人物説明

椙杜氏 三善姓・意見封事十二箇条 & 京下りの輩の末裔

法泉寺さまイメージ画像
弘康に「弘」の字を与えた

大内氏家臣の人を拾い集めています。時間と資金が乏しいため史料など集められず。毛利家家臣となって続いた方々を中心になんとか拾っています。今回は椙杜氏です。毎度系図を書写していましたが、今回からこの不毛な作業は極力やめます。となりの鞍懸山城主・杉隆泰と仲が悪かったという蓮華山城主・隆康だけが認知されていますが、応仁・文明の乱で活躍した人もおり、普通に家臣していました。

椙杜氏概説

三善姓で玖珂郡に居住

椙杜氏が三善姓で、居住地が玖珂郡椙杜だったことから、椙杜と名乗ったことは知っています。でもって、蓮華山城主にして、大内氏を裏切り毛利家にいち早く寝返ったことも。その行いの良し悪しはどうでもよく(誰に味方しようが、その方の自由です)、出自の問題で、まったく別の二つの説に出逢い、混乱しております。

まず、三善姓であることは問題ありません。また、椙杜に居住したゆえに名字の地になっていることもしかりです。けれども、なにゆえに周防国にいたり、椙杜に住むようになったのか、その過程について二説あります。

かたや『萩藩諸家系図』、かたや『玖珂町史』であり、普通に考えると前者が正しく、郷土史には郷土の伝承なども含まれている部分があるのでは? となりそうではあります。しかし、最初に『玖珂町史』を読んでしまいましたので、『萩藩諸家系図』に書かれていることに違和感を覚えてしまいました。さてどうしたものやら。

『玖珂町史』によれば、椙杜氏が玖珂郡に移り住んだのは、上杉憲実に付き従って周防国にやってきたその従者で太田という者が土着した、となっています。その太田さんが三善姓であり、三善氏としての先祖たちについては、『萩藩諸家系図』と同じです(特に詳細な系図が載っていたわけではないですが。解説が同じような内容)。

『萩藩諸家系図』には、上杉憲実の従者などという記述はどこにもありません。さて、どうしたものか。

「椙杜氏は三善姓にして、周防国玖珂郡椙杜郷より起る。 問注所執事三善康信の四男太田民部大輔康連の後裔で、康連七代孫信濃守正康が九州擾乱に付下向の時参内し、問注所を奉り綸旨を頂戴した功により、筑後国行和八百町を賜わり、そこに居住したが、其後周防国玖珂に移り大内家に随逐し、椙杜に居住し、在名によって椙杜を号したという。」

系図には、「問注所執事」とずらーっと書かれておりますから、誇りとして伝えられてきたものかと。だとすれば、どなたかの従者とは考えられません。なお、系図には三善氏の出自としてご大層なことが延々書かれているものの、ご本人たちにもはっきりとはわからないようでして。ここでは、名族の出自についてはどうでもいいことであり、周防国に移ってからがメインですので、恐れながら省略します。

結局のところ、椙杜さん一族が、上杉憲実という方と関係があったのか否かは不明です。しかし、『萩藩諸家系図』に書いてあることが真実だとすれば、どうやら従者の太田という人とは無関係のように思われます。自己申告を尊重すべきでしょう。単なる抜け落ちとも思えません。九州から移って来た方々であると明記されているからです。

従者かどうかの問題はさておき、正康という人が周防国に来て、椙杜姓を名乗ったことが始まりです。

椙杜氏を名乗るも跡継なし

せっかく、椙杜氏を名乗り周防国に定住した正康でしたが、その子・弘康は実子に恵まれなかったようです。桑原氏というところから養子を迎え後を継がせました。この桑原氏と椙杜氏との関係は不明です。しかも、桑原某と書かれているため、お名前すらわかりません。桑原家から来て椙杜を継いだのが、房康という人で、その次が隆康です。ここは普通に父子相続でした。

大内氏に属した後、毛利家臣に

周防に移ってきた太田改め椙杜氏がいつから大内氏に仕えたのか、系図には何ひとつ書いてありません。しかし、移住二世・椙杜弘康が、大内政弘に仕えていたことは『大内氏実録』にも記事があります。応仁の乱にも従軍したようで、摂津での戦いに何度がその名前が出ています。

「玖珂町史」によれば、椙杜氏は義隆が叛乱家臣に倒された時、叛乱者側にいたとか。弘康の養子となった、房康が、「房」の字を用いてるところから、なんとなくそれらしく感じます。ただ、そこには房康の名前は出ておらず、あくまで隆康のこととして書かれていました。父子ともどもに、いちおうは叛乱者についたふりをして難を避けたのかもしれません。

椙杜隆康が蓮華山城主で、毛利元就の防長経略にいち早く協力した話は有名です。当然、毛利家臣となりました。けれども、隆康がまた、実子に恵まれません。系図には兄弟二人と大勢の姉妹の名前があるのですが、二人の兄弟のうちひとりは桑原家を継ぎ、ひとりは何も書かれていませんが、早世したのでしょうか。隆康自身には娘がひとりしか書かれておりません。

この後が興味深いのですが、系図には何も書かれておらず、何事もなかったかのような扱いですが、実は隆康は元就の五男を養子としています(元秋)。けれども、元秋は月山富田城に移ると同時に、椙杜家を去って行きました(なんで去ったのかは説明なく、不明)。仕方なく、弟・元康を養子とするも、元秋の早世により、元康が月山富田城に行ったのでまたしても椙杜家からいなくなり……。最終的に娘婿・志道元保の二男元縁を養子に。これで漸く落ち着いたようです。

娘婿ですし、血は受け継がれましたので、その後も続いていったということでよろしいかと。しかし、毛利家から来た養子の方々が次々去って行ったのがよくわかりませんでした。

『萩藩諸家系図』に見る椙杜氏

富依―氏吉―清行―文江―茂明―雅頼―為長―為康―康光―康信―康連―康有―時連―貞連―時直―清康―弘康―房康―隆康―元緑―元周

やんごとなき家系をつらつら書いても無駄でありますので、大胆に省略いたします。

一、富依 家原宿禰

二、富依に三人の息子があり(系図上)、うち一人が三善を名乗りますが、これが氏吉

三、で、三善清行というのが、「意見封事十二箇条」の人で、参考書にも載ってます

四、康信という方以降、ずっと「問注所執事」、康連という方から「太田」、清康という方からただの治部少輔、正康という方から周防国在住となります。

「問注所執事」は鎌倉幕府の役所の長官。毛利氏の先祖・大江広元同様、「京下りの輩」という方々で、源頼朝にスカウトされて、朝廷を離れ、武家政権を手伝うことになった方々というわけです。爾来ずっと「問注所執事」を歴任。で、正康という方が「九州擾乱に付下向の時参内し、問注所を奉り綸旨を頂戴した功により、筑後国行和八百町を賜わり、そこに居住したが、其後周防国玖珂に移り大内家に随逐し」ですよね。やっぱ問注所。ですが、問注所執事は清康以降系図には書いてません。ここで気付くのは、系図からはさっぱり不明ながら、どこかの時点で鎌倉幕府から室町幕府に移っているはず。いずれにも問注所があったので、混乱します。幕府の名前がかわっても、問注所執事のままだったのでしょうか。何やらよくわかりませんが、さして関心はないので、放置です。

どうにせよ、正康が周防国玖珂郡椙杜に移り、椙杜姓となったことがわかれば十分だからです。

椙杜氏の有名人(大内氏時代限定)

『大内氏実録』に伝が立てられているのは、椙杜隆康だけです。『萩藩諸家系図』で詳しい言及があるのもこの方のみ。じつは、真の意味で活躍した方が抜け落ちておられますから、『実録』から拾い上げてまとめます。いずれにしても、椙杜氏が周防国に移ってから大内氏の滅亡まで、わずかな期間です。先祖代々の重臣でもなんでもありません。毛利家臣となってからのほうが長いでしょうが、前述の通り、嫡男に家督が行くというかたちにはならなかったのは気の毒です。

椙杜弘康

政弘に仕えた。父・正康が周防国椙杜荘に移り住み、椙杜姓を名乗る。後を継いだ弘康は政弘から「弘」の字を賜り、大内氏に属した。応仁文明の乱において、政弘に従軍していたらしく、摂津における戦いに派遣されている。敵城を陥落させたりした戦いに、名前が出てくるので、将として活躍していたようである。

椙杜隆康★

弘康には実子なく、桑原某の子を養子とした。これが房康。隆康は房康の子なので、桑原家の人といった感じ。桑原家と椙杜家との関係は系図からは不明。ただし、その後も隆康の兄弟が桑原家の養子になったりしているから、親しい間柄にあったと思われる。血縁者だった可能性も高い。

隆康については、『大内氏実録』の「帰順」巻に伝がある。以下の通り(原文文語文)

「幼名:十郎。はじめ右京亮、のちに信濃守となる。そのちすじは三善清行から出ている。清行の 遠裔(遠い後世の子孫)太田治部少輔清康の孫・信濃守正康がはじめて周防国玖珂郡椙杜荘に住み、地名を以て氏とした。その子孫・七郎は大内政弘に従い、一字を賜って弘康といった。実子がなく、桑原某の二子を養子にした。これが若狭守房康である。晩年、剃髪して若狭入道宗英と名乗った。隆康の父である。隆康父子は玖珂本郷連華山城に居住した。

三善清行‥‥太田清康 ⇒ 正康(清康孫)‥‥椙杜弘康 ⇒ 房康(養子、桑原某)⇒ 隆康

弘治元年十月八日、毛利元就は岩国から隆康父子に手紙を送り、毛利氏に味方するようにと諭した。隆康父子および桑原源太郎 (隆康の甥であろう) は毛利氏に従った。

この時、同郷鞍掛山の城主・杉治部大夫隆泰も毛利氏に内通していたが、後からこのことを悔やみ、 毛利氏の動静をひそかに山口に報告した。 これに気づいた隆康は、差川村の路傍に兵を伏せて置き、隆泰の使者を捕えて、山口へ宛てた隆泰の手紙を奪って毛利氏に渡した。

十月十四日、毛利氏は隆康および小方隆忠の軍とともに、 鞍掛山城を襲って隆泰を斬った。隆康は隆泰の旧領北方五百貫の地をもらい受けたいと望み、二十八日、元就父子は書状を与えてこれを許諾した。

隆康には実子がなく、志道上野介元保の二男・少輔四郎元縁を養子とした。子孫はいまに続いている。」

これだけしか……。系図に書かれていることが漏れなく記されていることから、両先生とも同じ史料にあたられたのかも。こうして見てくると『玖珂町史』に伝えられている二点の確認ができません。

一、上杉憲実の従者だった
二、叛乱者に与していた

単なる伝承なのか、その裏になにがしかの真実があるのか。二については、普通にありそうですが。いずれにしても、椙杜隆康については、となりの鞍懸山城主・杉隆泰と犬猿の仲だった云々の言い伝えだけが際立っており、ほかのことが埋もれてしまっています。義隆および義長政権下で、いかなる役割を果たしていた人であったのか、あまり浮かび上がってきません。

『実録』本文中に、義隆・義長期の部分で見つけられた椙杜関係者は以下だけです。

・天文八年(義隆期)安芸討伐のため、椙杜善兵衛尉、宇野修理亮、杉二郎左衛門尉等を派遣
・天文九年(義隆期)椙杜善兵衛尉、宇野修理亮等、佐東川口で戦う

・天文二十一年(義長期) 椙杜隆康を備後に派遣

「椙杜善兵衛尉」なる人物が誰を指すのかは不明ながら、系図では、隆泰の兄弟(弟か)元種のところに「善兵衛」と書かれています。元就に仕えたとあります。

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五郎

これきっと、何者か分からない説濃厚な人だね。それらの但書、どこに行ったのかな?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

どうやらコピーを捨てちゃったみたいで。探せません。てか、親族以外、家来にも身元不明者まとめあったっけ?

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

……。(もはや古すぎて記憶にない)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
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