大内義興とは?
大内氏の版図が最大となった時の第三十代当主。史上最強、最大、最高の西国の覇者。
その強大な軍事力を以て、明応の政変で追放された「流れ公方」足利義稙の復職を助けたことで知られる。大内氏の軍事力がなければ幕府のある京都は守れない。義興なしでは国の平穏が保てない。つまりは、彼こそが、将軍をも凌ぐ最高の実力者であったと言える。史上最高の当主は、最強の将でもある。反義稙派の足利義澄・細川澄元勢力を破った船岡山の戦いでは、自ら先頭に立って敵陣に駆け込んだ。
のちに出てくる「戦国武将」たちがとにかく我こそが京に上ろうと互いに戦い続けたのは、「上洛すること」が「天下統一」を意味したからであろうか? 彼らが生涯夢に見ながら叶えられなかった「上洛」を義興は難なくこなした。けれども、彼は最後まで将軍様の忠義な家臣であり続けた。自らがそれに取って代わり、天下を取ろうなどという野心は欠片もなかったのである。こんな善人、ほかにいるだろうか?
戦国乱世を統一したのが、彼ではなく後から来た一回りも二回りも小さい連中だったこと、山口から天下を統べる者が出る機会が失われたこと、とんでもなく悔しい。不幸にも跡継に恵まれず、息子の代に家臣の叛乱に遭い、家は滅びてしまった。けれども、かわりに防長の主となった毛利元就もまた、知勇兼備の人格者だった。にもかかわらず、この人もまた、天下を掌中におさめようなどという野望を抱くようなお人ではなかった。
オダノブナガ、猿や狸など、彼らの足元にも及ばない。天下人にはなれなかったが、それは本人たち(毛利元就さんを中にお入れしています)が望んでもいなかったこと。西国最強の覇者の名は、永遠に大内義興のものである。なんびとにも、彼を越えることはできっこないので。
大内義興・基本データ
生没年 1477~享禄元年(1528).12.20 52才
家督相続 明応三年(1494)
父 大内政弘
母 今小路
幼名、通称 亀童丸、六郎(次郎)
通称 周防権介、大内介、左京大夫
官位等 正六位 ⇒ 従三位、周防・長門・筑前・豊前・石見・安芸・山城守護、管領代
法名 凌雲寺殿傑叟義秀大居士(凌雲寺殿傑叟義秀大禅定門)
墓所等 凌雲寺跡地に「伝」墓、玄済寺に位牌
(出典:『新編大内氏系図』、『大内氏実録』、『日本史広事典』、『大内文化研究要覧』)
青年当主の船出
父は風雅な花守護様
文明九(1477)年二月十五日、応仁の乱で名を馳せた大内政弘と、能登畠山家の縁者・今小路殿との間に生まれた。
父の政弘は、猛将であると同時に、歌人としても著名。代々優秀な当主ばかり輩出してきた大内家の中でも、まさに最高の文武の名将であった。
父・法泉寺さま
西軍最強の将にして雅な歌人
母・今小路
京でも評判の美女
両親の愛情を一身に受けた運命の若子
応仁の乱で上洛していた政弘が、京でも評判の美女・今小路との間にもうけた玉のような若子・亀童丸。父の在京中、京の都での生まれだ。
愛らしくて聡明な彼は両親に深く愛されて育つ。有能過ぎる文武の将・政弘の亀童への期待は大きく、厳しい指導監督の下、十分な教養を身に着けた完璧な若子に育てられたことは間違いない。文明十八年(1486)、大内家歴代当主が必ず通る道である、氏寺興隆寺でのおこもり行事も無事に終え、将来の当主・亀童丸は強く、健康に成長していく。
長享二年(1488)、時の将軍・足利義尚は、西の大国大内家の将来の当主に、自らの「義」の字を与えた。将軍が配下の子弟に諱を授けることは珍しくなく、それは、将軍家のみならず、他家においても同様である。大内家でもその例に習い、義興の「興」の字、そして、その子・義隆の「隆」の字を頂戴した臣下は大量にいる。ただし、将軍様のお名前の上の字、つまり、義尚の「義」の字のほうを頂戴する、というと事情が少し違う。「尚」の字をもらった配下は数多いが「義」のほうは、そう簡単にはもらえないのである。加えて「義興」という名前そのものが、まるごと将軍による命名であった。つまり二文字も授かったということ。
このあたり、将軍家の大内家に対するサービスぶり=力ある臣下への配慮が見て取れると同時に、恐らくは、父である政弘の根回しもあったのではないか、と思う。政弘と、義尚、それに隠居して東山殿となっていた先代の義政とは和歌のやりとりを通じて親しい間柄でもあった。
応仁の乱もすでに遥か彼方。敵対していたとはいえ、将軍家にというよりは、細川家憎しのほうがメインだから、戦が終われば特にわだかまりもなくなったのだろう。そんな日頃からの付き合いと、それに、将軍家が大好きな唐物の山とが、政弘の愛息に稀にみるご寵愛の一文字をお授けくださる理由となったことは想像に難くない。
ほかでもない左京大夫の御子。喜んで我が偏諱を授けよう。
幕府と将軍様のために尽します。
ここまでのまとめ
- 大内義興は、政弘と今小路の息子
- 嫡男・亀童丸として大切に育てられた
- 美しく、賢い若子だった
家督相続
父からみっちり帝王学を受け継いでいた亀童丸改め義興だったが、政弘が健在なうちは父の下で政務のいろはを学ぶ日々。名家の若様として、忙しくも恵まれた日々を過ごしていたと思われる。ところが、足利義政が、かつて弟・義視に家督を譲って隠居したい、などと言い始めたように、政弘も何度も「隠居」を口にしている。義政同様、楽隠居して、大好きな歌の道に専念したかったのかもしれないし、ほかの理由があったのかもしれない。しかし、彼の数度にわたる「隠居」申し出は幕府によって却下されていた。理由は、息子が幼過ぎるため。そう、応仁の乱から帰国して間もない、まだ三十代の頃から「隠居」宣言が出ていたのだ。
政弘の宴会好き、歌詠みの日々は変わらなかったが、体調は異変を来たした。そこで、元服した義興に少しずつ政務を任せるようになっていく。政弘が亡くなった時点で、政務はほぼ義興を中心に回っている状態になっていた。
家督相続のたびに揉め事が勃発するこの家で、政弘から義興への相続は穏やかに行われたかのように見える。だが、実際には、陶武護、内藤弘矩といった重臣が、彼の相続と前後して成敗されており、なんらかの「異変」があったことを指摘する学者も多い。
明応四年(1495)、政弘が世を去る。最愛にして偉大な父の死を悲しむ間もなく、義興には数々の試練が待ち受けていた。政弘享年五十歳。正式に家督を継いだ義興は若干十八歳であった。
戦い続けた生涯
大内家の版図は安定の周防・長門から北九州の豊前、筑前、そして、中国の安芸、石見、時に都に近い、山城、紀伊と及んだ。このなかで周防・長門はもちろんのこと、豊前の地も比較的安定してその支配下に置かれていた。
だが、中国地方は、国人領主の集合体であり、小領主たちを配下被官に取り込み切れていなかった。それはほかの守護家からみても同じことであり、時に大内、時に山名、後には尼子などと支配者をかえる不安定な地盤。守護を任命するのは将軍でも、その指名権を得るにはそれなりの支配力を見せつける必要があるから、これらの地を巡る争いは絶えなかった。さらに、配下の国人領主たちが自主的な能力を強めていくに従い、互いに協力して支配勢力に対抗しようと国人一揆などを起こしたりもするし、最悪だった。
そして、九州。ここは、そもそも、幕府が派遣した九州探題の管轄下のはずだが、支配下の領主たちはやはり言う事を聞かない。遠く九州の地まで力及ばない将軍家は、配下としての大内家にそれら「賊軍」となった不満分子の制圧を度々命じている。そんななかで、九州探題は、完全に有名無実化し、最後は肥前の一守護レベルにまで落ちぶれ果てた。それと入れ替わりに、九州の中心地大宰府を含めた筑前の地も、大内家の支配が及ぶところとなった。
山城、紀伊は将軍義満時代の大内義弘がその守護に認められていた時期がある。そして、後述するように、在京時代の義興もその職に就いていた。
九州の火種
上に見たように、九州と中国は紛争が絶えない地域であったが、特に、大宰府奪還に命を懸ける「名門」少弐氏、次第に力をつけてきた豊後の大友氏などが、厄介者筆頭であった。無論、島津家など、九州にはほかにも多数の有力大名がいたわけだが、利害関係の衝突は、まずは境を接するところから、というのが鉄則である。
政弘という偉大な人物の死で、わずか十八歳の義興が後を継いだときけば、大人しくしていた周辺国の動きは俄かに活発になる。最初に、少弐家が、この若造から領地を奪い取ろうと画策した。
大宰府を巡っては、取ったり取られたりを繰り返しつつ、次第に大内家の支配力が強まって行ったが、応仁の乱のどさくさで、一旦少弐家が奪い返すようなこともあった。彼らにしてみたら、経験浅い若い当主に交代したばかりのこの期は、絶好の機会であった。しかし、「善戦虚しく」少弐家はまったく大内家の敵ではなかったようだ。
時至りぬ。今こそ、賊徒どもを蹴散らし、筑前の地を解放するのだ!
明応五年(1496)、義興は北九州に出陣。華々しいデビュー戦を飾った。翌明応六年(1497)疾風怒濤の快進撃で少弐家を蹴散らし、少弐政資を討った。
この時、少弐家の当主は政資であった。秀郷流藤原氏の流れをくむ少弐氏は、鎌倉時代、源頼朝を助け、筑前・豊前・肥前・対馬諸国の守護と大宰少弐の任について以来、ずっとその地位を維持してきた。こと、『大宰府」を支配下に置こうという執念が半端ではない、非常にプライドの高い方々である。しかし、筑前の地が、大内氏の天下となるや、大宰府を追われてしまう。以来代々その奪還に命を捧げてきた。
多少なりとも隙があればけっして、見逃さない。政弘期に、応仁の乱で大内氏の主力が上洛すると、少弐氏は早速大宰府を奪還したが、帰国した政弘に討伐され、肥後国で逼塞することになる。その政弘が亡くなり、年若い息子に代替わりしたのを好機と捉えたのか、またしても大宰府目がけて軍を進め、筑前の地を混乱に陥れたのである。何のかんの言っても軍勢を整えて、九州に渡海するには多少のタイムラグがあるから、その間に好き放題したものの、義興が本腰を入れて討伐に赴くと、とうていその敵ではなかった。大宰府を手に入れるどころか、自らの命をも失ってしまった。
続いて動き出したのは大友家。大友家ではおりしも、家中で家督を巡る紛争が起こっていた。少弐と違い、大内大友間の関係は、良好(に見えるよう)な時期と不仲な時期が交互に訪れていた。誰しも、一度に大勢の敵に囲まれることは厄介なので、幾つかとは、心にもない友好関係を結び、事なかれ主義で誤魔化そうとする。大友家との関係はまさにそれで、全面対決を避けているときは、婚姻関係を結んでいた。
そのようにして、大内家から嫁いだ母から生まれた当主が大友義右。義興とは従兄弟にあたるので、将来も子々孫々友好関係をと行きたいところであった。ところが、このような関係に異を唱える家臣が少なくなく、大内家の庇護下にある当主をこころよく思わぬ重臣と、彼に忠誠を誓う親大内派家臣とで分裂していた。その真っ二つに割れた家中で、当主の義右と真っ向から対立している急先鋒が、なんと、実の父・隠居した政親であった。
義右派が優勢であるうちは、大友家との友好は続く。義興としても、少弐のこともあるし、できれば、戦は避けたかった。ところが、政親はなんと実の子である義右を毒殺してその地位を奪い、当主として大内家に宣戦布告するに至った。
このような血塗られた当主を許すわけにはいかない義の人・義興はこの売られた喧嘩を買わざるを得なかったが、何と、威風堂々豊後を出発したはずの政親を乗せた船が、何の因果か座礁して長門の地に漂着。政親は囚われて自害する羽目になった。
こうして、笑うしかない結末となった大友家の侵攻戦。しかし、これで終わりではなかった。少弐の残党と大友家とは互いに手を組み、執拗に豊前の大内領を侵す。この時は、「大内之介難儀」といわれるほどの苦戦を強いられ、義興の生涯でも珍しい敗色濃厚な日々。忠義の家臣が幾人も犠牲となった。それでも、なんとか体勢を整え、こんどこそ、敵の息の根を止めようと着々と準備を進めた。
ところが、そんな時、とんでもない知らせがもたらせる。
おおお、大内介、ようやっと周防の片田舎に辿り着いた……。全身全霊を傾け、余の復職を助けるのだ!
越中に隠れ潜んでいたはずの、将軍・足利義材が、周防に逃れて来たのであった。明応九年(1550年)のことである。義興は、ひとまず、大友の力を削いだ状態で戦を中断し、将軍の接待に奔走しなくてはならなくなった。
文亀元年(1501)、義興は重大の太刀を氏神・氷上山妙見社に寄進。九州平定を祈願してのことだった。ついで、自ら豊前国に渡海して、馬ヶ岳を救援。大友・少弐の残党討伐に成功する。
生涯の敵・尼子経久
安芸・石見は国人領主の集合体的性格の土地だと述べたが、それでも、初期の頃は大内家の力が強く、十分に抑えが効いていた。それには、ほかに同じような大国がいなかったことも幸いしており、その点、北九州とは少し違っていた。
安芸や石見の状況はあまりに複雑で、一言ではとても説明できない。「ほかに同じような大国がいなかった」ということは、逆に言えば、同じような力を持つ小国が分立しており、彼らをまとめるのは容易ではなかったことを意味する。安芸国を例にとってみれば、極めて独自の特色を持った地域で、国人同士の「横の繋がり」というものが、非常に鮮明だった。一筋縄ではいかない国なので、守護の地位も転々とした。誰がいつどのくらいの期間守護職を勤めたか、については研究者によって書いてあることが違っていたりもする。とにもかくにも周防国はずっと大内氏が守護職だった、というような世襲の定番はいなかった、と言って良い。書物を紐解くと、いちおうは山名氏が就いていたようだが、時折ちらりと名前が現われるだけで、ほとんど何もできなかったのだろう。
とにもかくにも、義興代にはその勢力旺盛なことを以て、いちおうの安定を見、晴れて安芸国守護ということになっている。さらには、代々争いが絶えなかった、安芸武田氏もついに従ったらしく、郡分守護の名は保ったものの、一応は配下という扱いになっていた。それゆえに、後述の足利義材復職のための上洛時には、安芸・石見の国人たちも皆、義興に従って上洛していた。けれども、そんな折に、山陰では尼子経久が領土拡大の意欲満々でいたから、彼らにとっては自国のことが不安でならない。そこで、ともに上洛していた安芸国人たちは「一揆」を結び、早々に帰国してしまった。
「一揆」と聞くと、江戸時代の筵旗をもった百姓一揆を思い出すけれど、そうではなく、簡単に言うと、お互いに手を取り合ってともに行動する、といったような意味。一国だけで大内氏のような大国に対抗することはできないけれど、皆が手を組めば相手もじゃけんにはできない。毛利・高橋・小早川・天野(元次、元貞)・平賀・阿曽沼・野間・吉川らは、連盟で願い出た上、義興をほったらかしにして帰国してしまったのだった。
じつは、尼子家も最初は義興に従って上洛していた。ただし、先の安芸国人たちのように、大内氏の支配下というわけでもなく、野心満々でとっとと帰国し、領土の拡大に専念するようになっていた。大内と尼子が全面対決に至ると、日和見主義の国人たちは、時には大内、時には尼子に味方するようになり、この地域の支配はますます混沌としてきた。
そもそも、元を辿れば、尼子家がこのように肥大化したのには理由がある。足利義材のために上洛させられた義興が、十一年も国を留守にしたからだ。留守中の分国にも優秀な家臣を当然残していたはずである。しかし、大内政弘の時の陶弘護のような英雄はおらず、小粒だらけ。しかも、第一の忠臣・陶興房は、義興とともに在京していたから、彼に任せるわけにもいかない。加えて、弘護の時の、大内道頓やら、吉見家のような連中と尼子経久はそもそも格が違う。
これ以上の増長は放っておけないと、ようやく義興が義材に見切りをつけて帰国した時、すでに、両者は勝負がつかない状態だった。大永元年(1521)頃より、安芸・石見を巡って、尼子家との戦は絶えることがなかった。翌大永二年(1522)には、義興自らも安芸に出陣しているし、大永六年(1526)には、石見国で戦っている。この前年に、石見大森銀山の採掘が始められているから、銀山を巡る争奪戦も熾烈なものとなったことは、想像に難くない。結局、二人の英雄は死ぬまで争い続けたが決着はつかなかった。
ふふふ。謀聖の前では覇者も霞むな。安芸国はわしがいただくとするか。
安芸武田と厳島神主家
厳島神主家当主・藤原興親は義興の上洛に従い在京中、客死してしまう。跡継を誰にするか決めていなかったのか、甥・友田興藤(神領衆)と小方加賀守との間で相続争いが勃発する。ここが重要だが、『安芸国の中世』によれば、この二人は興親とともに在京していたらしい。ゆえに、義興がいずれかを跡継にと指名すれば、問題は起らなかったはずである。しかし、なぜか義興は、後継者を決めなかった。
これを、大内氏が厳島を我が物にしたかったからだとするご意見があるが、いかがなものであろうか。神主の後継者が決まらない状態の中、留守国では興藤、加賀守どちらを後任に推すかで意見が割れ、当事者不在のまま、争いが始まってしまった。神領衆たちが、小方加賀守を推す西方と興藤を推す東方に分裂してしまったのである。東方には、宍戸、児玉、大聖院座主、上卿など厳島有力者が名を連ね、居城・桜尾城に籠もった。いっぽう、西方は新里氏などが藤掛城を根拠とした。厳島神主家は、完全に大内氏の支配下にあったと見え、義興の許可なくして、いずれが正統かを決めることはできなかったわけである。むろん、任命されなかった側には不満が残るであろうから、大人しく引き下がらない可能性はある。しかし、「指名しなかった」ことで、争いは勝手に始まり、その後の展開を見るに、義興が厳島を直轄支配地としようと目論んでいたという推測もあながち間違ってはいないのかもしれない(そんなこと考えたくないけど)。
永正十一年(1515)、義興は、神主家の争いや、尼子家の不穏な動きなどを沈静化させるため、武田元繁を帰国させた。ところが、あろうことか、元繁は尼子経久と手を組み、大内氏配下の神領衆・己斐氏の己斐城を攻撃するなどして、大内氏の支配地域を侵食し始めた。配下の今田・壬生・有田らもこれに呼応。在京中で身動きが取れない義興は、毛利元就の兄(興元)に有田氏の居城を落とさせた。けれども、間もなく興元が病死。跡を継いだ嫡男はまだ幼児だったため、元繁はこれ幸いと有田城の奪還に向かう。この際、毛利元就が大活躍し、武田元繁があっけなく戦死した物語は、軍記物などで知らない人はいないほど有名。武田家の主は息子・光和に移った。
しかし、その後の展開がまたややこしいところ。前述の毛利・高橋・小早川・天野(元次、元貞)・平賀・阿曽沼・野間・吉川という連中は、そもそも大内派の国人たちであった。吉川元経は先には毛利元就ともども、有田城で武田氏を打ち破ったのに、翻って尼子方についてしまう。いちいち調べていたらややこしくて目が点になるけれど、両雄に挟まれた国人たちの動向は本当に「日和見主義」で、目まぐるしく変る。毛利元就は吉川家と婚姻関係にあった関係上、誘われるままに元経とともに尼子方についてしまった。
永正十四年(1518)年に帰国した義興は、まずは燻っていた九州に出陣するが、そのすきに、尼子経久が西条の鏡山城を落としてしまう。ここでもまた、毛利元就が活躍した物語がそこここで語られており、鏡山城跡にはデカデカと毛利元就の看板が立っている。
大内側の城主・蔵田備中守信房は忠義篤く、また鏡山城も難攻不落であったから、なかなか陥落させることができなかった。そこで、元就が「智謀」により、城主の身内(日向守)を調略。内側から城内に手引きさせたという。『陰徳太平記』曰くだけど。さしもの堅城も陥落の憂き目に遭い、城主は妻子の助命嘆願を条件に開城。自らは切腹。いっぽう、手引きした身内も尼子経久に処断されてしまった。これでは、調略した毛利元就は嘘つきみたいだし、せっかく手引きしてくれたのに命を奪われるなんてあんまりだ。身内を裏切るような者は主をも裏切るだろう、とか言われて消されちゃうケース多々あるけれどもね。かくして、大内氏の西条の拠点は尼子経久に奪われてしまった。
この辺り、混沌としているが、落ち着いて見て行くと、たいしたことはない。厳島神主家の問題が解決しないままに九州へ出陣、そのすきに鏡山城は落とされた。で、神主家の続きに戻ると、義興の帰国にともない、興藤らも帰国。再度、神主家の地位を望んだが聞き入れられなかった。それどころか、義興は桜尾城、己斐城などの神領を接収し、直接支配下に置いてしまう。これに反発した興藤は、神領衆の支持と、武田光和の援助により、大永二年(1523)、桜尾城奪取に成功する。興藤は城に入ると、神主を自称するに及んだ(もう一人の東側の方はいずこへ?)。
義興は陸路・興房、海路・警固衆を派遣して、厳島を占拠。興藤を撃退した。何ということか。これでは、最初から厳島を我が物にしてしまおうという企みがあったことが本当、ということになってしまうではないか。
恐らくは、興藤に人望がなかったか(だったらなんで神領衆の支持を得たりしてるんだ?)、いったん分裂したようなところは不安定で、いつ燻るかわからないからだろう。興親に実子がいなかったことが不幸の始まりなのである。さもなくば、まさか「取り上げる」ようなことはしなかったはずだ。何しろ、揉めているところには、必ず安芸武田や尼子経久が引っ付いてくるからである。
義興代、周防から安芸まで至るには海路を用いるのが普通であった(このことはのちのち非常に重要になるので、絶対にわすれないでいただきたいです)。しかし、瀬戸内には安芸武田氏の勢力もあったから、これを徹底的に駆逐した。大永元年(1522)、能美、多賀(倉橋島)の警固衆を派遣し、それなりの戦果を得たという。
いっぽう陸路では、大永二年(1523)に陶興房を派遣して、神領衆・大野氏の河内城を攻撃させている。城主の大野弾正少弼は興房の誘いで寝返りに応じた。厳島神社と同じくらい古い大頭神社には、「大野五兄弟伝説」というものが伝えられており、大野氏は河内城、門山城を築き勢力をふるっていた神領衆だったという。
こうして、陸海ともに、対抗勢力の勢いを削ぎ落としてから、義興自ら勢力を動員して桜尾城を囲んだ。しかし、さすがは難攻不落の堅城だけあって、なかなか陥落しない。そこで、力押しはやめて、興藤の引退を条件に和睦し、後任には甥の兼藤がつくことになった。しかし兼藤は、ほどなく病死。享禄元年(1528)、興藤の弟・友田広就が神主となった(しかし実際には名ばかりで、実権は興藤にあったという)。
話は前後するが、大永四年(1525年)、義興は尼子に奪われた鏡山城の奪還を目指す。この時は、右腕・陶興房が奮闘した。諸説あるが、毛利元就は再び大内方に寝返り、鏡山城は大内方の元に戻った。大永六年(1526)にも、石見に出陣、尼子と戦っている。この前年(大永五年、1525)、義興は石見の大森銀山の採掘を始めていたから、今後、ここが周辺勢力の争奪戦の地となることは必至であった。
ここまでのまとめ
- 義興の生涯は合戦がメインとなった。時は戦国乱世にさしかかっていたからである。対戦相手は九州の少弐・大友、上洛時の足利義澄を推す一派、厳島神主家の友田興藤、安芸武田氏、尼子経久など多岐にわたった
- 足利義澄と義材の対立では、義材を奉じ、船岡山の合戦で義澄方を撃破
- 九州では家督継承と同時に火種が燻り、足利義材の周防下向もてなしとも重なって苦労したが、なんとか鎮圧に成功
- 家督相続に端を発した厳島神主家との争いでは、完全に殲滅することは叶わず、和睦という形をとった。
- 安芸武田氏との合戦にも勝利したが、滅亡させるまでには至らなかった
- 厳島神主家、安芸武田氏を完全に倒さなかったのは、とにもかくにも尼子経久の膨張を何とかしなくてはならないのが第一目標だったためと推測
- 尼子経久は九州平定に奔走する義興の留守を狙い、西条の鏡山城を陥落させた。これには、尼子側についた毛利元就の活躍が大きかったが、陶興房の進言、元就自身の経久への不信感などから、毛利氏は大内方に再度寝返り、その後は味方として何度も活躍することになる
- 尼子経久は大内方に鏡山城を奪い返され、安芸国侵攻の頼みとする安芸武田氏も大内氏によって打撃を受けるなどしたため、いったん安芸国から去る。しかし、両家の闘争はこれで止むはずはなく、義興は来たるべき経久との対決に備えて準備を怠らずにいたと思われる
兄弟と妻
兄弟相克
義興の弟、もしくは兄とされる人物に、正護院尊光という僧侶がいる。父・政弘の命令で、氏寺・興隆寺の別当になっていた。しかし、父の死後、細川家に唆された彼は還俗して、大内高(隆)弘と名乗り、義興に反旗を翻した。明応八年(1499)のことである。ところが、この造反劇は、決行前に情報が漏洩したため、高弘は何も起こせぬまま逃亡した。潜伏先は大友家。
結局、彼はそのまま客死したが、その息子・輝弘の代に反乱を起こしている。これは、大友家に焚き付けられたもので、大内家滅亡後、防長の主となっていた毛利家に矛先を向けたものだった。
そんなわけで、兄弟は反目したという事実こそあれ、実際に戦に及ぶことはなかった。かわりに、高弘に与力する予定となっていた重臣・杉武明が切腹している。
兄弟の序列が実際のところどうであったのかは分からない。政弘の時の、伯父・教幸も、伯父なのか叔父なのか定説はない。高弘は通称を「太郎」と名乗っていて、これを根拠に長男だった、とする説も、義興、高弘を含め、彼らにはほかにも兄である政弘の長男がいたが早々に亡くなった、もしくは廃嫡されたとする意見もある。
いずれにせよ、二人が兄弟であったことは疑いがないようだ。
正妻は誰?
兄弟関係もあいまいだが、じつは正妻が誰なのかも分からない。後に家督を譲る嫡男・義隆の生母、内藤氏は「東向殿」と呼ばれている。これは文字通り、東の御殿に住んでいたからである。正妻を「北の方」と呼ぶように、東の御殿に住んでいる女性が正妻のはずはない。
だいたい、大内家の夫人は京から身分ある公家の姫などを迎えるのが普通だったようで、公家マニアの義隆に限らず、京から夫人を迎えている先祖は少なくない。ただ、ここも、それらの夫人が跡継ぎとなった男児を出生していなければ記述が残らないので、何とも言えない。大内義隆には、正式な史実として知られているだけでも、土佐の一条家、大友家、石見国人・吉見家にそれぞれ嫁いだ三人もの姉がいるが、その母親が誰なのか分からないのである。
より詳細に記した書物だと、さらに、足利家、細川家に嫁した娘についての記述も現れる(足利義栄の母が、大内義興の娘であった、というくだりはおなじみ。だが、研究書のたぐいでは、疑問符つきの通説として紹介されることが多い)。
男児は、少なくとも健やかに成長したのは義隆のみであったと考えられるから、当主の生母として内藤氏が大切にされたことは当然である。だが、ほかの姉たちもすべて彼女の娘であり、義興にはたった一人の妻しかいなかったのかどうかは、不明である。
菩提寺凌雲寺には、義興の墓と伝えられる石塔のほか、その夫人と、開山塔がある。この「夫人」というのが、内藤氏を指すのかどうかは分からないそうだ。
内藤氏は、大内家に成敗された内藤弘矩の娘。どう考えても、義興との縁組は「政略結婚」である。婚姻の時期も定かではないらしく、弘矩の死の前であれば、夫婦の仲はこれを境に冷え切ったかもしれないし、死後であるのなら、婚姻によって強引に親戚一門に迎え入れることで、内藤家という重臣一族を懐柔するための主の意に従って、やむなく親の敵に嫁いだことになる。
この東向殿という人はたいへんな長寿で、なんと、後の「国難」勃発の時、まだ存命だったという。理由はどうあれ、主君の家の若君に嫁ぎ、さらに唯一の跡継ぎを産んだことが、一人の女性の運命を変えたのだった。
ここまでのまとめ
- 病気がちな政弘は半ば隠居して、若い義興が政務を執っていた。
- 政弘から義興への代変わりもスムースではなく、陶、内藤といった重臣とのいざこざがあった。
- 義興の生涯はまさに戦に明け暮れたものだった。
- 大友、少弐、安芸武田、厳島神主家、尼子、……と多くの合戦を体験した。
- ことに生涯にわたる敵は尼子経久であったが、ついに決着はつかなかった。
- 義興の兄弟・高弘は造反して大友家に逃亡。直接矛を交えることはなかったが、兄弟の縁は断絶した。
- 嫡子・義隆を産んだのは内藤家の娘だが、正妻が誰なのかは分からない。
迷惑な流れ公方
義興も将軍の命令で、父に代わって参軍していた、足利義材の河内親征。その最中、細川政元がクーデターを起こし、気に入らない将軍・義材を追い払って、自らが選んだ傀儡・義澄を新しい将軍位につけた。明応の政変という。
この騒ぎで、義材はいったん、細川家に囚われたが、逃亡に成功。「忠臣」・畠山政長のそのまた「忠臣」神保長誠の領国・越中に隠れ潜んだ。政長の嫡男・尚順も紀伊国に逃れて抵抗を続け、義材、尚順主従は、紀伊と越中の地から京を挟み撃ちにして、細川政元とニセモノの将軍を追い出し、義材を復職させようと日々奔走していた。
畠山尚順
足利義材の生涯の忠臣
尚順の忠義は涙ぐましいほどだった。ほどんど、その生涯を義材のために捧げたと言っても過言ではない。尚順は、細川政元に焚付けられてその政変に与した畠山義豊と戦っていた。なにしろ、義豊は、応仁の乱で尚順の父・政長と家督を争いを繰り広げた畠山義就の息子。義就は政長が守護職を認められていたはずの河内国を勝手に占拠し、その状態は息子の代にも続いていたのである。義豊は将軍の河内親征で討伐対象となったが、政元に味方することでその危機を脱した。かわりに尚順は細川家と義豊のために父・政長を亡くした。二人は同じ畠山姓の又従兄弟ながら、尚順にとって、義豊は政元同様父の仇であり、主君である将軍・義材を陥れた張本人として、倒すべき相手であったのだ。
義豊は細川家の援助を受けながらも、その勢力はしだいに尚順の勢力に屈し、その領国もだんだんと狭くなっていった。最終的に、義豊は自害、息子の義英は尚順に降伏する。ひとり畿内で戦い続けた尚順の努力が、やっと報われたのだった。義材と尚順は、これを最大の好機と見た。一挙に例の挟み撃ちを決行しようとしたが……。結局、細川政元に敗れてしまった。
うう、無念なり。公方様……ここは一旦兵を引きます。つぎの機会を待ちましょう。どうか、御無事で。
ふん。「半将軍」とまで言われたこのわしを甘く見るでないわ。やる気を出したらお前のような小僧、一捻りなのだ。ははは。
こうして尚順は再び紀伊に潜伏。越中から上洛し、同じく政元らに敗れた義材は新たなる亡命先として、周防国を選んだ。この自分勝手な選択で、大内家は将軍家の相続争いに否応なく組み込まれてしまう。
足利義材周防へ
義興は、そもそも、足利義材派の大名である。細川家だけとは手を組むな、というのが先祖代々の教えだから、細川政元が「半将軍」などと我が世の春を歌う政権に味方などするはずがない。しかし、都は遠く、義興自身も、少弐や大友との戦で手一杯であったから、兵を送って助けに来い、という要請はやんわりと断っていた。義理堅い義興のこと、将軍様を助けて差し上げたい気持ちはあったろう。しかし、そんな余裕はなかったのである。
しかし、将軍みずから乗り込んでこれらたら、追い出すわけにもいかない。それからしばらく、戦もそっちのけで、将軍様を接待する日々が続く。神光寺には将軍用の屋敷も造営された(明応九年、1500)。義材の下向は明応八年(1499)とされるが、諸説ある。
さすが、西の京などと偉そうなことを言っておるだけあるのぉ。大内之介のところは、御膳も豪勢だし、極楽じゃわい。ふふふっ。
忠臣・義興の義材に対する歓待ぶりには並ならぬものがあったろう。今も山口の町には、将軍滞在時のあれこれの逸話やゆかりの地が残る。
「管領」のつとめ
義材は越中にいた時、「越中幕府」なる名称を使い、その正統性をアピールしていた。たまたま領国が近くにあった幾人かの守護は、「念のため」、付け届けをしたりしている。周防国でも将軍様がいる以上、そこは「幕府」であった。
ただし、周防幕府、山口御所、などという名称は「ない」。だが、やっていることは、越中にいた時と同じように、「正式な」将軍の名で、あれこれの教書を出したり、檄文を飛ばすことだ。義興は彼の「政務」を助けながら、事実上「管領」のようなことになった。ただし、そのような名称を自称してはいない。ただ、公文書の署名が、それらしいのである。実質上、義材の政権を切り盛りしていたナンバーツーと言ってよい。
自らの分国の政務もたいへんなのだから、この上将軍のためにまで尽すのは正直、迷惑な話ではあった。むろん、義興本人は名誉なことくらいに考えて頑張っていたであろうが。けれども、一刻も早く京に帰りたいと気がせく義材に対して、義興はその点は必死に押しとどめる。
確かに、大内家の軍事力の強大さは、応仁の乱で、父の政弘が上洛の道中向かうところ敵なしで、到着後も、東軍不利の状況をひっくり返したことからも分かる。だが、その後の長い膠着状態を思い起こしても、下手に動くのは危険である。
そんな風にして、面倒な将軍が居候すること八年。ようやく、絶好の機会がやって来た。京で、細川政元が家臣に暗殺されたのである。「半将軍」の死で騒然となる京に向けて、西から二万五千の大軍を率いた義興が元・将軍に供奉して上洛。義興は政元暗殺という京を揺るがす大事件の機に乗じたのであった。山口出立は永正四年(1507、12月15日)、翌年に京都入りを果たす。
細川政元という男には、跡継ぎがいなかった。暗殺という恐ろしい事件が起ったのも、養子同士の争いに端を発していた。政元の生前から、複数いる養子の誰が正式な跡継となるかで暗闘が続いていたのである。そんな具合だから、政元が死んでも、誰がその後を継ぐかで、騒ぎはすぐには鎮静化しない。京都には義材の入京を止める力はまったくなかった。
養父・政元を暗殺したのは養子・澄之の家臣だったが、澄之の天下は僅かな期間。すぐに、細川澄元・髙国というほか二人の養子によって倒されてしまった。こうして、細川家の当主が澄元に確定したのも束の間、今度は元将軍・義材の上洛で、現・将軍義澄の身が危うくなる。
将軍様ーー、ここは危のうございます。取り敢えず、逃げましょう……。
くっ、今出川め……。将軍はこの私だ。決して、あやつに譲ったりはせぬぞ。必ずや取り返して見せる……
すったもんだの末、養父・政元を殺した澄之を倒し、細川家の家督を継いだ細川澄元であったが、前将軍の上洛に泡を喰らって、将軍・義澄とともに、近江へ逃れるのが精いっぱいであった。
京での日々
永正五年(1508)、上洛した義興は、義材を守りつつ京暮らしとなる。
周防に下向してきた義材を匿い、上洛を助け、これほどまでに尽くしたというのに、「家格」のせいで、義興の役職は「管領」ではなく「管領代」であった。しかし役職名などどうでもいい。幕政の実権はほぼ彼の手中にあったといえる。多大な功績により、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・山城の守護を兼任。何とも輝かしいことであった。
しかし、面倒な事も少なからずあった。父・政弘は義興の兄弟・高弘を目代にするなどして、国衙を完全に制御していた。そもそも、武家による横領は普通に行なわれていたから、力のない権門勢家にはどうにもならない部分が多かった。しかしである。在京してこれらの人々と行き来するようになると、当然の如く、義興の力を以てして、武家の横領を抑えて欲しいという要望も上がってくるようになる。ことに、国司上人以降、東大寺の勢力が大半を占める周防国は状況が特殊であった。
分国で素知らぬふりをしていれば良かったときと違い、この機会に悩ましい問題を片付けようと必死の東大寺を前にして、幕閣の身分にあっては、断りきれない部分もある。さすがに人がいい義興といえども、領地の問題は易々と認めたくはなかったが、無下にはできなかった。それまでに「横領していた」国衙領四百余町歩を返還することになる。当然ながら、土地(正確には地頭識など)は家臣たちに分け与えられているのだから、反発は必至。悩ましいことであった(永正六年、1509、東大寺領返還)。
細川澄元とともに、澄之を殺し、澄元と友好的であったはずの髙国は、なぜかそのご澄元と袂を分かち合った。澄元が義澄について近江に逃れたのを尻目に、髙国はちゃっかり新将軍(正式には『復職』)義材を迎え入れ、細川家の当主として認められたばかりか、管領職にも就いている。この変わり身の早さ。とても真似できない。
ふふふ、やはり、管領職は代々この細川家のものですよねぇ?(周防の田舎者めが)
役職の「名前」などを気にするような義興ではあるまいと思うが、やはりあまり気分の良いものではなかったろう。そもそも、細川家とは犬猿の仲なのだ。二つに分裂した細川家の片方が反義材派についていたため、「敵の敵は味方ルール」で、行きがかり上「仲間」のようになってはいたが。
じっさい、長く京で暮らすうちに、細川家の家臣の横暴に耐えられなくなった大内家の者は、しばしば細川家の連中と喧嘩騒ぎを起こすようになった。はては、有名な寧波事件なども起こっている。
いい加減、周防に帰りたくなった義興はなんども、義材に打診したが、その度に断られた。義材の政権がもっているのは、大内家の軍事力に支えれれているからのようなもの。帰国などされては困るからである。
いい加減、周防に戻りませんと。分国のことが気がかりでございます。
しかし……お許しがでないのだ。
大内家が京を去れば、今度は近江に隠れている義澄と澄元が攻め寄せて来るであろう。そんな事態になったら、またも京は戦火に見舞われる。義材とは違う意味で、朝廷も義興を慰留した。そのために、次々と彼に高官を与えて引き留めをはかったのだった。
義興の在京は十年にも及んだので、先祖代々の雅な家系ゆえ、朝廷、公家との付き合いも深まった。けれども、義興の雅な噂はあまり聞かない。軍記物などに必ず出てくる「歌の事」という逸話が有名だけれども、京にいるのをいいことに、公家趣味に浸るようなことはなかった。
義興代の文芸の特徴は「有職故実」の吸収で、かくも長き時間を京都で過ごすにあたり、田舎者と馬鹿にされることのないよう、様々なマナーを身につけることに懸命だったように見受けられる。もちろん、雅な趣味のある家臣たちにとっては、絶好の機会なので、京で貪欲にあれこれの教養を学んだ者たちは少なくない。
我儘な将軍と横暴な管領
義興本人は京都で暮らした日々にどのような感慨を抱いたであろうか。本人に尋ねることができない以上、それは永遠の謎である。将軍の傍で「なくてはならない存在」となり、朝廷からも重きを置かれることは名誉なことで、不愉快なものではなかったはずだ。しかし、どんなに頑張ったところで、その後のオダノブナガらの時代と異なり、また、義興自身の思いとしても、将軍さまに取って代わるつもりはないのだから、「用が終わったら帰国する」だけだ。そうなると、彼が上洛した意義は「将軍様に供奉して送り届けて差し上げた」というほか形容の仕方が思い浮かばない。
けれども、本人が満足できたのならそれでいい。しかし、問題は「帰国したいのに返してもらえないこと」であった。実際、永正八年(1511)、亡命中の足利義澄と細川澄元の一派が京都に攻め上り、いったん京都を離れて退却せざるをえなくなった事態も起っている。義興以下支援者と将軍とは一旦丹波に撤退。二月後には、船岡山の決戦でコテンパンに伸して追い払い、再度入京したことで、義理は尽したと思うのだが……。それでも、いつ何時、また彼らの反撃に遭うかと不安に思う義材改め義稙を放置してはおけず、その人の良さがあだになってかくも長き在京期間となった。
けれども、京都では管領・細川髙国の「横暴」に堪えかねた将軍が出奔騒ぎを起こし、義興は、高国、尚順らとともに、苦労して将軍を京に連れ戻す、といった一幕もあった。つまらないことで駄々をこねるなど、将軍としてあるまじき義材の姿に、さすがの義興も嫌気がさしたようである。最後は病気療養を言い訳に、堺に湯治に出かけ、そのまま京に戻ることなく周防に帰国した。永正十五年(1518)年のことだった。
義興が去った後、髙国と義稙の反目は決定的となり、またしても京都は大混乱となる。その騒ぎはついに沈静化することなく、そのままオダノブナガなどの闊歩する時代へと突入していくことになるが、それはもう少しだけ先の話となる。
義興が義稙に失望したのは事実と思うが、それにもまして、もはやこれ以上国許を離れているわけにはいかなくなっていた。分国はそれこそ、風雲急を告げていたのである。義興があまりに長期に渡って留守にしていた間、厳島神主家は相続争いで分裂。出雲の尼子家はいつの間にか強大化し、周辺諸国を次々と支配下に入れ始めていた。そのような事態を治めるために帰国したはずの安芸武田氏は、なんとこの機に乗じて自らも勢力拡大を始める。
平穏だったはずの西国はいつの間にかいわゆる「戦国乱世」に突入してしまっていたのであった。ことに、大内家という大国に匹敵するほどに膨張した出雲の尼子家が、虎視眈々とさらなる領土拡張の機会を狙っていた。もはや、京都で我儘な将軍のお守りをしているような余裕はなくなっていたのである。本来ならば、将軍家の号令で、それらの紛争は抑え込めるはずであった。けれども、いくら将軍のために尽したところで、将軍にはそれらの火種を鎮火させるべく号令する力がない。「凶徒討伐」の御教書を書いてもらえば将軍の意に従わない安芸武田や尼子を退治できる、そんな事態ではなくなっていた。
義興は将軍への義理立てをやめ、自らの力で自らの領国を守るために帰国した。やることは山積し、敵は未だかつてないほど手強かった。尼子家との全面対決を前にして、義興は、現在の山口大神宮を勧進している。朝廷からもその功績を認められ、従三位を授かった。たかが位階など……と思うべからず。極めて誇らしいことである。けれどもこれは、わずかな穏やかな日々の、最後の贈物となった。
無念の死
足利義材との迷惑極まりない茶番に十一年もの間付き合わされた義興が、帰国後真っ先にしたことが、神社の勧進だった。意外なようにも見えるが、民の心の拠り所として、神仏を大切にすることは当主としての大事な仕事の一つである。
高嶺太神宮、現在の山口大神宮は、永正十七年(1520)に伊勢神宮から勧請したものである。やがて、「西のお伊勢さん」として、人々に親しまれるようになるこの神社の創建は、かなり大がかりな工事となった。何しろ、皇室の祖先神・天照大神を祀る神社からの勧請である。相当の財力がなければやり遂げられない大事業であった。同じ年、現在の八坂神社も再建されて高嶺に遷された(現在は築山跡に再移転している)。さらに、紀伊国からは熊野社の勧請もあった。高嶺には多くの神聖な社が集められ、一族を見守るじつに厳かな空間となったのである。
伊勢神宮の勧請は並大抵のことではない。永正十七年は神道家を招き、完成した社殿に遷宮式を行なった年。内宮の造営と八坂神社の新しい社殿の造営は前の年に行なっている。翌年(つまり永正十七年、1520)に外宮が完成。そののちの遷宮式と八坂神社の新しい社殿への移築・再建(1520)となっている。これらについて、詳細は『高嶺両社御鎮座記』にまとめられた。けれども、残念なできごともあった。同じ年、先祖の地・大内では乗福寺の堂宇が火災で焼失している。
京での十年、紆余曲折あったが、学ぶところも多かった。とは言え、父の政弘ほど、典雅な世界にどっぷり浸かる義興でもなかった。すでに、家中には、十分過ぎる文化的教養の素地があり、この上上書きする意味もなかったのだろう。
それよりも何よりも、留守の間に増長した周辺の勢力への牽制が第一の任務であった。さしあたっては、日が昇る勢いである尼子家が大問題であった。よって、残された歳月、義興は全勢力を中国平定に向けた。大永元年(1521)、義興は氏寺・興隆寺の本堂再建供養を行なった。大がかりな宗教行事はここで一区切りであった。
大永二年(1522)、安芸平定に出陣。残りの人生は、まさにすべて戦いの日々。思えば、京にいた十年とて、彼が必要とされたのは、その「軍事力」ゆえに。そうなれば、雅な暮らしを楽しむためというよりは、警備でもしている雰囲気だったかも。
もちろん、父親譲りの風雅な一面もあるから、雅なエピソードもちらほらある(それが『歌の事』)が、これ以上文字数が増えるのはよろしくないだろう。
寿命は誰にも決められない
義興は安芸国での戦の最中、享禄元年(1528)に門山で病にかかり、五十二歳の若さで世を去った。神主家との合戦は「和睦」という形で一応終結していた。しかし、本来であれば興藤や安芸武田を倒し、安芸国を完全に勢力下に置きたかったことだろう。なにゆえに、中途半端に戦を切り上げたかと言えば、やはり尼子経久との正面対決を考えていたからに相違ないと思う。興藤の背後には当初、安芸武田氏や尼子氏がいた。力尽きてきた厳島神主家はいちおう、義興に恭順した(のちに再び燻るが)。けれども、この時点では、安芸武田も滅亡まではいっていないし、厳島神主家もしかりである。
これらの勢力が義隆代に完全に殲滅されたことを思えば、義興代に潰してしまうことも不可能ではなかったはず。けれども、義興には時間がたりなかったのである。陶興房は、引き続き安芸国で合戦を続けていたし、備後にまで出向いて、尼子家とも戦っている。義興がいつまでも厳島に居残り、なおも陣頭指揮が執れる場所にいたということは、この先に待ち受ける大戦のためではなかったろうか? その相手が尼子経久であったことは疑う余地がない。
すでに、嫡男・亀童丸は成人していたし、後継者問題については、思い残すことは何もなかった。しかし、尼子という大敵を残したまま志半ばで世を去ることは、どんなにつらかったか。家臣たちは話し合いの末、義興にまだ息があるうちに、戦を切り上げて、なんとか山口に連れて帰った。
あともう少し、彼に時間が遺されていたなら、この後の歴史はどうなっていたのだろうか。義材との腐れ縁は、義興から貴重な時間を奪い去ってしまったようである。しかし、彼は、最後まで、忠義の幕臣だった。尼子との戦も自らの領国を守るため。領土拡張しようなどという思いはなかっただろう。
ただ、義材との付き合いのなかで、義興も公方というものの実態を知ってしまった。この後も、それ以前と同じように接することができたかどうかは、もはや誰にも分からない。
ここまでのまとめ
- 周防に下向してきた足利義材の将軍職復職を助け、上洛した
- 大内家の軍事力だけが頼りの義材、さらには朝廷にまで引き留められて、在京期間は十年を超えた
- その間に、分国の周辺では尼子経久が力をつけたり、安芸武田氏が周辺諸国を荒らしたりし始めた
- 宿敵・尼子経久との全面対決を前にして無念にも病に倒れた
愛する我が子のとんでもない末路
出来すぎた父の早過ぎる死。いや、五十代といえば、織田某が歌っていたように人間五十年だった時代なので、まずまずの寿命ではある。だが、毛利元就、尼子経久らが七十代、八十代と高齢になるまで矍鑠としていたことを考えると、運が悪いと思わざるを得ない。
それも、それらの海千山千の知略と武勇を兼ね備えた大物に対抗するには、彼の遺児は器が小さすぎた。いや、無能だったというのではない。周辺のそれらの人物が、化け物すぎたのである。
将来を託した息子・義隆は、あまりに「普通」すぎた。風雅を好み、美しい物を愛した(「者」ではありませんので)彼に、戦国の世を渡っていくのは辛すぎた。世の中は、公家趣味の館で、平和な日々を過ごすことを許してはくれなかったからだ。
もしも、先祖の弘世、義弘といった猛者や、父や祖父のような文武の将ならば、対応は少し違っていたかも知れないのだが。父祖から与えられた豊かすぎる王国を、彼の息子は守り通すことが出来なかった。
臨終の床で、義興にはそんな将来が見えていただろうか? 本当は、我が子の平穏な生来のためにも、尼子経久という化け物は退治しておきたかったに相違ない。
山口の町には義興様がいっぱい
山口市内を歩いていると、何かしら「義興公」にぶち当たる。山口大神宮のような大物もそうだが、観光ガイドに載っていないような寺院にもその足跡があるのだ。夕ご飯を買いに行ったコンビニまでの道すがら、おや? こんなところに寺院が……。と、中に入っていくと、なんとゆかりの寺であった。こういうことが、数限りなくあるのが山口である。
今も残るゆかりの寺社
市内にある有名自社で、無関係なところはないと言っていいだろう。なぜかなら、たとえ、本人が建立していなかったとしても、補修工事をした、改築した、何かを寄進した、戦勝祈願に訪れた、と寺社絡みの記録は数え切れないからである。
ことに、明応六年(1497)、北九州平定に際して義興が戦勝を祈願した周防国五社は、彼が参詣した順番に「周防一宮」から「五宮」と定まり、現在もその呼称は定着している。
周防五社には入っていないが、山口総鎮守とされる「今八幡宮」を造り替えたのも義興。「文亀三年(1503)の大改築」とされ、現在も残る社殿は国の重要文化財となっている。
社寺改関連事項
明応九年(1500)興隆寺大坊の別当・寺役にしきたりを守るように命ず。内が使い以外の法界門内女人禁制とする(壁書)
文亀三年(1503)朝倉八幡宮を今八幡宮と合併。社殿造営(この事業は政弘によるものともされ、諸説ある)
永正十六年(1519)伊勢神宮勧請、高嶺に内宮・外宮が完成(のち、後柏原天皇より勅額下賜)
永正十六年(1519)祇園社を高嶺に移転。社殿を新築(翌年遷宮)。
永正十七年(1520)乗福寺が火災に遭い、三重塔などを失う
永正十七年(1520)高向光定、伊勢より下向。遷宮の儀式を執り行い、高嶺大神宮完成
永正十七年(1520)「高嶺両太神宮御鎮座記」完成(全一巻)
大永元年(1521)興隆寺再建供養
大永四年(1524)二月会奉仕のため、武役を怠る者に神役武役ともに勤めるよう命ず(壁書)
大永六年(1526)松崎天満宮焼失
廃墟となった最強の主の菩提寺
義興様の菩提寺・凌雲寺。永正四年(1507)の創建、開基は了庵桂悟とされる。ここは残念ながら、完全なる廃墟である。ただし、行政が、大内氏遺跡に指定してくれたお陰で、きちんと守られている。現在も発掘作業が進行中であるから、やがてはその全容が明らかになるのかもしれない。
しかし、あまりにも広大な敷地を見ていると、生きている間には無理なのかな、と思う(別に、おばーさんじゃないんですが)。そのくらい、時間と労力が必要とされる作業なのだ。
現在、跡地には、復元された惣門と、義興の墓と言われるものが残る。傍には、夫人と開山僧のものとされる小さな石塔もあった。
吹きっ晒しの墓を見ていると、どうして、毛利さんはここを誰かの菩提寺にしてでもいいから復元・再興するなどしてくれなかったのかな、と思うのである。しかし、毛利元就の墓を見た時、初めて分かったことがある。基本、墓というのは吹きっ晒しなのである。屋根などついてはいないのだ。そう言えば、先祖の墓もそうであった。
けれども、明治維新まで続き、しかも大活躍をした毛利家代々の墓所は恐るべき豪勢な垣根に守られている。下々のものが、近付いて見ることはまったく不可能だ。それに比べると、大内家歴代の墓はそれこそ、不届きものが手を触れることも可能なほど、むき出しになっている……。
ここまでのまとめ
- 将来を託した愛する我が子・義隆はなんと家臣らの謀叛によって自害に追い込まれる。
- 当然、義興の死後のことだから、その悲劇を知らなくてすんだ。
- 山口の町には、いまも、義興の痕跡が至る所にある。
- 菩提寺・凌雲寺は廃寺となってしまい、現在は、墓と伝えられるものが残るばかり。ただし、地道な発掘作業が続けられ、現在「惣門跡」が復元されている。
付記・文芸と外交
朝鮮との交易
あまり触れることができなかった文芸と外交について、ひとことだけ補足しておく。『大内文化研究要覧』によれば、義興期にも朝鮮との通交は行なわれていたが、朝鮮側の規制が厳しくなったことで、密貿易が盛んとなり、三浦の乱が勃発するに至った。朝鮮国による規制を面白く思わない人々が釜山・薺甫・塩浦を攻撃し、朝鮮が武力で以て鎮圧せんとした事件である。幕府は朝鮮に和解の使者を派遣。義興も仲裁の労を執って尽力した。よって、朝鮮とは壬申条約と呼ばれる和議が成立(永正九年、1512)。しかしこのような経緯もあってか、日朝貿易は振るわなくなった。
義興期の朝鮮との交易
明応六年(1497)、明応八年(1499)、文亀二年(1502)、永正三年(1506)、永正十三年(1516)、大永四年(1524)、大永五年(1525)
※明応六年と永正十三年には一年に二回の通称があった。
参照:『大内文化研究要覧』
中国との交易
明国との交易は「勘合貿易」に限られた(むろん、私的な貿易も密かに行なわれていた)。明国側の受け入れ港は寧波であり、日本側は堺と博多であった。詳しく研究している方々にとっては、どこまでも興味深いテーマだが、深入りせずにざっくりいえば、大内氏ーー博多、細川氏ーー堺でともに瀬戸内海に面した領国をもつ二大勢力が覇権を争っていた。
教弘期あたりから両者の衝突は顕著となり、間に応仁・文明の乱を挟んで完全なる敵対関係にあったから、もはや修復不可能なくらい険悪だった(多分)。地理的にも軍事的にも大内氏が細川氏を圧倒していたが、細川氏は管領家として将軍の傍近くあるという点では優位性があった。でなければ、とっくに淘汰されていたであろう。
よく、「大内氏が勘合船を独占」と書かれているのは、義興の功績が大きい。何しろ、足利義材は彼なくしては復職などできなかったわけで。その多大なる功績から、幕府は義興に「勘合符の管理」を任せる。「何もしていない」管領・細川高国などを差し置いて大内氏の独占が認められたのである(永正十三年、1516)。にもかかわらず、これを快く思わない細川氏は寧波事件などという、参考書に載っているような恥ずかしい事件を起こしている(大永三年、1523)。ぶっちゃけいうと「ズルい手を使って」優位に立とうとして、現地の役人をも巻き込み細川・大内が派遣した使者との間に衝突が起ったという恥ずかし過ぎる事件。とまれ、続く義隆期も含め、大内氏の絶対的優位は保たれた。
永正三年(1506)2月、住吉、南海路 永正6,春(1509)、永正8、春(1511)正徳4,11(1509)150 1,細川家独断出航、北京着。正徳7、4(1512)600 南京、3,大内氏大内船2艘(1,3号船)残り1艘細川船(1511、南京着説も)
永正十七(1529)、春、堺、南海路、大永八(1523)春、300、3,義興正徳勘合符で派遣。大永三(1523)春、100、争いがあって、明に到着せず、細川弘治の旧勘合符で出航、寧波の乱が起きた。
文芸
義興期は在京期間が長期に渡り、また実質上政務に深く関与する立場にあったせいか、「有職故実」の吸収に努めたことが特徴。ただし、文芸の吸収はすでに父・政弘期に最高の領域に達していたこともあってか、さして真新しいこともなく、文武の家の伝統が続いていったとでも言い表す程度。強いて言えば、「芸能について深い教養があった」(参照:『大内文化研究要覧』という。
『大内文化研究要覧』から学んだことを記す。
一、伊勢貞陸の指導を受けて有職故実を学んだ。その時のいわゆるQ&Aをまとめたのが『大内問答』で、群書類従で読める。義興が伊勢神宮の勧請を思いたったのは、この「造詣」による。永正十三年(1516)に伊勢神宮に参詣し、勧請をした。
二、孔子を祀り、経学(儒教についての研究)に同調していた。明応八年(1499)、家臣・杉武道が論語を復刻したこともその現われ(正平版論語集解)。要は主が傾倒すれば家臣も同調する。この頃の「壁書」にも儒教的礼法が多かったという。
三、政弘期までに数多くの書物の蒐集が行なわれていたが(特に政弘期が顕著)それら蔵書は「山口殿中文庫」に保管された。
四、保寿寺・以参周省を仲介として、相国寺・景除周麟と親交があった。国清寺、香積寺の洪鐘の銘は彼の手になるもの
五、芸能にも教養があった。
六、右田弘詮が『吾妻鏡』の書写を完了(大永二年、1522)。当主が文芸に秀でた人物であると、家中にその風流が伝わる。ただし、右田弘詮は、父・政弘の右腕だった陶弘護の弟。時代的にはその時期の人とも言える。しかし、この貴重な書物が完成したのは、義興期のことである。
義興期、宗祇と雪舟が世を去っている。教弘、政弘期から続く山口文化サロンの大物二人の死であった。
在山口文芸関連
明応四年(1495)雪舟、「恵可断臂図」
明応八年(1499)杉武道、「正平版論語集解」を復刻
永正三年(1506)雪舟亡くなる
永正四年(1507)牧松周省が雪舟の「山水長巻」に追慕の詩を書く、同じく遣明正使了庵桂悟も、雲谷庵で追悼詩賛
大永二年(1522)右田弘詮「吾妻鏡」書写
参考文献:『大内家実録』「世家・義興」、『大内文化研究要覧』、『日本史広事典』
いちばん大事な新介さまの記事が、初期の頃に書いたまま、ほったらかしで、リライトされていないよ。
恥ずかしいから早く直してね……。
ごめんなさい……。緊張してキーボード押せないくらい……。
20240109 わずかばかりリライト。現在、合戦関係をまとめ中です。
おまけ・年譜
※以下は、執筆に使おうと思って頓挫している『大内氏実録』巻十「世家・義興」の不完全なイマドキ語変換文です。
ごめん。ちょっと本職多忙につき、きちんと整理できてない。
義興は政弘の子である。文明九年丁酉に生れる(文明十八年文書に十歳、足利高氏旗摸本裏書明応十年に二十五歳、甲冑寿容賛永正八年に三十五歳とあることから類推)。
幼名:亀童丸、六郎(系図、氷上山上宮参詣目録。曽祖父・盛見、祖父・教弘の幼名が六郎というので、その名を継いだのだろうが、ほかに所見はない)
周防権介(系図、古文書。文明十八年の文書に亀童丸、延徳二年十一月三日の文書に正六位上周防権介とあり、この間の任官だろう)⇒左京大夫(系図、古文書。明応七年七月十三日の文書は権介、同八年三月廿日の文書から左京大夫)
正六位(古文書。正従五位上下見る所なし)⇒従三位(永正九年三月二十六日)
周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見、山城の守護(石見は永正十四年の秋補任。それ以外は年月日不詳。系図は山城を加え七州大守とする)
明応四年二月廿八日、防府に軍を派遣し、長門守護代・内藤肥後守弘矩及びその子・弥七弘和を誅殺。弘矩父子は防戦の末、死亡。
九月十八日、父・政弘が亡くなる。
明応五年十一月廿二日、少弐政資が筑前を乱した。
十二月十三日、少弐討伐のために、筑前に進撃する。
・肥陽軍記には以下のようにある「少弐政資は三前二島を安堵して全盛十五六年なり。然るに西肥前青山の城主留守氏を政資故なくして追出さる。又筑前国宗像大宮司が許に在りける重代の宝物をむたひに乞取けるに、大宮司ふかく是を惜みけるがにくきとて、罪なき大宮司を誅す。留守氏中国に渡り、大内家に少弐の悪逆を訴ふ。大内義興時至りぬとて、六万余騎を引率して筑前へ発向す」。
明応六年三月十三日、博多の聖福寺門前で戦う。
三月十五日、筑紫村及び城山で戦う(天野氏所蔵古文書に、高鳥居城攻とあるのはこの城山のことであろう)。
三月二十三日、肥前国朝日城を攻撃し、これを陥落させる。
四月十四日、小城城で少弐政資を囲む。
四月十六日、これに先立ち山口に帰還していたが、この日、周防国一宮・玉祖神社、二宮・出雲神社、三宮・仁壁神社、四宮・赤田神社、五宮・浅田神社に参詣した(五社参詣の行程は十七、八里である。現在も山口の地元の人々には、上述の五社とは限らないが、五社詣といって五社に参詣する慣習がある)。
四月十八日、小城城を落とす。政資は逃亡した。
・肥陽軍記に、「大内義興時至りぬとて、六万余騎を引率し筑前へ発向す。政資一戦に利を失ひ、肥前国晴気の城主千葉介胤資は政資が弟なるにより、晴気城に入にけり。中国勢つづけて晴気を責む。胤資すでに討死し、政資は同国多久梶峰の城にむかふ。多久氏心かはりして政資終に切腹、嫡子新少弐高経は東肥前城原の城を落され、同国広瀬山にて自殺せらる」とあり、思うに本文の小城城とは晴気城のことであろう。政資および新少弐高経の切腹の月日がいつなのかは不明。
九月、内藤掃部助弘春を長門守護代とする。
九月十八日、父・政弘の牌(ふだ)を高野山成慶院に立てる。
明応七年八月二十七日、敵軍が肥前綾部城で九州探題を囲んでいたため、援軍として仁保左近将監護郷等を派遣していたが、この日、肆基、養父両郡の合戦で敵を破った。
九月十七日、肆基、養父で護郷等に敗れた敵兵が三根郡に集まり、中野に要害をつくってたてこもっていたのを撃破した。
十一月、右田右馬助弘量、および末武左衛門大夫長安等を豊後に派遣し、日田、玖珠二郡を攻撃させる。
十一月七日、玖珠郡青内山の合戦で敗北。弘量は戦死し、長安も数か所の傷を負った。
東寺過去帳に、九州で大内介と菊池・小弐・大友以下牢人が合戦し、死者数百人。裏面に明応七年、牢人衆攻め返して度々合戦に及び、双方死者数百人、大内介難義に及ぶ云々とある。
明応八年正月十七日、吉敷郡仁保の瑠璃光寺、火災。
七月二十五日、杉新左衛門尉弘国を派遣し、豊前を攻める。
八月二十九日、企救郡小倉津で合戦。
十一月、太宰筑後太郎頼総等筑前を乱す。
十一月十九日、大分村で敵を破り、八幡馬場、および内野坂に追撃する。天野式部大輔元連の配下・河村豊後が太宰四郎を斬った。
明応九年三月五日、将軍・足利義尹(義材)は細川右京大夫政元にとらえられたが、のちに北国に逃れていた。政元等を討伐しようと挙兵したが、逆に敗北してしまい、遂に周防国に逃れて来た。ひたすら大内家の忠勤を頼みに思っているとのことであったので、山口に招いて今八幡宮の宮司坊・神光寺をその居館とした。
・神光寺は上宇野令村江良の七尾山麓にあり、明治三年、長山平蓮寺と合併して今は神蓮寺という。当時は今八幡宮鎮座の亀山右側の地にあって、その後面の地・宮野下村の内にかけて字を御屋敷といった。義尹卿の館址なりと言い伝えられている。当時、神光寺は広いとはいえ、将軍の居館にするにはやはり狭小だから、地つづきに増築したため、このようにいうのだと思う。
この日、将軍を居館に迎へもてなした。
・将軍下向の年月は定かではない。玖珂郡今津村白崎八幡宮楼門棟札に以下のようにある。明応九年十二月晦日、将軍家が京都から楊井津へ下向なさり、同津で年を越された。正月二日、御座所を山口乗福寺に移され、八年間在国なさった。
ところが、御成雑掌注文は明応九年三月五日とし、大内殿掟書所載島津豊後守忠朝の六月六日付手紙の返事では、肩に明応九七としるし、益田氏所蔵の義興が益田孫次郎に与えた十二月十八日付書状では明応九と付箋があり食い違っている。いずれが正しいのか分からない。今暫くは裏付けが多いものに従っておく。また義隆記では山口下向を明応十年三月十六日とし、同異本では文亀十年三月十六日とする。異本の十年は元年の誤写である。それはともかく、今八幡宮所蔵文書に、伊勢兵庫助貞紀ならびに義興が剣馬を寄進した明応十年二月三日の文書、同四日の旗裏書等があり、十六日より前と書いており、特に義興の寄進状中に、「右子細者一昨日卯刻、荻野三郎光豊、丹波国御家人、去年下着祗候」とあるから、義隆記はもちろん、誤りである。
将軍は内書を中西国九州の諸氏に与えた。義興はこれに添書をして将軍家に忠勤するように、と申し渡した。
文亀元年二月一日、去年丹波国より下向し、将軍にお仕えしている荻野三郎光豊が今八幡宮に参詣した時、車寄の榎に一流の旗が懸かっているのを見つけた。光豊はそれを取って、宮司坊に行き、権少僧都真乗坊定了に渡した。定了が親族の法師定慶に持参させたものを、義興が見ると、胡文字で神号をかき、その下に尊氏将軍が建武三年豊前宇佐八幡宮に奉納した由来をしるした物だったので、将軍に進呈した。
二月三日、将車は剣馬を今八幡宮に寄進し、義興は家宝の菊銘の太刀、親子という刀および馬一疋を献る。
二月四日、旗の模本を造り、相良正任に裏書を命じて今八幡宮に納めた。
閏六月二十日、大友、少弐(少弐は政資の二男、名は資元)が豊前に進軍し、馬岡城を攻撃した(馬岳は、高山または小高山ともいう)、
閏六月二十四日、馬岡に援軍として派遣していた神代与三兵衛尉が、安楽平、高祖両城内の兵を引率して馬岡城に入った。仁保左近将監護郷は仲津郡沓尾崎の合戦で敗れて戦死した。
七月六日、氷上山妙見社で九州の凶徒退治の祈願をし、家宝の剣鳶切を奉納する。
七月二十三日、杉木工助弘依等を援軍として馬岡に派遣。城兵とともに攻撃して大友・少弐兵をしりぞけた。
永正四年十一月二十五日、六月に細川右京大夫政元が家人に殺され、洛中が乱れていると聞き、将軍を奉じ本日山口を出発して防府に赴き、中西国九州の兵を召集した。
永正五年四月、細川右京大夫高国が先駆を承って東上した。
四月九日、細川右京大夫澄元および三好希雲等は、大内軍が東上すると聞いて京師から逃げ出した。十日、高国が到着し、従父弟・中務丞尹賢に命じて、摂津国池田城を攻撃させた。
四月十六日、将軍・足利義澄は近江国に逃亡。
四月二十七日、義興は将軍を奉じ堺浦に着いた(戊辰夏、数百艘纜を解き、追風に櫓棹を加え泉州・堺に着岸。諸侯が出迎えた、とある。解纜の日は不明)。
五月十日、細川尹賢が池田城を攻め落し、城主・池田筑後守を斬った。
六月八日、将軍入洛。
七月一日、(義尹は)再度将軍職に就いた。
八月一日、従四位下を授かる。
九月十四日、従四位上に進む(佐波郡牟礼阿弥陀寺所蔵、永正七年二月十三日の文書に従四位下行左京大夫とあるが疑うべきであろう)。
永正六年八月、少弐の残党が筑前で挙兵。軍を派遣してこれを撃つ。
永正七年四月、将軍に推挙し、本郷扶泰の若狭国本領を安堵してもらう。
永正八年七月、細川右京大夫澄元が挙兵。細川右馬助政賢とともに和泉に出撃し、淡路守は摂津に進軍した。細川高国は二国に兵を派遣してこれを防いだ。
七月二十六日、灘で合戦。
八月、高国の兵は敗走し、鷹尾城(菟原郡、城主・河原林対馬守正頼、八月十日夜、城から退く)伊丹城(河辺郡、摂津志に伊丹城、伊丹氏は代々この地を拠点とした云々とある。永正七年正月、伊丹国は管領・細川高国に属していた。高国は敗走し、伊丹但馬守、野間豊前守はともに自殺した。三月、三好行長がここを拠点としたとある。思うに七年は八年、三月は八月の誤りである)等が陥落した。
義興は、暫くは敵の勢いが鋭いから避けるのがよい。たやすく上京させれば、敵は慢心して勢が衰えるだろう。その時に返り討ちにするのがよいだろう、と提案した。
八月十六日、将軍は丹波国守護代・内藤肥前守貞正の屋敷に下向した。細川右馬助政賢、同刑部少輔(和泉国守護)三上兵庫介、三宅出羽守、九里六郎、遊佐河内入道印波、山中遠江守、荻原弥十郎、赤沢孫二郎、竹内孫六郎(九里の弟)以下が一万五、六千人を率いて追撃してきたが、後陣の兵は千本口で防戦し、これを退けた。
八月二十三日、将軍は丹波から戻り、高雄に陣をはった。義興は細川高国等とともに長坂山に軍を配置した。敵は紫野船岡今宮林に陣を構えた(京都将軍家譜、重編応仁記、王代一覧、古文書・房顕記では八月廿二日、公方様十二家其方大名小名、各御帰洛とする)
八月二十四日、義興はこの日の先鋒を承り、陶興房を先駈として、船岡に向かった。義興は奮いたち、諸侯をみまわして、勇ならんと欲する者は我が余勇を賈え(余勇賈うべし:勇気の余りを人に買ってもらうほどに、勇気があること)と大声で言い、ひとり先に立って馬を走らせて戦った。敵の人馬は驚き恐れて退却した。乃美肥前守(思うに肥前守は備前守の誤りだろうか。備前守ならば安芸国衆である)および興房の配下・江良藤兵衛尉、深野石見守等が千本の人家に火を放ち、味方はこれに乗じて奮戦した。敵陣はことごとく敗れ、細川右馬助政賢以下数十人が戦死し(房顕記、近江衆竹下其外数万儀切果とす)、澄元は逃走した。
九月一日、将軍入洛。
永正九年春、前年の十二月二十五日嵯峨野に遊び、西芳寺で、
かくばかり遠き吾妻の不二がねを今ぞみやこの雪の曙
と歌を詠んだところ、この歌が殊勝である、と伏見中務卿貞敦規王をはじめ公卿十三人が酬和(詩歌を作って応答する)したことが、天子のお耳にも入り、
雪に見し山は不二がね言の葉の世々の其名も雲の上まで
という御製を賜った(義隆記、同異本、扶桑拾葉集・異本義隆記に、柳営にも御詠を賜った、とあるが歌はない)従三位を授かった(公卿補任は三月二十六日とするが、氷上山二月会差定で既に従三位とあるのだから、二月十三日より前の叙位である)。
永正十一年、将軍が馬および国宗の太刀を氷上山に寄進した。
永正十二年、安芸国佐西郡の兵が東西に分れ、東方は五日市の宍戸治部少輔を首将として桜尾城を拠点とし、西方は新里若狭守を首将として藤懸城を拠点として、互いに争った。佐東郡金山城主・武田刑部少輔元繁はその先祖が伊豆守信武で、建武年間に安芸の守護職に補任されて以来続く名門であるから、この争いを鎮めるために下向させて欲しいと将軍家に申し出た。その意向をしっかり守らせるために、飛鳥井氏の女性を養女として元繁の妻とさせたのに、元繁は安芸に下向するやいなやこの妻と離縁して東方に荷担してしまった。我が物顔で神領に侵入すると、大野の河内城は戦わずして城を空けて退いたので、山県郡の有田城を攻めた。城主・己斐某がこれを注進してきたから、高田郡郡山城主・毛利興元に有田城を助けさせた。元繁は囲みを解いて撤退した(四月十四日、周布式部少輔に与えた、高橋民部少輔元光事、去月二十九日於備後国討死云々の文書があるが、事跡不明)。
十一月十三日、氷上山妙見に菊銘の太刀、行平の刀を寄進する。
十二月二日、将軍の三条の新館が落成した。昨日伊勢守貞陸の屋敷で一泊し、本日亥刻、場所を移したが、病気のため出席することができず、杉越前守に太刀と折紙を献上させてこれを祝った。
永正十三年、摂津有馬の温泉で湯浴みする。ここから直接堺に出て帰国したいと願ったが、将軍が無理に引き留めた。そこで、堺に滞在して京師には還らなかった。
永正十四年二月十三日、嫡男・義隆が氷上山上宮に参詣した。
十二月、武田元繁は毛利興元が去年八月に亡くなり、その子・幸松丸が家督をついだけれども、わずかに二歳であったから、憚る所なくまた山県に進軍し、今田の要害に拠点を置いて、近辺を侵略し、有田城も陥落寸前だった。
十二月二十二日、幸松丸の叔父・元就が有田を救援した。武田麾下の驍将(勇将)安北郡三入高松城主・熊谷二郎三郎元直が防戦にあたった。元就はこれを撃破し、元直を斬った。元繁は元直の敗死を聞いて軍を二つに分け、一軍を留めて城兵の突出に備え、一軍を率いて元就の陣を衝いた。元就は迎え撃ってこれを破り、元繁を斬った。
永正十五年八月二日、堺を出発して帰国する。
十月五日、山口帰着。
十一月、山口に神を勧請するというかねてからの思いがあり、高嶺山の麓で地相を占った。
十一月十三日、釿始(ちようなはじめ)の式を行う。
永正十六年十一月三日、高嶺内宮落成。
十一月九日、竪小路に鎮坐する祇園社は、市内では穢れの恐れがあるとして、神明の敷地内に移そうと仮殿を建立していたが、本日これを遷宮させた(旧址は上宇野令村字水ノ上にあって、古祇園といい、二十年前までは古杉があった)。
永正十七年四月八日、高嶺外宮落成。
六月六日、これに先立ち、四月十二日から祇園社を解体して高嶺に運び、十五日に立柱したのがこの日落成した。(入目六拾九貫三十五文云々、此内四十貫文者公儀御下行也、其外者左馬大夫調之とあり)
六月七日、祇園仮殿から今道の御旅所(旧址あり。今の今市町になった年は不詳)に神幸(御神事は国清寺門前広橋を渡って竪小路を下り、大町を今道御旅所まで御幸したとある)。
六月十四日、祇園還幸の予定だったが、雨天によって延期。
六月十八日夜に遷宮、今道から直接新殿に還幸した。
六月二十六日、先に吉田神主が神明の御体代を奉送し、伊勢から御師高向二頭大夫光定が下向して来ていたのが、儀式をととのえて、この日から参篭した。
六月二十九日夜、遷宮式を行い、父子で参詣した(右両社御建立、作事方金物并粉色、小鳥居、瑞籬、仮屋、次御遷宮等種々入目惣辻事弐百弐十九貫二百八十九文云々、公儀御下行、次勧進銭等分加之とあり)高嶺神明と崇むように、と定めた。のちに高嶺太神宮の勅額を賜る(神庫所蔵・後柏原天皇の宸筆)。
十二月十日、長門国豊浦郡阿弥陀寺火災。
大永元年十月一日、氷上山本堂を再建し、本日上棟式を執行する。山に登り、これを祝った。
大永二年正月、陶興房に命じ安芸国佐東郡を攻撃する。
正月十三日、興房、軍令を布告する。
三月、興房、佐東に進軍して、藤丸に軍を配置する。
三月十八日、仁保島で合戦。
四月六日、上八屋で合戦。
四月十六日、同所で合戦。
八月、毛利元就に命じて、山県郡壬生城を攻撃させる。
八月十六日、壬生城を陥落させる。
興房は今春以来所々で戦ったけれども、新庄の小幡の城を取っただけで、はかどらないので、この月、陣を解いて軍勢を解散した。
大永三年夏、出雲国能儀郡富田月山城主・尼子伊予守経久が安芸に出撃して、安北郡北池田に軍を配置し、毛利元就を招いた。元就は招きに応じ、尼子軍とともに坂城を攻めた。坂城は陥落し、尼子兵は佐東郡に入り、鏡山城を攻撃した。城は落ち、城主・蔵田備中守信房は戦死した(以上月日不詳)。
四月十一日、永正五年、将軍に従って上洛していた厳嶋神主・四郎興親は、その年の十二月八日に病死して神主家は断絶してしまった。小方加賀守と友田上野介興藤が神主職を競い合う事態となったから「訟するものは中より取れ」との諺があるとして、桜尾、己斐、石道本城に城番を置いて神領を管理した。興藤は願いが叶わぬことに憤り、武田光和等に助けを求めて、この日挙兵して己斐城番・内藤孫六、桜尾城番・大藤加賀守、石道本城城番・杉甲斐守を追い出して桜尾に入城した。杉は廿日市後小路で佐東兵に殺された。知らせを聞いて、陶興房および弘中下野守、弘中越後守武長等を安芸に派遣し興藤を攻撃させた。興房は佐西郡に出撃し、大野の門山に陣をはり、八月五日、友田で戦った。弘中武長は警固船の将として齋藤次郎高利等を率い、八月一日に大島郡遠崎を出帆。十八日、厳島に渡り、友田の番兵を追い払った。さらに進軍して廿日市の番兵も攻撃し、敗走させた。
十月三日、佐東兵が来て厳島を襲ったが、迎え撃ってこれを破った。
十一月一日、佐東兵に包囲されていた石道の小幡興行が降伏し、興行の親族八人が切腹。興行は城を出て、三宅の円明寺に入った。この日、弘中武長が五日市を焼いた。
十一月五日また五日市に放火する。帰還の際、敵兵に襲撃され、野間刑部大輔、能美弾正忠および武長配下の野村民部亟等二十余人が戦死した。
この年(大永三年)、僧宗設を明に派遣した。細川高国からは宋素卿と僧瑞佐が明に遣わされた。宗設は素卿等より先に寧波に到着したが、素卿は寧波市舶大監に賄賂を贈り、宗設より早く役所に入った。宗設はおおいに憤って役所を騒がせた。素卿はもと鄞(ギン、地名)の人で朱縞という者であったが、日本に亡命して姓名を変え、細川氏の使人となっていたことが露顕して国法に処せらた。宗設、瑞佐は役目をはたして帰国した。
大永四年五月六日、陶興房が大野城を攻撃した。
五月十二日、友田興藤は武田光和と合流し、大野救援のため女滝に出撃した。大野城主・弾正少弼は興房に内通して城に火を放ったから、興藤と光和は逃走した。興房はこれを追撃した。
六月、義興は大野戦勝のしらせを聞き、義隆を伴って安芸に出陣した。
この月、杉修理亮が筑前で戦い、宗像四郎等が協力した。
七月三日、桜尾城を包囲する。興房は岩戸山、吉見、杉、内藤等は天神山篠尾に陣を置いた。義興は厳島の勝山に仮館を造ってこれを本営とし、日々桜尾に渡り兵士の活動を監督した。
七月二十四日、陶兵が桜尾城の二墩(トン、もりつち)に切り込んで戦った。
七月二十五日、再び戦う。これより八月一日まで毎日戦った。
八月二十三日、再び戦う。
十月十日、味方は車櫓を造り、北下りに桜尾に押し懸けて攻撃し、敵軍は笛太鼓で囃しながら防御していたが、ついに力尽きた。興藤は吉見三河守頼興に依頼して降伏を願い出てきたから、これを許した。興藤は子息・藤太郎を厳島に渡海させ、この日謁見した。
大永五年正月二十八日、厳島社に参詣。
二月十日、陶興房は岩戸陣から厳島に渡って、義興をもてなした。
二月二十二日、義興は大野に渡り門山の地を見た。この日、有浦に繋いでいた本船から出火し、焼けてなくなってしまった。当直だった能美孫三郎は烟がたちこめるのをものともせず、旗筥を取り出し、海中に浮かぶ岩に逃れた。孫三郎は当直だったのだから、切腹を命ぜられるだろうかと皆が危ぶんでいると、義興は門山より帰島し、孫三郎は若輩ながら、御旗を心がけて取出したのは比類な働きであるとほめ、熊毛郡田布施に五十貫足の地を与えた。
二月二十六日、厳島より門山に陣を移した。
四月五日、興房は矢野に進軍した。
六月、興房は賀茂郡に入り、天野民部大輔興定の志芳庄米山城を包囲した。毛利元就は尼子氏と断絶して味方になっていたが、米山に使者を派遣し、興定を諭したので、興定はそのすすめに従って内通した。
八月六日、興房は天野興定と合流して、志芳奥尾で佐東兵と戦った。
八月二十七日、志和別府で合戦。
十二月、大友氏が援軍一万ほどを派遣して来て、二十七、八両日に厳島に着いた。
この年(大永五年)、筑前国で一揆が蜂起したので、これを平定して張本四人を誅殺した。
大永六年春、大友兵とともに、佐東□中城に向かう。石道新城等の城砦は戦わずして潰走した。ただちに□中に進み、ここもりに陣をはった。□中城は国内でも有名な要害であるが、味方が多勢であることに圧倒されて、降伏を申し出た。これを許し、内藤玄蕃助、渋谷某両人に切腹させた。大友兵は本国に流言があったため、帰国した。
七月五日、佐西郡草津で合戦。
九月十七日、防府松崎天満宮で火災。
大永七年二月七日、石道新城で合戦(去年開城したが、大友兵帰還の後、旧に復したようだ)
二月九日、安南郡熊野城を落とす。
三月七日、新城で合戦。
三月八日、興房は毛利元就、天野興定、益田尹兼と合流し、安南郡世能鳥子城を包囲した。
三月十日、鳥子城で合戦。
三月十八日、鳥子城は降伏したので、城主野村木工允に切腹を命じた。
四月七日、安南郡府中城を攻撃。
五月五日、府中城で合戦。
五月六日、府中城の西固屋を落とす。
五月八日、府中城で合戦。
五月十二日、再び合戦。
五月十三日、武田兵が府中城に来援し松笠山を襲った。迎え撃ってこれを撃破。
五月三十日、佐東郡久村で合戦。
六月二十一日、府中城で合戦。
八月九日、興房は備後国三谷郡和智郷細沢山で、尼子伊予守経久と戦った。
九月、僧源松を明に派遣し明主の即位を祝う。
十一月二十七日、興房は備後国三次郡三次で戦う。
享禄元年二月十三日、吉敷郡鯖山禅昌寺で火災。
七月十四日、義興は病に罹っていたが、日を追うごとに重くなったので、佐東から陶興房、野田興方、右田□□、杉興重、内藤興盛、門山から杉民部入道、右田右京亮が厳島に戻って相談をした。
七月二十日、興房は友田興藤を諭し、子息・掃部頭広就を厳島に渡らせ義興に謁見させた。
十二月二十日、山口に戻って療養していた義興はこの日、ついに亡くなった。
享年五十二歳であった。
吉敷郡中尾村凌雲寺に葬り、法名を凌雲寺傑叟義秀とした。
・凌雲寺の創建および廃頽の年紀は不明。地元の人の言い伝えでは、天文十七年に焼失、また一説には天文二十年八月二十八日の夜、義隆が法泉寺から本寺に逃れて来たのに、住侶が山門を閉めて寺中に入れなかったので、天火の災があって焼失したという。
この伝がともに正しくないことは、故高橋右文氏が書いたものの中で詳しく述べられている。旧址に壊れ残った石垣が二か所あり、外側の方は高さ九尺、幅六尺余、山門の跡であるという。南を向いている。内側の残垣よりやや上ると、石をくみあつめたものがあり、御子様方の墓、あるいは火屋の跡であるという。ここから左の行き止まりに五輪墓が三つあって、一つは義興、一つは北の方、一つは開山のものであるという。その下に谷川があり、鬼が原という。寺跡よりおよそ三町ほど東方の山腰に荒れた神社があり、本寺の鎮守社であるという。また西北の山麓に小さな堂があり、弥勒を安置している。この弥勒は凌雲寺の本尊であるという。弥勒の側に開山の木像および位牌があり、また鎮守の神名を彫った牌があって、凌雲寺が廃頽したのち、仮にここに移し置いたという。