大内氏の歴史の中で、歴代当主と身内同士で戦闘になり、命を落とした人は数知れません。当主とは、身内という親しい間柄。家臣たちから見れば主君の血縁者という貴いお方。相争うことになった理由は、家督を巡ってだったかも知れませんし、何らかの利害が衝突したためであったかも知れません。
今回はそのような身内同士の争いで命を落とした、当主の弟について取り上げます。二十四代・弘世の兄弟にあたる師弘です。弘世期といえば、南北朝対立の最中。身内であろうが、気にくわない隣国の領主であろうが、戦う理由はいくらでも「作れました」。お互い相反する側(南朝もしくは北朝)につくことで、すぐに敵同士になれたからです。
師弘の場合はどういう経緯があったのでしょうか。
大内師弘とは?
大内弘幸の子で、弘世の弟とされる人です。通称は弘世の子・満弘と同じ「三郎」でした。このことから、弘世の子・義弘と満弘との兄弟間の合戦を、義弘と師弘との合戦と取り違えるという誤った説が長いこと採用されてきました(現在は修正されています)。このような誤解が生じた要因は、通称が同じであった以外に、系図上に弘世・師弘の間に兄弟間の戦闘があったという但書が添えられていたことにあります。
弘世と師弘の戦闘については、系図の但書以外に、確たる史料もない模様です。そもそも、そのような事実はなかった可能性もゼロではありません。系図の但書を信じるならば、それぞれの家臣間の争いが、主を巻き込む戦闘行為に及んだとのことです。師弘はこの合戦に敗れて戦死しました。
大内師弘・基本データ
生没年 不明
父 弘幸
兄 弘世
呼称 五条殿、介三郎、三郎、大内介
法名 興禅寺殿本源彦溍
子女 僧侶、女子、尼僧
五分で知りたい人用まとめ
大内師弘・まとめ
- 大内弘幸の子で、弘世の兄弟
- 師弘の家臣と弘世の家臣間でのいざこざが、双方の主にあたる師弘と弘世の不和を招く事態となり、兄弟は戦闘に及んだ。結果、師弘は戦死。系図には、わずかにこれだけの但書が添えられているにすぎず、両者の戦闘の規模や、裏側の細かな事情などについては不明
- 師弘と弘世が戦闘に及び、結果師弘が敗死したという一件は、『大内氏実録』や『大内氏史研究』によって誤って伝えられてきた。後に起こった、義弘と弟・満弘の兄弟間の争いと混同されてしまっていたのである。結果、義弘が父・弘世に代わって、叔父・師弘と戦ったという説が唱えられていた。師弘も満弘もともに「三郎」だったことによる誤解である
- 現在は義弘が弟・満弘との間で戦闘を起こしたという認識が定着している。兄弟間の合戦は「康暦二年の内訌」として、松岡久人『大内義弘』などに詳しい
- 最新の研究成果によって上書きされた結果、義弘と師弘との間に起きたとされた合戦は存在しなかったものと化した。師弘に関する詳細は、系図の但書にあることのみとなった。過去の大内氏研究では、大きなウエイトを占めていたと思われる師弘の存在は薄れてしまったと言える
- 系図上、師弘には三人の子女があったことになっている。いずれも出家しているため、それ以降の子孫については断絶している。僧籍に入った男子は保寿寺の開山であり、勅諱まで得た高僧となっている
まったく異なる二つの説
『大内氏実録』と『大内氏史研究』の記述
『大内文化研究要覧』の系図・師弘項目に、「『実録』『大内氏史研究』にくわしい」との、説明がありました。それならば、この二冊を拝読すれば理解できるでしょう。そう思い、難解な両書を拝読しましたが、理解できたとはほど遠い結果となりました。
『実録』『氏史研究』ともに、師弘と戦闘に及んだのは義弘となっており、確かに『氏史研究』においては戦闘経過などについても詳細です。『文化研究要覧』に「弘世と争って敗死」とあること、『実録』にも「弘世師弘兄弟が遺恨のために、戦を起こした」とあることから、義弘が父の意向に従い、叔父と戦ったととれます。
しかしながら、『氏史研究』中の戦闘経過の記事などを拝読するに、これは義弘と父・弘世の意見対立に端を発した、義弘 vs 弟・満弘との争いの内容です。となると、義弘が父にかわって叔父と戦ったとしたのが誤りか、師弘と弘世の対立が事実ならば、戦闘経過のほうが誤りとなります。
この辺り、南北朝のゴタゴタの最中に起きた出来事ですので、情報も錯綜し、極めて分かりづらいことになってしまいます。師弘が、弘世・義弘父子と対立した鷲頭家に肩入れしたなどという裏事情があるのなら、兄弟相争う事態も普通に起こり得るからです。しかし、弘世が鷲頭家を支配下に置いたのは1352年のこと。義弘と師弘との争いは1380であり、年代的にもかなりの開きがあります。
いったいどうとらえればよいものでしょうか。
松岡久人『大内義弘』に詳しい
上述の、「義弘と父・弘世の意見対立に端を発した、義弘 vs 弟・満弘との争い」については、松岡久人先生がおまとめになった、義弘の伝記『大内義弘』に詳細な記述があります。じつは、最初にこちらのご本を拝読した際、義弘と弘世が対立し、弟・満弘がいわば父の代理として、兄と戦ったなどという話を信じることができませんでした。なぜなら、『実録』でも『氏史研究』でも、まったくそのことに触れられていなかったためです。
いかに、研究成果は日々進化すると言っても、大内氏研究のバイブルのような本に一文字も書かれていないなどということがあるだろうか、と考えてしまったのです。しかし、松岡先生のご研究に誤りがあろうはずはないですから、恐らくは『実録』『氏史研究』の時代には知られていなかった新事実が明らかとなったのです。
義弘と満弘の争いについては、それだけで相当の紙幅を割く内容となりますから、義弘もしくは満弘の項目にゆずります。そうなると、では、かつては義弘と争った張本人とされた師弘という人についてはどう処理すればいいのか、という問題が残ります。
『花営三代記』と『南山巡狩録』その他
上述の『実録』および『氏史研究』の記事は、『花営三代記』および『南山巡狩録』という史料が典拠となっております。この本は、一言でまとめるならば、前者は室町幕府について、後者は南朝について記録した史料のひとつ、となります。
『花営三代記』とは
【花営三代記】(かえいさんだいき)「武家日記」とも。南北朝後期~室町初期の室町幕府にかかわる記録。足利義満・同義持・同義量三代の記録を意味するが、別の二書を合わせたか。前半部は一三六七~八一年(貞治六・正平二二~永徳元・ 弘和元)。幕府の法令や公式行事・人事異動を中心に、世事も伝える編纂物。記事が簡略なため解釈が難しいが、他に類例がなく、この時期の幕府を研究するうえで基本となる。後半部は一四二一~二五年(応永二八~三二)。筆者は伊勢貞弥か。 将軍などの移徙の記事が中心で、供奉人の交名も多く引用され、奉公衆などの研究に欠かせない重要史料。「群書類従」所収。
出典:『日本史広事典』408ページ
『実録』や『氏史研究』でたびたび引用されているのも当然の、極めて信憑性が高い貴重な史料であることがわかります。しかし、ある特定の期間以降はほぼ言及されることがなくなるのが疑問でしたが、応永年間までしか記録がないゆえにだったわけですね。「解釈が難しい」とある部分で引いてしまいますが、室町幕府の研究者でもなければ、特に原典にあたる必要性はないわけで。大内氏研究の先生方が引用なさっているのを見かけたら、幕府関係の史料が典拠なんだ、と思えば十分です。「群書類従」に収録されていることから、全国いずこの図書館でも完備されているはずです。ちなみに、現在ならば(オンデマンド版であっても、絶版となる可能性はあります)オンデマンド版を購入することも可能です。高額な上、ほかの史料と組み合わせて一冊分となっていますから、ほかの史料にはご興味がない方は、やはり図書館で必要ページをコピーするほうがよいと思います。
なお、『南山巡狩録』については、『日本史広事典』に記載がございません。普通に検索をすると書籍の内容について書かれた結果がいくつか出て参りますので、ご参照ください。
『実録』および『氏史研究』による参照部分
『実録』と『氏史研究』は、それぞれ上掲の二つの史料などを参照し、義弘と叔父・師弘との戦闘について考察しています。しかし、近藤先生も御薗生翁甫先生も、「按るに」(『実録』)「臆測ながら」(『氏史研究』)などと書き添えて記述なさっておられ、お二人の研究年代ではまだ明らかになっていなかった部分が多々あったものと思われます。
『花営三代記』はともかく、『南山巡狩録』は簡単に原典にあたれる史料ではないですので、両先生が引用なさっている部分について、箇条書き形式でまとめてみました。
『花営三代記』
一、康暦二年五月十日、長門国栄山の戦闘で、杉入道智静及び侍名字の者二十七名が戦死した
二、五月二十八日、義弘は叔父・師弘と安芸国内郡で戦った。一族鷲頭筑前守父子三人、石見守護代内美作守父子二人、末武新三郎、藤田又三郎、芸州大将讃井山城守、若党陶山佐波守、仁保因幡守、八木八郎左衛門尉、土肥修理亮、小畠曽我八郎左衛門尉、野上将監、同雅楽助、弘中三河守、秋叛(坂)次郎左衛門尉、及び侍名字の者二百余人を斬った。配下の者などについては、人数も不明
三、安芸守護武田氏から、栄山合戦についての注進状が幕府に届いた ⇒ 武田氏は幕府の命を受けて義弘方を支援していたのだろう(参照:『氏史研究』)
一、二については、『実録』、『氏史研究』ともに参照している内容です。なお、幕府方の記事ゆえ、現地の人々の姓名について詳細に把握できていなかったり、明らかに誤字と思われる部分については、両先生が修正しており、上記要約文はそれらの修正を反映したものとなります。
『南山巡狩録』
一、この合戦における敵味方の区分は詳細不明。鷲頭筑前守以下の姓名は、三郎方に属して討たれた者ではないかと思われる
二、大内左京権大夫義弘、舎弟三郎 ⇒ これは誤りで、義弘の弟は「三郎・満弘」。この合戦に関わっているのは、満弘ではなく、弘世の弟・師弘。師弘も満弘と同じく「三郎」であることから、混同してしまったのだろう(参照:『実録』)
この書物を参照しているのは『実録』のみで、『氏史研究』では言及がありません。
その他の参照物
一、系図
師弘の郎党・野田安景、弘世の郎党・豊田光景が主導権を争い、ついに弘世と師弘とが合戦するに及んだ。師弘は敗れて、戦死した。
二、管領・斯波義将から石見の周布入道への執達状(七月十九日)
三、将軍から周防の平子因幡守への袖判状(九月四日)
執達状と袖判状等から、周防と石見において、義弘が合戦を行なったとわかる。師弘方との戦闘のことであろう(参照:『実録』)
すべて『実録』『氏史研究』ともに言及がある史料。二と三について、『氏史研究』には原文の引用もあります。
『実録』『氏史研究』時点での到達点
お二人の先生とも、義弘と叔父・師弘との戦闘が、周防長門から安芸石見に渡る広範囲に展開されたかなり大規模なものであったことに驚いておられます。なぜなら、この戦闘が起こった理由には、はっきりしない点があったからです。
系図に記された「師弘郎等野田安景与弘世郎等豊田光景争権威而不睦遂弘世師弘兄弟為遺恨争戦師弘敗潰而戦死」が原因であるとすれば、始まりは単に互いの家臣同士のいざこざであり、そのことが、双方の主である弘世・師弘兄弟の不和にまで発展したとなります。このような理由から戦闘行為にまで及ぶのが、武士という方々なのかも知れません。とはいえ、個人的な不和や怨恨から起こった戦争がかくも広範囲に渡って展開し、多くの犠牲者を出すまで拡大したというのは、やや説得力に欠けるからです。
そこで、『大内氏史研究』では、「憶測ながら」としつつ、次のように結論づけておられます。
弘世師弘間に和親を欠ぎ、師弘は弘世に取って代ろうとし、防長の不平分子や芸石の豪族を誘って、南朝に帰順して北軍を傾けようと図ったのではあるまいか、幕府が長門の戦争に安芸の武田氏を出軍せしめ、或いは防石の軍忠を励んだ者に管領が執達状を与えてこれを賞するのを見ても、決して一部の私闘でなかったことが知られる。なお師弘が帰順して南北両軍の戦争をしたかどうかについては、よく考うべきである。
出典:『大内氏史研究』
要するに、これまた、南北朝期特有の、相手が北なら自分は南。敵の敵は味方理論で、家督を巡るいざこざが大戦争に発展することが起こり得る時代特有の現象です。むろん、先生ご自身が「憶測ながら」と付け加えておられる通り、史料的な根拠があったわけではないのです。
上述の『花営三代記』を参照している部分に記述がある、安芸国で義弘に討たれたとされる者たちの中に、弘世が鷲頭家を倒して惣領家としての地位を確立した合戦の関係者が含まれています。
一族鷲頭筑前守父子三人⇒ 弘世との争いに敗れた鷲頭家の者
一族末武新三郎(=大内弘家の弟弘藤の孫・弘氏)⇒ 末武の領主で、弘世と鷲頭家の争いの際、鷲頭方に味方した者
これらの人々が、弘世に対して不満を抱いていたことは十分に考えられるため、『氏史研究』の結論が導き出された理由のひとつとなっています。しかしながら、それ以外の人々は、弘世と鷲頭家の争いとは無関係どころか、弘世側の勢力とも見なされるべき方々も混じっています。それゆえに、先生としても、恐らくそうではないかと思われるものの、なお熟考を要する課題として認識しておられたのだと思われます。
義弘叔父・師弘についての真相
『大内氏実録』と『大内氏史研究』の時代には、義弘と叔父・師弘の間の合戦とされてきた一連の戦闘について、現在ではまったく異なる説が主流となっております。典拠は以下の通りです。
「花営三代記」の康暦二年五月二十八日の記事に、大内左京権大夫が舎弟三郎と安芸国内郡で合戦を行い、三郎方の名だたる者たち二百余人を切り捨てたということが見えている。左京権大夫とは大内義弘を指し、舎弟三郎は満弘である。康暦二年は、大内氏にとって弘世の晩年であり、 この十一月十五日に彼は歿した。その点からいうと、この内戦は後嗣争いの一種といえそうである。
出典:松岡久人『大内義弘』
要するに、「舎弟三郎」部分を、素直に義弘の弟・満弘と読めばいいだけの問題でした。先達のご研究では、『花営三代記』によれば云々という箇所が、すでに「義弘と師弘」という形で記述されております。ここは、両先生方の「三郎」は満弘ではなく、師弘である、というフィルターを通しての記述だったのでしょうか。どうやら、図書館に行き、「解釈が難しい」原本にあたるほかないようです。
松岡先生のご本では、「大内左京権大夫が舎弟三郎と安芸国内郡で合戦を行い」と書かれており、その通りなのだろうと思います。一般読者向けにわかりやすく書いてくださっているご本ゆえ何の疑問も抱きませんが、かくも長きに渡り誤った見解が主流となっていたことを思う時、原本はそれこそ一般人には解釈不能なレベルである可能性が高いです。
というようなことで、図書館ならぬ本棚の『山口県史』にて、『花営年代記』を確認してみました。すると、幸運なことに、ちょうど該当箇所が載っているではありませんか。記述は松岡先生の引用そのままです。「廿八日、大内新介号左京権大夫、与舎弟三郎於芸州内郡合戦」と書かれております。なんということか。なにゆえに、近藤先生と御薗生翁甫先生は、二人して「舎弟三郎」を師弘にしてしまったのでしょうか。近藤先生など、わざわざ原文に苦情を呈し、「満弘としているが誤り」と訂正まで。誤りどころか、もともと正しかったのではないですか。謎過ぎて、拝読している素人のほうが混乱しました。
兄・弘世と戦闘におよび敗死した
義弘と満弘の大戦争については、松岡先生のご研究を享受すればよいとして、ひとつだけ謎が残りますね。この項目のタイトルにもなっている「師弘」という人についてどう考えればよいのか、です。当然、真っ先に、松岡先生のご本に回答を求めました。しかし、師弘なる名前はどこにも出て来ません。拝読しているのが、義弘の伝記という形でまとめられたご本であるという性格上、師弘は義弘の伝記を綴る際にはあまり重要な人物ではなかったのであろうと推測できます。
過去の研究にあるように、義弘が父・弘世の代理として、師弘と戦闘したというのならば、そんな重要事項が無視されるはずはありません。だとすれば、師弘の問題はどう処理すればよいのでしょうか。ここはもう、手がかりは系図に書かれている一行しかないと思います。
「師弘郎等野田安景与弘世郎等豊田光景争権威而不睦遂弘世師弘兄弟為遺恨争戦師師弘敗潰而戦死」
家来間のいざこざに主が引っ張り出され、兄弟戦闘にまで及んだのか! とびっくりなことにはなりますが、現状、これしか記述がないので、深く考えなければ文字通りの意味だと思われます。
実際には兄弟相争うなどということは、どこでも普通にあった時代です。現在でも兄弟げんかなど頻繁にあるでしょう。それが、戦闘行為にまで発展してしまうのは、武士の世ならでは。確かに、この一文だけでは、家来同士の争い時点から、具体的に何が気に食わず争っていたのかはまったくわかりません。『氏史研究』が言及していたように、兄弟が南北に分裂して争うにまで至った可能性もゼロではありません。しかし、恐らくは、師弘の勢力は弘世に対抗するにはあまりにも貧弱だったのでしょう。それゆえ、大事にはならずその場で倒されて終わってしまったものかと。その程度で終結したため、師弘と弘世の戦闘についてはこれ以上取り立てて述べる内容もなく、史料にもなっていないのでは?
何とも不親切ですが、現状、それ以上のことは申せません。あまりにも淡々とこの一文だけが浮かび上がっているゆえに、偉大な先達のご研究も含めて、後に来る大戦争と繋げてしまうような誤りを招いたのではないでしょうか。
系図にはこのような一文すらなく、単に名前だけしかない方も大勢おられます。そもそも、いつ書き加えられたのかも不明な但書に、どれほどの史料的根拠があるのかも不明です。師弘さんについても、弘世さんの兄弟である、ということくらいしかわからない人となりますね。そもそも、系図自体が間違っていれば、兄弟関係にあったことすら真実かどうかなどわかりません。
師弘の子女について
師弘の子女として、系図に記載があるのは以下の三名。
僧 梵穎癡鈍嗣法無伝、保寿寺開山、勅諡正宗護法禅師
女子 波野殿、比丘尼
尼 坪増殿 野真 理真
(典拠:『新撰大内氏系図』)
いずれも出家の身の上ゆえにか、系図は断絶しており、これ以降の子孫はいないことになっております。この中で、特筆すべきは、保寿寺の開山となっている僧侶でしょう。「勅諡」を賜っていることからわかるように、かなり高位なお方です。保寿寺が大内氏の歴史の中で大きな位置を占める寺院であったことを鑑みても、きわめて高い功績を遺したお方と考えられます。
菩提寺について
法名が興禅寺殿本源彦溍であることから、師弘の菩提寺は興禅寺という寺号と思われます。それについて、『実録』にはだいたい以下のように書かれております。
「興禅寺は長門と安芸とにあり、長門の寺院は阿武郡弥富村にあり弥高山と号する。今の須佐村大薀寺の旧号で、永享七年鋳造の洪鐘がある。安芸の寺院は高田郡吉田村にあって、のちに毛利隆元 の妻・多々良氏の香華寺となって妙寿寺と改まり、慶長年間に周防国吉敷郡宮野村に移った。その旧地を今なお興禅寺谷という。もともと興禅寺は二つある。師弘は安芸で敗死して吉田荘の興禅寺に葬られ、興禅寺云々と法名し、のちに弥富村の興禅寺は、はじめ某寺であったのを、弥富村があるいは師弘の所領だったか、もしくは某寺が師弘と縁故があったかで興禅寺と改めたのであろう」
この一文は、あくまで師弘と満弘を取り違えたご研究の時点で書かれたものです。義弘と満弘の合戦は、長門安芸石見に及ぶ広範囲で大規模なものでしたが、師弘とは無関係らしきことが明らかとなっております。弘世と師弘との戦闘についても、系図の一文しか典拠がなく、実際そのような戦闘があったことを裏付けるものはないようです。しかし、系図の文章を見た限りでは、さほど大規模な衝突とは思えませんから、師弘と弘世の戦闘が安芸国にまで及んだのかどうかは不明です。
国内だけで終結した小規模な小競り合いであったならば、いったん安芸国の寺院に葬られたとは考えにくく、最初から長門の同名寺院に埋葬されたのかも知れません。だとすると、近藤先生の「はじめ某寺であったのを」云々以降は完全なるご推測となるやも。
参照文献:『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『大内義弘』(松岡久人)、『大内文化研究要覧』、『山口県史』(史料編・中世)、『日本史広事典』
雑感
多くの子女に恵まれ、歴史にもその名を轟かせた弘世に比して、兄弟間のこの格差。何とも寂しく感じられます。系図上、弘世の兄弟は師弘だけです。たった一人の血を分けた弟を、戦死という形で失うほどの内輪揉め。その裏には、いったいどのような事情が隠されていたのでしょうか。
系図だけ見ていると、家臣同士の諍いに巻き込まれていったかのように読めます。主が巻き込まれてしまうほどの争いとは、どれほどのものだったのでしょうか。時代が時代だけに、ちょっとした行き違いで、すぐさま、南北に分れてやり合うということが可能でした。
『実録』と『氏史』が、ともに満弘と師弘を取り違えてしまうという過ちがなければ、この方面の研究もより深く進められた可能性があります。何とも残念なことです。義弘と満弘の兄弟間の争いは、義弘と父・弘世に代わって兄と戦った満弘というような側面があります。はからずも、過去の研究でも、師弘と父・弘世に代わって戦った義弘という構図でとらえられていました。何とも惜しいことです。
『氏史研究』は、義弘と満弘を義弘と師弘と取り違えた状態なれど、両者が例によって例の如く、南北それぞれに分れて果たし合いをした可能性も視野に入れておられました。果たして、弘世と師弘との戦闘はそのような性格をはらんだものだったのでしょうか。今となっては何もわかりません。
歴史学というのは、新しい史料の発見や異なる視点からの再検討などにより、昨日まで当たり前と考えられていたことが、一瞬にして上書きされてしまうという危うさがあります。もちろんそれは、ほかのどの分野の学問でも同じことです。その意味で、常に最新情報をキャッチできるようにアンテナを巡らせている必要があります。さすがに、古代史ならば、古すぎて分からないから、これ以上何も変らないよなぁ、などという安易な考えすら平然と裏切られます。
高校生の歴史の教科書が新課程のものに変り、これまでの参考書が使えなくなりました。仕方なく、全巻新調した次第ですが、一見するとどこも変っていないように思えます。ところが、些細な部分で微妙に異なっていたりします。日本史のスタンダードが土台から崩れるほどの大改革ではないだろうと信じておりますが、個別具体的な各地の氏族などについては、その研究成果の移り変わりの早さに本当についていけません。
そんなことよりも、本業のほうを優先しないといけませんし(それはそれで、毎年約款や規則が新しくなっております)。何ともはや。まったく時間が足りませんね。
何なの、これ。結局何が言いたいのか分からない。書いている本人にも分かってないんだろうなぁ。
何が言いたいのかというより、何を言えばいいのかわからない、ということね。この違いとてつもなく重要だからね。
研究の成果とやらも、どんどん上書きされてしまうんだね。追いつかないからこれ以上は放って置いて欲しい。奇怪な突っ込みとかする人が後を絶たなくて困るし。何もかもミルの処理能力がトロいせいだけどね。
だから、それを言うなら自分で書きなさいって、いつも言ってるのに……。