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禅昌寺(山口市小鯖)

2022年9月12日

禅昌寺山門前記念撮影
禅昌寺山門前にて

山口県山口市下小鯖の禅昌寺とは?

山口市小鯖にある曹洞宗寺院です。開山は慶屋定紹禅師で、大内義弘の時代に周防国にやって来ました。義弘が定紹禅師を開山として創建したのがこの禅昌寺であり、周防長門国で最初に建てられた曹洞宗寺院であったことが重要です。これをきっかけに、やがて多くの曹洞宗寺院が建立されることになり、大内氏当主たちの間でも深く信仰されるようになっていきました。

義弘は禅昌寺にたくさんの領地を寄進しようとしましたが、定紹禅師はそれを断り、かわりに周防長門の国内で托鉢を行なう許可を求めた、というエピソードが有名です。

禅昌寺・基本情報

住所 山口市下小鯖1170
最寄り駅 山口駅 ⇒ 禅昌寺前バス停から徒歩圏
山号・寺号・本尊 法幢山・禅昌寺・釈迦如来
宗派 曹洞宗

禅昌寺・歴史

応永三年(1396)、大内義弘が建立しました。開山は慶屋定紹禅師です。それまで、大内氏で禅宗といったら臨済宗でしたが、義弘の代に、曹洞宗の寺院が初めて建てられたのです。こののちは分国内に曹洞宗の寺院がつぎつぎ建てられるようになり、曹洞宗寺院を菩提寺とする当主も現われます。

慶屋定紹は能登国出身で、67歳の時、教化(きょうか、きょうげと読むと、仏教用語で教導化益、つまり人々に仏法を教え導くのような意味)のために山口にやって来て、長野・殿河内の乾守庵に住まいしていたといいます。この人は明峰素哲の弟子でした。義弘は禅師の教えに帰依し、たびたびその庵を訪れました。やがて禅師のためにこの寺院を創建したのです。⇒ 関連記事:周防の国と曹洞宗禅宗とは何か?

義弘は当寺に三千石の知行を寄進しようとしますが、慶屋定紹は「安定は堕落のもと」とこれを断り、かわりに防長の地で修行僧が托鉢をする許可をもらいます。義弘は禅師が寄進を辞退したことに感じ入り、琳聖太子によってもたらされたという重代の尊像・迦葉と阿難二像を贈ったそうです。

慶屋定紹には「五哲三良」と呼ばれる優れた弟子たちがいました。彼らはそれぞれ五つの塔頭、三つの庵を建てて開山を助けたといいます。境内にはほかにも多くの塔頭が建てられました。

創建当時は「約八十の末寺小庵が取り巻き、千人近い修行僧が居て、西の本山西の高野と呼ばれ」(説明看板)るほど繁栄していました。禅昌寺の托鉢は、幕末に至るまで五百年間も続きました。防長の人々とのつながりによって支えられ、維持されてきた寺院といえるでしょう。

毎年七月十八日~二十日に行なわれる開山忌は、今も多くの参詣者で賑わうそうです。

(※以上の内容は、寺院説明看板、『月光山泰雲寺の歴史』、『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』を参照としました。)

『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれています。東洋本果大和尚の英断についての逸話が興味深いです(宝物、建物、山内五院などは書籍が書かれた当時のもの)。

「曹洞宗開祖・承陽大師七世の法孫・慶屋定紹大和尚が諸国を巡遊してこの地にやって来た時、当時八ヶ国の守護職を務めていた大内義弘公は、和尚の仁徳を慕って弟子の礼を取り、この山中の幽邃を占い定めて、七堂の伽藍を建設し和尚を招いて開山とした。応永三年(1396)のことである。三千石の知行を寄進して寺を維持する元手にさせようとしたが、和尚はそれを拒んで受け取らず、かわりに防長の地で修行僧が托鉢をする許可をもらった。

和尚のすぐれた弟子たちは山内に圓通院、高源院、正法院、玉泉庵、福寿庵という五院を開いて順番に住持を務め、山門維持の規範を永く定めたのだった。当時は山内に七十余の末寺があったという。何度かの火災に遭い、古記録の多くは焼失してしまい、昔の沿革を詳しく知ることはできないけれども、天文年間に大内家が滅亡した後も、藩政時代、毛利家の篤い保護を受けたことは残された文書や寺院の功績によって明らかである。

創建からおよそ二百三十年を経て、毛利秀元公の特命により玉峯幻台大和尚が独住第一世となった。正保二年(1645)のことである。この時も秀元公が寄進しようとした三百石の知行を辞退して、防長の地で托鉢をすることを改めなかった。その奉書は天明文政年間の火災で焼失して残っていないが、歴代托鉢の書類は現存し、人々が良く知っている事である。

安政元年から万延元年まで住持を務めた東洋本果大和尚は火災後の伽藍を復興した。現在の建物の大部分はそれである。しかし和尚は早くも時世の大変革を予知し古くからのやり方によって山門を維持することは困難であると考え、山内に現存した二十余の末寺をすべて廃するという決断を下した。その敷地とほかの荒れ地とを開墾して十有町余の耕地を得たのである。これは実に当寺院現在の唯一の財産である。

思った通り、明治二年、托鉢は廃止され、ついで廃寺合併の法令が出て檀家も禄も少ない寺院の多くは廃寺となり、その敷地と田畑を僧侶に与えて帰農させた。こうして多くの寺院は財産を失った。もしこの寺院も本果大和尚の英断がなかったら山内の地所は散逸して寺の所有となるべきものはわずかとなり、到底この大伽藍の維持は不可能だったであろう。それゆえに、本果和尚を当寺の復古大中興とするのである。

宝物:開祖伝来二十五條裟袋、紹茶色直綴、摩訶迦葉尊者阿難陀陀尊者木像は義弘卿寄進琳聖太子所伝毘首羯摩の作、そのほか軸物等数十品
本堂 :十二間四面、 庫裡:十間四面、茶堂:十二間ー四間、禅堂:七間ー六間、方丈:八間ー四間、書院:七間ー四間、廻廊:八十五間ー二間」(参照:『山口県寺院沿革史』)

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

なお、「独住」というのはひとりのご住職がずっと住職を務め続けることで、その対になるのが「輪住」で、交替交替でご住職を務める当番制みたいなことらしいよ。お寺関係の用語も難しいですね。

禅昌寺・みどころ

山門は創建当時のものを江戸時代に再建。本堂は創建当時から何度も火災に遭うなどして、そのつど修繕・再建され、現在あるものはやはり江戸時代のもの。古い建物としては阿弥陀堂や開山堂があり、阿弥陀堂に安置された平安時代の仏像が、山口市指定文化財となっています。

下乗・下馬の碑

禅昌寺・下馬碑

山門の手前には「下馬」と彫られた石がありました。参詣者はここで馬から下りたとのこと。昔の人は馬に乗っていたから、貴人にお目通りしたり、寺社に参詣したりする際には馬から下りる必要があったんですね。今も「下馬」という地名が残っている場所があったりするけれど、このような石は初めて見ました。

石の裏側には「応永四・十月吉」と彫ってあるそうです。しかし、応永年間のものではなく、「模刻したもの」(参照:『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』)。

山門

禅昌寺山門

応永三年創建当時のものを、江戸時代に修繕しました。説明看板には、「壮大かつ簡素 全国でも珍らしい様式」とあります。この写真からは見にくいのですが、山門上の扁額には「亀岳林」と書かれており、明の高僧・心越禅師(徳川光圀が師事した人)の手になるものだそうです。亀岳林とは、山門から向かって左の山を亀尾山といい、この叢林を亀岳林とよんでいることからきています。

山門丸柱の書には「竹密にして 流水の過ぐるを妨げず 山高うして 豈白雲の飛ぶを礙げんや」と書いてあり、その意味は、「自己への執着を断ちきれば 天地間にさまたげるものは何もないということ」。(参照:説明看板)

本堂

禅昌寺本堂・外観

江戸時代、天保年間の再建。本尊は釈迦牟尼如来。扁額は金沢の大乗寺無学禅師によって書かれた本寺院の山号。

本堂内手前の書は 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(悪はなさず善は進んで行い常にその心を浄くたもつ これ諸仏の教えである)」※写真からはみえません。
本堂内奥の丸柱の書は「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身(谷のひびきが そのまま仏の説法であり、山のたたずまいがそのまま仏のお姿とうつる。心をよく澄ましてみよ)」(以上、参照:説明看板)

禅昌寺様はあれこれの書について、看板などで丁寧にその意味を解説してくださっておられます。漢字だらけの文章が意味不明のイマドキの参拝者にとって、これほどありがたいことはありません。

禅昌寺・本堂内の大内菱

五郎吹き出し用イメージ画像(笑顔)
五郎

大内菱がついているね!

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

まあ、山口市内、至る所についてるけどね。

観音堂

禅昌寺・観音堂

「大慈殿」という。中には聖観音さまがおられます。説明看板によると、百三歳になってもお元気で活躍されていた北村西望先生が制作なさったものです。

地蔵堂

禅昌寺・地蔵堂

「小動物が荒らします。お菓子、玩具等、お供物はご遠慮下さい」との貼り紙がありました。

韋駄尊天

禅昌寺・韋駄天尊像

この韋駄天さま、じつは食堂におられました。韋駄天といえば、足が速い神様というようなことしか知らなかったのですが、禅寺ではお台所の神様なのだそうです。この韋駄天像は江戸時代初期の作品で、近年、かなり傷んでしまっていました。台所の守護神であることから、婦人会の方々にお力添えを求めたところ、快く応じてくださり、現在はご覧の通り、みごとに復元されています(参照:説明板)。

阿弥陀堂

禅昌寺阿弥陀堂

奥の院手前にあります。この中に安置されている阿弥陀如来座像、聖観世音菩薩立像、地蔵菩薩立像が山口県指定の有形文化財となります。いずれも木造で、平安時代後期の作品だそうです。

真ん中に阿弥陀如来像。左手は地蔵菩薩。右が聖観世音。

開山堂(奥の院)

禅昌寺開山堂

「奥の院」の看板には、開山禅師が中央の禅定台で「座禅をして涅槃にいられた。そのまま台下にまつられているという」と書かれていました。涅槃という言葉が難しいのだけれど、調べると悟りを開くこと、とあります。ただし、亡くなる意味でもあるので、開山禅師さまはここでお亡くなりになって、埋葬されているということになろうかと。左右にもお墓があって、歴代ご住職のものだといいます。中を覗くと台の上に供養塔が見え、花が手向けられていました。

澄心池

禅昌寺・澄心池

本堂の後方にある池。ご覧のように緑豊かな初秋に赴いたのですが、なぜか季節はずれの菖蒲が一輪咲いていました。

禅昌寺の所在地と行き方について

住所 & MAP

住所 山口市下小鯖1170
国道262号(MAP には松竹梅道路とある)に参道が接続

アクセス

山口駅から防府行きバスに乗り、「禅昌寺前」バス停で降ります。寺院まではやや長い参道が続いています。バス通りから参道に入る道がわかりづらいと思われたならば、ナビゲーションを使えば安心です。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『月光山泰雲寺の歴史』、『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』、寺院様案内説明板

禅昌寺について:まとめ & 感想

まとめ

  1. 大内義弘が創建した曹洞宗寺院で開山は慶屋定紹禅師
  2. 周防長門で最初の曹洞宗寺院である
  3. 定紹禅師が寺領寄進の申し出を断り、防長二州で托鉢をする許可を求めたというエピソードが有名
    托鉢は幕末に至るまで続けられた
  4. かつては多くの末寺をもつ大寺院であり、「西の本山」と呼ばれるほどだった
  5. 現在も開山忌には多くの参拝者が訪れる
  6. 阿弥陀堂にある木造の仏像三躰が、山口市指定文化財となっている。

大内氏ゆかりの寺院ということで訪問しました。防長初の曹洞宗寺院という知識は参拝前にはありませんでしたが、寺領の寄進を拒んで托鉢の許可をもらった、という逸話にびっくりでした。寺領の寄進は受けなかったといっても元々非常に広大な大寺院だったと思われ、現在はその規模が縮小されたといえども、境内はとても広いです。

ほとんどの建築物が江戸時代以降のものとなるのは致し方ないことで、あまり大内氏時代からの云々は感じられませんでした。開山堂や文化財指定を受けた仏像がある阿弥陀堂などは、本堂の裏手、ちょっと奥まったところにありますので見落とさないように気を付けてください。文化財指定の仏像は外から見ることができます。

山口駅からバスを使って行きましたが、そのまんま「禅昌寺前」というバス停がありますので、とてもわかりやすいです。バスの本数は少ないということはないのですが、前のバスが行った直後にバス停に着くとそれなりに待つことになるので、ちょっと時刻表を気にかけておくのがおすすめです。ガイドさんとご一緒に、禅昌寺からつぎの目的地・泰雲寺まで歩きました。とても楽しい道のりで、時間を忘れていましたが、地図を見たら意外に離れているので驚きました。ですが、普通に歩けます。

こんな方におすすめ

  • 寺院巡りが好きで、特に古い仏像に興味がある方。平安時代の作品とかきいたら見ないと気がすまない! という方はぜひに。
  • 大内義弘さんが好きなので、ゆかりの場所には絶対行くという方
五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

○○さんが好きなのでゆかりの場所には絶対行く、なんて人いるのか?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ミルたちがそうだよ。特に義弘さんてわけじゃなく、「大内」というワードで回ってる。ただし、ゆかりの場所って、ホント「ゆかりの場所」でしかなく、そこに行けばなにかその人に関わる物が残されている、というケースはほぼない。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

大人になってひとかどの武将になれば、俺のゆかりの地もできるかな♪

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(大量にあって、旅費がたいへんなことになってるよ)

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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