山口県山口市滝町の山口大神宮とは?
永正十七年(1520)、朝廷公認のもと、大内義興が伊勢神宮を勧請した「高嶺太神宮」がその前身です。内宮・外宮を備え、式年遷宮も行なわれるなど、伊勢神宮そっくりな太神宮を造築できる勢力はほかになく、大内氏の富と権力を象徴する神社として著名です。遷宮にあたっては、祇園社を遷宮したり、参道を整備するなど、一大事業が執り行われました。のちには、九州、中国地方などの伊勢神宮を信仰する人々から「西のお伊勢さま」と慕われ、たいそう賑わいます。現在は山口大神宮と改名されました。お名前が変っても、多くの人々に崇敬される神社であることは、昔も今も変りません。
山口大神宮・基本情報
ご鎮座地 〒753-0071 山口市滝町4−4
御祭神 天照大御神(内宮・主祭神)、天手力男命、萬幡豊秋津姫命(内宮・配祀神)、豊受大御神(外宮・主祭神)、天津彦火瓊々芸命、天児屋根命、天太玉命、建御名方命、八坂刀売命(外宮・配祀神)
主な祭典 例祭(十月十七日)、春祭(五月一日)
境内神社 内宮別宮荒祭宮(荒御魂・瀬織津姫命)、内宮摂社恵比須社(事代主命)、外宮別宮多賀宮(荒御魂・伊吹戸主命)、 末社岩戸社(天照皇大神ほか二柱)、末社稲荷社 (宇迦之御魂ほか三社・末社御門守神社相殿)
公式サイト http://www.yamaguchi-daijingu.or.jp/index.html
(参照:山口大神宮さま HP、『山口県神社誌』)
境内案内図
※石段左手にある境内案内図の看板です。
山口大神宮・歴史
永正十七(1520)、大内義興は朝廷公認のもと伊勢神宮を勧請しました。「高嶺太神宮」がそれです。
細川政元らによって将軍職を追われた足利義稙が周防国に逃れて来て大内義興に援助を求め、義興がそれを快く迎え入れたこと。のちに、義稙を奉じて上洛しその復職を実現させたこと。長期に渡って都に留まり、将軍を助けたこと、などなどは周知の通りです。十年余の長期に渡る在京生活の中で、義興は様々な体験をしました。この頃から、本拠地・山口に伊勢神宮を勧請したいと考えるようになったといわれています。
永正十五年(1518)十月、帰国した義興は早速、伊勢神宮勧請の計画を実行に移します。惣奉行・作事奉行を置き、祇園社の大宮司・松田貞重等に命じて、社殿の造営を開始しました。勧請の地は高嶺東麓と定められ、山口市内の既存寺社の場所を移転したり、参道としての伊勢路を敷設するなど大掛かりな工事が行なわれました。御霊代奉遷のため、大内氏の御師・高向光定が伊勢から下向して、遷宮式を執り行い、永正十六年(1519)に外宮を、翌年には内宮を造営しました。こうして、永正十七年(1520)に完成したのが高嶺神明社です。その後、柏原天皇から勅額を賜って「高嶺太神宮」と呼ばれ、さらに、後陽成天皇からは「伊勢」の勅額を賜りました。
高嶺太神宮は、素木神明造、20年に一度の正遷宮をおこなう内宮と外宮を整備するなど、伊勢神宮を模倣した壮大なものでした。伊勢神宮から分霊して「太神宮」を造ることができたのは、明治時代に至るまで唯一ここだけであり、大内氏の勢力が他の追随を許さぬものであったことを物語っています。
凌雲寺さま
民間にいわゆる「お伊勢参り」が流行するようになると、「西の伊勢参り」といわれ、中国・九州地方などから多くの人々が参詣しました。今も入り口に残る「日参一万日碑」は当時の参拝者たちが残したもので、その信仰がどれほど盛んであったのかがわかります。
伊勢神宮といえば、「式年遷宮」が有名です。戦乱など様々な理由から「太神宮」では必ずしも二十年に一度の遷宮とはなっていないといいます。近現代では、明治12、35年、昭和35年、平成12年に行なわれました。なお、創建21年後の天文九年(1550)にはきちんと造替されています(その 21 年後には、大内氏は既に歴史から消えていますので、ちょっぴり寂しく思われますね)。
明治六年(1873) 、郷社に、昭和四年(1929)には高嶺神社と名を改めて、県社となりました。現在の山口大神宮という名称は、昭和二十二年(1947)、神社本庁の承認を受けて改称したものです(※以上の内容は、山口大神宮さま公式ホームページ、『山口県神社誌』などを参照して書かれました)。
山口大神宮・みどころ
現在の本殿は平成十二年に造営されたもの(この年に遷宮が行なわれたのです)。ほかにも昭和時代から、様々な修築、増築事業や車道の整備などが行なわれてきました。それゆえに、室町時代からそのままの形で残っているような建物はあまりないともいえます。いにしえの建築物に憧れる方々にとっては、再建物のように感じられてがっかりなさるかもしれません。けれども、このことはむしろ、当時から今に至るまで人々の信仰が絶えることなく続いていることの証であり、この神社が義興の時代に造営されたという由緒そのものが貴重な遺産です。ゆえに、数ある社宝の中で、『高嶺両大神宮御鎮座伝記』が山口市指定文化財となっています。これは永正十七年に書かれたもので、文字通り、この年に完成した高嶺太神宮の由来を今に伝える貴重な史料です。
内宮・外宮の本殿はもちろん、境内神社である高嶺稲荷神社をはじめ、多くのみどころがあります。なお、元々高嶺太神宮の境内にあった祇園社は現在は八坂神社として他所に移築されており、いっぽう、昭和になってから多賀神社が山口大神宮境内に移ってきています。
社務所に置かれているコンパクトな境内案内のリーフレット(チラシ)が、みどころと大神宮の由来を簡潔にまとめてくださっていて、とてもわかりやすいです。また、石段の途中には境内案内図の看板もあるので、大切なものを見落とすことはないと思います。ただし、末社の岩戸社はやや離れた場所にありますので、場合によっては拝観の時間が足りなくなるかもしれません。
※以下の写真説明文は山口大神宮様のリーフレットや『山口県神社誌』を参照して記述しています。内宮&外宮の末社、摂社についてはホームページの境内案内地図とにらめっこしながら、これではないか? と思うものを載せているので自信がありません。
石鳥居
寛文三年(1663)、毛利綱広が寄進したもの。昭和三十五年(1960)、伊勢橋近くからこの場所に移転されました。
日参一万日碑
大神宮入口付近にあります。文字通り、「日参一万日」を達成した人が建てた記念碑。江戸時代のものとなりますが、当時の人々の間でお伊勢参り信仰がどれだけ盛んだったのかがわかる貴重なものです。
馬舎
山口の工匠が三年もかけて制作、文政三年(1820)に寄進されたもので、「木彫神馬(じんめ)」といいます。木彫の神馬はとても珍しいものだそう。同じような木彫の神馬は今八幡宮にもありました。⇒ 関連記事:今八幡宮
手水舎
どこの神社さまにも必ずある「手水舎」。再建されたものもあれば、創建当時から続く由緒あるものもあると思われますが、なかなか「手水舎」の由来についてご案内のある神社さまも珍しいですね。「古いさざれ石の手水鉢がある」と大神宮のご案内チラシに書いてくださってありました。手水舎そのものも、どう見てもかなりの歴史がありそうですが。
鷺岩
江戸時代、現在の八坂神社は祇園社といって、大神宮の境内にありました。神事・鷺舞が終わったあと、鷺の頭や羽をこの岩の上に置いたので、この名前がつきました。⇒ 関連記事:八坂神社
神楽殿
昭和二十二年(1947)にこの場所に移転されたそうです(元あった場所については未調査)。平成元年(1989)に、床下が陥没したので、コンク リートによって修復が行なわれました。
外宮
主祭神:豊受大御神、配祀神:天津彦火瓊々芸命、天児屋根命、天太玉命、建御名方命、八坂刀売命
外宮別宮多賀宮
内宮
主祭神:天照大御神、配祀神:天手力男命、萬幡豊秋津姫命
内宮摂社恵比須社
内宮別宮荒祭宮
御敷地(古殿地)
御敷地というのは次回遷宮のための敷地のことをいい、同時に、前回の遷宮までの社殿が建っていた場所(古殿地)でもあります。ですので、単なる空き地のように見えますが、たいへんに神聖な場所なのです。同じものが伊勢神宮などにもございます。
籾置岩
外宮の前にある平たい大岩。 この岩の上に稲籾麦の種子を置き、作物の虫除けと豊作を祈ったことがその名の由来。外宮の祭神、豊受大神は食物の神なので、農民の信仰が厚かったといいます。
恵比須社 & 石敢当
石敢当は「いしがんとう」と読み、魔除けとして道端に建てられる石。起源は中国大陸で、本州では珍らしいものだそうです。元は西門安部橋近くにありましたが、この場所に移されました。背後にあるのは恵比須社です。
高嶺稲荷神社
境内末社。農産物の神。元は現在の神楽殿の場所にあったようです。商売繁盛・三難消除(病・火・盗) 、芸能、家業・社業開運の神などとして幅広く信仰されています。
追記:岩戸社への道
初めての参詣で多賀神社を山口大神宮と勘違いし、二回目は岩戸社を見落とし。三度目の正直でようやっと念願の岩戸社へ辿り着くことができ、いちおう大神宮内すべてのところにお参りできました。
境内案内図を見ても、かなり遠いように思われるし、ほかのサイトオーナー様たちの旅日記を拝見した感じでも、ちょっとした登山っぽい。覚悟して向かいましたが……。
門山城でもへっちゃらな俺とミルからしたら、こんな裏山ちょろいぜー
まずは、登り口ですが、素直に「登山道入口」は通らず、多賀神社境内神社・御嫡神社(多賀神社向かって左手にひっつくようにしてご鎮座)のところから入っていきます。下の写真のように、たくさんの鳥居があるのをくぐっていく感じです。
すると、「謎の大岩」(名前未調査)のところに着きます。ここまではすぐです。
なおも進むと、やがて稲荷大明神が鎮座なさっておられるところまで着きます。赤い色が目立ちますし、心強い目印となります。
國龍稲荷大明神
ご覧のように、基本は参道が続いており(石段になっているトコもあり)、迷うことはないと思います。ところが、いくつかの注意すべき点があります。
過去に訪れた方々がいうところの、「石鳥居」は現在は存在しません。台風か集中豪雨かによる山崩れで流されてしまったそうです(後述)。ですので、ありもしない石鳥居を目印にすると、永遠に辿り着けないどころか、道に迷います。
友一稲荷大明神
そのかわり、赤色の稲荷大明神のものと思しき鳥居はありました。
そして、ここがもう一つわかりづらいのですが、岩戸社=岩の中にお祀りされている、という認識で向かうと、そのようなかたちで神様がお祀りされている場所は二か所存在しました。
お供え物などが異なることからもわかるように、これらは別々の場所です。皆さんが目印となさっていた石鳥居もなくなっているわけで、こうなるともう、なにがなんだかわかりません。どこかに看板でもないだろうかと、探し回っていたところ……。
ぎゃーーっ
え!? ミ、ミル……
まさかの滑落で、たいへんなことに……。ちょっとした裏山感覚だったため、もう一度社務所へ戻って神職様方に石鳥居と二つある岩穴の謎についてお伺いし、もう一度登るつもりでした。でも、途中で出逢った山城マニアのお兄さんが、ミルたちが石鳥居を探し彷徨っている間に、とっとと高嶺城跡を攻略して下りてこられたので、つい欲を出してしまったのがいけませんでした。
岩戸社は裏山感覚でも、高嶺城跡は山城攻略用の準備が必要です。事前調査もせず、テキトーに入っていくことはとても危険だと身をもって知っていたつもりでしたが……。平然とテキトーに入ってしまったので、道を誤りました。
滑落したというよりも、身投げしたに等しい。道がわからないからと、稲荷大明神の鳥居めがけてダイブした。おかげで俺までも巻き添えに……。
ごめん……。無事に帰れたから許して。スマホ液晶割れて、服も泥んこになったけど。
社務所にて神職様が、現在は石鳥居はなくなっていること、また、恥ずかしい写真類をご覧くださり、無事に岩戸社をお参りできていたこと(参詣したお社の写真の中に岩戸社のものもございました)を教えてくださいました。ありがとうございました。
なお、二つあった岩穴のもう一つは、先に見えていた「友一稲荷大明神」でした。位置関係的には、岩戸社からちょい上、となります。道に迷ったおかげで、二か所もお参りできたわけです。
岩戸社
岩戸社までは参道と石段を使い、普通にちょっとした山歩きで行くことができます。お社にはこのように石段が導いてくれるので、迷うことはないです。
石鳥居がなくなってしまっていたことは残念でしたが、無事にお参りできて幸いでした。
ところで、かくも普通に行ける道を行ったはずが、滑落(身投げ?)後は違う道に出たようで、行きは多賀神社の裏手から入ったはずなのに、出口は思いがけないところでした。
高嶺登山道入口
ここから登っていくと、高嶺山頂に行けるという登山道入口。岩戸社は高嶺の中腹にあるというから、半分くらいはクリアできたはずで、城跡(頂上)にもついでに行きたくなるのも当然ですよね。
しかし、ショートカットするために多賀神社の裏手から入ったはずが、出てきたのは正式な登山道入口とは。やれやれ。
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多賀神社(山口市滝町)
山口大神宮の境内内にある。大内弘世や義興が再建したといわれる古い神社で、近江の多賀大社から分霊を勧請したもの。延命長寿安産などの神様。『言延覚書』の作者、宝現霊社(現築山神社)創健者は多賀神社大宮司。大内氏とたいへんゆかりが深い神社です。
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山口大神宮の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒753-0071山口市滝町4−4
鴻ノ嶺の麓に鎮座。山口県庁からほど近い場所。
アクセス
公式アナウンス的には、山口駅から歩いて 25 分、バスを利用すると、「県庁前バス停」から 5 分、「市民会館前バス停」から 10 分。歩くと 30 分近くかかるが、周辺にも多くの観光資源があるため、町歩きがてら来るのが楽しい。高嶺登山(岩戸社参拝、高嶺城跡散策など)をする場合は時間に余裕をもつ必要もあり、バスなどを使って体力を温存しておいたほうがいいかも。
参照文献:山口大神宮様HP、同じくご案内チラシ、『山口県神社誌』、『大内氏の文化を探る』
※この記事は 20230102 に加筆修正されました。
山口大神宮(山口市滝町)について:まとめ & 感想
山口大神宮(山口市滝町)・まとめ
- 皇室の祖先神・天照大神を祀る「伊勢神宮」を勧請した神社
- 伊勢神宮の勧請は、大内氏の富と権力を象徴する一大イベントだった
- その次第を記録した『高嶺両大神宮御鎮座伝記』は山口市の重要文化財となっている
- 近世になり、庶民の間にお伊勢参りが大流行すると、「西のお伊勢さま」として多くの参拝者で大いに賑わった
- 創建当時は高嶺大神宮と呼ばれていたが、現在は山口大神宮
- 多くの人々に深く信仰されていることは、昔も今も変らない
社務所にあるご案内チラシは秀逸です。必ず頂戴してご参拝のお供にしましょう。「ご自由にお取りください」となっていますので、お声かけするのが苦手な方でも大丈夫です。
とにかく、ロケーションが最高! 鴻ノ峰の麗しい風景に完全に溶け込んでおり、聖なる領域に佇むお社という形容が相応しい神社さま。なぜだか、ご訪問のたびに胸が震える感じがします。
歴史学の先生方が伊勢神宮の完全なるコピーを作り得たのは、大内氏がそれだけの富と権力を持っていたからであり、ほかの諸大名には望んでも叶わないことだった、と様々なところで述べておいでです。伊勢神宮に参拝したことがないため、「完全なるコピー」であることの確認はできません。しかし皇室の祖先神をお祀りする神社として、伊勢神宮の規模がどれほど広大か、ということは何となく想像できます。ですので、一日では回りきれないほどの広大な敷地を想像していました。そのような先入観をもってご訪問したため、わりとコンパクトであった、という印象です。
弘世代に京都の都を模した町づくりが始まり、長く続いた戦乱で荒廃した本家本元の都よりもさらに都らしくなった山口。そこへ、皇室の祖先神をお祀りする日本一格式の高い神社を勧請する。義興代には、第二の町づくり計画が実行されたと言ってしまっていいと思ってます。単に大神宮を創建しただけではなく、祇園社遷宮したりとか、ほかにも色々とやっていますので。西の京やまぐちは、この高嶺太神宮を中心としてさらにバージョンアップしてしまったわけです。正直なところ、こっちこそが都です、伊勢神宮すら都の中に完備してしまいました(京都の人は伊勢国まで行かなければならないのに)、って気がします。往時の繁栄ぶりはいかばかりだったか、想像もできません。
祖父や父と同じく、義興もまた、子孫が連綿と繁栄していくものと信じていたのでしょう。まさか、息子の代にこれほどの大国が脆くも潰え去るとは夢にも思わなかったかと。領主がかわっても、これほど格式の高い神社が粗略に扱われることはありませんでしたし、今も多くの人々に慕われる大神宮さまです。ですけど、もしもその後、大内氏の繁栄が千年万年続いたとしたならば、今とはまったく違う景観であったろうな、と思うのです。かつての参道・伊勢路はイマドキの民の道路工事によって分断されてしまっていますし、そこに至るまでもあれこれと変遷があったものかと。
県内の神社ではもっとも数訪れているのが山口大神宮さま。内宮・外宮まではすんなり拝めますが、岩戸社はけっこうたいへんです。意外にコンパクトに見えて、じつはあまりにも奥が深い神社さまです。ミルの家リビングには、山口大神宮さまのお札が北を背に南を向いてましましてます。家の中でいちばん神聖な場所? とすれば仏壇かな、と思い、なかにお納めすれば? とお伺いして宮司さまを驚かせてしまいました……。次回までは神棚を購入して置こうと思っています(ご神職がどなたも非常にご親切なことも、こちらの神社さまの特徴です)。
こんな方におすすめ
- 大内氏で一番偉大な当主さまは凌雲寺さまだと思ってる
- 神様って数え切れないけど、やっぱり天照大神さまがいちばんである。天岩戸神話とか子どもの頃絵本で読んでから忘れられない(絶対ご参拝しましょう、岩戸社)。
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
岩戸社に行くのはけっこうしんどいです。それ以外のアクセスについては、まったく問題ありません。
そんな話、初めて聞いた。岩戸社のどこがそこまでしんどいんだ?
お願い
岩戸社、高嶺城跡に行きたい方へ:岩戸社も高嶺城跡も、山口大神宮さままで辿り着けているのならば、たいした距離ではないように思えます。ですが、感じ方には個人差がございます。また、いずれも登山の趣となりますので、正装して内宮・外宮に参詣に来られた方がそのまま上っていくのは無理ですし(高嶺城跡には登山装備が必要。岩戸社も普通に『山道』)、普段歩き慣れておられない方にとっては軽い気持ちで入って行かれるのは危険かもしれません。念のため、事前に観光協会さまに問い合せる、奥まで行く前に、社務所でお話をお伺いする、などすることを怠らぬようになさってください。ほかの皆さまにとってはハイキングコースでも、一部の方にとっては、たいへんな道のりであることもじゅうぶん考えられます。なお、山口市ボランティアガイドの会にお問い合わせをし、ガイドさん方のご説明を拝聴しながら参詣なされば、あれこれの由来もバッチリ分りますし、岩戸社や高嶺城跡についてもご案内いただけるかと思います。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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