陶興昌

 

陶興房の長男・興昌。次郎と称す。
大永三年父に従い安芸に従軍。
五年三月病にかかり、十八日岩戸陣から周防に帰る。
亨録二年四月二十三日死去。二十三歳。法名:信衣院春翁×□。

『大内氏実録』より

大内義興の忠臣・陶興房には、興昌という嫡男がいた。文武に秀で、何事においても右に出る者がいないほど優秀。おまけに美男子だった。
名門陶家の跡継ぎとして、これ以上ないくらい相応しい息子。しかし、父の興房は密かに思い悩んでいた。それは、愛する我が子が「優秀すぎる」ことであった。
やがて、主が義興から、その息子・義隆に代わると、興房の悩みは更に深刻になった。大内義隆は周知の通り、公家趣味に没頭した人物。およそ、風流な京人が好む遊びをすべてこなし、いずれも超一流。
そして、陶興昌も、主同様に、これらの風流なことどもに通じていた。

雅なことが大好きな主と、それらに通じた重臣の嫡男。これ以上ないくらいの取り合わせで、将来は出世コース間違いなし、と思えるが……。
出来すぎる興昌は、己の力量をよく理解していた。歌舞音曲どれをとっても、主の義隆は興昌に及ばない。能ある鷹は爪を隠すことをしない興昌は、義隆から見たら面白くない存在となった。
多少は控えめにして、主を立てる、ということができないのである。彼は素直に、「主は臣下である己より劣っている」と分析し、軽蔑した。

父である興房には、このような息子の傲慢不遜な態度と、主・義隆の我が子への不満を見抜いた。忠義の臣・陶興房は不忠を見て見ぬふりはできない。たとえ、それが、大事な我が子であったとしてもだ。
そして、興房は苦渋の決断をする。自ら我が子を手にかけることで、将来起こるかもしれない禍の芽を摘み取ったのだ。

以上が、『陰徳太平記』はじめ、インチキな軍記物に書かれた、恐ろしい物語である。

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な、なんだよ、これ。噓八百じゃないか。兄上は元気に生きてるし。御館様と仲が悪いって? さあ、どうだろうな……。
Name
陶興房があまりに出来過ぎた我が子を手にかけてしまったという恐ろしいエピソードは、インチキな軍記物のでっちあげだよ。でも、一昔前の人たちはこれを信じていたみたいだね……。

じっさいには、戦死。正確に言うと、戦場で病にかかり、帰国後も回復せずにそのまま亡くなった。

合戦にも出られる年齢になっており、将来は家を継ぐことも決まっていたのだから、思いもかけない早死と言わざるを得ない。

興昌が主を見下していというくだりは、恐らくは、謀反した弟の隆房とごっちゃになっているのだろう。
興昌が亡くならなければ、隆房が陶の家を継ぐこともなかったわけで、その後の大寧寺もなくなっていたのかどうか。当時の軍記物作者たちはそんなところをあれこれ想像しつつ、脚色したのだろう。
せっかく、子殺しまでして、不忠者を成敗したはずの陶興房だったのに、かわりに跡継ぎになった隆房が謀叛を起こしたのだから、言葉もないだろう。
ちなみに、興房が、将来隆房が主に不忠を働くのではないかと心配しつつ世を去った、という通説も流れている。これが、興昌の話にすり替えられたのか、あるいは、隆房の話が興昌のこととして記されたのかは、作者たちに聞いてみないと分からない。
この辺の、他の人物のエピソードを拝借して来るという脚色方法は現在でもありふれているからだ。

いくら忠臣だからといえ、主の将来を案じて息子を手にかけたりする親がどこにいよう。興房の名誉にかけて誓う。さらに言えば、隆房が将来不忠を働くのではないかと不安になった、というのが事実であるとしたら、それは、主の義隆というよりも息子の隆房を案じてのことだろう。
何しろ、謀反人は地獄行きだと信じられていた時代ですから。

いずれにせよ、弟に比べて影の薄い兄ではあるが、興昌と言う人は、その死を以て、隆房という全国区で有名になる弟を世の中に押し出してしまった。気の毒なことに、それが彼の果たした役割のすべてである。