大内氏ゆかりの人々についてまとめています。今回は大内満世についてご紹介します。義弘の弟・満弘の子ですが、分家を立てたりすることなく、当主の身内という立場で盛見に仕えました。馬場殿と呼ばれ、それなりに厚遇されていたようです。しかしながら、盛見・弘茂兄弟、持世・持盛兄弟の家督相続争いで常に負けた側に味方。つまりは当主となった人と争った側に与力したという経歴がつきます。運が悪いのか、人を見る目がないのか……。さて、こんな状態で、無事に終わりを全う出来たのでしょうか?
大内満世とは?
弘世の子で、義弘の弟・満弘の子。父・満弘は南北朝期に兄と内紛を起こしますが、幕府の介入により和睦したため、特にお咎めもなく無事でした。しかし、九州で南朝の残党を討伐していた際に戦死。その後、義弘が幕府に叛旗を翻して敗死すると、幕府は後継者に義弘弟・弘茂を認可。留守分国にいた盛見との間に家督相続争いが起きます。満世は妻の実家・益田氏の説得により、弘茂を支持。長門国に領地ももらいます。しかし、結果は盛見の勝利に終わります。盛見に降伏した満世は、馬場殿と呼ばれ、家中でもそれなりの地位を得ていましたが、盛見の戦死で起こった持世・持盛兄弟の家督争いでまたしても敗者となる持盛方に味方していまいます。
持盛が討伐される前に隊列を離れて、密かに出国した満世は京都まで逃れますが、発見されてしまい、自ら命を絶ちました。
基本データ
生没年 ?~14330420(永享五年)
父 満弘(弘世子、義弘弟)
妻 益田兼顕(=兼世)娘
呼称 五郎、馬場殿
官職等 中務大輔
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』)
略年表(生涯)
応永四年(1397) 父・満弘、九州で戦死
応永七年(1400) 義弘の後継者として認められた弘茂に味方する
・盛見と和睦し、盛見に仕える
永享四年(1432) 盛見が戦死。持世・持盛の家督相続争いで持盛に味方する
・持盛敗北前に密かに脱出
永享五年(1433) 京都にて自害
おもな事蹟
父・満弘と伯父・義弘の内訌
南北朝期、満弘の父・満弘とその兄・義弘は、互いに弓矢の事に及んでいます。両者が激突した時点では、父(満世の祖父)弘世は生存していました。これも一種の家督相続争いととれなくもないですし、事実そのように書かれているご研究も存在しますが、満弘は父・弘世の代理として兄と戦ったという側面があります。
南北朝期、武家方に与して以降の大内氏家中には、二つの考え方がありました。それは、以下のようなものです。
一、混乱期に乗じて自らの領土拡大をはかるのが先決。幕府など無視でよい
二、幕府には従っておいたほうがよい。なぜなら、足利氏による諸国統一は確実と思われるので
一の考え方をとっていたのが、弘世。二は義弘が代表的です。幕府による九州平定事業に駆り出された弘世父子は、最初のうちこそ、九州探題に協力的でしたが、大宰府陥落後即兵を引いてしまいます。大内氏という援軍を頼れなくなった探題・今川了俊は苦戦することとなりますが、弘世はそのような事態を無視して、安芸国へ向かい領土拡大を目指します。弘世の非協力的な態度に怒った幕府は、石見守護職を取り上げるなどしたため、弘世の幕府への反感はさらに強まりました。
いっぽうで、義弘はというと、父の意に反して九州へ渡海。探題を助けて活躍します。お陰で弘世から取り上げられた石見守護職は義弘に与えられました。大内氏としては、権益を失わずにすんだわけです。しかし、弘世の独立志向はなお強く、幕府に協力しようという態度は欠片も見られませんでした。
このような父子間での意見の相違を反映してか、家中でもいずれの意見に賛同するかで真っ二つに割れたようです。満世と義弘の間に内訌が起こったのは、そのような対立がついに武力衝突にまで至った結果です。内訌の流れと結末については、満弘の項目で述べたので繰り返しません。⇒ 関連記事:大内満弘
満弘は義弘を支持する幕府の介入もあり、義弘と和解し、石見守護職を与えられて内訌は終結します。このようなかたちでの「終結」を、果たして円満解決と評価してよいのであろうかということが不明でした。満弘はその後、九州の南朝残党との戦いで亡くなったため、その後の兄弟の関係については混乱の中で終わり、満弘の思いは伝えられていないからです。
義弘死後、弘茂を支持
義弘は義満将軍期(実際には義持期だが、実権は隠居した父・義満にあった)に、幕府に叛旗を翻して鎮圧されます(=応永の乱)。この時、ともに和泉堺で戦っていた弟・弘茂は幕府に降伏。領国を削られるかわりに、次期当主として認められます。留守分国を任されていた兄弟・盛見はこれを不満とし、弘茂には盛見の討伐が命じられました。⇒ 関連記事:大内弘茂
問題となるのは、この時に満弘遺児・満世がどのような立場を取ったか、です。父・満弘が戦死したのは、幕府の下知に従い九州の凶徒を退治していた最中でした。しかし、戦死までして、忠節を尽した満弘の遺児には何ら恩賞が与えられませんでした。そのことは、義弘が義満に叛いた際にその理由として挙げた五箇条のうちにも述べられています。
『大内氏史研究』によれば、この件を恨みに思った満世が、盛見を支持することを恐れた幕府はその「懐柔」を図りました。満世を諭し、弘茂方に協力させたのです。その役目を担ったのは、妻の実家である益田氏でした。満世は石見国に向かい、弘茂方につきます。後に、長門国一郡を賜っています。
弘茂は盛見に敗れ、その後も他の一族の者を推すなどして対抗した幕府でしたが、最終的に盛見の家督継承を認めざるを得ませんでした。満世はこのような状況下で、盛見と和睦しています。
盛見家中での地位
弘茂の死後、家督として認められた盛見は内乱により分裂した家中を安定させることに努め、見事に成功しています。そんな中で、いったんは弘茂方についていた満世はどのような扱いを受けていたのか気になるところですが、大内宗家の人として、盛見につぐ地位にあったようです(参照:『大内氏の文化を探る』)。
盛見代に起こった、日本史上の大事件として、「応永の外寇」があります。朝鮮の軍隊が対馬に攻め寄せたというものです。普通に参考書に載っています。年号の暗記法もあったりして。この時、朝鮮側に連れ去られた人々の返還を望んだ人々の中に、九州探題や少弐氏などと並び、満世の名前が出て来ます。『大内氏史研究』には、満世のことを「豊前か筑前の守護代であったと思われる人」と記しており、九州方面のことを任されていたととれます。
再び起こった内訌でまた敗者側につく
盛見期においては、見た目上、何不自由なかったように思われる満世ですが、その心の内までは読めません。盛見が九州の凶徒討伐で戦死すると、その跡目を巡って持世と持盛の争いが起こります。二人は義弘の子でしたが、盛見は実子ではなく、兄の子いずれかを次代の当主にと宣言していました。しかし、二人のうちどちらにするか決定する前に亡くなってしまいます。幕府が決定した後継者は持世でしたが、それに反発した持盛が持世と戦闘状態になるのです。
この時、満世は持盛方につきました。先に弘茂についた時と同様、家督争いの当事者間に首を突っ込んでしまったわけです。持盛を支持した理由はわかりません。しかし、またしても味方したほうの持盛が敗れ去ってしまいました。ついていないというか、常に選ぶ相手を間違えているというか……。
伊勢に逃れ、京都で死亡
『大内氏史研究』には、満世の最期について以下のように記されています。
「満世は、持盛勢が漸く落目になったので、三月初め、持盛の所を脱して、遁世者分で伊勢の神宮へ参詣の後、京都五条辺の小家へ宿っていたのを、大内家雑掌安富掃部が燥知し、四月廿日山名内の者山口遠江守を相語ろうて押寄せたところ、満世は自害して果てた。」
幕府から持盛討伐を許可された持世が、幕命を帯びた近隣諸勢力を率いて豊前国にいた持盛を攻撃すると、持盛は支えきれずに敗死します。どうやら、満世はそれ以前に持盛の元を離れたようです。伊勢参りの人に扮して追っ手の目を躱し京都まで逃れたらしいことがわかります。けれども追跡の目は逃れられなかったのか、堪忍して命を絶ったようです。
人物像や評価
常に「負け組」に与する
父・満弘は兄・義弘と内輪揉めを起こしながらも、それによって処罰されることがなかった稀有な例です。幕府が仲介して和解させたという経緯があったためかと思われます。兄弟相争ってその後和解した例などほかにないですから。満弘はその後も、義弘に従軍し九州で戦死。兄弟の仲は完全に修復されていたのでしょうか。本人に聞いてみないことにはわかりません。
義弘の死後、満弘が弘茂方につき、盛見と敵対したことについては、舅である益田氏の説得が大きかったように見えます。ほかにも何か感情的な問題があったのかどうか知りたい所ですが、死者は何も語ってはくれません。
盛見期には、相応の待遇を受けていたようですし、特に不満があったのかどうかはわかりません。問題は持世と持盛の争いで、持盛側についてしまったことです。先の弘茂は、いちおう、幕府のお墨付きをもらっていた人でした。けれども、持盛はそうではありません。普通に考えたら、関わらないほうがいい人物です。
じつは義弘期からずっと、歴代当主に不満でもあったのか、単に日頃から持盛と交流が深く、誘われたら断れなかったのか。理由はわかりませんがとんでもない過ちをしでかしてしまいました。持盛に見切りを付けて密かに逃げ出したところなど、みっともないだけです。逃げ切れると思ったのかと考えるいっぽうで、ここまで落ちぶれたらもはや再起不能なので、永久追放でもいいのでは? と感じたりもしました。
二度も家督争いに巻き込まれ、しかも二回とも敗北したほうに与党しているという。人を見る目がないというか、状況判断が下手というか。あまり褒められたものではありません。
菩提寺や墓所も不明
系図を見る限りにおいては、満世には兄弟姉妹はあっても子はなかったようです。京都で亡くなっているためか、墓所や法名なども伝わっていません(どこかに記載あったらすみません)。
まとめ
- 弘世の子で、義弘の兄弟・満弘が父
- 父・満弘は、南北朝期に伯父・義弘と争い、幕府の仲介で和睦するという経緯があった。その後、九州の南朝残党討伐で戦死。それに対して、遺児である満世には何ら恩賞はなかったらしい
- 義弘が幕府に叛旗を翻して戦死した際、降伏したその弟・弘茂が幕府の後継者指名を受ける。それに反発した兄弟の盛見には討伐命令が下る。満世は、妻の実家・石見益田氏の説得もあり、弘茂方につく
- 弘茂、およびその敗北で新たな後継者に立てられた宗家の兄弟たちはすべて盛見に倒され、幕府は盛見の家督相続を認めざるを得なかった。満世は盛見と和睦。以後は身内として、盛見につぐ席次を与えられるなどそれなり厚遇されていたように見える
- 「応永の外寇」に際しては、朝鮮に連れ去られた人々の送還を願い出る。九州で活躍していたようにも見え、『大内氏史研究』にも「豊前か筑前の守護代だったと思われる人」と書かれている
- 盛見の突然の戦死で、後継者候補だった義弘の遺児・持世と持盛の兄弟の間に争いが起こる。その際、満世は持盛方についた
- 幕府により、後継者として認められていた持世は、持盛らの討伐許可を得、幕府からの援軍も引き連れて持盛を倒した
- 旗色が悪いと察した満世は密かに逃亡。伊勢国を経て京都まで至ったが、見つかってしまい、京都にて自害した
- 『新撰大内氏系図』を確認する範囲では、法名、菩提寺・墓所、子女などについての記載はない
参考文献:『大内氏史研究』、『新撰大内氏系図』、『大内義弘』(松岡久人)、『大内氏の文化を探る』、『大内氏実録』
なんだかついていない人だね。最初の回はとにかくとして、二回目までも負けた側についてしまうとは。どっちにも関わらないでいれば安全なのに。何か不満でもあったのかな?
そうね。なんとなく、あったぽく感じるよね。だけどそれ、感情的な問題で、史料に書いてあったりしないからね。先生方がどこかで書いていたようないないような気がするんだけど、古すぎる記憶で、どの本とか思い出せない。そもそも、そんなことが書いてあったような気がすること自体記憶違いかも知れないし。
ここで重要なのは、益田氏についてだったりする。彼らは満弘、満世と二代にわたり婚姻関係を結んでいた。それこそ、悲惨な最期を迎えた人物と婚姻関係にあったことで、睨まれないまでも、得る所が何もなかった。
確かに。どうせなら、宗家で重きをなしている人につくべきだよね。ん? そう言えば、祖母さまが祖父さまに嫁いだのは、これより後のことだね。家中で重きをなしているなら、別に当主の関係者ではなく、家臣の関係者でもいいということに気付いたのか。
そう。その意味では、彼らにとって転換期となるな。いい意味で。