陶のくに風土記

蓮華山城跡(山口県岩国市玖珂町)

蓮華山城跡・遠景2

山口県岩国市玖珂町の蓮華山城跡とは?

厳島の合戦に勝利した毛利元就が引き続き、防長の地をそっくり我が物にしようと侵略を始めた際、先頭切って元就に内通した椙杜隆康という人物が守っていた城の跡地です。要するに「裏切り者」。それも第一号ですから、好印象を抱く人はいないでしょう。

すぐ近くに鞍掛山城があり、杉隆泰という人物が守っていましたが、こちらは元就と交戦して敗死しています。このことから、地元の方には椙杜より杉のほうが立派であるとして、人気があるという噂があります。ただし、軍記物曰くとはなりますが、椙杜・杉両人は険悪な仲であり、同じく元就に内通しようとした杉を椙杜がそうはさせじと工作したという逸話もあり、何が真実なのかはわかりません。

蓮華山は一般の方にも登りやすい山として、地元のハイキングコースとなっており、数百年前の怨念などどなたも気にかけてはおりません。山頂はいちおう、中世の山城跡ということになっているようです。

蓮華山城・基本情報 

名称 蓮華山城
別名 蓮華大将陣、六角山
立地 山頂・山腹
比高 約470メートル※
築城・着工開始 不明
廃城年 天正十六年
築城者 椙杜氏
遺構 郭・堀・土塁
文化財指定 なし
(参照:『日本の城辞典』、※は『防長古城址の研究』)

蓮華山城・歴史

防長経略の開始

厳島合戦に勝利した毛利元就は、そのまま防長の地をそっくり我が物にするため、西進していきます。厳島で大内軍を破り、叛乱勢力(大内義隆を死に追いやった人々という意味で言ってます)のリーダーだった陶入道を倒したとはいえ、大内氏は大国です。まだまだ分国内には兵力も残っています。ここで一息ついている余裕はなく、勢いに乗って攻め込み、一挙に手に入れてしまおうとしたのでしょう。

あくまで、主を死に追いやった極悪非道の輩を成敗するための「義戦」を行っているので、傀儡とはいえ、当主としてワルモノたちに担ぎ上げられている「大内義長」を攻め滅ぼすところまでやりませんと、ね。

尊敬する東広島の郷土史の先生は、毛利元就が大内義隆を死に追いやった叛乱者たちに与したお陰で安芸国の利権を手に入れ、その後はワルモノたちと絶縁して防長の地まで手に入れたことを「毛利丸儲け」と仰っていました。まさにその通りです。これを「義戦」だなどと麗しい物語で片付けるのはいかがなものでしょう。そう思うのは、反毛利の執筆者だけでして、先生のお話は結果的には「丸儲け」のようになったけれども、最初に「紳士協定」違反をやった叛乱者側に問題がある、というご意見です。

「紳士協定」違反って? 要するに、自分たちの力だけで、大内義隆を倒せるかどうか、イマイチ不安。失敗したら命に関わる大問題なので、事前に叛乱者たちは毛利元就の力を借りたわけです。安芸国の利権はその見返りですよね。にもかかわらず、途中から、毛利家の勢力があまりに大きくなることを危惧して、約束を反故に。毛利家の力で落とした城を自らの取り分とするなど、明らかな契約違反があったからです。こういう信用ならない行為を行なえば、信頼を失い、嫌われるのも当然です。

まったく筋が通っているので、感情的になっているだけで反論することは完全に不可能です。何やらいい加減で傲慢な態度の叛乱者たち(特にその親玉、誰とは言わない)に比べ、毛利元就のやっていることは筋が通っているのです。「義戦」云々は後世の軍記物の脚色なので、本人が偉そうに唱えていたわけではありません(多分)。

それに世の中、取ったり取られたりですから、ほったらかしにしていたら、数の上では勝っている敵方に逆に取られてしまうかも知れないんです。国許にはロクな人材が残っていなかっただろう、傀儡当主を筆頭に。そうかもしれません。でも、その、傀儡当主の兄(同母兄なのか異母兄なのか永遠の謎)のようなあくどい人物にこれまた操られたら、何をされるか分かりません(こう言っちゃなんですが、あんなのに取られるのなら、毛利家のほうがマシです)。

「裏切り者」第一号

今なお、岩国が広島文化圏のようなことになっている現状(個人的な意見です)を見て分る通り、広島と岩国は境を接していて隣のようなものです。安芸国から攻め込むとしたら、真っ先にやられます。蓮華山城は現在、その岩国市の玖珂町にあります。確かに、歩いたらちょっと……ですが、車だと一瞬です。そして、山口に向かうには必ず通る道です。ほかの行き方もあるでしょうが。普通に前進すれば。

そんなわけで、周防国に入ったらまずは、ここら辺で一戦ありそうです。ただしそれは、敵方が頑強に抵抗してきた場合のこと。戦わずして勝つ、これこそが最上です。城主・椙杜は毛利元就の人柄に惹かれたのか、もしくは、陶入道らの叛乱がそもそも気にくわなかったのか、あるいは単に保身のためだったのか。理由は分かりませんが、毛利軍が侵攻してくるやすぐさま「内通」する旨伝えました。助かりますよね、こういう人(ちなみに、見出しに『第一号』とありますが、それ以前にも名もなき小者の投降は数え切れなかったと思われますので。一応)。

尼子経久だったらすぐに敵に降伏するような裏切り者はつぎには自分のことも裏切るだろうとか言って、バッサリやられてしまったかもしれないですが(『陰徳太平記』の読みすぎ)。毛利元就はそんなことはせずに、椙杜の「降伏」を歓迎しました。ところが、同じ頃、椙杜の城に近い(マジ、真ん前)鞍掛山城の城主・杉隆泰からも、元就に「内通したい」という申し出がありました。戦闘をスルーできるのでしたら、どなたでも大歓迎ですので、毛利家は当然、杉のほうも許そうとしました。ところが……。

椙杜から「杉の内通は偽り」「毛利家の内情を探るため」等々の密告が入ります。普通にありそうなことにも思えますが、実はこの、椙杜と杉両名は歴史に残るほどの犬猿の仲だったとか。この一点だけで、杉が陥れられた可能性も大いにあり得ると思ってしまいます。いまさら両名に真相を確かめに行く術はないですが。

ところで、この椙杜ですが、執筆者が尼子経久だったら即処断しますね。だって、この人物は、コロコロと主君を変えてへっちゃらって人です。大内義隆死んだ時に、あなおそろしと思って息をひそめていたのならわかるんですよ。どっちつかずとか。しかし、この人、「晴賢が謀叛を起こして義隆を襲わんとするや晴賢に味方し、晴賢が厳島に滅さらるるや毛利元就に従った」(『玖珂町史』)って。どんだけ変わり身が早いのか。期を見るに敏とかそういう問題か!? そもそも義隆を死なせたワルモノを倒す「義戦」の人・毛利元就がこんなワルモノ一味だった人物を喜んで内通させたらいかんでしょ? 軍記物とか、そういう細かい事情は伏せているよね? ズルいことこの上ない。ある意味、中世って、現代より不義理がまかり通る世界ですね。

ついでに、そもそも椙杜とは何者かということを少々。大寧寺に上杉憲実とかいう人(東国のことは知りません)の墓がありますが、その人物と引っ付いて来た従者に「太田」という者がいたそうです。遡ると先祖は三善清行(『意見封事十二箇条』の人、戸籍制度もうダメになってます、って進言したもの。要暗記人物です)から出ているそうな。主とともに西国にやって来て、上杉のほうは大寧寺に定住しましたが、「太田」のほうは玖珂郡の椙杜庄に来ました。その子の代から「椙杜」を名字の地として定住したんです。蓮華山城を築いたのは、隆泰で、初代椙杜の孫にあたります。

「投降します詐欺」を曝いて大手柄

これらの逸話がすべて『陰徳太平記』の類から来ているときくと、それだけで「嘘」と感じてしまいますが、この本にも三割くらいは真実が書かれているそうですので、ますますもって真偽の程は不明です。

毛利家礼賛軍記物は溢れておりますから、それぞれが微妙に異なっていたりして、それもますます事態をややこしくしています。まあ、だいたい、以下の四つに分類できるかと。

一、杉は忠義の家臣なので、裏切りなどあり得ないが、毛利家に「投降したフリ」をする。その目的は、元就に近付いてその動向を探り傀儡当主もとい主君の義長に知らせること。バレたら命の保証はないし、極めて危険だが、これも主君のため。

二、杉も椙杜同様、大内家なんかもう終わり。さっさと毛利家に投降して助けてもらおう。命だけでも許されればと思うが、所領なども安堵されたら儲けもの。という保身のために毛利家への内通を決めた。

三、内通を決めた理由はだいたい「二」と同様。しかし、大内家に申し訳ないという思いも欠片くらいはあった。そこへ来て、犬猿の仲の椙杜が毛利に内通したということを知った。あんな人物と再び同僚になるくらいなら、大内家が存続する道にかけようと心変わりした(どんだけ仲悪いんだろ)。そこで、「内通」したお陰で漏れ聞こえたもしくは単に、居城付近まで迫っていたから手に取るように分かった毛利軍の様子を、逐一山口の義長に報告した。⇒ その報告の使者が椙杜に捕まってしまい、毛利方に「内通は嘘」という証拠として突き出されたために、攻撃される定めとなった。

四、すべては「二」の通り。気に食わぬ椙杜とまた同僚になるのは腹が立つとはいえ、命にはかえられないので、そのまま「内通」は決行。心変わりもなかった。にもかかわらず、椙杜の讒言により、山口と通じていると誤解されて、攻撃されるはめになってしまった。

まあ、だいたい上記四通りのいずれかでは? 内通(裏切り)もせず、さりとて主君のために危ない橋を渡って偽装内通工作をするでもなく、普通に城を守っていただけということも当然あり得る。敵軍の進軍ルートの入口付近に詰めていて、最初の犠牲者となった、というだけ。しかも、日頃の鬱憤晴らしのためか、気に食わぬ椙杜が何と毛利方に与して一緒に攻めてくるという。これまた、ある意味悲惨ですね。

軍記物は面白おかしく、さらに、毛利軍をカッコ良く描かねばならぬので、彼らに味方した椙杜の活躍もついでに書き加えたようでして。杉が山口に派遣しようとしていた使者が捕まったという逸話はたいがい漏らさず書かれております。

真実は闇にもかかわらず、毛利家に味方した椙杜より杉のほうが、地元の方に好かれているという話は『山口県の山』という登山ガイドに書かれてあったのを拝見したのみです。

杉との合戦で毛利家に合力して手柄を立てた椙杜には、早速恩賞として、元杉の領地が与えられたというので、すさまじい話ですね、これは。

早々に毛利家に味方して協力した者は、相応に厚遇するという一例が示されたことが、その後の雪崩れ落ちるような投降ラッシュに大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。気の毒な杉については、彼の居城・鞍掛山のところで。

ちなみにですが、椙杜はその後も毛利家臣として活躍しますが、隆康は子宝に恵まれず志道家から養子を迎えています。要するに嫡流としては断絶しちゃったんですね。杉の祟りか。

蓮華山城跡・みどころ

普通にハイキングの山だそうです。そこらじゅうの山、すべてに登っていたら時間もお金も足りませんから、同じ日に岩国城、蓮華山、鞍掛山、沼城と三箇所見ているので、登っている暇はありません。城跡好きな廿日市の先生(登頂済み)からしたら物足りない雰囲気だったそうですので、山城跡というよりは、地元の皆さまの憩いの場所になっていると思われます。

蓮華山(遠景)

蓮華山城跡・遠景

靄の中にそれとなく見える大きな山が蓮華山です。ついでに手前が鞍掛山。なんということか。あまりにも引っ付いているので、防衛という観点で考えた時、実に無意味な配置ですね(軍事のど素人が言ってます)。二つの城の城主が親密な関係にあり、連係プレーで一つの城の如く働けばまだしも。

この日はあいにくの激しい雨の日でした。わずかに小止みとなった隙に、やっとこれだけ撮影できました。涙雨ですね、きっと。むろん、椙杜とは無関係。個人的には杉とも関係なし。沼城のだろうなぁ。

蓮華山城跡(岩国市玖珂町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒742-0323 岩国市玖珂町
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

最寄り駅は玖珂のように思えますが、いかがなものでしょうか。車で一っ飛びだったので、歩いて行く行き方がわかりません。というよりも、歩いて行く方はおられるのかと思われるようなローカルな場所にございます。登山に行かれる方々が多いそうなので、自治体さまや観光協会さまにお問い合わせになるのがよろしいかと存じます。

参照文献:『玖珂町史』、『日本の城辞典』、『防長古城址の研究』、『山口県の山』、『陰徳太平記』そのた

蓮華山城跡(岩国市玖珂町)について:まとめ & 感想

蓮華山城跡(岩国市玖珂町)・まとめ

  1. 岩国市玖珂町にある山城跡
  2. 中世末期に椙杜隆康が築城し、居城としていた
  3. 椙杜氏は、上杉憲実が長門大寧寺で遁世したとき、付き従って来た家来の子孫で、椙杜庄に移り住んだことから名字の地とした。遡るとその先祖は「意見封事十二箇条」の三善清行であるという
  4. 椙杜隆康は陶の叛乱時に叛乱者側を支持していたにもかかわらず、厳島合戦後、毛利家が侵略してくるといち早く内通した
  5. となりの鞍掛山城主・杉隆泰とは犬猿の仲で、杉は椙杜に陥れられたなど諸説あるものの、毛利家と与して鞍掛山城を攻め、杉隆泰を敗死させたことだけは確実
  6. 鞍掛山攻撃の功績により、毛利家から旧杉家の領地をもらった
  7. 椙杜家はのちに、吉敷郡に移り、毛利家臣として続いていったが、隆康には子がなく、志道家から養子を迎えたという

毛利元就礼賛の人々ではなくとも、笑いが止まらないのがこの蓮華山と鞍掛山の逸話です。多くの犠牲者が出たというのに、笑うとは何事かとお叱りを受けそうですが、そのような意味ではありません。人って面白い生き物だな、ということを強く感じるのです。これも生きていくためと思えば仕方ないのかと思えど、そもそも最初はこの、椙杜という人が反叛乱者だと誤解していました。それならば、毛利元就に即内通するのもすんなり理解できるというものです。

けれども、『玖珂町史』にははっきりと、椙杜は叛乱者側についていたと書いてありました。何となく風見鶏的な人物であると感じたわけです。もちろん、同じケースの人は数え切れないので、取り立てて椙杜さんが酷いという話にはなりません。ですが、投降した時期が早かったこと、杉隆泰と犬猿の仲だったという逸話もあることなどから印象が強烈なんですよ。軍記物は本によって微妙なところで相違点があり、もはやどの本に何と書いてあったのか忘れましたし、あるいはごちゃ混ぜになっている可能性もあります。それゆえに、ちょっと記憶が曖昧とお断りした上にはなるのですが。要するにこの二人は仲が非常に悪い。椙杜が考えつくことは、当然、杉のほうも考えていた。つまりは、毛利軍に投降して命だけは助かろうということです。ところが、お互いに憎み合っている両者は同じ陣営にはつけない。椙杜に先を越された杉は仕方なく大内のままでいるほかなくなり、どうせいちおう「内通」の意思表示をしておいたので、臣従したフリを続けて様子を探り、山口に知らせてしまおう、と。

そんな風な物語が勝手に頭の中に出来上がってしまっていました。別に創作しようなんて思っていませんよ。くだらない上に、いずれも醜い話だと思っています。自らが助かろう、という点。ここが、現代人には理解に苦しむ点であり、家名を残そうとかあれこれあるのでしょうけど、平然と寝返るところ、すごいなと。何となく、現代の我々からしたら、イマドキは不義理な連中だらけだ……という鬱憤もあり、昔の人は義理堅かったんだなぁと思ったりするものですから。でもこと、勢力対勢力の激突となると、とたんに不義理な連中がどっと出て。それもまた、現代とは違って、選択を誤ると命まで失う時代でしたから、致し方ないよな、と思うんですが。

にしても、仲が悪いせいで、杉と椙杜は互いに別々の選択をし、毛利家に寝返ることが叶わなかった杉は敗北して亡くなってしまう。心優しい地元の方々は、杉のほうを英雄視して、立派な供養塔を作りその行いを語り継いでおいでです。でも、その裏側って、ものすごい泥沼だったのではないのかな、と思いました。生憎の雨が、それらの醜い泥を洗い流してくれたようでして、靄に霞む二つの城跡は仲良く引っ付いて見えました。

こんな方におすすめ

  • 毛利家の防長経略の跡を回っている人
  • 山登り、ハイキングが好きな人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

陶入道に味方しておきながら裏切るなんて。保身のためとはいえ、俺にはできない芸当だ。要害山のボロ城は俺が21世紀の兵器でぶっ飛ばす。安心しろ。歴史は変る。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

お前、なんてことを言うんだ! 元就公に仕えたいと望むのは当然の願望だ。これまではよい主に巡り会えなかったから、活躍のしがいもなかったが、隆康殿にもようやく飛躍の時が来たのだろう。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

お前、気は確かか? 毛利元就は我らの国を侵略しているようにしか見えないが……。祖国が敵に荒らされるのを平然と見ているのみならず、敵を礼賛するとは。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ふたりともやめなさい! 鶴ちゃん、椙杜さんはお父上と同じ名前なのね……。ミルも杉と内藤は嫌いだから、椙杜さんに一票入れとくよ。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

……。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

……(← 同じく両名が嫌いだった)。

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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