陶のくに風土記

七尾城(島根県益田市七尾)

2024-07-05

七尾城・案内看板

島根県益田市七尾町の七尾城とは?

石見の名門、益田氏の居城だった山城跡です。低山ながら、しっかりとした造りで、山頂からは益田市内全域を見渡すことができる絶妙な場所に建っています。ここで睨みをきかせていたら、領国のすべてが把握できるといった感じです。

益田氏は早くから大内氏に与し、ことに、その重臣である陶家とは婚姻関係を繰り返し、親しい間柄にありました。その一方で、境目を接している吉見氏とは犬猿の仲で、度々抗争を繰り返していました。陶の家も巻き込まれ、益田氏を後押しした当主・弘護は吉見氏に恨まれて謀殺されるという悲劇に見舞われたほどです。

こぢんまりとしつつも、どっしりと構えている城、そんな印象を受けました。城跡はきちんと整備され、麓にある益田氏の居館跡地とともに、「益田氏城館跡」として、国の史跡に指定されています。

七尾城・基本情報

名称 七尾城
別名 益田城
立地 丘陵頂~麓部(平野部)
標高(比高) 118メートル(100)
築城・着工開始 不明(1192年頃とされる)、十二世紀~慶長五年(応安年間~慶長五年)※
廃城年 1600年
遺構 郭、土塁、堀ほか
指定文化財 国史跡「益田氏城館跡」
(参照:『兵どもの夢の跡』、『日本の城辞典』※、)

七尾城・歴史

益田一族と大内氏(陶家)

『日本史広辞典』には「中世から近世、石見の武家。御家本(みかもと)氏の一族」とあります。その先祖は、関白藤原忠平九代孫国兼といいますから、摂関家の血を引く名門と言えます。国兼の曾孫にあたる兼高が鎌倉御家人となり、石見国押領使として益田に移り、そのまま土着しました。つまり、「益田」が名字の地ですね。

ところが、家系図の本を調べたところ、藤原忠平から出ているという説とは別の様々な説が載っていました。何ならば、藤原鎌足から出ているというのが最も古いのですが、藤原忠平も当然、鎌足の子孫なので、遡れば間違ってはいないです。益田家はのちに毛利家に仕え、明治維新を迎えますから、家系図の類も含め史料が圧倒的に多いのです。城跡の説明にそこまで詳細な考察は不要ですので、続きは家ごとの解説のところでやりましょう。

ちなみに、受験参考書に繋いでおくと、藤原忠平の兄・時平は菅原道実を大宰府に追いやった人物として有名。要暗記人物です。時平には子がなく、弟・忠平が跡を継ぎますが、この人の息子が、実頼、師輔の兄弟です。頭角をあらわすのは弟・師輔のほうで、その子が、伊尹、兼道、兼家の兄弟。うち跡目を巡って火花を散らしたのが兼道と兼家です。政争に勝ったのは兼家。しかし、その子らもまた、激しく火花を散らし、結果それに勝利したのが、かの望月の歌で有名な藤原道長です。いっぽうで彼より二代前、既に政争から引いた実頼の系統から、『小右記』を記した実資が出ています。例の望月の歌を日記に書き記した人です。

それから、押領使について。その歴史は古く、九世紀にできた令外官となります。これはもともと、地方で反乱(といってもせいぜい山賊、海賊集団が騒ぎを起こした、といった程度)が起きた際に、それらを鎮圧するために朝廷から派遣された人々をいいました。任務を完了すれば、都に帰国、報告で終わりです。しかし、のちには国ごとに常設されるようになります。ほかに似たようなものとして「追捕使」と呼ばれる職がありましたが、やっていたことは同じです。国司・受領が赴任地で適当な人物を選んで中央に推薦し、任官されるしくみでした。要は、地方の反乱・暴動を地方の武士に鎮圧させる制度です。時は移り、1185年、源頼朝は、朝廷から、惣追捕使・国地頭の設置を許可され、配下の御家人たちを各国に派遣していきますが、これがのちの「守護」の前身のようなものでした。以上、すべて受験生の知識です。

ところで、『辞典』に書いてある鎌倉御家人として石見入りして云々も家系図の本とはまったく異なっています。源頼朝が反平家で挙兵し、いわゆる源平合戦が行なわれた時、益田一族はこぞって、源氏に味方したとあります。しかも、その頃、すでに石見にいたと。どうもこちらの説が正しい気がいたします。源氏に与力した=御家人となった。それから、石見国押領使に任命された、その意味ならばどっちも正しいですが。とりあえず、この問題も置いておきます(とにかく、益田氏についての資料は『多すぎ』ます。まとめるのは一苦労なので、いつになるか不明です)。

やがて、南北朝期になると、益田氏の支配は、七尾城を本拠地として益田周辺に及んでいました。南朝・北朝では、当初より武家方につき、石見の国人勢力中で重きをなし、幕府の命令で各地を転戦します。同じく、武家方に転向した、大内弘世と協力して反幕府勢力を攻めていたことは記憶に新しいですね。八代・兼見は大内氏に従属。以来、親大内派の武家として兼見の曾孫・兼理は大内盛見の九州討伐に従って戦死するなど、大勢力のシンパとなったがゆえに巻き込まれた悲劇もありました。

しかし、応仁の乱の際には、当初、当主・兼尭は畠山政長方に味方。あくまで、幕府に仕えているという姿勢を貫いたようです。しかし、その後は、その子・兼貞とともに、大内政弘に従い上洛。いったいどっちの味方? という感じです。1471年に政弘の留守国で叔父(伯父)の大内教弘が東軍となって甥に背くと、留守を預かっていた陶弘護とともにこれを撃退するのに尽力しました。

この頃から、大内本家というよりも、陶家との結びつきを強め、弘護は兼貞の娘婿という関係でした(※)。弘護は益田氏と境目論争が絶えなかった石見の豪族・吉見氏(教幸方に味方)と益田氏の抗争でも益田氏を援護して、吉見氏を撃退。乱後に当主・政弘に許された吉見氏に謀殺されるという悲劇的な最期を迎えました。これ以後も、益田氏と陶家との婚姻を媒介とした親しい関係は続き、のちに、弘護の孫・隆房が大内義隆を死に追いやった際にも、陶方につきました(※益田氏は二代にわたり、娘を大内氏に嫁がせていましたが、いわゆる当主となった人ではなく、むしろ、敵対して破れた側の関係者となってしまったため、当主嫡流の外戚になることはできませんでした。陶家とは当主・弘護の妻となり、その子・興房がその跡を継ぐなど、外戚として重きをなしました。また、陶家の女性も益田家に輿入れしています。これらについては、場を改めます)。

その時の吉見氏当主は正頼でしたが、大内義隆の姉を妻としていたことなどもあり、陶方と対立。拠点・三本松で叛旗を翻しました。陶方は、義隆の後釜として大友家から迎えた傀儡当主・義長(大友晴英)も親征させるなどして、徹底的に吉見家を潰そうとしました。しかし、安芸国で毛利家も陶方と袂を分かつなど騒がしくなってきたことから、仕方なく吉見家と和睦。その後、大内本家(実際には陶家の政権)は毛利家との全面対決に流れ込んでいくことになります。

厳島の合戦で、陶方が敗北すると、親陶派だった益田氏のその後にも暗雲が垂れ込めました。長年に渡る陶家との親しい関係を思えば、日が昇る勢いの毛利家に徹底抗戦して滅び行く定めです。しかし、元就の次男・元春は無駄な血を流すことをよしとせず、投降すればすべてを安堵すると益田家を説得。陶家に対する長年の恩顧を思えば、不義理にもあたる行為ながら、益田家は毛利家に降る道を選びました。

これは想像ですが、そこに至るまでは、益田家の側にもかなりの葛藤があったものと思われます。しかし、誰であれ、「家を守る」ということが、当主として最大の責務です。立場が逆であったなら、陶家でも同じ行き方を選択したかもしれません。加えて、恐らくは、吉川元春の説得術も見事なものであったのでしょう。これも人柄、仁徳の賜物です。元春の言葉に偽りはなく、毛利家の配下となった益田家は家老まで務めるほど重く取り立てられたのでした。

しかし、毛利家に付き従い、彼らが広島から山口へ移転するということは、益田家にとって慣れ親しんだ益田の地との別れを意味していました。益田家が去った後、彼の地に入ったのが誰かなど知りませんが、時代は中世から近世へと移り、中世山城としての七尾城も静かにその役目を終えたのでした。

国史跡「益田氏城館跡」

中世山城の特色として、七尾城も、平時は山麓の居館に住み、何事か起った際には詰めの城に籠もるという構造です。よって、城じたいには、豪勢な領主館のようなものは付属していません。そのかわり、麓に平時の館として、現在「三宅御土居館跡」と呼ばれる居館がありました。

この居館は、発掘調査の結果、当時の様子が復元されており、七尾城と合せて「益田氏城館跡」として、国史跡に指定されています。セットで国史跡になっている通り、益田氏の人たちも、館と城とをセットにして領国支配をしていたわけです。

城と館跡がまとめて史跡認定されている例は少なくないのですが(吉川氏城館跡もそうでした)、山城が登りにくかったり、平時の館と詰めの城が意外にも離れていたり、見学するのはけっこう面倒なことも多いです。七尾城は登山が楽な上、御土居にも行きやすく、その意味では「城と居館セット」を見てみたい方にうってつけの史跡と言えます。

ちなみに、益田には三宅御土居跡以外にも、52ヶ所もの館跡があるそうです……。(参照:『島根県の歴史散歩』)

益田氏と雪舟

水墨画の巨匠として著名な雪舟が、益田家の当主・兼尭を描いたとされる肖像画が、益田市内にある記念館に所蔵されています。雪舟と益田兼尭には親交があったことが知られており、たびたび益田を訪れています。付近の寺院には雪舟の作と伝えられる庭園がいくつか残されており、名勝に指定されたりしています。

雪舟はその晩年を、益田の大喜庵で過ごしたとされていますが、同じような言い伝えは山口の雲谷庵にもありますので、どちらかが事実なら、どちらかは間違っていることになります。決定的な史料がないため、確定できず、「諸説ある」とせざるを得ないのでしょう。当然のことながら、益田の人々は、益田説を信じておられます。

でも、山口ではいわないほうがいいかもね。雲谷庵を愛する人たちから怒られてしまうので。終焉の地がどこであれ、雪舟さんが、山口にも益田にもゆかりがあったことだけは間違えないでしょう。有名人にかかわる伝説は何通りもあるので、それぞれ比較してみるのも楽しいです。

益田城・みどころ

横に長いものの、高さはさほどない山なので、比較的楽に登れます。さらに、国史跡として整備が進んでいるため、遺構なども比較的わかりやすいです。高さがあまりないわりには、展望がとてもよく、益田市の主要部分を見渡せる山頂が心地良いです。

城の姿(遠景)

七尾城・遠景

遠景というより、間近で見ておりますが。のちほど遠景は嫌と言うほど登場します。とにかく横に長いお山でして。経験者は語るです。しかし、当たり前ですが、山城跡って、本当にただの山ですね。こうなると、反対に、普通の名もなき山が、すべて山城跡に見えるようになってしまいました。けれど、それも強ち間違いではないようで、長い歴史の中には、名前すらわからない人物はいたでしょうから、何でもないそこらの山も、その方々の根拠地であった可能性はっゼロではないんです。すべて調べ上げるなんてことは、資金が潤沢にある研究者の先生方でも無理でしょう。

七尾城・遠景(2)

七尾城・遠景(3)

極めて出来の悪い写真ですが、神社の鳥居を境に、左右を脳内で一つにしていただくと、横に長いことがなんとなく分っていただけるかな、と思います。この時、ちょっと体調不良でして、七尾城はあまりまともな写真が撮れませんでした。貴重な機会であったのに、本当に空しい限りです。

住吉神社鳥居

七尾城・住吉神社鳥居

住吉神社の鳥居が、七尾城登山道入口の目印となります。右手に見えている建物も、神社の一部分と思いますが、本殿ではありません。見えますよね、長い長い石段が。城跡遺跡も、神社も、まずは、この階段を登ることからスタートとなるのです。

石段の途中・クマ出没看板

七尾城・クマ出没看板

とにかく、石段が長くて長くて。途中で登るのをやめたくなりました。本当にこの日は体調不良が酷かったのだと思います。石段をつけてくださるということは、それを登ればいいだけですので、登山のスタート地点はそれだけで、とても楽チンです。しかし、中途に恐怖を煽る注意喚起看板があったので、震え上がりました。記念撮影をしているような場合じゃないですね。これまで、マムシに注意は至る所で見ましたが、クマはこれが初めてでしたので、その恐ろしさは半端なかったです。看板はあっても、マムシなんて、出たことないじゃん。と髙をくくっていましたら、とある城で、本当に出たので(記事未だ未公開)、クマも出る可能性は否定できません。

階段終点・住吉神社入口

住吉神社・神門

階段の終点が神社の入口となります。これは、神門というのでしょうか。説明がなかったので、よくわかりませんでした。しかし、この赤色がカラフルですね。

住吉神社・社殿

七尾城・住吉神社社殿

七尾城・住吉神社賽銭箱

賽銭箱の大内菱?

立派な社殿とは不釣り合いな、朽ち果てた賽銭箱。そこにはどう見ても大内菱にしか見えないマークが。古くはなっているものの、どうみても近現代の品。なにゆえ、大内菱がこのようなところに? と謎はつきませんが、答えてくれる人はいませんでした。

なお、住吉神社は城の鎮守として建てられたものですが、現在の社殿などは、益田氏が去った後、江戸時代の再建物となります。

七尾城登山道入口

七尾城・登山道入口案内看板

この看板脇を入っていくといよいよ城跡ですが、ここにもまた「クマ出没注意」と。なんだか、本当に出るような気がしてきました……。

山道

七尾城・山道

看板の所から、細い山道を入って行くと、いよいよ山城っぽくなってきました。

太鼓の段

七尾城・太鼓の段

はたして、これが太鼓の段であるのか、まったく自信がありません。よほど体調が悪かったらしく、写真もほとんどなく、削平地になっているものが郭であろうといういい加減な認識で、通過した順に振分けています。ほかのサイトオーナーさまのお写真などを拝見して確認したりしましたが、いずれも皆同じに見えますので、まったく参考にはなりませんでした。これだけ、整備が進んでいるので綺麗な案内看板が要所要所に立っているはずと思いましたが、探すことができたのは、本丸くらいでした。見付けられなかったのか、そもそもないのかは不明です。ただし、正直なところ、本当に、どこから撮るかの違いで、同じ場所でも違うように見えたり、逆に、全く違う場所も同じに見えるのが山城です。

千畳敷

七尾城・千畳閣

やたらだだっ広いことから、そうかなと。ただし、どうもこの日はひたすらに本丸だけ目指していた雰囲気なので、順路にないところはそもそも通っていない可能性も捨てきれません。どうにせよ、郭であることは確かです。

厩の段

七尾城・厩の段

「馬釣井」(未見)へ続いていることからそうかな、と。

大手の帯曲輪

七尾城・大手帯曲輪

看板が見えているので、これは間違いないです。

二の段

七尾城・二の段

本丸の一段下の削平地です。ということは二の段であろう、と。

本丸跡

七尾城・本丸跡(看板)

山頂に着いた証。本丸跡看板です。頂上着いてこれがない山って、気絶しそうになるよね。

七尾城・本丸

山頂からの展望

七尾城・山頂からの展望

益田市内が手に取るようにわかります。ここに城を築いた理由に納得できますね。高さもないし、小振りな山だなと思いましたが、睨みをきかせるには十分です。

附・道なき道を降りた記

二の段まで戻ったところで、細い道を見付けました。いかにもこの先になにかある気配です。

七尾城・細道(行き先不明)

さらに、道にはロープがついておりました。ますますもって、この先に何かあることを示唆しているようです。

七尾城・ロープのついた道

ロープがついている、ということは、絶対にこの先に何かがあり、そこへと先導してくれているはずです。それを信じて降りていくと、大量に削平地がありました。小さな郭なのか、それとも広めの山道なのか、まったく不明です。

七尾城・削平地

七尾城・削平地2

七尾城・削平地3

このような感じの場所がいくつあったか不明です。全部同じに見えますので、これ以上は省略いたします。ご覧のように、かなりぶっといロープがついていまして、かなり危険な感じです。

七尾城・山道のロープ

さらに、こんなわけのわからない危険な場所に出てしまいました……。

七尾城・道なき道

写真はここで途切れています。つまり、これより先はとんでもないことになり、写真など撮っている余裕がなかったからです。廿日市の先生曰く、我々は切岸を降りているかもしれない、と。なんと!? 敵さんが上がってこられないようにしてある場所を味方ならぬ普通の観光客が降りていくという、恐ろしい結末に。文字通り転げ落ちる感じでした。

そもそも、なんで、この先にみどころあります、てな具合にロープついているんだろう、って話なんですけど。ちなみに、ロープは途中で途切れてしまいました……。そこで、引返すべきだったのかもしれません。一体何だったのか、今以てわかりません。

城の姿(遠景)その二

七尾城・遠景4

山を出た先は、益田川の流れが美しい、麗しい光景が広がっていました。途中行き逢った地元の方とお話したところ、「こちらからも降りられるのですかね?」とのお言葉。住吉神社脇から入り、同じ道から降りるのが正解でして、そうでなければ、駐車場に戻るのもたいへんなことになります。車まで遠かったのなんのって。

附・医光寺総門

七尾城・医光総門

こちらは、医光寺という臨済宗寺院の総門です。しかし、じつはこれ、元・七尾城の大手門を移したものだといわれております。

附・三宅御土居跡

七尾城・三宅御土居屋敷跡こちらが「益田氏城館跡」の館のほう、三宅御土居跡の案内看板です。思いもかけないアクシデントで疲れ切っていたため、ここはチラ見になってしまいました。

七尾城・三宅御土居跡2

背後に見えているなにやらコンクリートの壁みたいなもの。じつはこれが復元(?)建物だったようでして。かつて、村上水軍の石垣と現代のコンクリートの見分けもつかないことを恥じた経験から、なんでこんなにたくさん変な壁作っているんだろうと思っただけで帰宅してしまいました。

御城印

七尾城・御城印

七尾城(島根県益田市七尾)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒698-0017 益田市七尾町 

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

廿日市から車で行きました。あんまりじゃないかって? じつは観光協会の方に問い合わせをし、山口から日帰りでいきたいとお伺いしました。だって、山口線の終点が益田じゃないですか。いずれ終点まで行き、この城を見たい、ずっとそう思っていました。廿日市の先生はお車だろうから、こっちは電車で現地合流と。そうしたら、廿日市から車でのほうは推奨されるけれど、山口から山口線でという選択肢は非推奨だとかで。理由は電車の本数が少ないこと。時間がかかること、などです。しかし、廿日市から車でも非推奨です。運転に疲れてしまう上、みどころが多すぎて、消化不良となります。素直に島根県から行きましょう。最寄り駅は益田となりますが、歩くのはちょっとたいへんそうです。

参照文献:『兵どもの夢の跡』、『日本の城辞典』、『島根県の歴史散歩』

七尾城(島根県益田市七尾)について:まとめ & 感想

七尾城(島根県益田市七尾)・まとめ

  1. 石見の名門・益田氏の居城
  2. 整備が行き届いた山城跡で、山頂までもわずかな時間で到着できる。山頂からの展望も素晴らしい
  3. この城と、平時の居館であった三宅御土居を合せて「益田氏居館跡」として国の史跡にしていされている
  4. 付近には、益田氏ゆかりの寺院、益田氏と親交が深かった雪舟の庭園などのみどころが多くある
  5. 七尾城跡と三宅御土居跡は、発掘調査が行なわれ、その出土品などを展示した博物館があり、関連する書籍やパンフレットなども購入できる。
  6. 益田氏は陶家との婚姻関係などから、義隆死亡後も、親陶側を貫いた。ゆえに、毛利家に滅ぼされることも覚悟したが、吉川元春は投降するよう説得。その後は毛利家臣として重きをなすことになる
  7. 毛利家の山口移転で益田氏も石見を去り、七尾城もその役目を終えた

疲れたの一言です。そもそも体調があまり良くなかったのに、強引に行ってしまったのもいけませんでした。でも、旅って、前々から予定を立てて、宿なども確保しているので、そう簡単には変更できません。お城じだいは小さな城で、よほどの思い入れがない限りは、そんなに時間をかけずとも見学終了となります。ですが、益田という町が、とても魅力に溢れていて、寺院だのお墓だの、すべて見て回ろうと思ったら泊まり込みにしないと到底足りません。

陶の家の親戚という微妙な立ち位置で、しかも毛利家で家老になったという関係上、毛利家贔屓の人々からしてもゆかりの一族ということになります。でも、親戚だから一応、重要な家臣なので一応というワンクッションが入ってしまうため、何となく適当な扱いになってしまったような気がします。現地に行ってみて初めて、あれもこれもみどころいっぱいということが分った次第ですので、これで終わりにはしたくないですね。

でも、本家本元についても完璧に調べ尽したり、見尽くしたりすることは無理なのですから、親戚だの、家老だののところで立ち止まっている余裕はないかも知れません。ついでに吉見家の三本松にも行きたかったんですけど、まったくそんな時間はありませんでした。行く前は余裕と感じてたんですけども。

こんな方におすすめ

  • 城跡巡りが好きな人
  • 益田氏に関心がある人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

ミルが変な細道を見付けたせいで、酷い目に遭った。どうしてくれるんだ。あれがなかったら、もっとゆっくり色々な物を見れたのに。

奥方さまイメージ画像
祖母さま

他人のせいにしてはなりませんよ。お陰で得難い体験ができたではありませんか。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

お祖母さまのような美人が育った町だから、俺、益田が気に入っちゃった。益田川の流れを見ていたら、滑落して泥だらけのミルまで、綺麗に見えちゃったよ。

奥方さまイメージ画像(涙)
祖母さま

まあ、それはたいへん。よく怪我をせず無事に戻れましたね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

入山前に、大内菱の賽銭箱にお参りしておいたからです。住吉大明神がお助けくださったかと。

奥方さまイメージ画像
祖母さま

まあ。でも、お参りしたのは賽銭箱にではなくて、神さまですよ。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

あああ、そうでした。すみません。

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

どこまでみっともないんだよ。もう一度落ちたら世話係をクビにするからな。

龍文寺山門(常楽門)前記念撮影
陶氏ゆかりの地 周南旅日記

陶家の居城と居館(ともに跡地)がある根拠地・周南市内の観光資源まとめ(目次ページ)
残念なことに、周南市だけでは全くボリュームが足りないので、県内外のゆかりの地も加えています。

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※益田は島根県ですが、陶の城・城主の奥方さまゆかりの地ゆえ、こちらに組み入れました。周南市の観光資源ではありません。

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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