宗家滅亡後、新たに防長の主となった毛利家に仕えた人々は少なくありません。その事情は、多々良氏である分家の一族でも同じ。今回ご紹介する末武氏は二十代・弘貞の子・弘藤が祖である一族です。初期の頃は、鷲頭氏に与して弘世と争ったりしましたが、それ以後は主に忠実に仕え、合戦で命を落とした人も数多く出ました。義隆死後に、吉見正頼に仕えるという異色のルートを辿りますが、吉見氏の滅亡により、結局は毛利家臣となりました。なお、末武氏の系図は、かなり正確なもののようで、『新撰大内氏系図』をまとめた御薗生翁甫先生も、信頼を置いていたそうです。
末武氏概略
研究者から信憑性について太鼓判あり
末武氏の系図は、かなり信憑性の高いものであるようです。『新撰大内氏系図』をまとめられた御薗生翁甫先生も、そのことを認めておられたそうなので、同氏についての系図部分については信用できそうです。
末武系図は大内庶流系図のうち最も信頼が置ける系図であることは、郷土史研究家故御薗生翁甫氏の指摘するところである。
出典:『萩藩諸家系図』1145ページ
残念なのは、末武氏の系図には、末武氏以外の方々については記載されていないことです。ほかの分家諸氏についても同様に信頼が置ける系図が伝えられていたのなら、大内氏全体の系図もかなり正確なものとなったに違いないです。そう思うと、残念です。
末武氏の起源
宗家二十代当主弘貞の子・弘家(第二十一代当主)の弟・弘藤が末武氏の祖です。周防国都濃郡末武保を領有し、名字の地となりました。「築山城」という居城があったようです。弘貞は元寇期に活躍した当主ですが(参照:『大内氏史研究』)、その玄孫・貞盛期はすでに南北朝時代でした。
弘世 vs 鷲頭氏との争いでは鷲頭側に
南北朝期のゴタゴタの最中には、同族一門同士が相争う事態がそこここで起こりましたが、大内弘世と鷲頭氏の闘争はとりわけ有名な部類でしょう。弘世の父・弘幸期に、分家・鷲頭氏を継いだ弘幸の叔父・長弘が切れ者だったために、事実上、大内氏を牽引している状態でした。
弘幸、長弘ともに亡くなった後、弘世は大内氏の代表者としての地位を求めて長弘を継いでいた弘直と争います。この辺り、長弘によって「惣領」の地位を我が物にされていたことを苦々しく思っていた「惣領」家の弘世が、惣領の地位を取り戻すための戦いととらえるのが通説です。しかし、実際には長弘こそ惣領だったのであり、弘世が実力によりそれを奪い取ったのだという、まったく正反対のご意見も少数派ながら存在します。
実力がある者が惣領となる、そんな時代が到来していたとも言えます。その意味では、どちらが正統だったにせよ、長弘も弘世も「簒奪者」のような烙印を押される謂れはないと考えます(個人的見解です)。それはそうと、戦闘状態になるには、大義名分が必要です。弘世は長弘以来ずっと「北朝・武家方」についていた大内氏の中で、「南朝・宮方」に寝返ることで、大手を振って弘直と相対することができました。
長弘の子・弘直は、従来通り「北朝・武家方」として、弘世と戦いますが、敗北します。それ以降、大内氏の代表者は弘世というようなことになりました。この時、末武氏は鷲頭氏に与していました。弘藤の子・貞盛は、内藤藤時とともに、弘世の攻撃を迎え撃ちましたが、敗れ去ってしまいます。
『萩藩諸家系図』には、「天授六年 (一三八〇) 五月二十八日、大内義弘は父弘世の代官として芸州において叔父師弘を攻めた。その時貞盛の子新三郎弘氏は討死した。」とありますが、これは『大内氏実録』や『大内氏史研究』にある、弘世と師弘兄弟の争いと義弘・満弘兄弟の争いと取り違えた誤りをそのまま受け継いだものと思われ、現在では義弘・満弘兄弟の争いであり、むしろ満弘が弘世の代官ともいうべき争いです。しかし、氏弘がこれに巻き込まれ、満弘側に与して討死したことは史実です。
宗家のために尽す
いったん分家となり、それも世代を重ねると嫡流との関係性は薄くなり、もはや家臣となります。南北朝期には弘世や義弘と相容れない勢力の側について、命を落とす者も出た末武氏ですが、幕府の統治が安定してくると完全に宗家に忠実な一門衆家臣となります。
そうなると、当主の合戦に従軍し、命を落とす者などがでました。それについては、個々人の事蹟として後述します。
子孫は吉見氏家臣を経て毛利氏家臣となる
『萩藩諸家系図』に名前があることから分る通り、末武氏はのちに毛利家に仕え、子孫はその後も続きました。毛利家臣となった経緯は不明ながら、「義隆滅亡の後」とありますので、叛乱家臣との関係も不明です。しかし、特筆すべきは、いきなり毛利家臣となったわけではなく、先に吉見正頼の家臣となった点です。
吉見氏からは領地も賜るなど厚遇されたように見受けられますが、吉見氏が断絶してしまったため、毛利秀就に仕えたようです。宗家が滅びても、すべての分家の方々も、宗家と運命をともにしたわけではありません。しかも、大内氏の場合、先に当主・義隆が家臣によって滅ぼされているという経緯がありましたから、そこで途絶えたとするならば、毛利家に仕えることも裏切り行為でもなんでもないという見方もできます。しかし、いったん、毛利家臣である吉見氏に仕えるというワンクッションがあったという点が、やや異色の展開と思います。
『新撰大内氏系図』全コメント
弘藤 末武介三郎、法名道如、以防州都濃郡末武村為采邑
貞盛 弥三郎
弘氏 新三郎、長門守、法名善久
善世 弥三郎、左馬助
盛為 弥三郎
弘恒 弥五郎、雅楽助
弘直 五郎三郎
宣種 与五郎
氏久 千代松丸、孫三郎、左衛門大夫、文明三年正月一日於長州阿武郡地福戦死
弘春 大夫三郎、属大内政弘上洛応仁元年八月十日於摂州河辺郡難波氷室戦死二十二歳
女子 比丘尼恵禅
延忠 或延資、孫三郎、文明三年正月元日与父一所討死
幸氏 弥五郎、与父兄一所討死
弘臣 弥三郎
長安 宮王丸、新三郎、左衛門大夫、上総介、実氏久五男、享禄五年九月四日於豊前馬岳病死六十九歳
女子
僧 永喜首座
安藤 兵部丞
直氏 左衛門大夫、宗全
女子
女子
女子
女子
兼安 三郎右衛門尉
忠氏 重松丸、上総介
済氏 新三郎、与兵衛尉、孫左衛門尉
持氏 長五郎、惣右衛門
『萩藩諸家系図』による補足
ほかの分家の系図でも、先祖は琳聖太子である旨、明記されているのが多々良氏の人々共通です。しかし、末武氏系図は、百済建国時代の物語から始まっています。なるほど、御薗生翁甫先生が『新撰大内氏系図』を作成するにあたってこの家の系図が信頼置けるとおっしゃたわけです。『新撰大内氏系図』にある百済建国から琳聖までの部分は、こちらの系図から採用されたのかと思われるほどそっくりです。
「百济者、東夷有三韓、一日馬韓、二日辰韓、三日弁韓、百濟者馬諱之類也、初以百家濟、因號百濟也、有神王名曰東明善射、 以魚鱉為橋梁、度至扶餘国、而王焉、東明之俊、有仇台篤於仁信、都曰居拔城、王姓餘氏、晋羲凞十二年、百濟王餘映始通信於中華、餘映子曰毗、毗子曰慶、慶子日牟都、牟都子曰牟大、牟大子曰隆、隆子曰明、明子曰淹、淹子曰昌、昌子日璋、隋大業三年徹信于隋、大業七年煬帝親征高麗、餘璋巌兵合力而戦争、大業七年辛未、百濟太子度日本、迺日本推古天皇御宇十九年辛未也
百済国王餘映―毗―慶―牟都―牟大―隆―明―淹―昌―璋―太子琳聖
琳聖太子―此間六代名不知―正恒―藤根―宗範―茂村―保盛―弘貞」
(以降中略)
氏久 (戦死時)歳不知
弘春 犬法師丸、大夫三郎、長禄四年十二月八日従大内教弘判物之有
延資 感情延忠之有
幸氏 (戦死時)十三歳
弘臣 兄三人因討死継氏久跡
忠氏 大内義隆亡後随属吉見正頼
(以下省略)
わずかに補足がありますが、大した内容ではありません。しかし、忠氏以降の動きについては系図にないものです。
有名人(大内氏時代の人限定)
『大内氏実録』には、末武氏の方の「伝」がありません。義長政権滅亡時に、叛乱者に与していたわけでもなく、その過程で毛利家に帰順したわけでもないためでしょうか。『叛逆』か『帰順』という分類しかないですからね。家臣という分類もあるのですが、ほかに親族・宗室もあるため、家臣に入るべきひとたちではないのかもしれません。もちろん、ほかの人の伝の中に、名前は出て来ます。
ここでは、『萩藩諸家系図』にあった事蹟をまとめました。『大内氏史研究』などから抜き出せば、もっとボリュームが増えるはずですが、現時点では、そこまで手を広げられません。
末武氏久
政弘期の人。応仁の乱時、主君の留守中に大内教幸が叛旗を翻し、陶弘護に撃退されるという事件が起こる。弘護の活躍ばかりに目が行ってしまうと、被害を受けたのは教幸方だけのように感じてしまうが、もちろん、そんなことはない。文明三年(1471)一月一日、氏久と二男・延資、三男・幸氏とは、長門国阿武郡地福において教幸と戦い、全員が戦死している。
末武弘春
同じく、政弘期の人。氏久の長男。父と二男以下が主の留守を守っていたのとは別に、弘春は、政弘に従って上洛するメンバーに入っていた。政弘は上洛の途上、立ちふさがる勢力を圧倒していったように書かれていることが多いが、もちろん、そんな中にも味方側に犠牲者は出ている。気の毒にも、それらの犠牲者のひとりとなったのが、弘春で、摂津国川辺郡波氷室にて、戦死している。応仁元年(1467)八月十日のことである。主の上洛まで、あと一歩というところでの無念の死であった。父・氏久とほかの兄たちも討死していたので、氏久の遺跡は四男弘臣が継いだ。弘臣は、文明十年八月二十三日、父や兄の功績の賞として、長門国豊東郡大野庄の内を賜わった。
末武弘臣
弘氏の四男。父および三人の兄たちを合戦で失ったのち、家を継いだのは生き残っていたこの人。系図にも特に事蹟が書かれていない上、父や兄たちも含めて年齢も不明。まだ幼くて合戦に従軍していなかったものか、「父や兄の功績の賞として」(『萩藩諸家系図』)「長門国豊東郡大野庄の内」を得たという。
末武長安
政弘・義興・義隆期の人。弘臣の後を継いだ。系図に「実は弘氏五男」とあるので、弘臣には実子がなく、弟が継いだものか。長門国阿武郡大井郷を賜わる(文明十三年四月十三日)。明応年間、主・義興は九州の凶徒退治に奔走していたが、敵はしぶとく、勝ちもあれば負けもある状態で、なかなか平定にこぎつけなかった。明応七年(1498)十一月、長安は右田弘量とともに、豊後国に派遣された。同七日、玖珠郡青内山の合戦で味方は敗北。右田弘量は戦死した。長安も数カ所に傷を負ったが、無事に生還(参照:『大内氏実録』)。感状を授かり、長門国阿武郡椿郷内賀川津五石、豊前国上毛郡酒丸十五石の土地を賜わる(参照:『萩藩諸家系図』)。
末武忠氏
長安の孫。大内義隆亡き後、吉見正頼に仕えた。阿武郡大井郷、同郡賀川津を賜わったという。忠氏の孫・持久の代、吉見家の断絶により、毛利秀就の家臣となった。元和五年(1619)のことである。以降も毛利家家臣として続いた。
以下省略
参照文献:『萩藩諸家系図』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』
なんで、吉見家に仕えたんだろう? 主だった人の家臣に仕えたみたいで嫌だよな。
そこ、書いていないからわからないね。吉見さんたちが、毛利家と深い繋がりがあり、毛利家の中でも重きをなしていたから待遇面は問題なかったかもだけど。日頃から交流でもあったのかな?
確かに、家臣の家臣になるのはいただけないな。でも、結局は毛利家に仕官したではないか。
結果的にそうなったけど、吉見家が断絶したせいだろ? 無事に終わりを全うしていたら、家臣の家臣のままだったんじゃないの? なんだかなぁ。
吉見家が断絶した理由を覚えているか? 決して褒められたものではなかったであろう。これでよかったのだ。
そんなもの、とっくに忘れちゃったよ。俺にはどうでもいいことだし。それより、疲れたよ。あとどれだけ続くのかなぁ……。
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大内宗家から分家した一族
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