選ばざるを得なかった分かれ道。後者を選んだ義弘が反対意見を掲げた満弘や弘世を含む多くの人々に打ち勝つことで、義弘の意見が大内氏の「総意」と決定づけられたはずです。もう一度、選択地点に戻ることができたなら、それでも同じ道を選んだでしょうか。

康暦の内訌で、もしも、満弘が勝利していたのなら? 歴史を書き換えることは不可能ですし、いずれの道を選んでも、最後は幕府に屈服する運命だったことでしょう。中央政権が次第に求心力を失っていくのに反して、大内氏の子孫は繁栄していきます。兄弟二人の犠牲は、この時点では避けられぬものだったのかもしれません。

参照文献:『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『大内義弘』(松岡久人)

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五郎

幕府って、守護代認めてくれたりするところだよね? 弱々しくて、何の力もないのに。

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ミル

それはね、君。戦国時代ともなって、弱々しくなってからの話ね。まあ、南北朝期もある意味、弱々しかったと言えるけど。全国統一した一瞬は光り輝いて怖かったんだよ。

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五郎

ふーん。自分で幕府を開くしかなさそうだなぁ。俺、人様の指図とか面倒。征夷大将軍とかいうのになればいいんだね。

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ミル

(なんなくていいから。普通によいところのお坊ちゃますることが、もっとも幸せなり)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
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