陶興明
五郎、文明九年(1477)生まれ

え? この人も五郎なんだ……。
宗景様はいつも供養塔にお参りに行っているね。

正直、この墓(供養塔)以外には何もない人だよ。
なんの功績もあげていない、という意味ではなく、その活躍についてほとんど史料がないという意味で。
でも、考えてみると、歴史上の人物は大多数が、ほとんどこんなものだよね……。
要するに、普通にまっとうな当主様だったんだ。

存在の証左

海印寺の供養塔

興明、興房両名の系図は、武護のところで紹介したものと同じ。

また、供養塔の話は海印寺でしているので、繰り返さないよ。

今は有名なこの供養塔すら、最初はだれのものかも分からず、どこかにただの古い石塔として転がっていたから、正直、本当に存在したのかどうかすら怪しい人物扱いだった。

大内の系図、それから枝分かれした陶の系図、ともどもに、正確なものが残されていないらしく、研究者の方々は苦労なさった。
さらに言うと、意図的に虚偽を書き込み、それがそのまま継承されていく、という事例もある。

これは、成り上がり者なんて言われている人に多いけど、系図なんてそもそもないような、「どこの馬の骨かも分からない」甲乙丙人が立身出世して天下の統治者になったとする。となると、途端に、官職も天高くなっていく。
「が」そのためには、まず、出自を明らかにしなくてはならない。
どこの誰かも分からない、甲乙丙人が朝廷と交渉することなんかできないのさ。
ま。低い官位なら殿様からもらえたりするかもだけど。

大内本家が、興隆を極めた頃に、大慌てで、出自を明らかにするプロジェクトに取り掛かったのには勿論意味がある。
氏寺・興隆寺を勅願寺に、って運動の過程で、必要に迫られて「正確な」由来を書き記して提出したんだけど、それ以前から朝鮮の王様と接触して、例の多々良浜に流れ着いた琳聖太子とやらの話を具体化しようと試みていたようだよ。

さて、そんなわけで、由緒正しき名門には、先祖代々の由来を記したものが何かしらある。系図もそうした史料とともに保管されていたり、あるいはそれらを元にいつの時代かの人がまとめてたり。
でも残念なことに、五百年生きている僕から言うと、戦国の世が統一されるまで、この国は常に戦乱続き。やがて、維新後の世の中になってからは、南蛮人とまで戦になった。そうした戦火で、燃えてしまった家系図は数知れないのだよ。
そんな中、滅んでしまった家の系図なんて、まともなものが残っているはずがない。

で、上の、興隆寺の由来なんかが史料になるわけだけど、これ、どう考えてもインチキでしょ?
大内家は成り上がり者じゃないけど、京のそういう人から見たら、やっぱりその系列。後から大慌てでまとめたものだよ。多分に脚色がなされていたとみていいよね。

脚色された系図、滅亡によって途切れた系図、そんなものをパズルみたいに組み立てながら、史実に基づきつつも、推測も交えてできあがったものが、今、僕たち一般人が、この家の系図として見ているものだよ。
本によって、微妙に違うのは、推測に諸説あって、一つにまとめられていないからだろうね。

で、意図的に虚偽を書き込み、ってところに話を戻すけど、陶家の系図で、この興明って人と、宗景様とは、二人とも早死にした、ってなってるの。
残された史料でそうなっているから、それ以外はもうどうしようもない。
イマドキほど医学が進歩してはいない時代、それに、戦死ってワードも頻出だ。
なのに、彼らについては、病死なのか、戦死なのかも曖昧。

「こいつら、本当に存在してたんか?」

という疑問の声まで。

丹念な調査と研究

ただし、「本当に存在していたかどうか」ってことは、意外と簡単に調べられる。
そこらの寺とか、神社とか、古くから続いている所の蔵だったり、大内家臣でもその後毛利家に降って存続していた家柄のところで、古文書を大事にとってあったり、ってケースがある。
すると、先生方は寺だの神社だのへの宛行状やら、寄進状、はては、それらの元重臣の子孫の蔵から出た軍功状や私的な手紙文などに添えられた署名から、それを書いた人物の存在を確定する。
(もちろん、骨董品鑑定団番組なんかを見て分かる通り、世の中、ニセモノが数多いので、要注意。研究者の先生方は見間違えることないけどね)。

そんな手続きを踏んでいたから、この人も、宗景さんも、ある時期「政務を執っていた」ことは確認されていたんだよ。
ただ、なして、兄弟二人して、早死にしたんだろうか、ってところは謎のまま。
だって死んだ理由が書いてないからね。
分かっているのは、兄二人が亡くなったために、末の弟だった五郎のお父上が跡継ぎとなったってことだけ。

偉い研究者の先生は、ここに兄弟間の紛争があって、興明は兄・武護に殺され、その武護もまた、主の家の手で成敗された、って説を挙げてらっしゃる。
さらに、この兄弟間の争いにはまたしても、内藤家が一枚噛んでると。
そして、系図上、二人が「早死に」と曖昧に記されているのは、兄弟間のいざこざなんてみっともないことを、敢えて詳述する必要性を感じなかったからだよ。

ま、ここはアカデミックな空間ではないので、そんなことはどうだっていい。
兄さんたちは早死にした。よって、弟が家督を継いだ。その息子が五郎だった、終り。

調査の成果による年譜

当主としての活動

延徳四(1492)年、兄・武護の遁世により、陶家の家督を継ぐ。

※興明が家督を継ぎ、陶家の当主として活動を開始したことを裏付ける史料としては、次のようなものがある(播磨定男「山口県の歴史と文化」より)。

まずは、公家日記『晴富宿祢記』中に、兄・武護が出家遁世したこと、その後は弟が継いだこと、が記されており、ほかに、興明の手になる以下の書状が残っている。

明応二年四月八日、石見・益田氏宛太刀拝領の礼状。
これは「興明の家督相続を祝して太刀を贈ったものと考えられ」(播磨)、年代は不明だったが、家督相続祝いのお礼ということで、武護が遁世した延徳四年(明応元年、1492)の翌年であると播磨先生が導き出したもの。

明応三年五月九日、興明発給寺領の安堵状(曹洞宗日面寺宛)

明応三年九月二十日、同上(真言宗満願寺宛)

当然のことながら、当主としての職務は所領安堵には留まらないし、興明発給の様々な書状は大量にあったろう。ただし、著名な先生方がお調べになっても現状見つかっているのはこんなところなのである。ただし、彼が確かに存在し、当主として活動していたことを証明するには、取り敢えずこれで充分である。

ちなみに、歴史学のアプローチというのは、結局こんなものである。関連する寺社や、旧家を訪ね歩き、古文書なり、供養塔なりを集めて分類整理し、中身を精査し、その信憑性を判断する。結果、集められた史料を丹念に比較検討していく。
我々が、有名な歴史上の人物の生存年月や、いつどこで亡くなったか、ということを当たり前のように知ることができているのは、このような先生方の地道な努力の賜物なのである。

明応四年二月十三日、遁世していた兄・武護が富田に帰宅。この日、興明と合戦におよび、興明は戦死した。

兄との争い

興明と兄・武護との戦闘を、播磨先生は「富田合戦」と書いておられる。
富田合戦とは、先生によれば:兄・武護が、周防富田保の居館にいた弟・興明を討ち取った戦いのことである。

先生がご研究の結果、興明のものである、と判明した、現在海印寺にある供養塔は、横矢地蔵堂という場所で発見された。この横矢の地名の由来として、この地をはさんで、二つの場所から弓矢が飛び交ったから、という地元の言い伝えがあるそうだ。
この二つの場所というのは、つまり興明がこの合戦時にいたとされる「陶氏居館」をはさんで、北側の七尾城と上野城山のことであり、ともに、陶家が守っていた場所である。恐らくは、おのおの、兄弟両軍に分かれて陣を置き、戦ったということであろうか。

とはいえ、先生ご自身も仰っておられるように、単なる「伝承」にすぎないことも大いにあり得るのである。

こうして、興明はわずか十九歳という若さで、兄に殺害された、というのが、現状もっとも信頼のおける「推測」である。

その後、興明の生母・仁保氏が薄幸の息子を弔うために、夫・弘護の菩提寺・龍豊寺と、もう一か所(地蔵堂にあったもの)とに二つの供養塔をこしらえた。それが、数百年の年を経て、陶氏研究者であられる播磨先生の手に渡り、その由来が明らかとなったのである。

※この項目書きかけです。典拠のページ、引用処理がまだです※
参考文献:播磨定男『山口県の歴史と文化』

一民間人の推測

※伊東愛はミルの友人である引退した駄文物書き。
大内家の系図というものは、残されたものが甚だ「杜撰」であり、これまで諸先生方があれこれの史料を駆使してそれを補おうとご苦労をなさって来られた。しかしながら、何も残されていないところは、もう仕方がないのである……。
我らが『実録』の近藤先生すら、当サイトの住人・陶武護と興明の兄弟についてはお手上げであったようだ……。彼らについての記述はない。いや、あるにはあるが、僅かである。「夭折」「早世」。
それを良い事に、好き勝手に想像を膨らませたのが、伊東愛の恥ずかしい作品だった。そこでは、主人公・陶武護が好き勝手に無双している。ほとんどが、ネット民が流している記事からの受け売りだった。
ただし、それを以て伊東愛を酷評するつもりはない。本郷先生いうところの、ロマンがあれば何でも良い、だ。しかし、お世話になったY様からうかがった話では、司馬遼太郎先生は、探し尽くしても何の史料も見付けられなかったら初めて、捏造(いや、司馬先生のばあい、『創作』)を開始なさるそうである……(つまり、そのくらい、大量な史料に丹念にあたった上で、作品をお書きになっていた)。伊東愛がそれほどの史料を読んだとはとても思えないので、かなり問題がある気がする。
それを証拠に、播磨先生の論文を読んだ後、伊東愛の筆は止まってしまった。伊東愛的思考でいくと、陶兄弟はけっして血で血を洗う戦いなどしてはならないのであった。ただし、このところは、先生方にしても推論の域は出ていないのではないか、と管理人は思った。
例えば……先生方が、武護が謀反したのを義興が討伐した、という証拠としてあげておられる「書状」。あれとても、伊東愛が言うように、「そうと知りながら、義興が捏造した」可能性は否定できない。寺社日記の類いも、意図的に流された「偽情報」を掴まされた公家が書いていたとしたら、まったく信用はできないのである。
つまり、伊東愛的には、義興の行動はこうなる。
鶴(武護)は亡き叔父上(弘護様)の仇を討たんと思って父上(政弘)を恨んでいる。だからこそ起こしたこの騒ぎ(造反工作)なのだから、そもそも叔父上を謀殺した父上にも問題がある(そもそもこの時点で、政弘謀殺説というネット民の間に流布する『推測』に乗ってしまっている)。我が鶴を処罰したことにして、こっそり逃がしてやれば何の問題もない。取り敢えず、成敗したふりをしたり、逃げられたので探しているようなふりをして、適当にそこらの連中に吹聴し、ついでに、証拠が残るよう、「手紙」も書いて置こう。
かくして、義興が書いた「指名手配中」書状があちこちにばらまかれ、最後は念には念を入れて、「一騒ぎあったけれども、すでに成敗して、国は平穏となりました」という時候の挨拶付き書状もあちこちに送っておいた。そのうちの何通かが、現存している。
武護が出奔したのは、政弘に謀殺された父・弘護の仇をとるためだった。そのためならば、気にくわない内藤弘矩と手を組むことも厭わない。ただ、兄弟同様にそだった義興の父である政弘を討つことにはためらいがあったので、心が潰れそうになって身を隠してしまった。
しかし、最後はやはり父の仇を取るために周防に戻った。そのとき、既に。「いなくなった」兄にかわり、家を継いでいた弟・興明と衝突した。やはり、「家督」というものを巡っては、古来骨肉の争いが絶えない。
兄弟は弓矢に及んだものの。父に似て武勇に優れた武護と大人しい興明では勝負にならなかった。しかし、兄は弟を手にかけることはできず、父の死の真相を告げ。ともに仇を討とう、と……。
恐ろしい告白に蒼白となった興明だったが、そこに隙が生じ、武護方の兵が放った流れ矢に当たって死んでしまう(兄弟二人は、けっして終わらない鍔迫り合いの最中であり、武護配下は、単にはやくケリをつけたいと思っただけだった……)。というわけで、これは、あまりにもダサい演出ながら、兄による弟殺しではなかったのである。
無論、伊東愛の捏造には何の根拠もないため、許されることではないものの、先生方とて、当サイトの鷲塚昭彦のごとく、タイムマシンで過去に行き、義興の心の中や、武護兄弟の戦をこの目でみたわけではないのである。
う考えていくと、「現存する」史料であったとしても、「嘘かもしれません」ということは、無限大に可能である。
ところが、伊東愛も迂闊であった。文書は偽造できても、供養塔はできない(まあ。こじつければ、意味もなく作って置いた、ということも強引に言えなくもないが)ので、播磨先生の論文、特に供養塔のほうを読んだ伊東愛は気絶してしまったのだった。
管理人は、なおも、別に大内家が天下取るくらい目茶苦茶やっちゃえば? 派なのであるが、曲がりなりにも歴史学部卒の地味系OLである、伊東愛にはそれができないようだ。
世の中金次第の経済学な管理人からしたら、売れる路線なら、インチキ上等だと思うのだが、伊東愛の駄文にそんな力はないので、気の毒なことになってしまった……。
まあ。駄文で捏造して、個人的に楽しむ分には何の罪もないと思うのだが。何やら、「明応四年」という年号がキモなのだそうである。説得力ある論文でそこを突かれると、怒濤のごとく崩れてしまうらしい。
そんなわけで、たとえ、それらに先生方の「推測」が混じっていたとしても、すべて出典付きでここはまとめるた。伊東愛には辛い作業となった……。
と、偉そうに始めたけれど、書けなかった。というよりも、書けることがほぼないのである。数行で終わってしまう……。つまり、先生方は、あれやこれやの史料を駆使して、ほんの僅かな一行をやっと証明する。
我々は、その一行を享受する……。
先生方が、なさったご研究の足跡を垣間見ることが我々の至福の時でもあるからだ。
しかし、論文一つを拝読し、「海印寺にある供養塔は、陶興明のものだったそうです!!」と感動しても、記述できるのは、本当にこの一文だけ。
つまり、評伝にして、本一冊分のものが書けるくらい大量に調べ尽くされている人物というのはある意味すごい。織田信長なんかそうだと思うし、秀吉、家康だってそうだろう。
すでに凄まじい数の史実が調べ上げられているのに、さらに研究を続けておいでの方が多数おられる。それだけ、史料は充実し、研究課題も多いのである。
だが、我らの空間に住まう人々に関する情報はあまりにも少ない。伊東愛が、丸一日かけて論文をお読みしても、書ける文章は数行にしかならない。
少ない( ・_・;) と幻滅した人は、もう直接ご本を読んでください。正直、ウィキペディアにあれだけの文章が載っているのは、いったいどこの誰が引っ張ってきたのか、先生方ご自身でなければどなたなのか、と思う。
やがて、この項目がもっともっと充実するほど、次々と新たな研究成果が上がって来る日を夢見て、今はここで終了することとさせていただく。今後大量にリライトできる日がくることを、皆さまも応援して下さいませ。

残念ながら、俺は健在だ。怨霊だけどな。

ふふっ、硬派なあなたが好き💖

>妖怪の恋人は要らんよ。

ち、違いますったら……(赤面、ぽっ)
五郎とミルの部屋的データ:
出奔した兄にかわり、陶家の家督を継ぐが、帰国した兄とのあいだで、相続争いが起こり、命を落とした。温和で、和歌や書物を愛するおとなしい若者であった。
統率:★3
武勇:★3
知略:★3
政治:★4
教養:★4
総合:★3.5
ルックス:不明だが、陶家の系統に醜男はいない 性格:温和
講評:兄に殺害された悲劇の若者という「推測」が独り歩き。
でも、同じ父母から生まれた兄弟として、兄・武護、弟・興房と遜色ない人物であっただろうことは想像に難くない。
ただ、彼に関しては、海印寺の供養塔その他により、死亡年月日とその時の年齢が特定されているため、それだけ見ても、兄・武護よりは恵まれていると言えよう。

弟よ、お前は何の恨みつらみもなく逝ったのだな。俺のような姿になることはなく。素直な性格だったゆえな……。

……

初出:2020年4月16日 周防山口館「陶家猛将伝」改編
当サイト転載日:2020年9月29日 22:06
最終更新日:現在の「公開日」日時